旅人は地図を持たない
小町紗良
誕生日の唄
有るところには何でもあって、無いところには何もない。そういう時代だった。その暁に、俺には血と肉がなかった。
この町に娯楽が無いと踏むと、彼女はしたり顔で笑った。べたべたに汚れながら機械をいじる仕事よりも、残飯のこびり付いた皿を洗うよりも、もっといい仕事があるから。
彼女のような技術が何もなければ、生身の人間だと言い張れる肉体を持たない俺は、金を稼ぐ力が無い。もっとも、俺は金なんか無くたって旅はできた。なんせ魔女に肉体を取り上げられた骸骨なのだ、食わなくたって死なない……それを「生きている」と言い張れるのかというとだいぶ怪しい。真っ当に生きて真っ当に死ぬためには、身体を返してもらう必要がある。
骸骨の一人旅は前途多難だった。だってそうだろう、仕立ての良い三つ揃えを着ていて、礼儀正しく振舞っていようとも、ぽっかりと大きく開いた真っ黒な眼窩を持ち、歯列を剥きだしにした骸骨に道を尋ねられたら誰だってビビる。死神だと叫ばれ、聖職者のおっさんに追い掛け回された時はさすがに滅入った。胸倉を掴んで殺すぞとすごんだら小便を漏らされてさらに気分が悪くなった。俺は潔癖症だ。
そんな訳だから、孤独で果てしない道を行く覚悟を決めていたのだけど、彼女に出会ったのである。向こうから俺に声をかけてきたもんだから、俺のほうがビビった。飴色の大きな目をしたニキビ面の女の子で、まゆ毛は太いし髪の毛はぼさぼさで前髪の長さはばらばらだ。年季の入ったカンカン帽を被り、シミだらけで肩幅の合わないブラウスを着て、だぼだぼのズボンの裾をリボンで括っていた。浮浪者かと思ったが、地名のステッカーがたくさん貼られたこげ茶のトランクを手にしていたし、何より彼女の履いていた革のブーツは良く磨かれていたから、旅人だと分かった。
「お兄さん超イカしてるね、茶でもしばかない?」となんてことなさそうに、飄々とした態度で言われ、面食らいながらも話してみるとこれがすごいイイ奴で、俺の身の上話を親身になって聞いてくれた。長いことその日暮らしの旅を続けているという彼女の話も興味深くすっかり意気投合してしまい、その日から俺たちは旅を共にしている。
奇跡だとか運命の出会いだとか、壮大な冒険の幕開けだとかは思っていない。ただの偶然だろう。彼女も全く同じ様子で、俺の身体を取り戻すために一刻も早く先を急ごう、というような気概は感じられなかった。それぐらいで心地良いし、彼女の行動は見ていて面白いので、適当に魔女を探しながらちゃらんぽらん放蕩している。
俺は金が無くたって痛くも痒くもなかったが、彼女は自分の肉体の世話をしなければならないので金が必要だ。だから働かなくてはならない。彼女は機械いじりが得意で基本的に器用だし、誰とでもすぐに打ち解ける才能があるから、日雇いの仕事を見つけるにも大して困ることはない。俺は肉体があった頃からの習慣で喫煙を続けているので、その費用だけ彼女からせびっている。それも申し訳ないので、彼女がその日についた仕事の雑用をこなしているが、いかんせん能無しだし不気味な骸骨だから雇い主に追い払われることもしばしばである。
娯楽が無い町での仕事に、雇い主は必要なかった。人通りの多い路上の片隅、彼女が六角形の小型アコーディオンを手に歌い出せば、錆びた空き缶は投げ銭で満たされた。音楽のことは詳しくないが、彼女の小さなアコーディオンはそれほどたくさんの音を出すことができないことは知っている。それでも彼女はたくさんの曲を弾くことができるし、たくさんの表情を見せることができる。指の腹で押し込まれるボタンと、呼吸するかのように蠕動する蛇腹が、愛嬌のある音を響かせた。
楽器を持って人前に立つ彼女は、げじげじまゆ毛の小汚い旅人ではなく、はなやかなお嬢さんだった。こういう時だけは円錐型に裾が広がる鮮やかな緑のスカートと、繊細な刺繍がほどこされたバブーシュを履いた。紅をさした唇には、時には幸せに溢れた祝福の詩を、時にはかなしい結末の愛憎の詩が乗せられる。聴衆の手拍子や合唱も煽った。アコーディオンのボタンを押したり離したりするカチカチというひそやかな雑音ですら、楽譜に組み込まれたメロディであるかのように聴こえる。
