あそこで見てるだけ

蔵入ミキサ

デートの帰り道


 「今日は楽しかったよ! 芽衣子メイコ!」

 「ふふっ。キョウくんったら、はしゃぎ過ぎだよ」

 

 日曜日の夕方。やまあらし公園のそばにある小道を、大学生の男女が楽しげに話しながら歩いている。

 男の方は、フリスビーとバドミントンのラケットを左手に、大きなバスケットを右手に持っている。両手に荷物を持っているが、隣にいる女よりも元気そうだ。

 

 「キョウくん、重たくない? 私も何か持とうか?」

 「平気平気。これくらい、なんてことないよ! 今日は芽衣子に、たくさん元気をもらったからな」

 「元気なら、私もキョウくんにたくさんもらっちゃったなぁ。また来ようね、キョウくん」

 「おう! 今度来るときは、キャッチボールをしようか」

 「うんっ。私にやり方教えてね」

 

 他愛の無い会話が、二人にとっては幸せな時間だった。特に響平キョウヘイにとっては、今こそ誰にも邪魔じゃまされたくない時間だったのだが……。


 「……!」

 「どうしたの? キョウくん」

 「またあいつだ……!」

 「もしかして、以前いぜん私に話してくれた、ストーカーさん?」

 「ああ、そのストーカーだよ。最近は、いつもこんな感じなんだ」

 「そ、その人が、どこから私たちを見てるのか分かるの?」

 「ほら、後ろの電柱の陰」

 

 芽衣子は、恐る恐る後ろを振り返った。すると確かに、電柱の陰で芽衣子や響平と同じくらいの歳の女が、こちらをじっと見つめていた。茶髪のロングヘアの芽衣子とは対照的に、真っ黒な髪をボブカットにしている、暗い目をした不気味な女だった。

 

 「あ、あの人……?」

 「ああ。ここのところ、毎日ずーっと見てるんだ。あいつ」

 「ちょっと怖いけど、見てるだけなら気にしないでおこうよ。キョウくん」

 「いや、今日こそ話をつけるよ。俺はもう、二人きりの時間を邪魔されたくないんだ」

 「それは、私もそうだけど……!」

 「ちょっと荷物を見ていてくれ。芽衣子」

 「う、うん……」

 

 響平は両手の物を地面に置き、ストーカー女の方へと歩み寄った。突然の接近はストーカー女の方も予想していなかったらしく、激しく動揺している様子だった。

 

 「あのさ」

 「は、はい……?」

 

 想像よりも高く幼い声が、ストーカー女の口から出た。さらに、よく見ると子供のように幼く可愛い顔をしている。

 不意を突かれた響平だったが、それでもそいつは芽衣子より魅力的に感じる存在ではなかった。響平は対処を間違わないように、冷静になるよう自分に言い聞かせ、話を続けた。

 

 「君、名前は?」

 「寄野よりの……翡翠美ヒズミ……」

 「翡翠美ヒズミさんか。翡翠美さんは、どうしていつも俺のあとをつけてくるんだ?」

 「え、そ、それは……その……」

 「ん?」

 「前に……ペン、拾ってくれたから……」

 「は……? ペン??」

 

 それは、響平の記憶には無い話だった。

 翡翠美が言うには、確かに響平がペンを拾ったそうだが、響平にとっては誰かが落としたペンを拾ってあげるなんてよくあることで、どんな人のペンを拾ったかまでは、いちいち覚えていない。

 

 「それで、そのペンと、俺のあとをつけ回すのと、どう関係があるんだ」

 「い、いえ……。それは、その……」

 「あのさ、芽衣子も……俺の彼女も、翡翠美さんのことを怖がってるんだ。だから、もうやめてくれないかな」

 「えっ……? あの女が、そんなことを……?」

 「『あの女』? 君、俺の彼女への暴言は許さないからな!」

 「い、いや、そういうつもりじゃ……」

 「とにかく、もう俺のあとをつけ回すのは今後一切やめてくれ!! 迷惑なんだっ!!!」

 「ちがっ……! ぁの……あ……ああ……!」

 

