1.咲き誇りし華の根源-2

 ミンウェイが柳眉を逆立てる。

 リュイセンの裏切りは彼女のためと言われ続け、今まさに核心に迫ろうとしているにも関わらず、ひとりだけ蚊帳の外であれば当然といえよう。


『私の健康は作られたものだった、ってこと……? リュイセンは、それを秘密にしておくために〈ムスカ〉に従ったというの!?』


 しかし、ルイフォンは、その問いに即答できなかった。

 喉に声が貼りつき、言葉が出ない。

 中途半端な情報に、彼女が脅えているのは理解できる。けれど……。

「――まだ、ただの憶測なんだ。だから、これから……。分かってくれよ……」

 それは口の中で転がされた小さな呟きだったが、全身を苛立ちに染めていたミンウェイは耳ざとく拾い、「ルイフォン!」と彼の名を叫ぶ。

「私は憶測で構わないって、言っているでしょ!」

 声を荒立てるミンウェイに、ルイフォンは張り合うように言葉を叩きつけた。

「俺が、構うんだよ……!」

 胸が、喉が――熱かった。

 慟哭のようなテノールに、ミンウェイが目を丸くする。

「ルイフォン……?」

「いいか? リュイセンは、ミンウェイが『秘密』によって傷ついてほしくないから、俺を裏切った。二度と戻れないのを承知の上で、一族を捨てた。それが、どれほどの覚悟なのか、考えてみろよ!」

「……っ」

 鋭く斬りつけるような猫の目に、ミンウェイが息を呑んだ。

「リュイセンが、そこまでの想いで守ろうとしたミンウェイの心を、俺が憶測で傷つけていいはずがない!」

 ルイフォンは、視線をミンウェイからイーレオへと移す。

 そして声を張り上げ、きっぱりと宣告した。

「俺は――情報屋〈フェレース〉は、証拠によって『憶測』が『事実』になるまで、ミンウェイに『秘密』を説明することを断固、拒否する!」

 イーレオは――鷹刀一族の総帥は、〈フェレース〉の憶測を理解したはずだ。それでなお、ミンウェイに話すべきだと思うのなら、仕方ない。鷹刀一族の判断として、総帥イーレオが話せばよい。

 だが、〈フェレース〉は口を閉ざすと決めた。

 イーレオの視線が、ルイフォンのそれと交差する。深い海のような総帥の瞳は、揺らぎのない凪で満たされていた。

「ミンウェイ、席を外せ」

「お祖父様!?」

「お前は、しばらく会議に出てはならない」

「そんな! 横暴です!」

 立ち上がったミンウェイの髪が、華やかに舞う。

「先ほど、お祖父様――総帥は、おっしゃったではありませんか! 『対等な協力者』である〈フェレース〉に、憶測を詳しく話すことを要請する――と」

 彼女は自分の主張の正しさを訴え、咲き誇るように胸を張る。しかし、イーレオは静かに首を振った。

「〈フェレース〉は、鷹刀一族の総帥である俺と『対等』なのだ。そして、俺は〈フェレース〉の憶測を理解した。だから、〈フェレース〉はきちんと要請に応えたことになる」

「そんな……!」

 美貌を蒼白に染めるミンウェイに、イーレオはそれまでとは打って変わった慈愛の眼差しを向けた。

「すまんな、ミンウェイ。〈フェレース〉の憶測は突拍子もなくて、荒唐無稽なものだ。だが、言われてみれば、それしかないと思える」

「お祖父様! わけが分かりません!」

 牙をむくミンウェイに、しかし、イーレオは構わずに続ける。

「……正直なところ、俺自身、納得したのに、信じられなくもある。〈フェレース〉がきちんと証拠を添えて説明したいというのも、もっともな話だ。それが、お前に対する礼儀だというのも、理に適っている」

