4.囚われの姫君-1
夕食の用意ができたと、ルイフォンを迎えに行くところだった。
リュイセンが無事に戻ってきたお祝いだと、料理長が盛大に腕をふるったご馳走の数々は本当に美味しそうで、メイシアは晩餐がとても楽しみだった。
不安は山ほどある。けれど、皆がいれば大丈夫。――そう思いながら、ルイフォンの部屋のある階まで登ってきた。
すると、長い廊下の先に、すらりとした人影が見えた。
「リュイセン?」
疑問の形で呼んだのは、自信がなかったからだ。
初夏とはいえ、夜。しかも、空は雨雲に覆われていて暗かった。ぼんやりと電灯に照らされた顔は、確かにリュイセンのものに見えるのだが、彼が持っているはずの輝きは消え失せており、存在感が薄い。まるで幽鬼だ。
彼は、ゆっくりとメイシアに近づいてきた。
窓の外で、紫の雷光が閃く。
黄金比の美貌が、妖しく浮かび上がる。
「え?」
そう呟いたときには、首筋に手刀を落とされていた。メイシアの体は崩れ落ち、彼に抱きとめられる。
腕に、ちくりとした痛みを感じた。
そして、彼女は完全に意識を失った。
人の気配を感じ、メイシアは身をよじらせた。
「やっと、目が覚めましたか」
閉じた
鷹刀一族の屋敷でよく聞く声質だが、彼女の知っている、どの声とも雰囲気が違う。響きの中に、神経質な音が混ざっている。
まどろみから、覚醒へと。
彼女は五感を取り戻す。
「――!」
目の前に、次期総帥エルファンとそっくりな顔があった。
――〈
メイシアは即座に理解した。
――ここは、〈
見た目は、白く清潔でありながら、黒い陰謀と禁忌にまみれた密室。
異母弟ハオリュウは、摂政カイウォルと共にこの部屋を訪れ、次代の王『ライシェン』を見た。そして、王家に〈神の御子〉が生まれぬ場合には、〈七つの大罪〉の〈悪魔〉が過去の王のクローンを作るのだと知らされた……。
白衣姿の〈
「!?」
その瞬間、メイシアは、自分の手首に硬い感触が食い込むのを感じ、青ざめた。
両手が枷で繋がれていた。
右手と左手が鎖で結ばれ、手と手を離すことができない。
今までに経験したことのない事態に、彼女の恐怖が一気に膨れ上がった。歯の根が合わない口は悲鳴すらも上げられず、ただ脅えきった瞳を、この仕打ちをしたであろう〈
「安心してください。別に私は、あなたに危害を加えるつもりはありませんよ」
〈
「その枷は、単に、あなたの置かれた立場を分かりやすく伝えるための措置です。あなたが囚われていることに納得したら、すぐに外して差し上げますよ」
囚われている――。
その言葉が、メイシアの心臓を握り潰す。
自分は、敵地であるこの研究室で、独りきり。皆はいない。――ルイフォンがいない。
自分は、どうなるのか分からない。きっと、皆が心配している。――ルイフォンが心配している……。
「……」
ルイフォン、と、心の中で叫ぶと、涙が浮かんできた。
そんなメイシアの様子を〈
両手の間で、鎖がじゃらりと鳴った。
ざらついた重い音と、硬く冷たい感触。それが、彼女に突きつけられた現実だ。
恐ろしくて、不安で、惨めで、苦しい。けれど同時に、腹の底から怒りが湧いてきた。
――屈しない。
必ず、ルイフォンが助けに来てくれる。だから、それまで独りで耐え抜く。
メイシアの中で、覚悟が生まれた。
まずは、ベッドに転がされている状況から、脱するのだ。
「ああ、いきなり起き上がらないほうがいいですよ。まだ、麻酔の余韻が残っているでしょうからね」
〈
「なかなか目を覚まさないので心配しました。もう、翌日の昼ですよ。途中であなたが暴れたら厄介かと思って、リュイセンに薬を使わせたのですが、やりすぎだったかと後悔し始めたところでした」
「!」
リュイセン――!
