2.守護者との邂逅-2

「何故だ?」

 エルファンのまとう気配が、一瞬にして氷点下となった。

 刺すような冷気があたりを漂う。凍てつく魔性の瞳が天井を見つめ、冷ややかに責め立てる。

「これは〈七つの大罪〉の領域だ。しかも、セレイエの仕業だ。あの子が……、私の娘がしでかしたことだ」

 エルファンは、決して声を荒らげたわけではなかった。けれど、彼に抱えられていたルイフォンには、地底から轟くような憤怒が腕から直接、伝わってきた。

「キリファが、お前たち〈ケルベロス〉を作った意味を忘れたわけじゃないだろう!?」

〔キリファのことを、何も分かってあげられなかったお前に言われたくないわ〕

「なんだと!」

〔だって、お前はキリファの気持ちに気づかなかったでしょう?〕

「お前に何が分かる!?」

 ぐっと詰め寄るように光に挑むと、エルファンは目を細めた。それは、白金の輝きがまぶしいためと見せかけていたが、眉間の皺が彼の後悔をあばいている。

 にわかに混乱めいてきた。――というよりも、明らかに話が横道にそれている。

「おい、お前ら! 脱線しているぞ!」

 ルイフォンは猫の目をとがらせた。

「今は、母さんとエルファンの話じゃねぇだろ! メイシアだ! あいつを〈影〉にされないためにはどうすればいいのか。〈ベロ〉、お前は何か知っているんじゃないのか!?」

 昔話が気にならないわけではないが、今は、そんなことを揉めている場合ではない。ルイフォンは、エルファンの胸を叩き、「下ろせ」と不快げに命じる。

 はっと我に返ったエルファンは、すみやかにルイフォンをベッドに戻した。〈ベロ〉もまた、余計なことを言ったと、ばつが悪そうに光を揺らす。

「話をもとに戻せ。そして、俺に分かるように説明しろ」

 ルイフォンの冷静な怒りのテノールが両者に告げる。

 彼の頭上で、どちらが説明するのか、無言の押し付け合いの気配が繰り広げられ……やがて、エルファンが静かに口を開いた。つまり、彼のほうが、いろいろと分が悪いらしい。

「〈ケルベロス〉は、セレイエのために作られたシステムだ」

 氷の美声が、ひやりと耳を撫でた。

 とんでもない性能を持った〈ケルベロス〉。母は何故、こんなものを三台も作ろうとしていたのか、ルイフォンはずっと疑問だった。

 その答えが――。

「セレイエのため……?」

「ああ。セレイエが生まれながらの〈天使〉だと分かったあとに、キリファが作り始めた。――『〈天使〉の力を無効化するもの』だと聞いている」

「――!」

 母は、〈ケルベロス〉に『人の世に関わってはいけない』と命じた。

 それは『何もするな』という意味ではなく、〈七つの大罪〉の技術の結晶である〈ケルベロス〉には、同じく〈七つの大罪〉の領域に属する〈天使〉の力を封じることだけを望み、他の活動を禁じた――という意味だったのだ。

 そして、悪用されることのないよう、張りぼての〈ケルベロス〉の後ろに隠した。

 納得した様子のルイフォンに頷き、エルファンは再び天井を仰ぐ。

「〈ベロ〉、お前は〈天使〉の力を無効化できる。ならば、メイシアが〈影〉にされるのを阻止することもできるはずだ」

〔だから、その望みには『応えられない』の! ……『無理』なのよ〕

 それまでの〈ベロ〉とは打って変わって、気弱な声だった。光の糸もまた弱々しく震え、部屋全体に淡い色合いが広がる。

〔意地悪を言っているわけじゃなくて、私には『不可能』なの〕

 そこでルイフォンは、はっとした。

「もしかして、俺がまだ〈スー〉の解析を終えていないからか? 〈ケルベロス〉は三台がそろわないと、本来の性能を発揮できないのか!?」

 もし、そうであるのなら、全力で解析を進める。今までも少しずつやってはいたのだが、何しろ効率の悪い作業だ。その上、最近は〈ムスカ〉の庭園への潜入作戦の準備もあった。

