第4話 ぼうけんのしょ 中編

 そのまま暫く歩いていると、「この先50メートル、手焼きハンバーグ 雄牛の祝祭」という看板が見えてきた。このお店こそが、我々が目指しているレストランである。50メートルということなら、間もなく視界に入って来てもおかしくないはずだ。

 と、お? あれかな、左手に木材木材した建物が見えてきた。

 見えて……。

 目の前まで来て、足を止める。

 「は、せがわさん」

 「お、そろそろだっけ?」

 足を止めると、長谷川さんが頭一つ分出た両目で、アーケードの先をキョロキョロとリサーチする。

 「というか、着いた、んだと思う……多分ここだと思う。たぶん・・・」

 思わず、言い淀んでしまう。

 「お、センキューえぐっちゃん! お、確かにいい匂いするねー。どれどれー」

 二人で一斉に、左向け左をする。

 「お、おう・・・」

 長谷川さんが驚くのも頷ける。

 ドーン!

 思わず、脳内にそんな効果音が響くようだった。

 お店の前には、大木をそのまま使いました、というインパクトそのままに、3メートルはある牛の彫像が何頭もそびえ立っていた。牛達は門番みたいにその両手に巨大なナイフとフォークを握り、風神雷神像の如く両手を振り上げ、凶悪な形相でこちらを見下ろしている。そのすぐ横では、何本もの松明がゴウゴウと音を立てて燃え盛っていた。

 「なんというか、むしろウチらが食べられそうな門構えだね・・・」

 「う、うん・・・注文の多い料理店、みたいな」

 食べ物の写真しか載ってなかったから、この外見は完全に不意打ちだった。流石の長谷川さんも気圧されたか、と彼女の方を見ると、長谷川さんもこっちを見ていた。その瞳がふるふると揺れて、「どうする・・・?」と訊いている。

 ちょっとひきつった長谷川さんの表情は、しかしながら、なかなかどうして、さっきまでのいたずらっ気があって余裕たっぷりな表情とは裏腹な新鮮さがあって、逆に私が頑張って引っ張ってあげよう、という気が湧いてくる。焦ってる人を見ると落ち着くという、典型的なヘタレタイプな私だった。

 「予約しちゃってるし、入ろう」

 意を決してそう告げて、いざ、と踏み出す。低いヒール越しに、木材の地面がキィという音を立てた。

 が、すぐについてこない長谷川さんに気付き振り向くと、彼女は未だに牛達を見上げながら、目を回していた。額には玉のような汗が浮かんでいる。そこまで?

 「長谷川さん……? 大丈夫?」

 「お、おう……」

 目の焦点が合っていない。何だか混乱しているような。牛にトラウマでもあるのかな。

 「あの、大丈夫だよ。取って食われる訳ないし」

 こちらの落着きが更に加速してしまう。ちょっと迷ったが、その手を掴んで軽く引っ張る。

 「お、おおうー・・・勇者……勇者えぐちよ・・・」

 長谷川さんがどこかで聞いたことのあるようなフレーズをブツブツ言いながら、ドラ○エばりに0距離でピッタリ引っ付いて、私の後に続く。意外とそういうネタ通じるのかな・・・。

 「くそ……私の寿命がストレスでマッハだよ……」

 いや、やっぱり何を言っているのかちょっと分からないわ……。混乱した長谷川さんはちょっとおかしくなるのかもしれない。

 門番の並びを進んで、私の両腕くらいはありそうな木の取っ手を握る。重そうだ。腰を入れて、思いっきり引っ張る。

 すると、ゴゴゴ・・・と音がしそうな扉は、キイと軽い音を立ててあっけなく開き、ふわっと温かい暖房の風と、存外明るい雰囲気の店内が現れる。よかった、人の心臓で儀式とかやってない。