彼女はいつも、おしまいの合図におなじ曲を弾いた。どうやら、彼女がいっとう気に入っている曲らしい。なかなか妙な旋律の曲だし、歌詞は異国語のようで何を歌っているのか俺にはさっぱり分からないのだ。彼女はその曲を遠い目をしてくたびれたみたいに弾く時もあったし、満面の笑みを浮かべて機嫌がよさそうに早いテンポで弾く時もあった。やっぱり今日も最後にこの曲が選ばれて、俺は彼女にぶん投げられたタンバリンをアホみたいに鳴らしながら、その呪文めいた響きに聴き入った。
彼女は金を手に入れると、ほとんどをその日のうちに使ってしまった。観劇をしたり、賭博で負けたりすることもあるけれど、たいていは飲食とその日の寝床のために消費される。類は友を呼ぶというかなんというか、彼女は小汚いおっさんがたむろしてる小汚い居酒屋が好きで、今日の夕飯もそういう店だった。
油と塩の味しかしなそうな大皿料理をがつがつ食らっている彼女を眺めながら、俺は煙草を咥える。肋骨の中に収まっていた肺を失ってしまったので、かわりに頭蓋骨の中に煙を停滞させることを覚えた。からっぽの頭の中に煙が入り込むと、なんとなく安心感がある。いったい俺はどの器官で思考をして、どの器官を使って喫煙しているのだろうか。魔女のせめてもの慈悲で、そういう感覚だけが骨とともに取り残されているようだ。骨の俺はただの思念体、いわゆる生霊みたいなもので、俺の本体である魂は、血肉とともに魔女の手中にあるのではないだろうか……マジカルな目に合うと思想もマジカルになるなあ。
左の眼窩から煙を吐く。もうすっかり癖になっていて、左の眼窩の縁は黄ばんでいた。彼女には間抜けだと笑われたが、肉体を取り戻して表皮を被ればどうってことない。紫煙の同線を無い目で追うと、薄ぼんやりとあたりを照らす裸電球にデカい蝿がひたすら体当たりしてるのが見えた。
「お嬢さん、あんた、昼間に大通りで歌ってただろう」
小汚い居酒屋の小汚いおっさん店主が彼女に声をかけた。彼女はこげ茶色のソースで口の周りをべたべたにして、まだ口の中に食べ物が残ったまんまで「そうだよ」と答える。きたねえ。ほんとにきたねえ。基本的に彼女のことは好きだが、致命的な部分が生理的に受け付けられない。
「一曲弾いてくれないかな。最後にやってたやつ。ガキの頃に聴いてから、ずっと忘れられなくてな。誰かが歌ってるのを見たのはその時以来だ」
そう言って人懐っこそうに笑うおっさんに、彼女も同じような笑みを返した。歯を見せてニカッと笑ったけれど、やっぱり食べカスで汚れてるし八重歯が1本欠けている。彼女はさっさと食事を済ませると、アコーディオンを手に椅子の上に立ち上がって客の注目を集めた。すでにシードルの瓶を1本開けていた彼女は気が大きくなっている。客もみんな酔っ払っている。俺だけに酒の魔法が効かない。
聴きなれたメロディ、見慣れた指はこび、何処の言葉かわからない詩。頼りない裸電球は舞台照明の代わりか。彼女のよく通る歌声が、寂れた町の場末の居酒屋を満たす。酒が入っているせいか、曲調はすこし遅めで、弛緩しきった表情で歌っていた。ブーツの踵で椅子を蹴りながらリズムを取っていて、転げ落ちるんじゃなかろうかと心配したが、彼女は実に器用に演奏を続けた。
実によく響きわたる声で歌ってはいたが、彼女のまなざしは演奏を注文したおっさんにだけ注がれていた。おっさんは毛深く筋肉質な腕を組んで、音楽に身体を揺らしながら彼女を見つめ返していた。そのうちおっさんの両目からはぼろぼろと大粒の涙がこぼれ出して、それを見た常連らしい男たちから野次が飛んだ。何が悲しくて、あるいは嬉しくて彼が泣いているのかは知る由もないが、よっぽど訴えかけるものがあったんだろう。きっとこのおっさんだって歌詞の意味は知らねえ。まぶたの裏には別のものが映ってる。
演奏が終わったかと思うと、彼女はたちの悪い笑みを浮かべて、円卓の上に乗り上げた。がしゃん、と食器が跳ねる。さすがに品が無さすぎるので止めようとしたが、彼女はおっさんの手を掴んでテーブルの上に引き上げると、俺にそうするように彼にタンバリンを押し付けた。戸惑う店主を酔っ払いたちがはやし立てる。もうどうでもよくなったので、新しい煙草に火をつけた。
