紡
三ノ月
喫茶店の一席
喫茶店の一席
人が混む前に、と花火が上がる夜を避け外出した。それでも人は多かったが、祭りを雰囲気ばかり楽しんだ
別に、そのまま帰ってしまっても良かったのだが、この時はどうしても喫茶店で休みたかったのだ。苦手だと言っても祭りは祭り。誠二郎は少しばかり、浮かれていたらしい。
辿り着いた先、喫茶店の入り口の扉に手をかける。ちゃりん、と厳かな雰囲気を損なわぬ控えめな音が鳴る。いらっしゃいませ。店員の声もまた静かなものであった。祭りの日はそれなりに人が入るのだろう。そう思っていた誠二郎は、その喫茶店の空席具合に首を傾げる。むしろ祭りに人が持っていかれているのか。特に使うことの無かった頭では、その因果関係を理解するのは難しい。
空席の目立つ中、意味も無く四人席に腰掛ける。その際、店員が「あっ」と声を上げた。
「この席は駄目ですか」
「ああ、いえ。構いません。失礼しました」
ふと耳を澄ませば、店内に流れる音楽とは別の音色が聞こえてくる。祭囃子だろうか。これから夕刻を経て夜になる。そうなれば、この音色に加えて、どーん……どーん……、と花火の音が入り混じる。昔は家族でよく見に行ったものだが、誠二郎が高校生になった頃か、もっと前か。家族全員で足を運ぶことが無くなった。
「ご注文はいかがですか」
いつまでも注文しないでいると、店員も暇なのか、メニューすら開いていなかった誠二郎に声をかけてきた。しかし滅多に喫茶店に入ることのない身だ。メニューを見ないで注文できるほど慣れているわけでもないし、大人しくメニューからアールグレイティーを選ぶ。それだって好きだからとか、そういう理由で注文したわけではない。ただ、無難にコーヒーを選ぶよりも
火傷した唇の薄皮を剥いていた時のことだった。誠二郎が入店した時にも響いた控えめなベルの音が、再度鳴る。そろそろ夕刻も近い。花火までの時間の暇つぶしだろうか、と思って見てみれば、明らかに祭りに参加するのではない格好の女性だった。丈の長いワンピースの上からストールを羽織り、だらしなく伸びた前髪をそのままに。さらに足元はハイヒールだ。いつもの習慣でここに来た、と言った方がまだ説得力がある。その女性はずっしりと重そうなバッグを肩にかけていて、重心がそちらに寄っている。覚束ない足取りで、何故だろうか、誠二郎の座る席の前へとやってきた。
女性は誠二郎を見下ろし、
「相席、よろしいでしょうか」
絶句した。空席は幾らでもある。だというのに、女性は誠二郎の座る四人席に座りたがっている。
「申し訳ございません。こちらのお客様、いつもこの席に座っていらして」
先ほどの店員が、理由を話す。誠二郎がこの席に座ろうとした際に声を上げたのはそのためか。すると、この女性は常連客なのだろう。誠二郎は女性の申し出に返答する。
「なるほど、構いません。というか、僕はそろそろ帰ります」
「カップの中身がまだ残っています。どうか私のことはお気になさらず」
有り得ないことだが、この時誠二郎は、女性に「帰らないで」といわれているような気がした。気を遣われているだけだと知っていても、手前勝手に解釈する悪癖はこんなところでも発揮される。結局、女性の言葉に甘える形で誠二郎は席に残った。
別に、席を替えてもらうことだってできたのだ。カップの中身が残っているだけなのだから、飲む場所なんて関係ない。それでも誠二郎がその席を動かなかった理由は、偏に相手が異性だからである。その実情が赤の他人だとしても、パッと見は恋人同士に見えたりするのではないか、なんて思ってしまった。すっかり温くなったアールグレイティーに口をつけ、視線を彷徨わせる。その前で女性は、そこそこ大きなバッグから本を一冊取り出す。その際、バッグの中身が見えたのだが、随分と多くの本が入っていた。文学少女。そんな単語が脳裏を過ぎった。
女性が本を開き、ページを捲り始めた。注文はしないのか、と思っていると「お待たせいたしました」の声と共に何か赤茶色の飲み物が運ばれてきた。ドラマなどでよく見る光景を実際に目にしてしまい、思わず視線が注がれる。
「私のことはお気になさらず、と言いましたが、難しいでしょうか」
見ていることがばれた。垂れ下がる前髪の奥から双眸を覗かせ、遠慮がちに声をかけてくる。また気を遣わせてしまった、という後悔と共に、誠二郎は言い訳を始めた。
「違います。ただ、少し慣れないので」
「そうですか。我侭を言ってすみません。席、移動しましょうか」
しかし結果は、余計気を遣わせるに終わってしまう。上手くいかないものだ、という焦りからか「大丈夫です。むしろ、このままで」なんて口にした。一瞬の静寂が二人の間に流れる。しかし店内に流れる、ジャズかクラシックかもわからない音楽だけはそれに限らない。あるいは、その音楽ですら静寂と呼ぶのだろうか。
