5.創痍からの策動-1

 初夏の風を頬に感じた。

 爽やかな気配に撫でられ、ルイフォンは、自分の意識がふっと浮上していくのを感じた。

 どうやら、また、うとうとしていたらしい。薄目を開けると、真上に、ふわりと揺れるカーテンが見える。窓際に置かれたベッドからの、いつもの風景だ。

 ゆらりゆらりと、白いレース地が風に乗る。その穏やかな動きを見ていると、朦朧とした心地よさが襲ってきて、ルイフォンのまぶたは再び重くなる。

 まどろみに身を委ねたい。そんな誘惑が、彼を眠りの世界へといざなう……。

「――じゃねぇよ!」

 ルイフォンは、鋭いテノールで自分に突っ込んだ。

 のんびりと寝ている場合ではない。メイシアだ。メイシアがさらわれた。一刻も早く、取り戻すのだ。

 猫の目をかっと見開き、彼は勢いよく毛布を跳ね上げる。

「――っ!」

 飛び起きはしたものの、今度は腹を押さえてうずくまる羽目になった。

 リュイセンに斬られた傷が痛む。全身が熱を持っているのを感じる。すぐに眠くなるのも、体が休息を必要としているためだ。――そんなことは分かっている。

 枕元に置いていた携帯端末を手に取り、彼は唇を噛んだ。

 メイシアがさらわれてから、二日後の日付けだった。〈ベロ〉との対面のあと、熱を出して寝込んだ。それからの記憶は、ほとんどない。

「糞……っ!」

 癖の強い前髪をぐしゃぐしゃと掻き上げ、彼は布団に拳を打ち付ける。

〈ベロ〉が言うには、メイシアがセレイエに乗っ取られる心配はないという。しかし、〈ムスカ〉が彼女にどんな危害を加えるのかと思うと、気が狂いそうだった。

「メイシア……!」

 落ち着くのだ。――ルイフォンは、自分に言い聞かせる。

 焦ったところで、何も解決しない。それよりも考えるのだ。この窮地を脱するための方策を――!

 そうしてしばらく、おのれの中の感情と理性とを戦わせているうちに、ルイフォンはふと、サイドテーブルの上の書き置きに気づいた。『診察をしたいから、目が覚めたら連絡して』との、ミンウェイからの伝言だった。

 ルイフォンは溜め息をひとつ落とし、携帯端末に指を滑らせた。



「まだ熱があるわね。傷のほうは順調だけど、当分は安静よ」

 白衣姿のミンウェイは、てきぱきと包帯を取り替えたあと、柳眉をひそめてそう言った。

『安静』の部分が、心なしか強調されていたのは、きっと気のせいではないだろう。彼女が口を酸っぱくして、おとなしくしているように言っていたのに、人目を忍んで〈ベロ〉のところに行ったことを咎めているのだ。

 あれは、エルファンに無理やり連れて行かれただけだ。

 ルイフォンは顔をしかめたが、口答えはしなかった。結果として、〈ベロ〉から有益な情報を得られたのだから、エルファンに対して文句はないし、ミンウェイの小言も甘んじて受け入れる。