 ……とはいえ、忙しさにかまけて、面倒な作業を後回しにしていた感は否めない。ルイフォンは猛省する。

〔ルイフォン……。確かに〈ケルベロス〉は、すべてがそろわなければ、真の能力が発揮できないのは本当よ。でも、そうじゃなくて、エルファンは根本的に勘違いをしているの〕

「勘違い……?」

 エルファンが低い声で呟き、眉を上げる。

〔〈ケルベロス〉は、セレイエの母親であるキリファが、娘の幸せを願って作ったものよ。自分の血を受け継いでしまったばかりに〈天使〉の宿命を背負ってしまった娘を、解放するためのもの……〕

 穏やかに波打つ糸の中を、淋しげな陰りを帯びた光が駆け抜ける。

〔だから、〈ケルベロス〉の能力は、エルファンが考えているような、〈天使〉個人に働きかけて羽を使えなくしたり、〈天使〉に介入された人間の状態をもとに戻したりするようなものではないの〕

 白金の糸が揺れる。どう説明したものか迷うように、光の流れが惑う。

〔そんな、個々を相手に『無効化』するような、みみっちいものじゃないの。もっと、根本的に解決する方法。『〈天使〉という存在を、無効化消滅させる』、最終手段――〕

〈ベロ〉は、そこで大きく息を吸うように、光をたわませた。

 それは、〈ベロ〉らしからぬ逡巡に感じられ、ルイフォンの背中に不吉な予感が走る。

〔〈天使〉の力の源である、〈冥王プルート〉を破壊するためのシステム……――っ、…………〕

 その瞬間、部屋中の光が激しい明滅を繰り返した。

 瞳を刺すような閃光と、漆黒の暗闇。

 そのふたつが交互に、そして瞬時に切り替えられる。視覚が混乱におとしいれられ、激しい目眩めまいに襲われる。

 そんな中、細く、苦しげな〈ベロ〉の声が聞こえた。

〔ああ、……やっぱり……来たわ、ねぇ……、〈悪魔〉の『契約』……〕

「『契約』!?」

 吐き気がするような状況であったが、ルイフォンは聞き返さずにはいられなかった。

〈悪魔〉には、王族フェイラの秘密を口外すれば死が訪れる、という『契約』が刻まれている。今の場合は、おそらく、いや間違いなく『〈冥王プルート〉』という名称が引き金だったのだろう。

 聞き覚えがあった。

 以前、会議中にイーレオが『〈冥王プルート〉』と口走った瞬間に苦しみだした。

 ――だが、『契約』が発動したからには、〈ベロ〉は〈悪魔〉だということになる……?

 困惑するルイフォンに、〈ベロ〉がくすりと笑う。

〔私は〈悪魔〉では……ない、わ……。ただ……、『人』だったときの記憶を……持っているだけ〕

 そのとき、エルファンが血相を変えて叫んだ。

「パイシュエ様!? 『あなた』は、パイシュエ様なのですか!?」

 光の明滅が徐々に収まってきた。あたりが見えるようになってきて、ルイフォンは、エルファンが蒼白な顔をしていることに気づく。

「エルファン、『パイシュエ』って。もしかして……?」

「シャオリエ様が〈影〉だというのは、お前も知っているだろう? あの方の本来のお名前だ」

 想像通りの答えだった。

 彼女はかつて、イーレオと共に〈悪魔〉として〈七つの大罪〉の内部に深く入り込み、一族を解放するために奔走した人だ。詳しいことは知らないが、彼女の犠牲によって、悲願が叶ったのだという。イーレオが『俺を育ててくれたひと』といとしげに呼ぶ人物だ。

「そうか……」

〈ケルベロス〉が、これほどまでに『人』に近いのは、なんらかの方法で『人』の記憶を利用して作られているからだ。そして、記憶を受け継いでいるために、記憶に刻まれていた『契約』も引き継いでしまっている――。

〔エルファン、私を『パイシュエ』と呼んだら駄目よ。私は『〈ベロ〉』でなくちゃ。私が『パイシュエ』だったら、死んだはずの人間が生き返ったことになるわ。――そんなのは許されない。『パイシュエ』は〈七つの大罪〉の技術を否定する側の人間だったんだから〕

