8.姫君からの使者-1
庭園の夜が更けてきた。
〈
いろいろとあった一日だったが、ひとまず、藤咲メイシアは用意しておいた展望室でおとなしくしているらしい。彼女の夕食を下げてきたリュイセンから、そう報告を受けた。
そろそろ寝る時間だと、彼は地下の研究室から、自室と定めた王の居室へと移動する。
本心で言えば、硝子ケースの中の『ミンウェイ』と、片時も離れたくはない。しかし、いまだ完全には慣れぬ、この老いを迎え始めた体をしっかりと休ませるためには、上質な睡眠が必要だった。
廊下の窓から外を見やれば、外灯のない草の地上は深い闇に沈み、紺碧の天空と、そこに撒き散らされた星々の輝きに主役の座を譲っている。
庭園の
けれど、この星空は、ミンウェイにこそふさわしいと、〈
何故なら、彼女が喜んだ、あの海辺の夜を彷彿させる。今は彼女の墓のある、あの丘からの風景だ。暗い草原を渡る風の音は、まるで潮騒……。
『ミンウェイ』にも、見せてやろうか。
ふと、そんな考えが浮かんだが、〈
そして『自分』もまた、彼女の隣に置かれていた
――独りで生きるしかないではないか……。
〈
やがて、天空神フェイレンの彫刻が施された、豪奢な王の部屋の扉が見えてきた。
そこに、待ち構えていたかのようにたたずむ、斑目タオロンの姿があった。
「休暇ですか?」
常から愛想のない男であったが、今宵のタオロンは、いつもにも増しての仏頂面であった。
太い眉がぐっと内側に寄るのを隠しもしない。それでいて、健康的な浅黒い肌の大男のそこかしこから、脅えのようなものが感じられる。内に不満を抱えつつも、〈
「休暇を取って、どうするのですか?」
タオロンが、自分から現れるのは珍しい。これはひとつ、腰を据えて話を聞いてやらねばならぬと、立ち話ではなく部屋に入れた。その判断は正しかったようで、向き合って座った瞬間に飛び出した言葉は、随分と想定外のものであった。
「ファンルゥを外に――遊びに連れて行ってやりたい。あいつはもう、二ヶ月以上も、あの部屋に閉じ込められたままだ」
口調も目線も、明らかに〈
「御冗談を。今、あなた方、父娘を外に出したら、藤咲メイシアを取り戻そうとしている、鷹刀ルイフォンに加担するでしょう?」
〈
「ふざけるな!」
鈍い音が響く。厚みのある、贅沢な一枚板でなければ、天板が真っ二つに割れていたことだろう。
「何故、そんなに怒ってらっしゃるのですか?」
どうにもこの若造は、猪突猛進が過ぎる。だからこそ、扱いやすいといえるのだが。
そんなことを思いながら、〈
「俺は……、俺は……! お前の命令で……鷹刀リュイセンを捕らえた!」
「ええ、そうでしたね」
「お前の捕虜になったせいで、リュイセンの奴は、頭がおかしくなっちまった。大事な弟分の女を、藤咲メイシアをさらってきた。――やばい薬を使ったんだろ……?」
タオロンは、憎悪とも恐怖ともつかぬ顔で〈
〈
「それが、あなたに、なんの関係があるのですか?」
「なっ……!」
変わらずの涼しい顔の〈
「あいつらは、敵のはずの俺に手を差し伸べてくれた! ファンルゥの将来まで、考えてくれていた……! なのに俺は、あいつらの好意を一番、酷いやり方で踏みにじっちまったんだよ!」
タオロンは、血の気が失せるほどに強く握りしめた拳をテーブルに落とす。
「俺のしたことは許されることじゃねぇ! ルイフォンにしてみりゃ、俺は、兄貴分を薬漬けにして、女を奪った憎い敵でしかねぇんだよ! ――それが、『鷹刀ルイフォンに加担』だと? ふざけるな! どの
腹の奥に
ぎりりと歯を食いしばるようにして、タオロンは怨恨の視線を〈
「――仕方ねぇよ……。俺は先に、お前の手を取っちまったんだからよぉ……」
全身を震わせ、血の涙を流す。
「運がなかっただけだ、諦めるしかねぇ……。今までも、そうしてきたし、これからも、そうするだけだ。いつものことだ。……俺の娘に生まれてきちまったばっかりに、ファンルゥは……。……糞っ!」