 それどころか見回す限りでは驚くことに殆ど満席で、賑わっていた。並んだ木のテーブルの上には、どこも焼きたてで大きなハンバーグが鎮座し、ジュージューと気持ちいい音を立てている。お肉が焼ける芳ばしい香りと音のセットで、一気にお腹が空いてきた。その横ではサラリーマンの男達が元気よくビールのジョッキで乾杯したり、女性達がワイン片手にかしましく会話に花を咲かせていた。活気が溢れている。食べログにはレストランと書いてあったけど、酒場という方がしっくり来るイメージだ。

 「凄いね。こんな店あったんだ。」

 長谷川さんが落ち着いた声で言う。額には汗一つない。混乱解けたのか。

 「いらっしゃいませぇ~」

 店の奥の方から少し甘ったるい声がすると、女性のウェイターがこちらに向かってきた。冬なのに大胆に脚を見せたホットパンツを穿いて、遠目からでもはっきり分かるほど明るい金髪に、カールした毛先、毛虫のようなつけまつげから、一瞬でギャルと呼ばれる種族だと分かる。彼女は喧噪の合間を縫う最中、男性のお客さんに何度も名前を呼ばれて、笑顔で手を振っていた。人気者らしい。

 「すいませ~ん、お待たせ致しましたぁ~」

 その無駄に質量のある目元を蝶のように羽ばたかせながら、彼女は私たち二人を出迎える。すると、いかにも頭の回転が遅そうな容姿に反して、即座に彼女の眼球が敏捷に動いた。その球体の回転運動は、前に立つ私と、その後ろに控える長谷川さんを一瞬で上から下までチェックするようだった。

 「え~当店は予約制となっておりますが、お客様、予約はされてますかぁ?」

 そして彼女は、何事もなかったかのように笑顔のまま私から視線を逸らし、後ろに立つ長谷川さんに話しかけた。


 あれ?


「え? あぁ、してますしてます。九時半から、二名です」

 突然自分に話が来て驚きつつも、こういう対応は慣れているのか、長谷川さんが即座の反応を返す。

 「・・・あ、の」

 予約したのは私なんですが。そう言おうと開かれた口から漏れるのは、僅かばかりの空気だけで、突然の出来事に、脳の処理が追いつかない。

 「少々お待ち下さいねぇ~」

 私の声など聞こえなかったのか無視したのか、何事もなかったようにウェイターがケータイを取り出して、アプリのようなものを確認し始める。

 その間に、立ち尽くす身体を置いてけぼりにして、ようやく脳が稼働し始めた。

 えーと、先に入って前に立つ私をよそに、後ろ隣に立つ長谷川さんに「わざわざ」話しかけた。

 何故、どうして。

 いやいや、簡単じゃないか。私が頑張ろうが、彼女の本能は一瞬で、私よりも長谷川さんこそが、幹事側、つまり積極的に予約をして誰かを楽しませる側の人間だと判断したということだ。所詮、私たちは別格の人間である、と。

 抗議の余地も残さない程、鮮やかに行われた悪意のない差別。

 その切れ味に、店頭で見せると安くなるというクーポンを示そうと、ケータイを掴んていた右手が行き場を失う。そいつはそのままさまよって、結局お腹の辺りを守るように抱き締める。左手は、もう寒くもないのに、首の後ろを必死に撫でていた。

 「はいはい。えーっと、エグチさまですか?」

 「あ、そうですー」

 自然に返された長谷川さんの言葉から不意に、名を騙られたような感覚に陥いる。彼女は何も悪くないのに。

 「では、こちらにどうぞ~」

 ウェイターは手で道を示し、鍛え上げられた表情筋による美しい正弦を披露しながら、私たちを席まで先導した。

 彼女の中ではきっと、何の判断ミスもなかったことになっているのだろう。むしろ、私に声をかけても困惑されるだけだろうから、むしろ良いことをしたとさえ思っているかもしれない。いや、そういうことさえ、思われていないのか。ただ、本能のままに、無意識的なジャッジを下した。でもそれが誰かを傷つけているかもしれないなんて、こういう人は想像もしないのだろう。

