快楽と堕落


 「じゃあ、お皿洗いは私がやっておくから」

 「ああ。悪いな、芽衣子」

 「なんだか今日は忙しそうだね。キョウくん」

 「ちょっと気になることがあってさ。まあ、たいしたことじゃないんだけど」

 

 『翡翠美』になってしまった響平は、下着姿のまま着替えを止めて、盗聴器とうちょうきでこの会話を聞いていた。

 『響平』になった翡翠美は、一応だが問題なく響平を演じているようだった。響平は芽衣子のことが心配だったが、少しだけ安心した。

 

 (でも、芽衣子が今、俺の部屋にいるとなると……)

 

 当初の目的は、体が入れ替わったことを説明するために芽衣子の家へ行くことだ。この状況だと、またこの先の方針が変わってくる。

 

 (芽衣子に会うつもりだったけど……。今、この姿で俺の家に押しかけたところで、まともに取り合ってもらえないだろうな)

 

 こうして響平が迷ってる間にも、盗聴器の向こう側では、男女の会話が進んでいる。

 そして、それは始まってしまった。


 「きょ、キョウくんっ……!」

 「芽衣子……」


 向こうの二人は、互いの名前を呼び合っている。『響平』の方はやけに低く落ち着いた声で、芽衣子は少し高い慌てたような声だ。皿洗い中の水が跳ねる音と共に、はっきりと聞こえた。


 「キョウくん……。私、お皿洗いしないと……」

 「ん? 後でいいよ」


 かすかに、サワサワと衣服の擦れる音が聞こえる。

 

 (翡翠美の奴、まさか……!)

 

 響平のひたいから、じわりと嫌な汗が出た。もっとよくイヤホンの奥の会話を聞くために、一層集中力が増していく。


 「あぁっ、だめっ……!」

 「やめる?」

 「……」

 「続けてもいい?」

 「……うんっ」


 芽衣子はあでやかな声を出して、『響平』に答えた。最初のうちは嫌がっていたが、だんだんと抵抗するような言葉は口にしなくなっていった。


 (やめろ、芽衣子っ!  そいつは俺じゃないっ!)

 

  響平は強く願った。しかし、その願いが芽衣子に届くハズもなく、彼女は偽物である『響平』の方を受け入れていった。


 「キョウくん……。キス、して?」

 「ははっ。お前からそう言ってくれるとはな」

 「だめ……?」

 「いいさ。愛してるよ、芽衣子」


 自分ではない『響平』と愛を確かめようとする、芽衣子の声。『翡翠美』は泣きそうな顔をしながら、自分の髪をぐしゃぐしゃと掴み、頭を抱えた。

 

(頼む!  やめてくれっ!)

 

 しばらくして、その次の音が聞こえてくると、『翡翠美』の髪を掴んでいた手からは力が抜け、瞳孔がゆっくりと開いた。


 「ちゅ……むっ……」

 

 『翡翠美』の……響平の中で、何かが壊れていく。

 

 「うわぁああああっ!!?」

 

 ヒステリックな金切り声。ストーカー女の悲痛な叫びが、その部屋に響き渡った。

 今、芽衣子とキスしているのは、間違いなく『響平』だ。そして、『翡翠美』が盗聴器でその音を聞いている。その光景自体は、別段珍しいものではない。いつもと違うのは、今の『響平』の体に入っている心と、今の『翡翠美』の体に入っている心だ。


 「あぁんっ! はぁ、はぁ……優しく、してっ……」

 「……うん? 何か言った?」

 「あぁっ……! だめぇっ! いつもより、強いっ……」

 「好きだろ? こういうの」

 「好きぃ……。好きだよ、キョウくん……」


 『翡翠美』の絶望をよそに、イヤホンの向こうの二人の声は、一層激しさを増していた。何度も突きつけられる恐ろしい現実に対して、身を守ることもできず、響平はただ『翡翠美』の体の中で心を閉ざすしかなかった。

 

 (ウソだ……。こんなの……)

 

 そして、頭の中が真っ白になり、そこから先の記憶は途絶えた。


 * * *


 空白の時間。それからしばらくして、『翡翠美』はベッドの布団の中で、ハッと我に返った。

 

 (こんなところで……。俺、今まで眠っていたのか……)

 

 うつ伏せで、左手の親指をしゃぶったまま、赤ん坊のように寝ていた。そして、素肌で感じる空気の冷たさが、今の『翡翠美』の状態を本人に教えてくれた。

 

 (は、裸になってる……!)