 響平がはっきりと本心を伝えると、翡翠美はパニックになりながら、言葉にならない声を漏らした。


 もう、これで全てが終わったと、響平は思っていた。これでまた、芽衣子との楽しい時間が返ってくると……。


 しかし、錯乱さくらん状態のまま、翡翠美は動いた。

 突然、響平の右腕を両手で掴み、自分の方へ引き寄せてきたのだ。咄嗟とっさのことに反応できず、響平は一瞬だけ、身体の自由を奪われた。

 

 「な、何をするんだっ!?」

 

 そして、次に翡翠美がとった行動は、響平の理解の範疇はんちゅうを超えていた。


 「はむっ……ちゅ……。んっ……ちゅぷっ……」


 気が付くと、響平の右手の中指の先は、翡翠美のくちびるの奥にあった。

 

 「あむっ……。はぁっ……、んむっ……ちゅっ……、ちゅぷっ」

 

 翡翠美は、響平の指をくちゅくちゅといやしくめ回していた。口からは、はしたなくヨダレを垂らし、ほおは真っ赤に染まっている。翡翠美にとっての快感は、響平にとっては恐怖でしかなかった。

 

 「うわぁっ!? やめろっ!!」

 

 響平は素早く指を引き抜き、数歩後ろに下がった。中指は翡翠美の唾液だえきにまみれ、その唾液の臭いが響平の鼻をツンと刺激した。

 

 「な、何を考えてるんだ! お前っ!!」

 「あぁんっ……。ま……待って……」

 「気持ち悪いんだよっ!! もう二度と、俺の前に現れるなっ!!」

 「あぁっ……嫌……。だめぇっ……」

 

 響平は芽衣子がいる方へ振り向き、後ろを振り返ることなく全力で走った。後ろの女は何か奇声を発していたが、響平はなるべく耳に入れないようにした。

 

 「はぁ……はぁ……。くそっ!」

 「だ、大丈夫だった? キョウくん」

 「あいつ、俺の指を舐めやがった」

 「ええっ!? キョウくんの指をっ!?」

 「ああ。きっと、あいつには話が通じないんだ。頭がおかしいんだよ。もう関わらないようにしよう」

 「うん……」

 「あいつがもし、お前に何かしてきたら、すぐに俺を呼んでくれよ。芽衣子」

 「う、うん。分かった……」

 

 二人は後ろの恐怖を警戒しながら、急いでその場を離れた。


 「ふーっ……。ふーっ……」


 翡翠美は過度なくらいに内股うちまたになり、右手を自分の唇に、左手は自分の胸の辺りに添えていて、その場から一歩も動こうとはしなかった。


 * * *


 その夜。

 さっきの恐ろしい体験をすっかり忘れ、響平は独り暮らしの自室のベッドに笑顔で寝転がっていた。右手に持ったスマートフォンの向こう側では、芽衣子と繋がっている。至福しふくの時間だ。

 今日の楽しかった思い出や、明日大学でどうするかを話し合うその至福の時間は、芽衣子から「お休みなさい」のメッセージが来るまで続いた。


 * * *


 次の日の朝。

 響平は、軽い頭痛と共に目を覚ました。

 

 (ん……)


 頭がボーッとする。朝にこうなることは珍しくないのだが、今日はいつも以上にはっきりしない。

 

 (たしか今日は、2コマ目から芽衣子に会えるんだっけ……)

 

 そう思って右手を確認するが、スケジュールを管理してくれているいつものスマートフォンがない。

 

 (あれ……?)

 

 スマートフォンがないこともおかしいと思ったが、それ以上に右手自体に違和感があった。

 

 (指が、細い……?)

 

 まだ寝ぼけ眼で、右手から順番に右腕、右肩を眺める。決定的におかしいと感じたのは、その右肩を見たときだった。


 (……!?)

 

 長い髪の毛が、視界をさえぎったのだ。

 響平は不思議に思い、右手でその髪の毛を掴んだ。すると、ふわりと柔らかく、ほんのりとシャンプーの良い香りがした。

 間違いなく自分の頭から生えているものだという感覚が伝わってくる。しかし、寝ている間に髪がここまで伸びた……とは考えにくい長さだ。


 (え……?)


