正絹の貴公子-4

 ハオリュウが廊下へと姿を消し、レイウェンの書斎は静まり返った……かといえば、そうではなかった。

 執務机の後ろから、からからという、男性にしては高く、さりとて女性としては少々、低い笑い声が上がり、すっと人影が現れた。今までずっと、そこに隠れていたにも関わらず、完全に気配を消していたがために、ハオリュウにまったく気づかれることのなかったシャンリーである。

「ハオリュウの奴、よりによって、レイウェンと決闘だって?」

 可笑おかしくてたまらない、といったていで腹を抱えながら、彼女はレイウェンの向かいのソファーに座った。

 レイウェンは、先ほどまでハオリュウに向けていた顔と打って変わり、いつも通りの彼ならではの甘やかさをたたえ、妻に微笑む。

「彼のことだから、盤上遊戯チェスか何か、頭を使うもので勝負するつもりだよ。別に『刀で戦う』とは宣言していないからね」

「ああ、なるほど」

 得心がいったとシャンリーは頷き、けれども「『顔を洗って、出直してこい』って、レイウェンも大人げないよ」と、苦言を呈した。

 それに対し、レイウェンは聞こえなかったふりをした。

 彼が、妻の言葉を無視することは、まずあり得ないのであるが、今回ばかりは特別であったらしい。素知らぬ顔で、話を続ける。

「君も隠れていないで、一緒に話せばよかったのに」

「それは、あまりにもハオリュウが可哀想だよ。クーティエとの、あのやり取りのあとで、レイウェンと私が雁首がんくびそろえて待ち構えていたら、さすがのハオリュウだって縮み上がっちまうだろう」

「そのくらいで、ひるんでいたら、彼はこの先やっていけないよ」

 再び冷たい口調に戻ったレイウェンに、シャンリーは肩をすくめた。

「そうは言われても、レイウェンとハオリュウの会話は、裏に含みがありすぎて、私は、ちょっと遠慮したいね。空気が薄ら寒い」

「そうかな? 彼は非常に、まっすぐで分かりやすいよ」

「それは、レイウェンとハオリュウが同類だからだよ。上品なくせに、腹に一物いちもつ抱えているところなんか、そっくりだ。しかも、その会話を結構、楽しんでいるんだよなぁ……」

 シャンリーは、ぼやくように苦笑し、「――けど」と、わずかに鼻に皺を寄せた。

「相手は子供なんだぞ。少しは手加減してやったらどうだ?」

「だって彼は、クーティエを奪っていく男だよ。子供扱いしたら失礼だろう?」

「クーティエを奪っていく、って――。そりゃ、私も、そうなりゃいいとは思うけど、ハオリュウは難しい立場なんだから、そう簡単には……」

 シャンリーが渋面を作ったが、レイウェンは甘やかに笑い、ふと呟く。

義父上ちちうえも、こんな気持ちだったのかな?」

 唐突に、何を言い出すのだと、シャンリーは面食らった。

 だが、レイウェンの眼差しが優しいことに気づき、徐々に、懐かしみの顔になる。

「親父殿は違うだろう。『鷹刀の跡継ぎをたぶらかしおって』と、私におかんむりだったからな。『ユイラン様に乳母のようなことをお願いしてしまったことが、そもそもの間違いだった』とか嘆いていたよ」

「そんなの、口先だけだよ」

 どうやら、夫婦間で見解が違うようである。しかし、それはもう過去の話。

 シャンリーは、にやりと笑いながら、強引に現在へと話を戻した。

「レイウェンが、ハオリュウを気に入っているのは分かるよ」

 ストレートに言われ、レイウェンは、ばつが悪そうに口をとがらせる。

「当然だよ。そうでなきゃ、せっかく草薙うちに来てくれたタオロンを、彼のために手放そうだなんて思わないからね」

 そのとき、思い出したように、シャンリーが声を跳ねかせた。

「それで? タオロンを暗殺要員に、だって? ――無茶を言うな。タオロンは隠密行動には向いていない。奴がったら、ただの殴り込みだ」

 いったいどういうつもりだ? と、目線が問う。

「ああ。タオロンに暗殺込みで護衛になるように言ったのは本当だけど、シャンリーの言う通り、彼に暗殺は無理だろう。だから、ただの護衛でいいんだよ。『最強の』が付くけど」

