3.猫の誓言-2

『〈天使〉のホンシュアと接触のあったあの娘は、あなたと出逢うよりも前に『鷹刀セレイエの駒』にされていたことは理解できているわけですね?』

『ならば疑問に思わなかったのですか? あの娘は、本当に自分の意思であなたに恋心をいだいたのか?』

『あんな上流階級の娘が、凶賊ダリジィンのあなたを相手にするなんて、普通に考えればあり得ないでしょう?』


 菖蒲の館で〈ムスカ〉と対峙したとき、奴はそう言ってルイフォンに揺さぶりをかけた。

 それは勿論、〈ムスカ〉の策略だったのだろう。奴の思惑通り、ルイフォンは見事に動揺し、隙だらけになった。

 だから、すべては〈ムスカ〉の作り話だった、という可能性はある。

 しかし四年前、母が死んでシャオリエの店に身を寄せていたとき、ルイフォンを訪ねてきた異父姉セレイエは、メイシアとの出逢いを予言していた。


『遠くない将来に、ルイフォンはひとりの女の子と出逢うわ。その子は、私に選ばれてしまった可哀相な子』

『ルイフォンはきっと彼女を愛すると思うし、彼女もルイフォンを愛してくれると思う。そのあと、どうなるのかは不確定要素が多すぎて、私にも計算できない』


 ルイフォンには、『四年前にセレイエと会った』という記憶はない。おそらく、生粋の〈天使〉だというセレイエに記憶を消されたのだろう。だから、このセレイエの予言は、ルイフォンの世話を焼いてくれていた少女娼婦、スーリンの証言によるものだ。

「……『予言』じゃねぇな。『予告』だ」

 ――何故なら、ルイフォンとメイシアの出逢いは、セレイエによって仕組まれた運命だったのだから……。

「ルイフォン?」

 澄んだ声に、ルイフォンは思考を遮られた。

 ふと気づくと、切なげな黒曜石の瞳がじっと彼を見つめていた。彼の顔を覗き込むように、メイシアが小首をかしげると、ホワイト・ブリムと呼ばれる、メイド服の白い頭飾りが小さく揺れる。

 そうだった。今は執務室での会議を終え、休息を取るために自室に向かっているところであった。『ふたりで、ゆっくりしろ』という、イーレオと料理長の計らいによって、メイシアの仕事も免除されている。