 そして、もう一つおかしいのは、自分の肩に何かヒモのようなものが引っかかっているということだった。響平は不思議に思いながら、右手で左肩のヒモを辿たどってみた。すると、胸の辺りで何か柔らかいものにぶつかった。

 

 (これって……)

 

 すっかり冴えた目で、自分の胸を確認する。


 (なんだ……!? なんでこんなものが、俺に……!?)


 芽衣子の「ソレ」は、性行為に及んだ時に何度か見たことがあったし、強く揉みしだいたこともあった。しかし、男であるハズの自分が、このアングルから「ソレ」を見ることができるのは、おかしいのだ。しかも、芽衣子のそれよりも少し大きいくらいに膨らんでいる。谷間までは見えたが、そこから下半分は白い布が覆っていた。

 響平は思い切って両手で鷲掴わしづかみにしたが、そのむにゅむにゅした感触が、間違いなく自分の胸についている双丘だと証明してしまった。


 「あぁっ……!? あ、え? あ……!?」


 そして、響平の口からは、出るハズのない高い声が出た。

 思わず、手で自分の口を塞ぐ。少しの沈黙の後、唾をゴクリと飲み込み、響平はもう一度自分の声を聞く覚悟を決めた。


 「お、俺の……声……?」


 それは、「俺の声」ではなかった。女の声だ。しかも、この声は聞き覚えがある……。

 

 「ウソ……だろ……!?」

 

 急いで上体を起こし、周囲を見回す。

 

 「どこだ!? ここはっ……!」

 

 自分が寝ていたベッドも、そばにある机も、洋服をしまうタンスも、電気スタンドも、そばに転がっているバッグも、ハンガーに掛けられた服も、何もかも、自分が知らないものだ。見るからに女の物だが、綺麗に整頓された芽衣子の部屋の景色とも、また違う。

 わけも分からず、響平が部屋を見回していると、一瞬、黒い姿見が今の自分の姿を映している様子が、目に入ってしまった。

 

 (違う……! そんなハズはないっ!)

 

 心臓の奥が、ひんやりと冷たくなる。

 ……恐ろしいものを見たような気がする。もしそれが現実ならば、最悪だ。

 響平は、今自分がいるベッドから脚を降ろし、静かにその黒い姿見の前に立った。

 

 「あぁっ!? 俺が……どうしてっ……!!?」


 そこに映っていたのは、翡翠美だった。

 昨日とは違い、白いキャミソールワンピース一枚のみの姿で、肩や脚を大胆にさらけ出している。鏡の中の翡翠美は驚愕しながら、今の響平とまったく同じポーズをとっていた。

 

 「違うっ……! 俺は、あんな気持ち悪いストーカーなんかじゃないっ!」

 

 必死にそう自分に言い聞かせるが、その声すらも可愛い翡翠美のものだった。胸を掴んでも、股間をまさぐっても、男のそれはない。響平は髪をぐしゃぐしゃにしながら、頭を抱えてうずくまった。


 「うぅ……!」


 ピピッ、ピピッ。

 しばらくうずくまって現実逃避していた響平を、翡翠美の部屋にある卓上デジタル時計が現実に引き戻した。

 

 「くそっ! なんなんだよ、これは……! どうすればいいんだ……!?」

 

 時計を見ると、そろそろ1コマ目の講義が始まる時間だった。芽衣子と会う約束の時間は2コマ目なので、そろそろ出かける準備をしなければならない。今の響平が、本来の姿であればの話だが。


 (とにかく大学に……! いや、そもそもここはどこなんだろう……?)

 

 響平はもう一度辺りを見回し、この部屋の窓を見つけると、カーテンを勢いよく開けた。突然の強い日光に戸惑ったが、しっかりと窓の外の景色を見ると、そこには見慣れた建物があった。

 

 (あっ! あの建物は、俺が住んでる学生アパートだ……!)

 

 この部屋からは、昨日まで自分が生活していた部屋の扉がよく見えた。響平を監視するストーカーにとっては、絶好のポジションだ。

 じっと窓の外の景色を見て、自分が今どこにいるのかを考えていると、元・自分の部屋の扉が開き、中から今の住人が出てきた。

 

 あの服、あの髪型、あの顔。間違いない。

 

 「俺だ……! あそこに、俺がいるっ!」

 

 響平は、今の自分が胸元の開いたキャミソール姿の女だということも忘れて、外へと飛び出した。

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