 切れ長の目を大きく見開き、ミンウェイは唇をわななかせた。

「皆、勝手だわ! 私の気持ちはどうなるのよ!?」

 心からの叫び。

 蒼白だった顔は、上気して炎をまとったかのようだった。

 ――そのときだった。

 執務室の扉が、小さな機械音を立てて開いた。

 人の気配。

 近づいてくる足音。

 そして、場の緊張に気圧されたような一瞬の狼狽のあとに、苦笑が続く。

「おいおい、ミンウェイ。あんたの怒った顔も、そりゃあ美人だが、そんなに目を吊り上げたら魅力は半減だぜ?」

 挨拶もなく部屋に入り込んできたのは、乱れ放題のぼさぼさ頭に、血走った三白眼。顔についての講釈を垂れるつもりなら、まずは自分の姿を鏡に映してこい、と言いたくなるような、外見には無頓着な男。

 今は私服に着替えているが、本業は警察隊員。しかし最近は、毎日のように凶賊ダリジィンである鷹刀一族の屋敷に顔を出している、緋扇シュアンであった。

「緋扇さん!」

 ミンウェイの声が喜色を帯びた。

 からかわれているのは承知していても、シュアンは何かと親身になってくれる人物だ。現在、孤立無援の彼女にしてみれば、味方を得た気分だっただろう。

「イーレオさん、遅れてすみません」

 皆の注目を充分に集めてから、取ってつけたようにシュアンは会釈した。とはいえ、制帽を身に着けているときの癖なのか、自分のぼさぼさ頭に軽く手を触れただけの、非常に彼らしいぞんざいな仕草である。

「ああ、いや。忙しいところ呼び立てしてすまなかった」

「いえいえ。囚われのメイシア嬢と連絡が取れて、ルイフォンから提案があると聞かされれば、そりゃあ飛んできますよ」

 シュアンは軽い口調で話しながら、当然のようにミンウェイの隣に腰掛ける。

「――で、詳しい話はあとでミンウェイに聞いておきますから、かいつまんで方針だけ教えて下さいよ。ああ、そもそも、その案、鷹刀としては採用ですか?」

 無遠慮な三白眼が、ぎょろりとイーレオを捕らえた。

 対してイーレオは、シュアンを一蹴するかのような傲然とした笑みを浮かべ、力強い王者の声で決定を下す。

「採用だ。〈フェレース〉がリュイセンを解放し、リュイセンに〈ムスカ〉を討ち取らせる」

「親父……」

 ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。

 不協和音が聞こえてきそうな、妙に緊迫したこの状況。どのような態度を取るのが吉なのか、彼は惑う。そのため、提案を受け入れてくれた感謝を述べるべきところで、彼は押し黙ってしまった。

「ほぉ……」

 ルイフォンとは対象的に、シュアンが甲高い声を上げる。彼独特の響きは、感嘆にも揶揄にも聞こえた。

「〈フェレース〉がリュイセンを解放――ということは、リュイセンが脅されたネタを〈フェレース〉は割り出したのか。ふむ、さすがは噂に名高い〈フェレース〉だ。実に見事、実に素晴らしい!」

 にたにたと品のない嗤いを浮かべながら、シュアンは両手を打ち鳴らした。その意図が読めず、ルイフォンは不審げに……不快げに眉をひそめる。

 そこで急に、シュアンの拍手がぴたりと止まった。

「――はて? 無事に作戦が決まって、実にめでたい状況だと思うんですが、なんでミンウェイは美女を台無しにして怒っているんですかね?」

 ぐっと顎を上げ、シュアンはルイフォンを見やる。本職の凶賊ダリジィンよりも、よほど凶賊ダリジィンらしい凶相が凄みを増した。

 そして、決して低い声質ではないくせに、怖気おぞけが走るような、どすの利いた声で迫る。

「今回の作戦の立案者にして、立役者の〈フェレース〉。――どうして、あんたが、捨て猫のような惨めったらしい顔をしているんだ?」

「――!」

 侮辱された、と。反射的に思った。

 作戦は認められたものの、ミンウェイとの言い争いの最中であったため、確かに、ルイフォンは嬉しそうな顔をしていなかっただろう。しかし、だからといって、情けない顔もしていないはずだ。