決定的な言葉が、メイシアの心を刺した。
何かの間違いであって欲しいと、願っていた。
しかし、やはり――。
「リュイセンが……私を、あなたのもとに連れてきたんですね」
メイシアの声はかすれていた。けれど、凛と澄んだ黒曜石の瞳は、まっすぐに〈
取り乱すことなく問うたメイシアに、〈
「飲み込みが早くて助かります」
「……リュイセンに、何をしたんですか!」
彼が、ルイフォンやメイシアを裏切るとは思えない。
メイシアの拉致は、もはや、どうしようもない事実であるのだが、本意ではなかったはずだ。きっと何か事情がある。
睨みつけてくる彼女を、〈
「リュイセンは、彼の意思で、私に協力してくれたんですよ」
「嘘です!」
鎖を掛けられ、憐れに横たわり、長い黒絹の髪は乱れ放題……。
今のメイシアは、力なき者の象徴のような姿であった。それにも関わらず、高く澄んだ声は、勢いよく〈
「随分と、はっきりおっしゃいますね」
半ば呆れたような、感心したような調子で〈
「ですが、事実なのですよ。……ああ、では、こうしましょう。あとで、リュイセンに会わせて差し上げます。直接、本人に訊くとよいでしょう」
我ながら名案だとばかりに、美麗な顔が柔らかに緩んだ。
魅惑の微笑の中に、狡猾さが見え隠れする。少しでも気を抜くと、醜く歪んだ事態に呑み込まれてしまいそうだ。
メイシアは必死に自分を奮い立たせる。
今の言葉は、現状を把握するための、重要なヒントだ。
『あとで』と言った以上、メイシアがこの場で殺されることはないだろう。おそらく、どこかに監禁されるのだ。
彼女を囚えた目的を果たすまでは、身の安全は保証されるとみてよさそうだ。長期戦になるだろうが、その分、〈
そして、〈
これは重大な情報だ。
もしも、リュイセンが薬などで自我を奪われているのであれば、〈
しかも、メイシアとリュイセンが力を合わせたところで、現状を覆すことはできない。少なくとも、〈
この自信の根拠は、なんであろう?
そもそも、どうしてリュイセンは、〈
「何か、問題でも?」
メイシアの思考を遮るように、薄ら笑いの声が割り込んだ。裏を読もうとしても無駄ですよ、と言っているように聞こえた。
確かに、今ここで考えても答えは出まい。〈
「いえ。あなたのおっしゃる通り、リュイセンに訊くことにします」
「ええ、それがよいでしょう。……では、そろそろ、私の話を始めてもよろしいですか?」
刹那、メイシアの背筋に緊張が走った。
〈
「すみません。体勢を変えさせてください」
メイシアは大きく息を吐き、体の芯に力を入れた。
いつまでも、こんな情けない格好では心が弱くなってしまう。せめて、きちんと体を起こすのだ。
彼女は、枷で繋がれた不自由な両手を支えにしながら、ゆっくりと上体を持ち上げた。ベッドから足を下ろし、膝を
「私は、鷹刀セレイエを見つけ出したいのです」
閉ざされた地下に、秘密を打ち明けるかのような〈
「セレイエさん……ですか」
「ええ。彼女は、自分の〈影〉であるホンシュアに命じて、私を作り、騙し、『駒』として利用しました」
〈
それは、ここにはいないセレイエに向けられたものであったが、余波を浴びたメイシアは身を震わせる。
「鷹刀セレイエは、『デヴァイン・シンフォニア
そこまで言って、〈
獲物を狙う捕食者の、ぞくりとする視線だった。吸い付いてくるような瞳は、まるで
メイシアは奥歯を噛み締め、ひるみそうになる心をぐっと抑える。
ふたりの間で、無音が広がった。
実際には、研究室内にある機械類が鈍く振動していたのだが、それはもはや音として認識されない。
握りしめた手が、しっとりと汗ばむ。
――〈
メイシアもまた、〈
鷹刀一族そのものの、美麗な顔貌。生え際に混じる白い毛が、神経質な印象を与える。武の家系の直系でありながら医学を極めた彼は、知的であり、冷徹にも見え、そのくせ所作はどこか柔らかい……。