先ほどとは打って変わって、早い調子で弾きはじめた。彼女の手の中で、アコーディオンは痙攣してのた打ちまわる小動物みたいに動く。詩ではなく適当なハミングを口ずさみ、彼女は棒立ちのおっさんを肘で小突いた。おっさんはぎこちないながらもタンバリンを叩き、彼女にならって歌った。最初こそ控え気味だったが、気付けば胸を張って大声を出し、彼女の声を掻き消していた。彼女とおっさんはぜんまいで動く人形みたいにせまい円卓をぐるぐると歩き回り、皿や酒瓶を蹴散らして高らかに歌う。ふたりとも広大な草原で羊を追いかけて走るようなさわやかな笑顔を振り撒いていたが、その愉快そうな様子はもはや暴力的なほどである。細足のテーブルは不思議なほどに安定していた。ふたりは汗だくになりながら、何度も何度も同じメロディを繰り返す。客たちの手拍子も乱れず、中には彼女とおっさんと一緒に歌いだす奴もいた。すべての音は黴臭い店内に染み渡った。はてしなく滑稽でとち狂った光景だ。おもしれえと思った。
賑やかすぎるほどに賑やかな宴も終わり、店内は閑散としていた。気を良くした店主は彼女に度数の高いシードルを、俺に煙草を1カートン奢った。すっかりご機嫌な彼女は、何かくだらないことをひとりでべらべらしゃべりながらひとりで大爆笑していた。完全に出来上がってやがる。
「ロッティ、あの曲はどういう歌詞なんだ。外国語だろ、全くわからん」
「うそでしょ、知らなかったの? わたしたちどんだけ一緒にいると思ってんの? そんなに通じ合えてなかった? わたしが早まってたの?」
「そういう問題じゃねえだろバカ。俺はあの呪文みたいな言語がわからねえんだよ」
「冗談通じない男はもてないよ」
「骨だからいいんだよ」
「身体戻ったら絶対困るよ、かわいい女の子のおっぱい揉めないよ」
「やかましいわ」
彼女はシードルをラッパ飲みして豪快なゲップをかまし、ひゃひゃひゃとおっさんのように笑った。性器を失ったせいか彼女に色気が無さ過ぎるせいか、こいつのおっぱいは揉みたいと思えない。目はでかいし身体は華奢でわりかし可愛いのに、彼女は品性の部分でかなり損してる。
「わたしも人に教わったんだけど『町はどしゃ降りだけど僕の心は晴れ渡ってる』とか『毎日誕生日だったら楽しいのに』みたいな歌詞らしいよ。すんごい大昔の映画の曲なんだってさ。特に深い理由もないんだけど、なんか好きなんだよね」
「へえ、誕生日の曲なのか。そういえばお前って何歳なの」
聞いたことがなかった。彼女の年齢は全くもって不詳だった。まだまだ幼い無邪気な少女にも見えるけど酒好きだし、言動が妙に老成していて俺より年上なのではないかと疑うこともあるけど、このセンセーショナルな奔放さは若さの賜物だろうとも思う。そうやっていろいろ考えて彼女をミステリアスな女に仕立て上げるのを楽しんでいたのに、ぽろっと訊ねてしまった。
「そんなもん数えるのやめたよ」
「バカ言え、そんなにスレるほど年増でも無いだろ。いっちょまえ気取るなよ、イタいぞ」
左目から煙を吐きながら指摘すると、彼女はぱちくりと瞬きをした後、もさもさのまゆ毛を歪めて笑った。
「ほんとは数えてるし、誕生日も覚えてるよ。でもさあチェザーレくん、それって不平等だと思わない? あんたの身体は時間が止まってるんだよ。身体を取り戻すまで、誕生日はこないんでしょ。だからね、わたしもあんたの次の誕生日が来るまで、時間を忘れることにしたの。まあ、あんたに会う前からそんなん有って無いようなもんだけどね」
「なんだよそれ、祝ってやるから誕生日ぐらい教えろよ。歳はいいや」
「やだ」
「……まあいいや、好きにしてくれ。お前はどっちかっつうと毎日誕生日みたいなもんだろ。騒がしすぎる」
俺の言葉に彼女は笑った。俺も煙草を咥えたまま笑ったら、無いはずの気管支に煙がつかえてむせた。デカい音を立ててシードルのコルクが開く。灰皿に吸殻が降り積もる。こうして毎日毎日、俺と彼女は有るようで無いような時間を捨てていった。有るようで無いような誕生日を祝うように、退屈を燃やし尽くした。俺たちはあくる日の、存在が証明されている誕生日を夢見て旅路をゆくべきなのかもしれなかったが、あいにく生き急いではいないのだ。こんなに呑気なこと言ってるから、俺の身体は明日もからっぽなのかもしれない。
誕生日の唄/ウラジミール・シャインスキー
『チェブラーシカ』挿入歌
http://www.ghibli-museum.jp/cheb/bgm.html
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