「シュアン……!」

「ま、ミンウェイの顔と、あんたの顔と、それから『リュイセンの解放』と来れば、訊かなくたって状況は理解できるけどよ」

 拳を握りしめ、言葉を返そうとしたルイフォンを遮り、シュアンが鼻で笑う。

「このに及んでなお、あんたは『リュイセンが脅されたネタ』をミンウェイに言えないでいるんだろう? ――そいつを言えば、ミンウェイが傷つくからな」

「……っ」

 ずばりと言い当てられ、ルイフォンは思わず顔色を変える。――と同時に、ミンウェイが驚きの声を上げた。

「緋扇さん!? どうして分かるんですか!?」

「そりゃ、見たまんまだからだ」

「説明になっていません!」

 噛み付いてきたミンウェイに、シュアンは、おどけた顔で苦笑し、大げさな仕草で肩をすくめる。

「つまり、だ。――〈ムスカ〉の使った脅しのネタは、あのリュイセンを言いなりにしちまうくらい、とんでもなくろくでもないもんである、と。それなら、ルイフォンが口にするのをビビっちまうのも仕方ねぇなぁ、と俺は納得したわけだ」

「――っ!」

 清々しいまでに軽薄な口調に、ルイフォンは猫の目を釣り上げた。

 シュアンなんかに、好き勝手、言われる筋合いはない――!

 ルイフォンは膨らみかけた憎悪を努めて押さえ、冷静な〈フェレース〉の顔で告げる。

「シュアン。お前の言う『脅しのネタ』は、裏付けとなる証拠を手に入れた上でミンウェイに説明すると、先ほど鷹刀の総帥と決定したところだ」

 その瞬間、耳障りなシュアンの声が鼓膜を突き抜けた。

「はぁ? 当事者であるミンウェイには、こそこそ隠すだと? あんたら、ミンウェイを馬鹿にしてんのか?」

「なんだと!?」

 挑発するシュアンを、ルイフォンは睨みつける。だが、シュアンは、まるで気にすることなくルイフォンから目線を外し、ぐるりと部屋を見渡した。

「どうせ、ミンウェイを傷つけないように――なんて考えているんだろ? まったく、鷹刀の連中は、どいつもこいつもミンウェイに対して過保護だ。はたから見ている俺としては、気持ち悪いくらいさ」

 シュアンは、イーレオの美貌の上で目を止め、ここぞとばかりに吐き出した。

「皆でミンウェイを守ってやろうってのは、血族の愛とやらなのかもしれませんが、過保護も過ぎれば、立派な虐待ですよ。――ま、ミンウェイのほうも遠慮ばかりだから、仕方ないですかね?」

 薄笑いと共に、シュアンは、わざとらしい溜め息をついた。

「緋扇さん……」

 シュアンの隣で、ミンウェイが困惑したように草の香を揺らす。そんな彼女に、しかし、彼は一瞬ぎょろりと眼球を寄せただけで、すぐに無視した。

 それからシュアンは、ぼさぼさ頭を傾け、ルイフォンの顔を覗き込む。

 狂犬と呼ばれた彼の血走った三白眼が、猫の目を捕らえる。

 赤く濁った瞳は、それまでの彼の人生を物語るように汚れきっており、醜かった。

「守ってやろうなんて感情は、傲慢じゃねぇのか?」

 皮肉げな響きを含んだ声が、挑発的に語尾を上げる。

 見下すような目線が、癪に障った。

 けれど、シュアンの言葉は――……。

「ルイフォン、あんたの情報ってやつは、俺の弾丸とは違う。俺は一発、ズドンと当てちまえば、それは不可逆だ。けど、あんたが傷つけたところで、ミンウェイならそのうち立ち直るはずだ。――信じてやれ」