 腹の底でじわぁっと熱の塊がとぐろが巻くような感覚に、唇をぎゅっと噛んだ。ささくれから、鉄の味がする。

 無言のまま、長谷川さんに半歩遅れて続く私の身体は、まるでロボットにでもなったみたいに重くって、間接はギィギィと嫌な音を立てて擦れている。

 ・・・自分が選んだお店を喜んで貰えて、会話が盛り上がってちょっとテンションが上がっちゃって、余裕が無さ気な彼女を見て、調子に乗って引っ張ってあげようなんて思っちゃって。

 そう、分不相応に上から目線で私なんかが思ったから、きっと神様から小さな天罰が下ったのだ。私はいつもそうだ。期待して、すり寄ろうとして、でもそれは他人からしたら不本意で、端から見ても不自然で、迷惑で。

 神様は優しいのだ。そういうことをすると、私が最後には傷つくことを知っている。だからこそ、やめなさい、とこうやって罰を下すんだ。実験用のマウスでさえ、間違った選択をすると、電流が流れて学習するのに、私はそれさえ出来ない。いつだって、マウス以下の存在だ。


 「では、こちらの席へどうぞぉ~」

 通された席には、テーブルを挟んで向かい合うような形で木製の椅子が置かれ、その上にはブラウンのクッションが敷かれていた。私たちと他のお客さんの間は、背の高い観葉植物や、酒場の世界観を強めるような樽や箱の置物で巧妙に仕切られ、席からは数メートルに連なる壮観なワインセラーが見て取れた。

 長谷川さんがコートを脱いで、足下にあるバケットに入れながら座るのを見て、私もボーッとコートを脱いで席につく。

 「ご注文が決まりましたら、お呼びくださ~い」

 そう言って、彼女はまた喧噪の中にパタパタと消えていった。

 「いや~、中は普通でよかったね」

 長谷川さんがテーブルに用意されたお手拭きで両手を丁寧に拭いながら言う。白磁器みたいに白い指は、すらりと長くて、テーブルの上を動くと、なんだか独立した生き物みたいだ。

 「・・・うん、そうだね」

 声に生気が宿らず、食欲も湧かない。猫背になった肩の先で、私の両手もまた、膝の上で彫像みたいに動かない。

 「ワインめっちゃ並んでるし、ご飯も美味しそうだね~」

 「・・・うん」

 再び、無言の空間が生まれてしまう。今度生んだのは私だ。


 これ以上、期待してはいけない。

 コロコロと穏やかな音を立てて流れていく小さな小川に、堰を作っていく。ここで止めなきゃいけない。これ以上、垂れ流してはいけないのだ。ダムから流れる水は水じゃない。血だ。流し続ければ、出血多量で死に至る。開いた傷も塞がなければ、致命傷になってしまう。

 そうだ、きっともう味なんかしないハンバーグを食べて、ありがとうって言って、早く帰るべきなんだ。私たちは元々横に並んで楽しめるような間柄じゃない。長谷川さんが風邪みたいに一時的に熱に浮かされて私に近づいて、私まで浮かされてそれに喜んでしまえば、周りはそれを批判する。どうしてあんなのと一緒にいるの?と。彼女の熱はそうして冷めて、また皆のところで健康に戻り、私はまた一人になる。でもその一人は前と同じ一人じゃない。群れを知らない孤独から、群れを知ってしまった孤立へ。なのに私の熱は冷めきれず、ジリジリと胸を焦がし続ける。ありもしない可能性を、もう一度声をかけて貰える夜を、また夢想してしまう馬鹿な頭になってしまう。

 だからこそ、こんな泡沫のような関係は、今夜で終わりにする。明日からはまたいつも通り、会社では何も無かったかのように彼女は人気者で優秀で、私は端っこで一人、底辺で泥水を啜りながら、契約解除に怯えながら生きるんだ。それで良い。それが正しい。世の中はそうすることで、正常に歪みなく回り続ける。臼みたいに、誰かをすり潰しながら。