不意に、〈
「この程度では、なんの反応もありませんか」
「え……?」
メイシアは瞳を瞬かせた。
「あなたの中の『鷹刀セレイエ』に語りかけたつもりだったのですが、どうやら届かなかったようです」
「私の中の、セレイエさん……? どういうこと……ですか?」
メイシアの心臓が警鐘を鳴らし始めた。
問い返しながらも彼女の中に予感が芽生え、恐怖が体を凍らせていく。
「おや、
〈
「リュイセンが言ったはずですよ。あなたは『鷹刀セレイエの〈影〉』だと」
「……っ!」
メイシアは鋭く息を呑む。悲鳴のような音が喉からこぼれた。
「鷹刀の面々に漏らしてしまったと、リュイセンから報告を受けているのですが……聞いていませんか?」
「私……、私は……私、です……! 〈影〉なんかじゃ……!」
途切れ途切れの反論は弱々しく、語尾は擦り切れ、消えていく……。
リュイセンが戻ってきたあとの、会議のとき。
ルイフォンに問い詰められたリュイセンは、苦しげに告げた。
『メイシアは、『セレイエの〈影〉』だそうだ……』
『なんだよ、それ? あり得ねぇだろ!』
ルイフォンは笑い飛ばしてくれた。
『俺だって、〈
リュイセンは噛み付くように言い返した。
『〈
「ああ……、ああぁ……!」
メイシアの脳裏に、あのときのやり取りが蘇る。
思わず耳をふさごうとして、鎖にじゃらりと邪魔された。離すことのできない両手では、両耳をふさげない。
そもそも、記憶に残る声は、耳をふさいだところで消えはしない……。
『私は何者でもなく、ただの『メイシア』で――ルイフォンのそばに居る者なの』
『怖いと思う。何が起きているのかすら分からないのが、凄く不安……。でも、ルイフォンが居る。だから、大丈夫』
ルイフォンと、ふたりきりになったとき、メイシアはそう言った。
『ルイフォンがいるから、大丈夫』
けれど、今ここに、彼はいない。
愛しくて、切なくて、苦しい。
自分が、自分以外になったら、この気持ちを忘れてしまうのだろうか……?
……嫌だ。許せない。
――この
「〈
黒曜石の瞳を真っ赤に充血させ、メイシアは叫んだ。
「私は、私です! 何故、私を『セレイエさんの〈影〉』などと言うのですか!」
黒絹の髪を振り乱し、牙をむいたメイシアに、しかし〈
「迂闊なことを言えば、私は『契約』に抵触してしまうのですよ。……それも、リュイセンから聞いているでしょう?」
「答える気がないのなら、別に構いません。私は〈影〉になるつもりなどありませんから、この話は終わりにしましょう!」
すると〈
「あなたは、自分が囚われの身だということをお忘れではないですか?」
「!?」
次の瞬間、彼女の体はふわりと宙を舞った。
〈
「…………っ!」
全身に痛みが広がった。枷に繋がれた手では受け身を取ることもできず――そもそも、彼女の身体能力では、たとえ両手が自由だったとしても、されるがままに転がされるしかなかっただろう。
「あなたの中の『鷹刀セレイエ』が目覚めてくださらないと、私が困るのですよ。その記憶が、雲隠れした鷹刀セレイエの居場所を知る、唯一の手掛かりなのですから」
高い位置から見下ろし、〈
「鷹刀セレイエ本人だって、きっと困っていることでしょう。『デヴァイン・シンフォニア
メイシアは悟る。
自分の置かれた立場を忘れ、感情のままに叫んだのは、確かに失態だった。囚われの身だからこそ、冷静になる必要があった。
ここは敵地で、メイシアは今、戦っているのだ。
非力な彼女は、賢く立ち回らなければならない。
そのために、敵である〈
威圧的な〈
彼女は、よろよろと立ち上がり、ベッドに座る。〈
そして、時間が少し前に巻き戻ったかのように、ふたりは再び向き合った――。
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