タオロンは、再びテーブルに拳を打ち付けると、大きな体を丸めた。
「……せっかく、ファンルゥが表の世界に行けるチャンスだったのによぉ……。――畜生……!」
ぶつぶつと悲嘆に暮れる
――ともかく、タオロンの思考は読み解けた。
要するに、自分の娘に罪悪感を
日頃から息苦しい生活を強いている上に、娘の知らないところで、おそらく彼女にとって最高の好機をふいにした。せめてもの償いとして、『外に遊びに連れて行ってやりたい』というわけだろう。
心情は分かったが、それを叶えてやるほど〈
「話は終わりですか? 私はそろそろ眠りたいのですが」
タオロンの弁は、ただの愚痴だ。
〈
すると、タオロンは慌てたように「待て!」と食い下がった。
「俺がリュイセンを捕まえたから、お前は、前々からの望み通りに、藤咲メイシアを手に入れられたんだ。だったら、俺の手柄だ! 少しくらいは、俺に褒美があってもいいだろう!? お前ばかりが、いい思いをするのはおかしいじゃねぇか!」
「……ふむ」
一理ある。
従順なこの男が、珍しく自分から何かを言い出したのは、そんなところにも不満があったからなのかと、〈
〈
「褒美ですか。しかし、あなたは金品を欲しがるような方ではありませんしね」
だからこそ休暇なのかと理解したが、それは却下だ。
だがタオロンは、分かっているじゃねぇか、といわんばかりに大きく頷き、何を勘違いしたのか、心なしか嬉しそうな顔になった。
「ああ、俺は、ものは要らねぇ。俺の望みは、ファンルゥを喜ばせることだ」
「ならば、あなたの娘に、何か贈り物をしましょう。何がいいでしょうかね?」
刹那、弾かれたようにタオロンが身を乗り出し、唾を飛ばした。
「お前が贈るんじゃねぇ!」
タオロンの野太い声に、容赦なく鼓膜を打ち付けられ、〈
「ファンルゥは、お前から貰っても嬉しくなんかねぇんだよ!」
鼻息荒く、タオロンが言い放つ。
が、次の瞬間、彼は、ぱっと閃いたように顔を明るませた。
「お前はどうせ、俺とファンルゥがふたりで出かけるのは駄目だと言うんだろう? なら、俺に外出許可をくれ。あいつに何か買ってきてやる。いつも、おとなしくしている、ご褒美だ。ペンダントとか、ブローチとか、あいつに似合う、綺麗なやつを探してきてやる」
「……」
嬉しそうに声を弾ませるタオロンに、〈
そして、次第に笑いがこみ上げてくる。
タオロンの口から、ペンダントだのブローチだのといった、きらきらとした言葉が出てきたのは、間違いなく、娘に渡した腕輪に対抗してのことだ。
あの子供は、送り主の〈
「いいでしょう」
無骨な大男が、どんな顔をして娘への贈り物を選ぶのかを想像すると、そのくらいは許してやってもよいと思えてきた。
タオロンは従順な駒であるからよいのだ。不満を溜め込ませるのは得策ではない。ガス抜きは必要だ。
「いつも通り、あなたに見張りをつけますが、よいですね?」
「ああ、構わねぇ」
「それでは、明後日の午後でどうでしょう」
「上出来だ」
こうして交渉は成立し、希望していた休暇を得られなかったにも関わらず、タオロンは上機嫌で部屋を出ていったのであった。
翌日。
メイシアが展望塔で迎える、初めての夜明け――。
朝陽を美しいと感じた。
昨晩はよく眠れなかったものの、明るい光を浴びると不思議と力がみなぎってきた。不安な囚われの身であるが、くよくよしていたら何も始まらない。前を向こう。――そう思えてくる。
何より、ファンルゥという力強い味方ができた。彼女に預けた手紙がどうなったかは、まだ分からない。だから、メイシアは今、自分にできることから進めていく……。
「ルイフォン……、私、頑張るから……」
愛しい名前に誓いを立てる。
気になるのは、リュイセンのことだ。彼について、一晩、落ち着いて考えた。
そして、ふっと気づいた。
リュイセンが大切な一族を、ルイフォンを裏切る理由なんて、ひとつしかない。
