3.猫の誓言-3

 華奢な両腕が、後ろからルイフォンを包み込む。背中に感じる、ほのかな重み。メイシアの香りと乱れた息遣いに、彼の心臓はどきりと高鳴る。

「――嫌」

 澄んだ声が、凛と響いた。

 否定の言葉をあまり言わない彼女が、きっぱりと告げた。

 少しくらいの反論なら、ルイフォンも覚悟していた。けれど、透き通った言霊ことだまは、有無を言わせぬほどに力強い。

「私……、ルイフォンと触れ合えないのは、嫌」

 メイシアの唇が、わずかに首筋に触れた。火傷しそうな熱さが、彼女の懸命な気持ちを物語っている。

 ルイフォンは狼狽した。

 そんな言葉が彼女の口から発せられるなど、想像したこともなかった。頭の中が真っ白になる。

「何もかも……、ひとりで勝手に決めないで! 私……、私……!」

「メイシア……」

 彼女の細い腕へと手が伸びそうになり、ルイフォンは、はっとする。彼はたった今、彼女には指一本、触れないと誓ったばかりだ。

 ルイフォンは唇を噛みしめる。

 そんな彼に、まるで揺さぶりをかけるかのように、しっとりと熱を持った体がもたれかかった。

「〈天使〉の力って、何? こうしてルイフォンに触れると、どきどきしたり、安心したりする私の心は、改竄して作ることができるようなものなの?」

「……」

 返事のできないルイフォンに、メイシアが畳み掛ける。

「それに、『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』は、『私たちが出逢う』ように仕組まれたもの。――ならば、ルイフォンだって、セレイエさんに操られているかもしれないじゃない! 『世間知らずの貴族シャトーアの娘が現れたら、好きになるように』って」

「……え!?」

 彼女の言葉が聞こえてから彼が理解するまでに、数瞬の時間差タイムラグがあった。――そのくらい、想定外の発想だった。

「だって、私たちが『互いに』惹かれ合わなければ、『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』は成り立たないんでしょう?」

「……っ」

 断言できる。彼のいだく、彼女への気持ちは幻などではないと。

 初めはただ、綺麗な女だと思った。世間知らずで、無鉄砲で、桜の花びらのように儚く嫋やかなのに、大樹の幹のように芯が強い。その落差に興味を引かれた。からかい甲斐があって、可愛らしい反応に嗜虐心をくすぐられて、つい構った。それだけだった。

 けれど、彼女と行動を共にするうちに、戦乙女の魂にどんどん魅了されていった。

 彼女が欲しいと思った。

「俺はちゃんと、だんだんと、お前に惹かれていった。一目惚れなんかじゃない」

「私だって、出逢った瞬間にルイフォンを好きになったわけじゃないもの。ルイフォンの言葉を聞いて、魂に触れて、あなたとずっと一緒に居たいと思うようになったの……!」

「――!」

 同じだ。

 ふたりは同じように徐々に惹かれ、想い合うようになっている。

 この状況をどう解釈すればよいのか。

 戸惑う彼に、メイシアが「ルイフォン」と呼びかけた。

「セレイエさんは、『不確定要素が多すぎて、計算できない』と言ったの。だから、彼女が仕組んだのは『私たちが出逢う』ことだけ。そのあと私たちが、彼女の望み通りに共にり続けるかどうかは『計算できない』――そういう意味だと思う」

 それは、少女娼婦スーリンを通して聞いた話だ。正確な言い回しではないだろう。そんな言葉の綾を議論しても仕方ない……。

「メイシア、『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』は、セレイエが必死になって作り上げているものだ。成功のためになら、どんな手段を使ってもおかしくないだろ……」