「ほう?」

「狙われやすい立場のハオリュウさんには、派遣の護衛よりも、彼個人に忠義を尽くしてくれる者のほうがよいはずだ。タオロンだって、貴族シャトーアの専属ともなれば、もと凶賊ダリジィンの総帥の血統でも、白い目で見られることはないだろう。――ファンルゥもね」

「なるほど。そういうことか」

 凶賊ダリジィン上がりの人間が、世間の目にどう映るか。もと凶賊ダリジィンの総帥の血統で、本来なら、あとを継ぐべき長男であったレイウェンは、よく知っている。

 彼が成功者となり得たのは、ひとえに、ある情報屋のお陰だ。

 鷹刀の後継者が、稼業である凶賊ダリジィンを否定し、最愛の女性を表の世界で活躍させるために、実力でもって組織いえを出た。彼は、正義感あふれる、気骨のある若者だ――という情報うわさが流れてから、風向きが変わった。

 民衆好みに情報操作脚色を加えられた美談うわさは、またたく間に広まった。凶賊ダリジィンいとう者の耳にほど、心地よく聞こえ、苦労話が多いほどに、草薙家は好意的に受け入れられていった。

 情報屋――先代〈フェレース〉が、密かに世情を煽ってくれなければ、今の暮らしはなかったのだ。

 レイウェンは、湿り気を帯びた空気を振り払うようにかぶりを振り、それから、朗らかな声で続ける。

「ついでに、給料だって、貴族シャトーアに雇われたほうがいいんじゃないかな?」

「それを現在の雇用主が言うのも、なんだかなぁ……」

 半ば呆れたように、シャンリーは溜め息をついた。

 もっとも、それは事実ではあるものの、本心から言っているわけではないのは、彼女も承知している。遠い先までを見据えた上で、レイウェンは最適な選択をしようとしているだけだ。

「……さっきの話はさ、初対面のときのハオリュウさんとの決着だよ」

「さっきの話? ――ああ、『僕に代わって、殺せる者』の話か」

 シャンリーの顔が陰った。あんな子供に、あんなことを言わせる世界は残酷だと、彼女は唇を噛む。

「あのころのハオリュウさんは、父君を亡くして当主になったばかりで、だいぶ不安定だったと思う。無力な自分を自覚していて、万一のときの手段を確保しておきたかったんだろう」

「……」

「それと、一番、信頼している緋扇さんとの関係が、あのときは、あくまでも一時的なものだったからね。彼がいなくなったあとのことを考えたりして、あんな台詞が出たんだろうな」

 でも、もう大丈夫だろうと、レイウェンの言葉尻が暗に告げる。

 それを受けて、シャンリーが口元をほころばせた。

「シュアンの奴は、ハオリュウに『つく』と決めたんだろう?」

「そうみたいだね。悪人ぶっていても、緋扇さんは、お人好しだから……」

「シュアンがいるなら、タオロンをくれてやらなくてもよかったんじゃないのか? それこそ暗殺なら、狙撃のできるシュアンのほうが向いているぞ?」

「緋扇さんとタオロンは、まったく別の役割だよ。緋扇さんは狙撃はできても、至近距離からハオリュウさんが襲われたら、身を挺して守るしかできない。彼は武闘派護衛じゃなくて、頭脳派ブレインだ」

「まぁ、そうだな」

「……暗殺はリスクが高すぎる」

 不意に、レイウェンの声が低く響き、シャンリーは「え?」と瞳をまたたかせた。

「レイウェン?」

「ああ、なんでもない。……きっと、杞憂だよ」

 レイウェンの言葉は、窓から入ってきた風と、葉擦れの音に掻き消された。

 それと同時に、ハオリュウがクーティエを伴って庭に出てきたのを、気配にさといふたりは察する。

「ほう、ハオリュウの奴。あれだけレイウェンに脅されても、めげないもんだな」

「ハオリュウさんが、あの程度でへこたれるわけがないよ。何かと理由を作っては、クーティエに逢いにきているんだからね」

「――確かに」

「どうせ、今日、母上に頼んだ服が出来上がったら、また草薙うちまで取りに来るよ。貴族シャトーアなんだから、自分の屋敷まで届けさせればいいのにね」

 皮肉交じりのレイウェンに、シャンリーは「別に、いいじゃないか」と満面の笑顔で応えた。



 帰る前に話をしたいと、ハオリュウが私を呼びに来た。

 私は、赤い目を誤魔化すために、うつむき加減で彼を追って庭に出た。杖を付いた彼よりも、私のほうがよっぽど、どこか悪いんじゃないか、ってくらい、とぼとぼした歩き方だったと思う。