「――――」

 シュアン――と、声に出したつもりだった。けれど、唇から出たのは短い息だけだった。

 ……だが、それで正しかったのだ。

 ルイフォンが呼びかけるべき名前は、シュアンではない。

「親父……いや、鷹刀の総帥」

 澄んだテノールが、執務室をすっと流れた。

「すまない。前言撤回だ。〈フェレース〉は、ミンウェイに『秘密』について説明する」

 鋭く息を呑む音が聴こえた。

 それはミンウェイのものであり、イーレオのものであり、その場にいた皆のものであった。

「リュイセンのことを思えば、本心では言いたくない。でもそれは、〈フェレース〉ではなく、俺の個人の感情だ。……ミンウェイは、ちゃんと憶測だと承知している。なのに応えないのは、彼女に対する侮辱だ。――シュアンの言う通り、信じるべきだ」

 穏やかでありながら、決然とした意志が静かに告げられた。

「そうか……。そうだな、頼む」

 感情の読めない、けれど魅惑の低音で、イーレオが首肯する。

 そして、ルイフォンが口を開こうとした刹那。

「イーレオさん」

 ――と。割り込むように、シュアンが呼びかけた。

「は?」

 何故、ここで邪魔をする?

 出鼻をくじかれたルイフォンは、そのため一瞬、文句が遅れた。その隙に、シュアンが今までの軽薄な口調を返上し、朗々とした深い声を上げる。

「〈ムスカ〉は先輩の仇です。だから、俺の手で討ち取りたい。しかし残念ですが、俺に手持ちのカードはありません。俺自身も〈ムスカ〉に対するカードとしては心もとない。ならば、適材適所と割り切るべき、というのが俺の見解です」