 うそぶくような声も、言葉尻に力がなかった。メイシアに押されている。普段とは逆だ。

 旗色の悪い彼に対し、彼女は更に思いもよらぬことを言い出した。

「ええと、ね。たぶん、だけど……。セレイエさんは、私のことを知っていたと思う」

「なん……だって?」

「〈悪魔〉となったセレイエさんは王族フェイラと面識があったはずなの。だって、〈七つの大罪〉は、王の私設研究機関なのだから。それなら王宮に出入りしていてもおかしくないし、貴族シャトーアだった私を見かけていても不思議じゃない。少なくとも、私の家族が、その……、平民バイスアに偏見を持っていないことは知っていたと思う」

平民バイスア』のところで、彼女はためらった。彼に対して、身分を口にしたくないのだろう。

 王族フェイラ貴族シャトーアは、平民バイスアを下に見る。それが普通だ。けれど、メイシアの父コウレンは、周りの反対を押し切って、ハオリュウの母である平民バイスアの女性と再婚した。おそらく、上流階級の間では有名な話だろう。

平民バイスアである上に、凶賊ダリジィンだった俺に引き合わせるなら、お高く止まった貴族シャトーアの女じゃ無理がある。その点、お前なら問題ない。だから、セレイエはお前を選んだ――と?」

「そうだけど、それだけじゃなくて……! ……私とルイフォンなら、きっと惹かれ合うだろう、って……セレイエさんは、その……ちゃんと『私を見て』、選んでくれたんだと思うの……」

 メイシアは、口ごもりながらも懸命に抗議する。後ろから抱きついているために確認できないが、真っ赤な顔で、すねた上目遣いをしていることだろう。

 きつくは言わないけれど、彼女は意外に嫉妬深くて、独占欲が強い。彼の『特別』でありたいと強く願ってくれる。それはもう、信じられないくらいに深く、激しく。

 だからこそ、今だけは、それが自信ではなくて不安に繋がる……。

 何を言えばよいのか分からずにルイフォンが沈黙していると、メイシアはだんだん恥ずかしくなってきたらしい。取り繕うように「けど……」と呟いた。

「本当にどうして、私だったのかしら……?」

 彼女の吐息が、首筋をくすぐる。

 理性が揺らぐ。

 彼女を引き剥がさなければいけないのに、名残惜しさに胸が苦しい。ずっと彼女に触れていたい。それが本心なのだと、否が応でも自分自身の心と体にあばかれる。

 そんな彼の内側も知らず、彼女はそのまま思考にふける。

「身分が違えば、出逢いの演出は難しくなるはず。それにも関わらず、セレイエさんは……」

 そのとき、メイシアは息を呑んだ。

「ルイフォン!」

「なっ!? どうした?」

「やっぱりセレイエさんは、私の気持ちを操ろうなんてしていない!」

 メイシアは、長いスカートを勢いよくはためかせ、ルイフォンの背中からくるりと身を翻した。エプロンの白いフリルで今までの空気を払いのけ、彼女は彼の真横にぴたりと体を寄せる。

 そして、ほんのり得意げな顔で、彼の瞳を捕らえた。

「もしもセレイエさんが私の心に介入するつもりだったら、ハオリュウの誘拐から始まる大事件なんて、計画する必要がなかったの」

「――?」

「『街で偶然、見かけたルイフォンに、私は一目惚れした』――そんな記憶を植えつけるだけで、私はルイフォンのもとに押しかけていったはず」

 メイシアは声を弾ませ、白磁の肌を薔薇色に染める。

凶賊ダリジィンの勢力争いや、貴族シャトーアの権力争い、警察隊の腐敗……そんなものを巻き込むような、大規模な事件なんて要らないの」

「――っ!」

 ルイフォンの口から、鋭い息が漏れた。

 メイシアの思考は、非常に論理的。育ちの良さから他人を疑うことは苦手だけれど、状況の矛盾から虚構うそを見抜く。

 もと一族で、娼館の女主人のシャオリエは、そう言っていた――。

「セレイエさんの〈影〉だったホンシュアは、『あなたが幸せになる道を選んで』というルイフォンへの遺言を、タオロンさんに託した。そんな人が偽りの愛を仕掛けるわけがない。――つまり」