 

 ベッドのそばには、ブラジャーとショーツが乱雑に脱ぎ捨てられていた。それらは確かに、さっきまで自分が身につけていたものだ。『翡翠美』は左手を伸ばして、それを拾おうとしたが……。

 

 (体が……動かない……!?)

 

 全身が、ひどく疲れているようだった。

 『翡翠美』が自分の膨れた乳房を見ると、綺麗な白い肌に、赤い跡がついていた。痛みも若干じゃっかん残っていて、誰かがとても強くそれを揉んだことが、だいたい分かる。正確には、「誰か」ではなく自分なのだろうが、身に覚えが無い。

 

 (うぅっ、頭が痛い……!)

 

 しゃぶっていた左手は自分の顔の前にあったが、右手は布団の中にあった。そしてその右手は、両足の付け根の辺りに置かれていた。

 毛のような感触のものが、手首を撫でている。さっきまで、自分が無意識のうちに何をやっていたのかが、『翡翠美』の頭の中でより鮮明になっていく。

 

 「……っ!?」

 

 じっとりとした、湿り気。

 『翡翠美』は急いで右手を布団から出し、濡れていた指先を枕元にあるティッシュで拭いた。よく見ると枕元には、イヤホンと数個の丸めたティッシュ、そしてキャップの付いた赤ペンが置いてあった。

 

 (もしかしてこれが、俺が拾ったあいつのペンかな……)

 

 そう思った理由は、そのペンに日付の書いてあるラベルが貼ってあったからだ。その日付は、響平がこの家で見たものの中で、一番古いものだった。

 

 (こんなペン、拾わなきゃよかった)

 

 そう思って、『翡翠美』は赤ペンに手を伸ばした。


 (ひっ……!?)


 触れた瞬間びっくりして、『翡翠美』はすぐに手を引っ込めた。ペンの先は、冷たくトロリとした液体で濡れていたのだ。おそらくその液体は、自分の指先についていたものと同じだろう。


 (やっぱり、これって女の……。そういうこと……か……)

 

 虚脱きょだつ。全身には力が入らず、『翡翠美』は虚ろな目をしたまま、うつ伏せでベッドで横になっていた。風にゆれる髪が頬をくすぐっても、払い除ける気力はない。

 

 (あぁ……。俺、翡翠美の体で、やってしまったのか……。イヤホンで声を聞きながら、翡翠美がいつもやってるみたいに……)

 

 悔しいとか悲しいとか、心はそういう気持ちでいっぱいなのに、体は劣情に震え、どうしようもなく快楽を求めてしまった。越えてはいけない一線を越えた気がして、『翡翠美』の目からは自然と涙がこぼれた。

 

 (芽衣子に、会いたいなぁ……)

 

 会って彼女に何を話すかは、もう考えていない。ただ、会いたくなった。芽衣子に会えば全て収まるような、そんな気がして。


 「芽衣子……」


 枕元にあった盗聴器に手を伸ばし、イヤホンを耳に付ける。すると早速、向こうから会話が聞こえてきた。

 いつもの声のトーンに戻っているので、向こうの二人も一通り済ませた後なのだろう。


 「キョウくん、今日はいつもと違うね」

 「……」

 「いつもの優しいアナタも好きだけど」

 「……」

 「今日みたいな、ちょっと乱暴なアナタも好き」

 「……」

 「ずっと一緒にいようね。キョウくん」

 「いや、それは無理だよ」

 「え……?」

 「なんだか、足りないんだ。満足しないんだよ。お前と一緒にいると」

 「ど、どういうこと? 何を言ってるの……!?」

 「悪いけど、今日はもう帰ってくれないかな。芽衣子」

 「どうして?」

 「ちょっと考えさせてくれ。お前との、今後のことを」

 「嫌っ……! そんなこと言わないでっ!」

 「とにかく、今日はもう帰ってくれよ。これ以上お前といると、何を言うか分からないからさ」

 「あ、明日はどうするの……?」

 「さぁな。気が向いたら連絡する」

 「うん……」


 向こうの玄関の扉が開き、再び閉じられる音がした。

 

 (あ、あいつっ! 芽衣子になんてことを……!!)

 

 『翡翠美』は無理やり体を起こし、服を適当に見繕みつくろって、外へと飛び出した。そして、外に出た芽衣子の後を追った。

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