――ミンウェイのためだ。
遥か遠く離れた場所にいるルイフォンたちと同じように、メイシアもまた、リュイセンが〈
そして、彼女がルイフォンたちと違うのは、すぐそこに当人たち――リュイセンと〈
昨日のリュイセンの様子だと、彼は固く口を閉ざしたまま、何も語ってくれないだろう。
だから、〈
メイシアは気持ちを引き締め、心の中で密やかなる反撃の狼煙を上げた。
朝食が済むと、メイシアは世話係となったリュイセンに連れられ、〈
午後は、展望塔で休んでいいらしい。〈
リュイセンは終始無言のまま、扉のところで彼女と別れた。うなだれた大きな背中は、怪我をしているわけでもないのに痛々しく見えた。
それから数時間。
メイシアはただ黙って、まどろみに身を委ねる『ライシェン』を見つめ続ける……。
そろそろ昼どきというあたりで〈
「『ライシェン』を見ても、何も感じませんか?」
〈
「切なくて、心がざわつきます。そして、苦しくて逃げたいのに、ずっとそばに居たい――そう思います」
勿論、口から出任せだ。実際には、何も感じていない。
だが〈
「そうですか。では、今日はこのくらいにしましょう」
機嫌よく言った彼に、メイシアはすかさず切り出す。
「昨日、あなたがおっしゃった通りに、リュイセンに直接、何故あなたに従うのかを尋ねました」
「ほう。――それで?」
『ライシェン』とは関係ない話をするな、と怒鳴られるのではないかと、内心びくびくしていたのだが、意外なことに〈
リュイセンは決して口を割らないという自信があるのだろう。そして、そのことに絶望するメイシアを期待しているらしい。
彼女は、ごくりと唾を呑み込んだ。
ここで明らかな嘘を言ってはならない。ごく自然に――多くの事実の中に、ほんのひと筆の『鎌かけ』を混ぜた絵を描くのだ。
「リュイセンは、私と目を合わせることすらしてくれませんでした。何を話しかけても、ぼそぼそと『すまない』と言うだけで……」
「ほほう」
〈
「――でも。『〈
その瞬間、〈
望ましくないことだが、リュイセンなら、そのくらいの失言はしかねない。――そう思っているのが読み取れた。
「リュイセンは、彼の意思であなたに従っているわけではなく、ミンウェイさんのために裏切り行為を働いたんですね」
「そうですよ」
〈
――推測が当たった……!
メイシアの心臓が激しく高鳴る。
このまま、もう少し詳しく何かを聞き出せないか――〈
「随分と嬉しそうですね」
「えっ!? あっ……」
揶揄するような〈
「素直に喜んで構いませんよ? あなたにとっては嬉しいことでしょうから。よかったですね。リュイセンが、心から私に心服しているわけではなくて。すべては〈ベラドンナ〉のため――ああ、あなたには、ミンウェイ、と呼んだほうが分かりやすいでしょうか?」
どことなく小馬鹿にした口調で、呼び名まで訂正し、〈
「別に隠すほどのことでもありませんから、教えて差し上げますよ。――どうして、リュイセンが私に従っているのかを」
「――!?」
唐突な〈
「リュイセンと私が、〈ベラドンナ〉の『秘密』を共有する同志となったからですよ」
「ミンウェイさんの『秘密』を……共有……?」
答えを与えられたはずなのに、メイシアの頭はかえって混乱した。その顔は〈
「私には『鷹刀ヘイシャオ』の記憶があります。〈ベラドンナ〉を育てた人物の記憶です。――つまり、〈ベラドンナ〉本人以上に、彼女のことを知っているのですよ」
「……え?」
「彼女の知らない――彼女が『知りたくもない』ようなことをも――ね」
「あなたは、いったい何を……?」
メイシアの問いに、しかし、当然のことながら〈
「〈ベラドンナ〉を愛するリュイセンは、あの『秘密』を知る私には、決して逆らえないのですよ」
そして、地下研究室は〈
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