「リュイセンが心配?」

「あ、ああ……」

 とっさに、そう答えた。

 こんなにもルイフォンを気遣い、リュイセンのために心を痛めている彼女を――彼女の感情を、疑っていたとは言えなかった。

 彼女は、何も知らないのだ。

 知らぬうちに『駒』とされ、ルイフォンのもとへと導かれた。

 ルイフォンは唇を噛みしめる。このまま黙っているわけにはいかないだろう。きちんと彼女に告げるべきだ。

 そして……。

 彼が決意を固めたとき、突然、メイシアが爪先立ちになり、上目遣いの可愛らしい顔がぐっと近づいてきた。

「!?」

 華奢な手が伸ばされ、癖のある彼の前髪がふわりと持ち上げられる。

 くしゃり。

 細い指が、彼の黒髪を優しく絡めとった。

「!」

 ――大丈夫だ、安心しろ。

 彼がそんな気持ちを表すときに、よくやる仕草だ。

「メイシア……」 

 額をかすめる彼女の指先が、くすぐったくて温かい。

 赤みを帯びた瞳に彼を映し、彼女は力強く笑う。

「ルイフォン、おかえりなさ……」

 その言葉を最後まで言い終える前に、メイシアの目から涙がこぼれた。

 慌てて彼女はうつむき、顔を隠す。

 ルイフォンは、彼女を引き寄せた。自分の胸に彼女を押し付け、彼女の涙を拭う。

「ただいま、メイシア」

 腕の中で泣き崩れる彼女に、そっと囁く。

『信じているから』と送り出してくれた彼女に、戻ってきたことを告げる。

 そのままルイフォンは、すっとメイシアの膝裏に手を回し、彼女を抱き上げた。長いスカートの裾が翻り、フリルの付いた白いエプロンがふわりと広がる。

 普段のメイシアなら、どこに人目があるか分からない廊下でこんなことをしようものなら、真っ赤になって遠慮がちに抗議している。

 けれど今は、肩を震わせながら、ルイフォンのシャツの胸元をぎゅっと握りしめていた。

「……メイシア。俺は、お前が好きだよ。愛している」

 彼女の頭上から言葉を落とし、ホワイト・ブリムのレースの先に唇を寄せる。

 彼のシャツを引く力が、わずかに緩んだ。それを確認すると、ルイフォンはメイシアを抱き上げたまま歩き出す。

 ――部屋に着いたら、メイシアに、まやかしの恋心の話を打ち明ける。

 だから、それまでは、彼女のぬくもりは彼のものだ。

 長い廊下の終わりが来なければよいと、儚い願いをいだきながら、彼はゆっくりと足を進めた。



 自室に入ると、テーブルの上にティーセットが載せられていた。傍らに電気ポットも用意されているのは、厨房に行かずとも、すぐにお茶を出せるようにとのことだろう。

 奥を見やれば、ベッドの上に綺麗に畳まれた部屋着が置かれていた。その先の窓では、レースのカーテンが揺れている。外からの心地よい風を取り込みつつ、直射日光はきちんと遮るよう配慮されていた。

 部屋中にほのかに漂うのは、安眠効果があるとかでミンウェイが好んで使うハーブの匂いだ。確か、カモミールだとか言っていた。

 帰ってきたルイフォンが、くつろぎ、疲れを癒せるようにとの気配りが、そこかしこに感じられる。おそらく、いや間違いなく、メイシアが整えてくれたものだ。

「ありがとな」

「ううん」

 彼女は嬉しそうに首を振ると、早速とばかりに紅茶を淹れ始めた。ずっと気を張っていた彼女だって疲れているだろうに、と思いつつ、せっかくの心遣いなので、椅子に座ってありがたく待つことにする。

 ルイフォンは目を細め、メイシアの横顔を見つめる。

 彼女は、長い髪がじゃまにならないようにと耳にかけ、硝子のティーポットの中で広がる茶葉を真剣な眼差しで見守っている。

 綺麗だと思う。――姿も、魂も。

 こぽこぽと注がれる、お茶の音色が温かい。彼女がくれる、こんな日常がいとおしい。

「ルイフォン、お疲れさまでした」

 すっと、ティーカップが差し出された。

 こうして、メイド服姿で給仕されれば、もうすっかり本職のメイドたちと区別がつかない。

 なのに彼女は、いつも少しだけ不安げな表情を浮かべる。初めてルイフォンに淹れた紅茶が、やたらと渋かったことがトラウマになっているらしい。今度のお茶は美味しく淹れられただろうか、毎回そう顔に書いてある。

「メイシアこそ、お疲れ様」

 受け取ったカップから流れてくるのは、安らぎ。猫舌のルイフォンは、いきなり飲むことはできないが、「いい香りだ」と労う。

 そうすると――。

「ありがとう」

 彼女は照れたように頬を染め、極上の笑顔を返してくれる……。

「――!」

 ルイフォンの吐息が、ティーカップの上にさざ波を立てた。白い湯気が跳ね返り、目にしみる。まだお茶は飲んでいないのに、喉が熱くなる。

 ほんの数ヶ月かもしれないが、彼女と積み重ねてきた時間が、ここに、確かに、存在する――。

「メイシア、聞いてくれるか?」

 向かいに座ったメイシアに、猫背を伸ばしたルイフォンが、静かなテノールで語りかけた。ただならぬ様子を感じ取った彼女は、黙って、こくりと頷く。

「さっきの執務室での報告は、あの館での出来ごとを、できるだけ客観的に説明したものだった。誰と誰が、どんな言葉でやり取りをしたとか、……俺が何を感じたかとか、そういうものはできるだけ省いていた」

 正確な情報だけを伝えるために――そう思ってのことだったが、口にすることを恐れる気持ちもあったに違いない。

 けれど、もう先延ばしはしない。

「リュイセンが大怪我を負って捕まるという結果となった、最大の原因は、俺が〈ムスカ〉に心の隙をかれたことだった。……〈ムスカ〉は、俺にこう言ったんだ――」

 ルイフォンは、ごくりと唾を呑み込んだ。

ムスカ〉の口から紡がれた、心臓を凍りつかせるような、あの冷ややかな口調を真似る必要はない。言われたことを、ただ端的に伝えるだけでいい。――そうでなければ、ルイフォンの心が砕けてしまいそうだから……。