「このままで、ですか。それで良いのでしたら、お言葉に甘えて」
甘えているのはきっと、誠二郎の方だ。滅多にない機会、もう少し楽しませてもらおう。自棄と言っても差し支えない精神状態で、読書に耽る女性に声をかける。
「ここには、よく来るんですか」
ページを繰る手を止め、ゆっくりと顔を上げた女性は答える。
「はい。よく、というより、ほぼ毎日ですが」
先より思っていたが、女性の口から零れる言葉は一言一言がゆっくりだ。されどもどかしいとは思わず、きちんと言葉を選んでいるその姿勢に心が洗われる。少なくとも、この会話を無碍にするつもりはないという意思が伝わってくるのだ。誠実な人なのだろう。誠二郎はその人の良さに付け込むように、できるだけ会話を引き延ばそうとする。
「喫茶店は読書に最適でしょう。ちなみに、今は何を読んでいるのか聞いても良いですか」
少し踏み込みすぎたか、と急ぎ口を閉じるも、女性は気にしておらず。小さく口を開くだけだが、意外と通る声を響かせる。
「『盲獣』、という小説です」
「猛獣、シンプルなタイトルですね」
素人感丸出しな感想を口にすれば、女性は初めて笑顔を見せる。くすり、と。
「恐らく、思っているのと漢字が違います。
常識ですら怪しい誠二郎だが、さすがにその名は知っている。はい、と頷いた。
「読む前に、軽く調べてみました。するとですね、どうやら江戸川乱歩は、この作品を失敗作だと評しているそうです。あと、とても猟奇的な描写があるんだとか」
へえ。素直に感嘆してみせる。そもそもがそういった知識に乏しいため、内容に関係したものはもちろん、その作品に関する小咄ですら誠二郎には興味深いものだった。
「猟奇的、とは言いますが、どの程度なんでしょう」
「さあ。先ほども言いましたが、まだ読み始めたばかりなので。よろしければ、お貸ししましょうか。私が読み終わってからになりますけど」
「えっ、良いんですか」
「構いません。ひとつの物語を複数で楽しめるのだから、むしろ私が、どうですか、と尋ねるくらいです」
第一の印象は物静かで大人しい、図書室の隅にいそうな文学少女だったが、こうして話してみると、意外と饒舌だ。特に本に関することになると、言の葉が滑らかに紡ぎ出される。きっとこれまでにも多くの本を読んできたのだろう。誠二郎が持ち得ない知識、知りえない単語や言い回しが、会話の節々に現れる。まるで国語の授業をしているかのような気さえする。しかし、授業とは違って気分は晴れやかであった。
ひゅーるる、どーん……どーん……。
時間は経ち、いつの間にか花火が上がる時間になっていた。つまるところ、誠二郎がこの喫茶店に足を踏み入れて四時間だ。それだけの時間、名も知らぬ女性との会話に興じていたかと思うと、自身の人見知りもいくばくか改善されているのではないか、と感じる。それとも、女性の話す言葉が美しいからか。
「あら、もうこんな時間ですか。結局、一冊も読み終わりませんでした」
「すみません。僕が邪魔するばかりに」
「いいえ、何度も言いますが、構いません。読書に勝るとも劣らない、楽しい時間を過ごすことができたので」
会話中何度も見せた控えめな笑みは、嘘を言っているようには見えない。
「私はそろそろ家に帰ります。『盲獣』、なるべく早く読みますね」
「急がずとも。僕はいつになっても構いませんし、なんなら自分で探して買ってみます」
「そうですか。経過はどうであれ、私が、本に触れるきっかけになったのなら嬉しいです。ではまた」
そうして、女性は帰って行った。一緒に店を出るのが気恥ずかしく、少し間を置いて、会計を済ませる。外に出れば、遠方の空、祭りの会場の方に、彩り豊かに咲く花が見えた。いつからか、花火はやかましいだけのものだと思っていたが、この時ばかりは、それを美しいと思えるだけの心の余裕があった。次はいつ会えるだろう。別れたばかりなのに、また談笑する日のことを考えている。女性はほぼ毎日この喫茶店にいるという話だから、きっといつでも会える。明日また来るよりも、女性が『盲獣』を読み終わるのを待って、あるいは誠二郎自身が『盲獣』を探して、読み終わるのを待って。それからまた会いに来よう。
まずは探すところから。見つからなければ借りる。次に会った時は名前を聞こう。
ぽつり、ぽつり。花火の花弁、その一つ一つが誠二郎の心に降り注ぎ、他愛もない感情になる。なんて単純なのか、と自省しつつ帰り道。
誠二郎はその日の夜、眠りに就く直前。その感情は恋なのだと認めた。
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