 もとより、ミンウェイが療養生活を言い渡すことは分かりきっていた。だから彼は、彼女が来るまでの間ずっと、身構えて待っていた。

「……ミンウェイが、医者として必要なことを言っているのは分かる。でも、俺はメイシアを助けに行かないといけない。だから、寝ているわけにはいかない」

 声を荒らげるわけではなく、静かな声で告げた。

 これは、ただの事実の羅列だ。

 ルイフォンがすべきことは、安静ではなく、行動を起こすことだという――。

 端正で無機質な〈フェレース〉の顔で、彼はミンウェイと向き合った。

「ミンウェイには、迷惑をかけて悪いと思っている。心配してくれて、感謝もしている。ありがとう、そして、すまない。……あ、いや、……っと、……申し訳ございません」

 慣れない言葉遣いに、尻がむずがゆくなる。

「ルイフォン……?」

 ミンウェイにしてみれば、寝耳に水だろう。ぎこちなくも、かしこまった面持ちの彼を、彼女はまじまじと見つめ返す。

 その視線をまっすぐに受け止め、ルイフォンは意を決して切り出した。

「ミンウェイ……、お願いがあるんだ」

「え……?」

「まだ、メイシアを助ける算段は立っていない。けど、すぐに考える。――そしたら、解熱剤でも鎮痛薬でも、なんでも使って、俺の体を動けるようにしてほしい。頼む」

 ミンウェイの切れ長の瞳が、弾かれたようにまたたいた。

 しかし、ルイフォンは構わずに、畳み掛けるように言う。

「今後はミンウェイの目を盗んで、こそこそ動き回ったりしない。約束する。だから、お願いします。――俺は、一刻も早く、メイシアを取り戻したいんだ……!」

 ルイフォンは頭を下げた。寝ている間も編まれたままだった髪が背中を転がり、毛先を飾る金の鈴が彼の脇からちょこんと顔を覗かせる。まるで、持ち主と一緒に頼み込むかのようだった。