 唐突に話題をねじ曲げ、シュアンは告げる。不可解な彼の言動に、皆が戸惑う。

 協調性を欠いた彼は、周りのことなど気にしない。ただ、言いたいことを言うだけだ。

「俺は、この先のことを、ルイフォンの策に――リュイセンの手に託します」

「……!」

 シュアンの態度に不快感を覚えながらも、耳朶を打つ強い声に、ルイフォンの心臓は跳ねた。自分の肩に、見えないシュアンの掌を感じる。ずしりと重く、けれど温かい。

「今回の作戦、俺は鷹刀を支持します。よろしくお願いいたします」

 ふわりとした残像を描きながら、シュアンのぼさぼさ頭が下げられた。

「シュアン……?」

 理解不能なシュアンの行動に、イーレオの語調が揺らぐ。だが、彼はすぐに泰然と構え直し、シュアンの思いを受け取った。

「お前の無念、預かった。――鷹刀への信頼、感謝する」

 シュアンは下を向いたまま、安堵の息を吐いた。その表情は誰からも見えない。――彼の心の中にいる、失われた先輩を覗いては……。

 そして、ぼさぼさ頭が先ほどと同じ軌跡をたどって戻ると、シュアンは再びルイフォンと向き合った。

「〈フェレース〉、あとは任せた。――俺は席を外す」

 シュアンらしからぬ、柔らかな角度に口の端を上げ、彼は席を立つ。

「え!?」

「俺は、鷹刀の者じゃない。部外者だ。ミンウェイの『秘密』の話は遠慮するさ」

「ま、待て!」

 翻る背中に、ルイフォンは無意識に口走った。

 シュアンは構わず、一歩、踏み出し――。

「……おい」

 低く、うなるような声を上げる。

 シュアンの上着の肩がずるりと落ち、半ば脱げかけていた。それは、彼が着こなしに無頓着だからではなく、ミンウェイが裾を握りしめていたからであった。

「あ……」

 振り返ったシュアンと目が合い、ミンウェイは慌てて手を離す。

 黙って着崩れを直すシュアンに、イーレオの低音が誘った。

「どうだ、シュアン。乗りかかった船だと思って、この先の話に付き合わないか?」

 その声に同意するように、ミンウェイが頭を下げる。

「――」

 シュアンの目が見開かれた。

 ……わずかな空白のあとに、いつもの皮肉げに細められた三白眼に戻る。

「鷹刀の側がよいというのなら、俺には美女との同席を断る理由はありませんね」

 そんな軽口を叩き、シュアンは元の位置に腰を下ろした。



 そして、ルイフォンは静かに口を開く――。



「ミンウェイの父親ヘイシャオは、妻を生かすために『死者の蘇生』技術を作り上げた。彼が言うには『臓器移植と同じ。新しい肉体に記憶を移すだけ』の技術だ」

 ミンウェイが頷き、かすかな草の香が流れる。

「彼は、『記憶』の保存を嫌がる妻を説得してほしいと、親父に電話してきた。そのとき、『肉体』に関してはこう言った」


『救うことのできない肉体の代わりに、妻の遺伝子をもとに、病の因子を排除した健康な新しい肉体を作る』


「結局、記憶の保存はなされないまま、妻は亡くなった。……けれど、ヘイシャオの口ぶりからすれば、『健康な新しい肉体』は既に出来上がっていたはずなんだ」

 切れ長の目を瞬かせ、ミンウェイが黙ってルイフォンを見つめた。

 その視線を正面から受け、ルイフォンは続ける。

「記憶の年齢まで『急速成長』させるはずだった肉体は、赤ん坊のまま遺されてしまった。……ヘイシャオは、その肉体を――その子を、自然に成長させることで育てた。それが、ミンウェイ。お前だと思う」

 ミンウェイが息を呑む。紅の取れかけた唇がわななく。

「つまり、私は……お母様のクローン……。お母様から病の因子を取り除いた、健康な……クローン。――この体は……本当なら、『お母様』になるはずだった……『肉体もの』」

 ミンウェイは自らを掻きいだき、体を丸める。

「私は、身代わりにされていたのではなくて、……存在そのものが、初めから、『お母様』そのもの……だった。そのために、作られた……。……お父様の態度は……だから……だったの、ね……」

 彼女が顔を隠すようにうつむくと、『母親』とは違う、緩やかに波打つ黒髪が華やかに広がった。


 ヘイシャオは、彼女に名前をつけなかったわけではない。

 彼女を『ミンウェイ』以外の名前で呼ぶことを思いつかなかっただけなのだ……。


「ミンウェイ。これは、あくまでも俺の憶測だ。証拠もなく、事実として捉えるのは早急だと思う。――ただ、こう考えると、すべての辻褄が合う。……という、ことだ」

 ルイフォンは猫背を伸ばし、脆く崩れるミンウェイの姿を脳裏に焼きつける。――それが、この作戦を提案した彼の義務だと思った。

「リュイセンには『憶測』で話をしても、『馬鹿なことをいうな』と突っぱねられるだけだと思う。ミンウェイのために、認めるわけにはいかないからだ」

 下を向いたままのミンウェイが、こくりと頷く。

「それに〈フェレース〉ならば、情報屋として、きちんと証拠を挙げるべきだ。だから俺は、生前のヘイシャオの研究報告書を手に入れて、今の話を『事実』にしてリュイセンに提示する。リュイセンを追い詰めるような真似をすることになるけど、それが俺のやるべきことだ」

 ルイフォンは胸を張る。

 虚勢かもしれないが、この行動は正しいのだと、自分に、皆に示す。

 伸ばした彼の背中で、金の鈴が煌めいた。

「ミンウェイ本人も知っている『事実』など、もはや『秘密』でも、なんでもない。リュイセンが〈ムスカ〉に従う理由は消え失せた。――あいつにそう言って、〈ムスカ〉の支配から……、ミンウェイの『秘密』を独りきりで背負い、苦しんでいる状態から……、解放してやる」