「!」

 エルファンは短く息を吸った。だが、すぐに平静を取り戻す。

「はい。その通りですね、〈ベロ〉様」

 彼は〈ベロ〉の名に敬称をつけ、こうべを垂れた。

 優しく見守るような、柔らかな光が揺れる。その様子を見ながら、ルイフォンは、ふと疑問に思う。

「でも、だったらなんで、お前は母さんに利用されて〈ベロ〉になることを許したんだ? 〈ケルベロス〉はお前が否定する〈七つの大罪〉の技術の結晶だろ? 無理やりだったのか?」

 シャオリエ――『パイシュエ』なら、〈七つの大罪〉について詳しく、また鷹刀一族の屋敷の守護を任せるにふさわしい。母が、『パイシュエ』を〈ベロ〉に選ぶのも分かる。けれど、『パイシュエ』の気持ちは……。

〔……ぷっ〕

 いきなり〈ベロ〉が吹き出した。

「なっ!? 何が可笑おかしい?」

〔お前が、大真面目な顔をして心配してくれちゃうから、可愛くて。生まれたときは赤ん坊だったのに、本当に大きくなったわねぇ」

「生まれたときが赤ん坊なのは、当たり前だろ!」

 迂闊だった。〈ベロ〉は、あのシャオリエと同じ性格をしているのだ。それとなく訊かなければ、茶化されるに決まっていた。――正面から真剣に気遣ったことをルイフォンは後悔する。

〔あらぁ、褒めてあげたのに。ねないでよ〕

 ルイフォンの気持ちなどお構いなしに、〈ベロ〉は、くすくすと笑う。

〔大丈夫よ。無理やりなんかじゃないわ。私は今の状態を楽しんでいる。私は望んで、キリファに一口、乗ったのよ〕

「どういう意味だ?」

〔キリファが〈ケルベロス〉にやらせようとしていることは、〈七つの大罪〉の技術の破壊よ。最高の魔術師ウィザードによる、今まで誰も思いつきもしなかった、この国を根底から覆すような大掛かりな『魔法』。そんな面白いもの、この私が見逃すはずないじゃない〕

「『魔法』?」

〔ものの例えよ。けど、とんでもないことをやらかそうとしている、というのは分かるでしょう? ――何しろ、キリファの呼び出しには、先王シルフェンが応じたくらいなんだから〕

「――!」

 刹那、ルイフォンの全身を貫くような衝撃が走った。

〈ベロ〉は、母が先王に殺されたときのことを言っている――!

「〈ベロ〉、それは……、つまり……どういう……?」

 声が、心が、体が、震えた。

 しかし、ぴしゃりと跳ねのけるように、光の糸が弾かれる。

〔言わないわ。だって、〈ケル〉も言わなかったでしょう?〕

「……っ!」

 ルイフォンは奥歯を噛んだ。

 何かを掴めそうになった瞬間の、喪失感。これまでに何度も味わってきたものだ。ベッドに横になったまま、彼は無意識に前髪を掻き上げる。

 自分とそっくりな猫の目を持った母が、どこかで嗤っている。

『あんたなんて、まだまだね』――そう言って、彼を待っている……。

〔ルイフォン〕

〈ベロ〉の声に、どこかへ迷い込みそうになっていた意識が引き戻された。

〔いい? 私は、自ら望んでキリファに協力している。――誇りを持って、ね〕

 竪琴の弦を爪弾くように、白金の糸が細やかに揺れる。光の音楽を奏でる〈ベロ〉は、実に『生き生きと』していた。

「……ああ、そうだな」

 詳しいことはお預けだが、ともかく〈ベロ〉は、自分の意志で今の状況にある。

 彼は「よかった」と口走りそうになり、すんでのところでこらえた。気遣いをそのまま口に出したら、また〈ベロ〉にからかわれる。だから、今度は混ぜっ返されないように、心の中だけで安堵した。