「俺と出逢うよりも前に、〈天使〉のホンシュアと接触していたメイシアは、ホンシュアに操られていた。『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』の鍵となるために、俺に恋心をいだくようにと仕向けられていた。そうでなければ、あんな上流階級の娘が、凶賊ダリジィンの俺を相手にするわけがない――と」

「――っ!?」

 メイシアの唇から、言葉にならない悲鳴のような声が漏れた。花のかんばせが見る間に蒼白になり、全身が小刻みに震える。

「……ち、違う! そんなことない! 私は、私自身の気持ちで、ルイフォンを好きになったの……!」

 自分から『好き』などと、滅多に口にしない彼女が、ごく自然にそれを口にした。こんなときだが、ルイフォンはどきりとする。

「メイシア。落ち着いて聞いてくれ」

 彼女を傷つけたいわけではないのだ。

 できるだけ優しい声で語りかけると、彼女は唇を噛み締め、耐えるように言葉を飲み込む。もっと言い返したいことがあるだろうに、きちんと向き合おうとしてくれる彼女が、素直で、律儀で、健気で……いとおしい。

「〈ムスカ〉は、死ぬ直前のホンシュアから『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』のあとを託されたと言った。奴の思わせぶりな態度は、演技かもしれない。頭から信じるのは危険だと思う。――けど。奴は、お前が鷹刀に送られた目的は、親父に誘拐の罪を着せるためではなく、お前が鷹刀に来ること自体が狙いだったと、はっきり告げた」

 ルイフォンは、ほんの少しためらい、続ける。

「――このことは、〈ムスカ〉に言われるまでもなく、俺たちは気づいていたよな……」

 潤んだ瞳が、じっとルイフォンを見つめていた。その視線を痛いほど感じながら、ルイフォンは戸棚から、あるものを出してくる。

 メイシアが、さっと顔色を変えた。

「そのペンダント……!」

「ああ……」

 メイシアがこの屋敷に来たときに、彼女の胸元を飾っていたものだ。それは『お守り』であり、日頃からずっと、肌身離さず身につけていたと、彼女は思い込んでいた。しかし、異母弟ハオリュウによって否定された。

 のちに、セレイエの持ち物だと判明した。そして、セレイエの〈影〉であるホンシュアが、メイシアを鷹刀一族のもとに送り出す際に、『目印』として持たせたのだと、推測されている。

 なんのための、誰に向けての『目印』であるかは不明だが、メイシアが危険な目に遭わないように、ルイフォンが預かったのだ。

 ルイフォンは、ペンダントをテーブルの上に置く。

 掌から転がり落ちる、さらさらとした鎖の滑らかな感触。鎖と鎖が奏でる、響くような高い音。このペンダントに触れるたびに、ルイフォンの記憶の中の『何か』が共鳴する。

 ホンシュアが、ルイフォンに向かって『ライシェン』と呼びかけた、あのときの声が蘇り、それがセレイエの声と重なって木霊こだまする……。

「……ルイフォン?」

 沈黙した彼に、メイシアが不思議そうに声を掛けた。

「あ、ああ……。すまん」

 ルイフォンは慌てて取り繕い、テーブルに落としていた視線をメイシアに移す。

「お前からこれを預かったとき、言ったよな。お前は『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』の『核』で、このペンダントがその証拠。……そして、俺も。四年前、俺に会いに来たセレイエに、何かを仕掛けられた――」

 メイシアが、ゆっくりと頷いた。

「『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』によって、『俺たちは出逢う』ように仕組まれた。――凶賊ダリジィン貴族シャトーアという、住む世界の違う俺たちは、本来なら互いの存在すら知らないままに終わるはずだった。なのにセレイエは、凶賊ダリジィンの勢力争いや、貴族シャトーアの権力争い、警察隊の腐敗まで……あらゆるものを巻き込んで、俺たちを巡り合わせた」