 真実を導き出す黒曜石の瞳が輝き、彼に告げる。


「セレイエさんは、私たちに自然に惹かれ合ってほしくて、あんな面倒な事件を起こしたの」


 凛と冴え渡った、透き通る声。 

 強い口調で主張したことを恥じるように、ほんの少し、すくめた肩。

 それでも、一歩も引かぬと、彼を見つめる瞳。

「メイシア……!」

 気づけば、ルイフォンは椅子から立ち上がり、彼女を抱きしめていた。

 柔らかな感触が胸を熱くする。気力がみなぎり、魂が奮い立つ。

 華奢な体躯は、腕の中にすっぽりと収まる。こんなにもか弱く、儚げなのに、彼女は彼に無限の力を与えてくれる。

「お前の……言う通りだ……!」

 彼女の髪に頭をうずめ、彼は呟く。泣きたいくらいに切なくて、けれど、安らぎに満ちている。

 彼の心が、穏やかに解放されていく……。

 ルイフォンは顔を上げ、メイシアと向き合った。

「……ごめんな」

「ルイフォン?」

「俺はずっと、自信がなかった」

「え?」

 心底、驚いた様子で、メイシアが目を丸くした。素直な反応に、ルイフォンは微苦笑する。

「そりゃ、俺は自信過剰だよ。……けど、お前に関してだけは自信がなかった。だから、〈ムスカ〉の言葉に惑わされた」

 腕の中で、戸惑うように彼女が身じろぎする。けれど彼は、より一層、強く彼女を抱きしめる。離すまいとの意思表示をするかのように。

「お前は、何もかもすべてを捨てて、俺のところに来てくれた。けど、果たして俺に、それだけの価値があるのか。――さすがの俺だって、『ある』と答える自信はないよ」

ムスカ〉は、そんな彼の心の隙をいた。

『あんな上流階級の娘が、凶賊ダリジィンのあなたを相手にするなんて、普通に考えればあり得ないでしょう?』

 呪いの言葉で、悪魔は彼を縛った。

「でも、もう悩まない。こうしてお前が俺のそばに居てくれるという事実が、俺の価値の証明だ」

 ルイフォンは、優しいテノールに不遜な発言を載せる。

 そして、抜けるような青空の笑顔でメイシアを包んだ。

 彼女は、彼の戦乙女。

 彼が呪いに倒れれば、彼女が呪いを解いてくれる。

 ならば、彼は彼女を守る。あらゆるものから、全力で彼女を守る。

 彼女が安心して、彼のそばに居られるように。

 彼女が彼のそばで、幸せに笑っていられるように――。

「…………っ」

 現在と、そして未来の彼女は、必ず守る。

 けれど過去は――。

『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』によって、彼女の家族は不幸に陥れられた……。

「メイシア、ごめんな」

 ルイフォンは、ぽつりと漏らした。

 続けて二度も『ごめん』と口にした彼に、彼女は小首をかしげる。

「セレイエが元凶なんだ……。俺の異父姉が……さ」

「でも、セレイエさんが仕組まなければ、私たちは出逢わなかったの。彼女のしたことは許すことはできないけど……けど、ルイフォンと出逢えたことだけはよかったと思う」

 思った通りのことを口にする彼女に、彼は強気の猫の目を向ける。

「そうとは限らないだろ? 俺たちなら、セレイエが何もしなくても、きっとどこかで出逢ったはずだ。――俺は、そんな気がするよ」

「!」

 メイシアの頬が赤く染まる。けれど、彼女はすぐに「うん」と極上の笑顔を返してくれた。

「愛している」

 彼女に口づける。

 彼女の愛を明確な言葉で聞きたくて、彼女が同じ言葉を返してくれるのを待ってから、それを発した唇に触れたこともあった。けれど、もう、そんな自信のなさの表れのような行動は必要ない。