ムスカ〉の脅迫は、狡猾だ。

 ミンウェイが知りたくもない、ミンウェイが知ったら深く傷つくような『秘密』を聞かされたら、リュイセンは、何がなんでもミンウェイから隠し通すことを考える。それどころか、誰にも知られたくないと思うだろう。――その気持ちを利用して、〈ムスカ〉は、リュイセンから『誰かに相談する』という選択肢を奪ったのだ。

 生真面目なリュイセンのこと、更には自分の態度から、ミンウェイに何かを感づかれることをも恐れたはずだ。だから、ミンウェイの前から姿を消す決意をした。――だから、二度と戻れないことを承知で、メイシアをさらうという凶行を実行できたのだ。

 すべてを黙し、一族を、ルイフォンを裏切ることしかできなかった兄貴分は、どんなに辛かったことだろう――。

「ミンウェイ、すまない。やらせてくれ。――お前の『秘密』をあばく行為を許してほしい。俺は、リュイセンを救いたい」

 ルイフォンはミンウェイに頭を下げる。うつむいているミンウェイには見えないかもしれないが、そうせずにはいられなかった。

「……っ、う、ううん……。ルイフォン……、私のほうから、お願いしたことよ……! 私は、リュイセンを取り戻したいんだから!」

 ミンウェイは小刻みに肩を揺らしながら、けれど、はっきりと答えた。

 儚くも強い、柔らかな草の香りが漂う。

 不意にシュアンが立ち上がり、上着を脱いでミンウェイの頭からかぶせた。彼女は驚いたようにびくりと体を震わせたが、弱い自分を隠してくれる上着それを振り払うことはしなかった。

「イーレオさん、すみません。そろそろ失礼します」

「シュアン……? もう、帰るのか? ……いや、お前は明日も仕事か」

 くぐもった嗚咽の漏れるシュアンの上着を見やりながら、イーレオは低く「ご苦労だった」と付け加える。

 シュアンは三白眼を揺らし、それから自分のぼさぼさ頭を掻き上げた。

「…………、俺はちょいと、『座りたい椅子』があるんでね」

 それは少しだけ反応の遅い返答だったが、うまいことを言ったとばかりにシュアンは満足げに口の端を上げた。そして彼は軽やかに一礼し、きびすを返した。

 ルイフォンは、シュアンの背中を見送りながら、『座りたい椅子ポスト』などと口にするとは、彼にも昇進への興味があったのかと、意外に思いつつ首をかしげた。



 その夜。

 庭の片隅にある温室の明かりは、一晩中、消えることがなかった。

 硝子の壁が、夜闇に白く浮かび上がる。その中に溶け込むように、密やかな人影がふたつ、ガーデンチェアーに座って寄り添っていた。



 同時刻。菖蒲の館にて――。

 リュイセンが部屋に戻ると、窓際に小さな侵入者の姿があった。

 ぴょんぴょんと元気に跳ねまくった癖っ毛。ふわふわとした毛玉のような頭が、こくりこくりと船を漕いでいる。

「ファンルゥ……」

 また来ていたのかと、彼は目をとがらせる。

 脱走が見つかったら、どんな目に遭うのか。小さな彼女はちっとも分かっていないのだ。

「おい、ファンルゥ。起きろ」

 もう来るな、と言った。

『リュイセン、〈ムスカ〉のおじさんの手下なんか、やめよう! メイシアをさらってくるなんて、おかしいもん!』

 そう詰め寄ってきた彼女を厳しく叱りつけた。

「ふにゃあ……」

 ファンルゥが目をこする。

 寝ぼけまなこでリュイセンを見つけると、彼女は実に嬉しそうに、にっこりと笑った。

「リュイセン……、メイシアがね、皆でこの庭園を出よう、って言っているの……。ファンルゥやパパも一緒。勿論、リュイセンもだよぅ……」

 寝言のように呟かれた言葉は、幸せな夢を見ているかのようだった……。

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