 ハオリュウは、さっきのベンチの前に行った。――けど、腰掛けるわけじゃなくて、何故か、我が家に向かって会釈をした。

 不思議に思って、そちらを見やれば、開け放された窓に風が吹き込み、カーテンがひらひらしている。

 あそこは、たぶん、父上の書斎だ。いつもは書類が飛ぶからと、閉め切って空調をつけているのに、窓を全開にしているなんて珍しい。

「クーティエ」

 柔らかなハオリュウの声に呼ばれ、私は、びくりと肩を上げた。

「ありがとう」

「え? えっと?」

 なんのお礼だろう? ファンルゥのプレゼント選びのことなら、さっき言われたし……?

「僕のことを、好きだと言ってくれて」

「――!」

 私の顔が、一瞬にして、真っ赤になった。

 な、なんで、今ごろ!?

 私は身じろぎひとつできず、ただただ彼を凝視する。

「でも、クーティエも知っての通り、貴族シャトーアの当主である僕は、自分の気持ちを自由に言える立場じゃない。だから、何も口にすることができない」

「……」

 ハオリュウは、うやむやにしないで、ちゃんと私を振ろうとしているのだ。

 それが誠実な態度だと……。

 私の瞳に、再び涙が盛り上がってきた。

 ――と、そのとき。

 ハオリュウの左手が、ふっと杖を手放した。

 からん、と軽い音を立て、杖は芝生に倒れる。

「?」

 それは、どういう意味?

 戸惑いに、こぼれかけていた涙が止まる。

 だけど、彼の奇行は、それで終わりではなかった。

「えっ!?」

 なんと、彼は自由になった左手から、金色に煌めく、当主の指輪を外したのだ!

 それをシャツのポケットにしまい、膝を折って……。

「ハオリュウ!? や、やめて! 何しているの!? あなたの足は――!」

 血相を変える私の前で、彼は苦痛に顔を歪めながら、地面にひざまずいた。

「なっ!?」

 指輪のない彼の手が、私の手を取る。

 それは、まるで上流階級の令嬢を相手にするかのような優雅な仕草で……。

 そして、彼は――。


 私の手の甲に、口づけた。


「――――――!」

 心臓が止まるかと思うくらいの衝撃。

 あまりのことに、彼の唇の感触なんて分からない。

 その代わり、涙が吹き飛んだ私の目には、彼の一挙手一投足が刻みつけられる。

「ハ、ハオリュウ!?」

 私の声が裏返った。

「これが、今の僕に許される精いっぱい。――でも、いずれは……!」

 ぐらつく姿勢に耐えながら、彼は強い眼差しで私を見つめ、口を閉ざす。

 ――え? どういうこと……?

 混乱する私の前で、ハオリュウの体が大きくかしいだ。

「きゃああ、ハオリュウ! 足! とにかく、足を楽にして!」

 私の悲痛な叫びと、彼が芝生に倒れ込んだのは、ほぼ同時だった。

「ハオリュウ!」

「大丈夫だよ。ただ、ちょっと無茶をしただけだ」

 彼は穏やかに笑い、そのまま大の字になって寝転んだ。――とても、貴族シャトーアとは思えないような、自由な姿で。

 私は、どうしたらよいのか分からず……、けど、彼が横になっているのだから――と、隣にちょこんと座る。

 私たちのそばを風が走り抜けた。

 彼の前髪が浮き立ち、私の絹のリボンがたなびく。

 気持ちよさそうにまぶたを閉じ、葉擦れの音を浴びていたハオリュウが、不意に私を見上げた。

「出逢ったときからずっと、クーティエは、僕を『ただのハオリュウ』として見てくれていたよね。――ありがとう」

「ハオリュウ?」

「今日、ユイランさんにお願いした服が仕上がったら、草薙家ここに取りに来る。そのとき、あなたへの感謝を込めて、その日の朝一番に庭で摘んだ花を花束にして贈ったら……受け取ってくれるかな?」

「え……?」

 ハオリュウが、自分で花を摘んで……、私に贈る!?