「メイシア」

 彼女を抱きしめたまま、ルイフォンは語りかける。

「これから俺は、リュイセンを助け出す」

「うん」

「〈ムスカ〉の野郎も捕まえて、奴との決着をつける。そしたら……」

 小さく息を吸うと、背中で金の鈴が煌めいた。

 鋭い猫の目で、彼は告げる。

「俺は、お前を連れて鷹刀を出る」

「え……?」

「鷹刀を出て、お前と一緒にセレイエを見つけ出す。あいつに洗いざらい『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』のことを吐かせて、この、わけの分からない状態を終わらせる」

 そして、『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』を終着に導く。

 ルイフォンは、どこにいるとも知れぬセレイエを挑発するように、好戦的に嗤う。

「うん。私も、何が起きているのかを知りたい。だから、セレイエさんを探すべきだと思う。……けど、『鷹刀を出る』というのは、どういうこと?」

 突然のことに戸惑っているのだろう。メイシアの声は不安に揺れていた。

 そんな彼女に、彼は静かなテノールを響かせる。

「『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』とセレイエにとって必要な駒は、俺とお前、それから『ライシェン』を作れる〈ムスカ〉。分かっている範囲ではそれだけだ。――つまり鷹刀は、『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』とは関係がない」

「え? あ……!」

 一度だけ疑問に眉を寄せたが、聡明なメイシアは、次の瞬間には納得の声を上げた。

 ――そう。

 セレイエは、鷹刀一族そのものには用はなく、ただ利用しただけなのだ。

 ルイフォンとメイシアが、巡り逢うための場所として。

ムスカ〉を意のままに動かすための、偽りの復讐相手として。

「そう考えていくと、セレイエの狙いは『俺とお前』なんだ。あいつが俺たちに、何をさせたいのかは分からない。けど俺は、関係ないはずの鷹刀を巻き込みたくはない」

 メイシアの喉が、こくりと動いた。硬い顔をする彼女に、少し心配をかけすぎたかと、ルイフォンは反省して語調を和らげる。

「俺は〈フェレース〉として独立した。自分に掛かる火の粉くらい、自分で払う。――それに俺は、鷹刀という場所が好きだ。だから、わけの分からない害悪から守りたい」

 近くにいれば、父イーレオは、きっと血族の情で有形無形の援護をする。

 けれど、ルイフォンは一族を抜けたのだ。いつまでも甘える気はない。

「別に、鷹刀と縁を切るわけじゃないよ。ただ、きちんと『対等』でありたいだけだ」

 そう告げたルイフォンの背中に、メイシアは、ふわりと腕を回した。彼女の指先にじゃれつくように、金の鈴がちょこんと触れる。

「ルイフォンの気持ちは分かる。凄く、ルイフォンらしい。尊重したい」

 そこで彼女は少し体を離し、遠慮がちな上目遣いで彼を見上げた。

「――でも、鷹刀の人たちは『水臭いことを言うな』と、引き止めると思うの。……特にリュイセンが」

「……まぁ、そうだな」

 あの兄貴分なら、きっとそう言うだろう。

「皆がルイフォンを大切にしている気持ちは、忘れないでほしいの。私とルイフォンは『ふたりきり』じゃない。『皆に囲まれた、ふたり』だから」

 透き通った声が、じわりと胸にしみる。

「……ああ」

 たったひとりで、この先を歩んでいくつもりだった。

 けれど――。

 彼は、メイシアの黒絹の髪に指先を絡め、くしゃりと撫でる。

「ともかく、今はリュイセンを助けないとな。――先のことは、それからだ」

 ルイフォンを逃がすために大怪我を負った兄貴分。傷はどんな具合いだろうか……。

 菖蒲の館の方角を見やり、彼は唇を噛みしめる。

 ――まずは、リュイセンの救出だ。