「ちょっ、ちょっと待って……」

 頭上に感じる、ミンウェイの戸惑いの息遣い。これから、『何を馬鹿なことを言っているのよ!?』と、ぴしゃりとくるのだと、ルイフォンは首をすくめる。

 怒られるのは覚悟の上だ。

 それでも、どうしても譲れない。

「無茶なことを……、勝手なことを言っているのは分かっている。でも、メイシアを取り戻すために――! ……頼む、ミンウェイ!」

 メイシアのことを考えると、心が騒ぐ。暴走しそうになる気持ちを必死に抑え、ルイフォンは訴える。

 きつく奥歯を噛み締め、じっとしていると、やがて音もなく草の香が近づいてきた。

 ミンウェイの気配だ。――と思った、瞬間。

「痛ぇっ!」

 うつむいた彼の眉間に、痛烈な一撃が見舞われた。ミンウェイの人差し指が、彼の額を弾いたのだ。

「お腹を圧迫して――こんな、体に負担がかかる格好をしちゃ駄目でしょ! 傷口に悪いわ」

 彼女の指の威力に、ルイフォンは、のけ反るように強制的に上を向かされた。

 額がひりひりする。

 安静は嫌だと突っぱね、更に動けるようにしてくれだなんて、虫のいいことを言っているのは分かっている。しかし、いきなり手を出してくるのは酷くないだろうか。

 鼻に皺を寄せてミンウェイを見やり……、ルイフォンは狼狽した。彼女の眼差しは柔らかで、優しく彼を包み込むかのようだった。

「いくら鎮痛剤を使っても、無茶なことばかりしていたら、途中で動けなくなっちゃうわよ」

 綺麗に紅の引かれた唇をきゅっと上げ、彼女は、いたずらめいた笑みを浮かべる。

「だから、あなた自身も、ちゃんと治す努力をするのよ。その上でなら、私にできる限りの協力をするわ」

「……えっ!?」

「私のほうこそ、ルイフォンに言おうと思っていたの。……さすがに、もう少し回復してからのつもりだったけどね」

 困惑するルイフォンの目の前で、ミンウェイの雰囲気が、にわかに変わっていく。

 彼女は、診察の邪魔にならないよう、背中でまとめていた髪を解いた。波打つ黒髪が豪奢に広がり、爽やかな草の香が流れてくる。

「これを言ったら、医者としては失格。でも私は、鷹刀の人間だから……」

 ミンウェイは、ぱっと白衣を脱ぎ捨てた。

 中から現れたのは、彼女を象徴する、鮮やかな緋色の衣服。彼女が誇らしげな顔で胸を張ると、あでやかな華やぎが広がっていく。

「多少の無茶など、構わない。それより今は、動き出すべきとき――だわ」

「ミンウェイ……?」

 予想外の彼女の言動に、ルイフォンは絶句する。あまりの驚きに、喜ぶよりも、ただただ彼女を凝視した。

「ルイフォン、現状は間違っているわ」

 切れ長の瞳に挑むような光を載せ、ミンウェイは静かに告げる。

「メイシアは、あなたのそばに居るべきだし、リュイセンは、あなたを裏切るべきじゃない」

「――っ!」

 刹那、ルイフォンのまなじりが吊り上がった。

 浮き立ち始めていた心が一転して、深い地の底に落とされる。

「――リュイセン、あいつは……!」

 押し殺した声を漏らし、ぐっと拳を握りしめた。自然と腹にも力が入り、激痛が走る。

 痛みの表情は、とっさに隠した。――そのつもりだったが、当然の如くミンウェイには見抜かれており、絶世の美貌による無言の迫力よって、ルイフォンはベッドに沈められる。

 横になった彼は、彼女にどう言ったらよいのか迷いながら、ぽつりと呟いた。

「……あいつは――リュイセンは、俺とはたもとを分かったんだ」

 苦しげなテノールが虚空に溶けた。

 自分で発した言葉が、自分に重くのしかかった。

「ルイフォン、聞いて」

 ミンウェイは、彼を追いかけるようにかがみ込み、ベッドの上の彼と目線を合わせる。

「緋扇さんが教えてくれたの。リュイセンは、私に関する『何か』を材料に、〈ムスカ〉に脅迫されているだけだろう、って」

「――!」

「リュイセンは、〈ムスカ〉に脅されているだけ。やむを得ず、メイシアをさらっただけ。――あなたを裏切ってなんかいないの」

 ミンウェイの言葉を聞いた瞬間、ルイフォンの全身の血が湧いた。

「ふざけんな!」

 片手を支えに体を起こし、ぐいと顎を上げた。そのまま、ミンウェイに喰らいつかんばかりに、牙をむく。

「リュイセンは、ミンウェイ絡みで〈ムスカ〉に脅された。――そんなことくらい、『俺も気づいていた』さ! だって、あいつが俺を裏切るなんて、それしかないだろ?」

「ルイフォン……、知っていた……?」

 うろたえるミンウェイを、ルイフォンは一瞥した。彼女には黙っていようと思っていたのに、シュアンのせいで台無しだった。ハオリュウの代理で屋敷に来ることは聞いていたが、余計なことをしてくれたものだ。

「ああ。エルファンが、それとなく教えてくれた」

 この二日間、夢うつつをさまよっているうちに、エルファンの真意に気づいた。

 リュイセンは〈七つの大罪〉の怪しい技術で操られていたわけではない。意識は、はっきりしていたと、エルファンはまず初めに告げた。

 その言葉の裏には『それにも関わらず、あの生真面目なリュイセンが彼らしくないことをしたのなら、それは彼が一番大切にしている、ミンウェイのためでしかあり得ない』――そういう意味が隠されていた。

 リュイセンの苦渋の思いを理解したエルファンは、リュイセンの選択を認めたのだ。だから、ルイフォンに対して『たもとを分かった』という聞こえのよい言葉で押し切った。

 そして、ルイフォンの中でくすぶっていた『メイシアへの焦燥』と『リュイセンへの憤怒』という、ふたつの感情を昇華させ、『メイシアの救出』に向かって邁進すべく、ルイフォンを〈ベロ〉のもとへと連れて行ったのだ。