 「・・・エグッチャン、ダイジョブー?」

 手の形をしたその生物が、高い声を上げながらパタパタと飛び跳ねた。


 「・・・え?」

 ミギー? いや、そんな訳ない。顔を上げると、長谷川さんが心配そうにその太眉を寄せて、私を見つめていた。

 「なんか、浮かない顔してるよ。お腹すいちゃった?」

 どうやら顔に出ていたらしい。

 「いや、ただ、ちょっと疲れてるだけだよ。平気、平気、ははは・・・」

 作った笑顔も、すぐに真顔に戻ってしまう。

 「・・・そっか、今日は部長に嫌味言われてたもんね。大変だったよね、えぐっちゃん」

 彼女は干したての毛布のように暖かく、柔らかな声で、私に向けてメニューを差し出してくれる。緩慢な動きで受け取ったそれは異様に分厚くて、その厚さが、殆どこの場所からも見えるワインたちによるものであることは想像に難くなかった。

 「とりあえず、食べて元気を取り戻そう! 疲れた時にはおにくだよおにく!」

 彼女は元気よくメニューを開く。

 「うん、そだね・・・」

 「あ! えぐっちゃん、これなんかどう? アボカドチーズハンバーグ!全部北海道の契約農家から産地直送だって! 野菜もおにくも一緒に摂れるから、健康げんき!」

 八百屋みたいな調子で、彼女は激しくメニューを叩く。

 「それはちょっと・・・私にはボリューム多過ぎるかな・・・」

 「そっかー、うん、そうだよね。えぐっちゃん、小食って感じだもんね」

 私は獣のように食べるからダイエット大変、そう一人ごちりながら、またメニューをペラペラと捲る。

 「じゃあ、これなんかどうかな? 玉ねぎまるごと半玉乗せデミグラスハンバーグ。とろけた玉ねぎと、焼きたてのやわらかいハンバーグとソースが凄い合うって」

 選んでいくのも面倒くさいし、これ以上長谷川さんにセールスしてもらう訳にもいかない。

 「じゃあ、それで・・・」

 指先でゆっくりとその写真を指す。

 「オッケー! じゃあ、私はさっきの奴にしよう。こういうのって、結局自分が食べたいものを薦めちゃうもんだよねー。あ、飲み物はワインから適当に選んでいい?」

 長谷川さんは早口で述べながら、キビキビとした動きでドリンクメニューをチェックしていく。

 本当は普段からお酒なんか飲まないし、大学時代も部活に入っていなかった関係で、飲んで来ていない。ビールさえないのだから、ワインなんて当然ある訳もない。

 だけど。

 「・・・うん、大丈夫」

 「りょうかい! あのね、良いワイン、沢山あるから。やっぱり、えぐっちゃんセンスで良かったよ。ありがとねぇ」

 その太眉と目尻を下げるような、くしゃっとした笑顔に、息が苦しくなる。

 今夜ばかりは飲んでしまいたかった。飲んで呑まれて、そのまま色々うやむやにして、夢みたいに、幻みたいに今夜のことをしてしまいたい。そうすればきっと、明日の朝起きた時や、今後長谷川さんを見た時にも、辛くない。・・・あ、やっぱり、ナチュラルに辛くなるって思っちゃってるのか。案外、この傷は、深くまで行ってしまっているのかもしれない。でもきっと大丈夫、すべての痛みは、時間が解決してくれる。時が経てば、楽しかった思い出だって、嫌だった思い出だって、平等に風化する。そういうものだ。お酒がその手助けをしてくれるなら、それ以上のことはない。

 それから長谷川さんはテーブルの横のボタンからウェイターを呼んで、ハンバーグと、良くわからない横文字のワインたちを注文した。私のワインと、彼女のものは別のものだった。きっと、料理に合うように選んでくれているのかもしれない。

 ウェイターはさっきのギャルとは違う人が来たけど、その人もまた、私と彼女を一瞬見比べて、自然と彼女に注文を訊いた。

 その光景を、遠く離れたところで、もう一人の自分が冷静に見つめているのが分かる。やはりこの時間は余りにイレギュラーで、非現実的なのだ。非均衡で、釣り合いが取れていない、脆くて仮初の時間。

 騒げるのなら、そうしたい。今夜だけは、理性と本能の境目なんて、どろどろに溶けてなくなってしまえばいい。

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