 ……嬉しい。凄く、嬉しい。ハオリュウが、私のために……。

 想像もしていなかった言葉に、私は口をぽかんと開けたまま。

 とっても、間抜けだったと思う。……恥ずかしい。

 だけどハオリュウは、とても優しい顔で目を細めた。

「僕が五歳のとき、母様の誕生日に、庭で摘んだ花を贈ったんだ」

「……?」

貴族シャトーアの奥方の誕生日だから、その日はパーティが予定されていた。母様が裾の長いドレスを着付けているところに僕は入っていき、マーガレットの花束を渡した。母様はとても喜んでくれたけど、僕は泥のついた靴で母様のドレスを踏んで汚してしまい、大騒ぎになった」

 私は息を呑んだ。

 その誕生パーティというのは、貴族シャトーアの社交上のもので、ハオリュウのお母さんが望んだものではないだろう。ドレスを汚したとなれば、一大事だ。

 顔色を変えた私に、ハオリュウは「うん。いい思い出じゃないよ」と告げる。

「怒った大叔父が僕を殴ろうとして、姉様が庇ってくれた。顔を腫らした姉様のために、医師が飛んできて、ドレスをなんとかしようとメイドが大わらわで……、大変だった」

「……」

「おろおろするだけだった父様を、僕は見下した。――貴族シャトーアの当主なんてものは、愛してもいない人と幸せを装うか、愛する人を幸せにできないかの、どちらかなのだと思った」

「ハオリュウ……」

 なんて言ったらいいのか分からず、私は絶句する。

「――でもね」

「え?」

 ふわりと微笑んだハオリュウに、私は首をかしげる。

「あの日、母様に贈られたプレゼントの中で、母様が一番、喜んだのは、僕の花束で間違いない」

 言い切ってから、彼は少し照れたように瞳を揺らした。それから再び、まっすぐに私を見つめる。

「あのとき、父様が花束から一輪抜き取って、母様の髪に挿した。そして、『似合うよ。綺麗だよ』と言った。母様は本当に嬉しそうだった。――そんなことを、今は思い出すんだ」

 ぽつり、ぽつりと。懐かしそうに、彼は語る。

 私はただ、うんうん、と相槌を打ち続けた。

「クーティエ」

「うん」

「僕はずっと、父様を情けない男だと思っていた。でも今は、僕が分かっていなかっただけで、父様は、ちゃんとすべきことをしていた気がする」

「…………」

「もしも今、父様と言葉を交わすことができたなら――、……僕は、あなたのことを紹介したい」

「――!」

 私の心臓が、どきん、と跳ねた。

 ――それって…………。

 超高速の鼓動が、どきどきと血液を送り出す。

 私の頬が、赤く熱を持っていく。

「庭の花なんて、気の利かないものを贈りたいなんて言って、ごめん」

 見れば、彼の顔も朱に染まっていた。

「でも、貴族シャトーアの当主としてではなくて、ただのハオリュウとしての贈り物を考えたら、それしか思い浮かばなかったんだ」

「う、ううん! 凄く、素敵! 私、楽しみにしている!」

 弁解する彼の言葉に首を振り、私は満面の笑みで答える。

「ありがとう。クーティエに一番、似合う花を摘んでくるよ」

 その瞬間、私の目から、ぽろりと涙がこぼれた。

「あっ……、……ごめんっ。……嬉しくて」

 私は焦って謝るけれど、涙はあとからあとから、あふれてきて、簡単には止まってくれない。

 ハオリュウが、ふと呟いた。

「……雫の花束」

「え?」

「あのときの僕は、悲しくて辛くて泣きじゃくったけれど、母様の誕生日をそんな涙で上書きできたら……」

 彼は何かぶつぶつと言い、それから急に、まるで悪巧わるだくみでも思いついたかのように、楽しげに頬を緩ませた。

「?」

 きょとんとする私に、彼は花がほころぶような笑顔を浮かべる。


「いつか。母様の誕生日に、また花束を贈りたいな。――クーティエと一緒に」

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