 つまり――。

「仕組まれた運命の中で出逢った俺たちには、ずっと一緒に居てもらわないと、セレイエや『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』にとって不都合が起こる――ということになる」

「だから、セレイエさんの〈影〉だったホンシュアは、私の心に介入して、私がルイフォンに惹かれるようにした――と、言うの……?」

 細い、今にも途切れそうな声が尋ねる。

「――否定できない、ってだけだ。……俺自身、母さんにいろいろ記憶をいじられたらしいから知っている。〈天使〉の脳内介入ってやつは、本当に厄介で、何を信じたらいいのか分からなくなる……」

「……」

 大きく見開かれた黒曜石の瞳が、切なげに揺れた。

『私を信じて』――無言の声が、ひと筋の涙となって流れ落ちる。

「ごめんな。こんなことを言われても、お前だって困るよな。……けど、俺は、お前に隠しごとをしたくない。そういう約束もしたしな」

 自分の心のうちに留めておくほうが、彼女のためなのかもしれない――と、考えもした。

 そうすれば、今まで通りに、彼女と一緒に居られる。

 でも、そんなのは自分らしくない。

『鷹刀ルイフォン』は、そんな卑怯な男じゃない。

「迎えの車に乗って、この屋敷に帰ってくる間に考えた」

 ルイフォンは、静かに告げる。

「お前が操られているかどうかなんて、分からない。けど、俺たちが一緒にいることで『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』が進んでいくのなら、お前が操られていても、いなくても、お前の安全のためには、俺とは離れていたほうがいいんじゃないか……、って」

「!」

 メイシアの唇がわなないた。

 何かを発するために、その予備動作として彼女が息を吸う。それを、ルイフォンのテノールが鋭く遮った。

「そう提案するつもりだった。――けど」

「……え?」

 かすれたメイシアの声が、妙な具合いに裏返る。

「屋敷に戻ってきて、執務室でお前と目が合った瞬間――。俺、馬鹿じゃねぇか? と思った」

 きょとんと見上げる、メイシアの上目遣いが可愛らしい。本当に、自分は彼女に惚れ込んでいるのだなと、ルイフォンは改めて自覚する。

「お前は、そんな弱い奴じゃないだろ?」

 ルイフォンは、涙の筋の見えるメイシアの顔を、まっすぐに見つめる。

 彼を魅了してやまない戦乙女の顔を、瞳いっぱいに映す。

「『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』なんていう、わけの分からないものに巻き込まれて、そのまま泣き寝入りするほど、お前は弱くないはずだ。お前だって、この先の結末を知りたいはずだ。――だから、俺と一緒に居てほしい」

 本当は、理屈なんてどうでもいいのかもしれない。

 彼女の魂に、強く惹かれる。

 彼女と離れるなんて、できるわけがない。

 だから、そのための、こじつけの言い訳を思いついただけかもしれない。

 それでも、彼は我儘だから、彼女と共にりたいのだ。

「セレイエの仕掛けてきた『デヴァイン・シンフォニア計画プログラム』を共に読み解くパートナーとして、俺のそばに居てほしい」

「ルイフォン……!」

 メイシアが驚いたように瞬きをすると、彼女の睫毛まつげから涙の雫がきらりと跳ねた。

 ルイフォンは少しだけ目線を外し、癖のある前髪を掻き上げた。それから再び正面を向き、燦然と輝く猫の目で、彼女に告げる。

「これからまた改めて、ゼロから始めて、もう一度、俺のことを好きになってほしい。……それまで俺は、お前には指一本、触れないことを誓う」

 今まで、積み重ねてきた時間は封印する。

 けれど、これからも、新しい時間を重ね上げていく。

 そう決意した。

 ――その次の瞬間。

 かたんっ、と。硬い音を響かせて、メイシアが立ち上がった。

「ルイフォンの、馬鹿!」

 長いスカートがふわりと広がり、風を巻き起こす。エプロンのフリルが翻った向こう側に、倒れた椅子が見えた。

「メイシア!?」

 ルイフォンが目を見張る。

 彼女が駆け寄る。背中を柔らかな感触が覆う。黒絹の髪がふわりと頬を撫でる。

 気づけば、ルイフォンの背後から、メイシアが抱きついていた。

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