 研究室に運び込んだときには土気色だったリュイセンの肌が、ようやく赤みを帯びてきた。〈ムスカ〉は安堵に胸を撫で下ろす。

 時計を見れば、既に真夜中も近かった。

 もっとも、地下には昼も夜もない。しかし、時間の経過と疲労の具合いとの相関関係に、彼は納得した。

『ミンウェイ』も、無事に連れ帰ってきている。いつも通りの心安らぐ光景に、〈ムスカ〉はわずかに口元を緩め、体を投げ出すようにして椅子に身を預けた。


『藤咲ハオリュウを、『ライシェン』と対面させるために、この館に招く』


 摂政がそう言い出したとき、嫌な予感がした。そんなことをすれば、あの子供当主の口から鷹刀一族へと、〈ムスカ〉の潜伏場所が伝わるのが明白だったからだ。

 だが、所在を知られたところで、近衛隊の守る庭園ならば安全だと、高をくくった。摂政の要望を断るほうが、のちのち面倒だと思ったのだ。

「……っ」

ムスカ〉は舌打ちをする。

 鷹刀一族が関わるのは、あくまでも会食の『あと』のはずだった。まさか、この機に乗じて、紛れ込んでくるとは思わなかった。今のところ、ルイフォンとリュイセンのふたりとしか接触していないが、他にもいるかもしれない。警戒は怠れない。

 門を抜けられ、内部に入り込まれてしまえば、防衛の手段は限られている。金で雇った私兵など、たいして役に立たないだろう。そもそも、彼らの主な役割は情報収集。館に籠もった〈ムスカ〉の目となり、耳となるための者たちだ。頼みの綱は、タオロンのみだ。

 リュイセンの身柄がこちらにある以上、ルイフォンは必ず現れる。だから、タオロンを研究室の扉の前に待機させた。

 現在、私兵を総動員して館中をしらみつぶしに探させているが、いまだ、ルイフォンは見つかっていない……。

 ……そう――『現在』である。

 摂政が帰るまでは、〈ムスカ〉は大掛かりなルイフォンの捜索を控えた。そのために、遅れを取った感が否めない。

『摂政に対して、どのような態度を取るべきか』

ムスカ〉が頭を抱えているのは、この点だった。

 ルイフォンとリュイセンという賊の立ち入りを許したのは、明らかに摂政のミスだ。大掛かりな会食など開くから、人の出入りが繁雑になり、侵入者を見逃した。

 すべては摂政のせいだ。

 なのに、のうのうと飲み食いした挙げ句、帰り際に『摂政殿下をお見送りするように』などと、使いの者を寄越してきた。まったく厚顔無恥も甚だしい。

 だから、取り込み中であると言い捨ててやった。実際、リュイセンだけでなく、〈ムスカ〉だって重傷だった。摂政が機嫌を損ねようが、知ったことではない。

 だいたい〈ムスカ〉は、摂政の部下ではないのだ。〈ムスカ〉が『ライシェン』を提供する代わりに、摂政は資金と安全を保証する。対等な間柄だ。それにも関わらず、身が危険に晒された。これは立派に約束を違えている。

 それを指摘して近衛隊という武力を差し出させ、〈ムスカ〉の護衛とルイフォンの捜索に充てる。そんな取り引きも考えてみたのだが……。

 ぎりぎりという歯噛みが、〈ムスカ〉の口から漏れる。

 侵入した賊が鷹刀一族ではなく、〈ムスカ〉のせいで大損害を受けたと恨んでいる斑目一族の者だったなら、〈ムスカ〉は迷わず摂政を責め立て、近衛隊を出動させた。

 しかし、ルイフォンとリュイセンは、『鷹刀セレイエ』の弟だ。〈ムスカ〉も、摂政も、必死に行方を探している『鷹刀セレイエ』に、深く繋がる者たちだ。

『鷹刀セレイエ』への足掛かりを手に入れたと摂政に明かすのは、やはり愚策でしかないだろう。

ムスカ〉は大きな溜め息を落とし、そう結論づけた。

 何故なら、『ライシェン』がほぼ完成した今、これからの摂政との駆け引きが重要だからだ。

 一歩、間違えれば〈ムスカ〉は不要の者として始末される危険がある。自分だけが知っている情報は、ひとつでも多いほうがよい。いざというときの切り札になる……。

ムスカ〉にとっての不穏な夜は、こうして静かに更けていった。

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