 そして、代わりに別のことを呟く。

「早く、〈スー〉の解析を終えなきゃな……」

 すると、光の糸が、すっとルイフォンの頭を撫でるようにかすめていった。

「?」

 首をかしげた彼に、〈ベロ〉が言う。

〔ルイフォン。とりあえず、〈スー〉のことは放置でいいわ〕

「え? だって、〈スー〉がそろわないと〈ケルベロス〉は真の能力が発揮できないんだろ? それじゃ、お前は……」

〔別に、『ずっと、ほったらかしでいい』とは言ってないでしょ〕

 戸惑うルイフォンを、〈ベロ〉の声がすかさず遮った。

〔でも、今までの話で分かったでしょう? 〈ケルベロス〉では、メイシアが〈影〉にされるのを阻止することはできない。お前が直面している問題に対して〈ケルベロス〉は役に立たない〕

「……」

 白金を見つめるルイフォンの顔が、陰りを帯びる。

〔だから、〈スー〉の解析は後回し。まずは、メイシアの身柄を取り戻しなさい。それが、お前が今、すべきことよ〕

「それは勿論だが……」

 身柄を取り戻しても、〈影〉にされてしまったら、彼女を失ったと同じことなのだ。

〔安心しなさい。私の見解では『メイシアの体が、セレイエに乗っ取られる』ことはないわ〕

「何故、そう思うんだ?」

〔セレイエが、そこまで非道に堕ちたとは思わないからよ〕

「はぁっ!?」

 まったくもって論理的でない答えに、思わず語尾が上がった。

〔だって、あの子、ルイフォンとメイシアをくっつけるために、いろいろ画策していたわけでしょう。なのに、メイシアを自分が乗っ取って終わりって、それは酷いんじゃない?〕

「……」

 押し黙ったルイフォンの代わりに、エルファンが口を挟む。

「〈ベロ〉様、それはあまりにも楽観的ではありませんか?」

〔お前ってば相変わらず、悲観的ねぇ。ルイフォンも、そばにいると辛気臭いのが移るわよ。気をつけてね〕

「〈ベロ〉様!〕

〔あら、怖い。いい男が台無しよ?〕

 からからとした明るい笑い声と共に、部屋を巡る光が、からかうようにさっと流れ、それから、ぴたりと止まる。

〔メイシアは王族フェイラの血を引いているから、大丈夫よ〕

「どういうことだ!?」

 ルイフォンは息を呑んだ。

 かっと見開かれた猫の目に、鋭い光が宿る。しかし、白金の糸が淡く首を振るように揺らめいた。

〔『契約』に抵触するから言えないわ〕

「――っ! すまない……」

〔まぁ、すべてはセレイエの心次第ね。メイシアの身柄を囚えているのがヘイシャオの〈影〉であっても、結局はセレイエの〈影〉が、メイシアの中にどんな命令コードを刻み込んだかの問題だから〕

「……分かった」

 すべてはセレイエ次第……。

 そんなあやふやなものに、メイシアを委ねるのは恐ろしい。

 身を震わせたルイフォンのそばを、ひときわ強い光が駆け抜けた。それは、まるで彼を挑発するようであり、また鼓舞するようでもあった。

〔ともかく、お前のやるべきことはひとつだけ〕

「ああ。メイシアを取り戻す――!」

〔そう。それでいいわ〕

 正確なことは不明だ。けれど進めと、〈ベロ〉がルイフォンの背中を押す。

「〈ベロ〉、ありがとな」

 ルイフォンは、ベッドから光を見上げた。

 礼くらい、きちんと立って頭を下げるべきだと思ったが、それは無理だと腹の傷が告げていた。この怪我を治さなければ何も始まらない。まずは、そこからだ。

〔いえいえ。それじゃあ、私はそろそろ消えるわ。……あまり長く『人』と接していると、自分が『人』だと錯覚してしまいそうだから〕

 軽やかに弾かれた糸が、かなしげな光を放つ。

 それは、叶えてはいけない願い。禁じられた望みだ。

 何故なら〈ベロ〉は、人の世の存在ではないのだから……。

 部屋中に広がっていた光の糸は、くるくると回転しながらひとつに集まり、白金に輝く光のたまへと姿を変えていく。

〔あとは人の手で頑張りなさいね。ひよっ子に何ができるか。楽しみにしているわ〕

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