「けどな! リュイセンは、俺に相談すべきだった! メイシアや、ミンウェイには黙っていてもいい。でも、俺だけには言うべきだった! 違うか!?」

 ミンウェイが、びくりと肩を上げるが、ルイフォンは構わず続ける。

「リュイセンが、どんなネタで脅されたのかは分からない。でも、俺に相談することを選ばずに、俺のメイシアを奪った! ならば、あいつは俺の敵だ!」

 癖のある前髪の隙間から、鋭い猫の目が光る。逆毛を立て、今にも飛びかかりそうな形相で、ミンウェイを睨みつける。

 ミンウェイは短く息を呑み、ひるんだように、わずかに身を引いた。

 だが、それは一瞬のことだった。すぐに鮮やかな緋色を翻し、ルイフォンにずいと迫る。

「ルイフォン! あなたが、そうやってリュイセンを憎んでいるのも、間違っているわ! こんな事態、誰も望んでいないはずよ!」

「間違ってなんかねぇよ!」

「いいえ! 間違いよ!」

 ルイフォンの反論を、ミンウェイが高い声をかぶせて打ち消す。泥沼の水掛け論になりつつあるのが分かっていても、どちらも引くことはできない。

「メイシアも、リュイセンも取り戻す。それから、お父様と――〈ムスカ〉と決着をつける。これが、私たちが今すべきことではないの?」

「そんな、おめでたい綺麗ごとなんか、あり得ねぇよ!」

 ルイフォンがそう言い返したときだった。

 不意に、がちゃりと。

 ドアノブをひねる音が響いた。

「――!?」

 常に鍵のかかっていない、ルイフォンの自室。いつでも、誰でも、拒むことのない部屋。――しかし、廊下まで聞こえているであろう口論のさなか、わざわざ乗り込んでくる物好きとは、いったい……。

 ルイフォンは勿論、普段は気配に敏感なはずのミンウェイさえも、驚きの顔で音の発生源に注目する。彼らの視線の先で、その扉は、ためらいの欠片も感じぬ滑らかさで、すっと開いた。

 最初にひょこりと覗いたのは、手入れを知らぬ、ぼさぼさ頭だった。

「おいおい。死にそうな怪我人だと聞いていたんだが、随分と元気そうじゃねぇか」

 見るからに凶悪な三白眼が、にやりと歪む。その姿を見た瞬間、ミンウェイが叫んだ。

「緋扇さん!?」

「ミンウェイ、そいつのどこが重傷なんだ? あんた、藪医者ヤブなのか?」

 へらへらと笑いながら、警察隊の緋扇シュアンが部屋に入ってきた。

 ルイフォンは、むっと眉根を寄せた。

 確かにシュアンなら、話の途中に断りもなく、それどころか、さも当然と平気で割り込むだろう。何故なら彼は、ミンウェイの加勢に来たのだろうから。

 見た目に反して、シュアンが案外いい奴だということは知っている。

 だが、はっきりいって、今は単なる邪魔者。

 ――否、迷惑な妨害者だ!

「よう、ルイフォン。ハオリュウの代わりに見舞いに来てやったのに、なかなか手厚い歓迎だな」

 ルイフォンの渋面を楽しげに皮肉りながら、シュアンはテーブルから椅子を引きずり、ベッドサイドにやってきた。

 ルイフォンとしては、すぐにも追い出したい。しかし、何かと世話になっていることもあり、とりあえず『帰れ』のひとことだけは、かろうじて呑み込んだ。

「まぁ、有り体に言えば、俺は立ち聞きしていたわけだけどさ」

「……」

 堂々とした態度に、ルイフォンは、もはや何も言う気になれなかった。故に、片腕で起こしていた体を倒し、要望通りの怪我人らしさを演出する。――無言の『帰れ』だ。

 だがそれは、シュアンを見くびる行為だったと、すぐに気づくことになる。

 沈黙のルイフォンに、シュアンは調子に乗ったように続けた。

「ルイフォン。あんた、さっき、『リュイセンが、どんなネタで脅されたのかは分からない』って言っていたよな? それって、『〈フェレース〉』としてどうなのさ? 凄腕の情報屋だと聞いているんだけどよ。さすがの〈フェレース〉も分からねぇ、ってか?」

 妙に甲高い、挑発的な声が耳朶を打った。

 情報屋〈フェレース〉をなじられ、ルイフォンは反射的にベッドを飛び起きる。

「てめぇっ」

「メイシア嬢を奪われて、あんたが気が立っているのは分かるさ。だがそれで、視野が狭くなったら阿呆だぜ?」

 反応を見せたルイフォンを、シュアンがせせら笑う。

 こちらを見つめる眼光が、有無を言わせぬ凄みをまとった。口角を上げた悪相に、ルイフォンは不覚にも一瞬、たじろぐ。

「脅されたネタさえあばいちまえば、リュイセンは味方に戻る。――そしたら奴は、『難攻不落の敵地に、先だって潜入成功している、頼もしい仲間』になるんだぜ?」

 血色の悪い凶相が、からかうように、にたりと緩んだ。

 軽口を叩いているようでいて、しかし、シュアンの抜け目のない三白眼は笑ってなどいなかった。

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