2.残像の軌跡-3

 王妃の部屋に設置されていた監視カメラは、電源を落とされるその瞬間ときまで、あらゆる『時』を絶え間なく映し続けていた。

 ルイフォンの知らない、彼が逃げ出した『あと』の時間ときも、音もなく静かに、ずっと……。

 ルイフォンは――情報屋〈フェレース〉は、その録画記録を手に入れた。

「映像を再生します」

 傍らのレイウェンにそう告げ、彼は震える指先で携帯端末に触れた。



 リュイセンの肩から胸へと、〈ムスカ〉の凶刃が冷酷に流れゆき、一瞬の間をおいて血しぶきが上がった。

「ルイフォン、行け――!」

 彼は、倒れながらも〈ムスカ〉に足を掛け、組み合うようにして床を転がる。

「お前が無事なら、まだチャンスはある! 任せたぞ!」

 兄貴分の必死の叫びに、ルイフォンが決意の顔で、くるりと背を向けた。

 一本に編んだ髪が大きく弧を描く。彼は言葉にならない雄叫びを上げ、壁の姿見をナイフで粉々に砕きながら走り出した。

 控室と衣装部屋を区切るカーテンが、勢いよく薙ぎ払われる。

 そして、ルイフォンの髪先を飾る金の鈴が、吸い込まれるように向こうの空間へと消えていった。

 あとに残されたのは、〈ムスカ〉とリュイセン、タオロン。そして、硝子ケースの中で眠る美女『ミンウェイ』――。

「タ……、タオロン……!」

 リュイセンに引きずり倒された〈ムスカ〉が、床から絞り出すような声を上げた。

 瀕死であるはずのリュイセンの、いったいどこに、そんな力が残されていたのだろうか。激しいみ合いの末、リュイセンは全身を使って〈ムスカ〉を押さえ込み、自分の肩先で〈ムスカ〉の喉仏を押し潰すようにして締め上げていた。その執念に、〈ムスカ〉は驚きを禁じ得ない。

「タオロン、鷹刀の子猫を……」

 追え――と、言い掛けて〈ムスカ〉は言葉を止めた。リュイセンが意識を失っていることに気づいたのだ。

 失血による気絶だ。なのに彼の両腕は〈ムスカ〉にがっちりと喰らいついたまま、びくとも動かない。

ムスカ〉は、わずかな逡巡を見せたが、すぐに「タオロン」と再び呼びかけた。

「エルファンの小倅こせがれ……リュイセンを、私からどかせてください。急いで地下研究室に運びます。このままだと、彼は死にます」

「なっ……!」

 タオロンの太い眉が跳ね、即座にリュイセンを〈ムスカ〉から引きはがした。

 呼吸が楽になった〈ムスカ〉は、ふうと息を吐いたあと、『ミンウェイ』へと歩を進める。そして、訝しがるタオロンを振り返り、近くに来るようにと命じた。

「リュイセンを、『ミンウェイ』のストレッチャーに載せて移動します。硝子ケースを下ろすのを手伝ってください」

「……っ!?」

 タオロンは戸惑いの顔を見せた。

ムスカ〉は、『ミンウェイ』を一刻も早く、埃まみれの部屋から連れ戻したいと言って、この部屋に来たのだ。それが、埃どころか血の穢れに彩られた絨毯の上に、彼女の硝子ケースを置こうとしている――。

「何故……だ?」

「『何故』? 今は時間との勝負ですよ? あなたがリュイセンを担いで研究室に運ぶより、ストレッチャーを使ったほうが早いでしょう?」

 こめかみに、うっすらと血管を浮かべ、〈ムスカ〉は叱りつけるように早口で言い放った。

ムスカ〉の顔色も、決して良いとはいえなかった。毒刃を受け、自らえぐった腕の傷は、リュイセンとの乱闘で更に激しく出血している。包帯代わりに巻いた白衣の切れ端は真っ赤に染まり、もはや用を成していない。

「ルイフォンは……?」

 追わなくてよいのかと――素朴な疑問がこぼれかけ、タオロンは慌てて口をつぐむ。〈ムスカ〉がリュイセンの救命を優先しているのだ。余計なことを言う必要はないだろう。

 そのまま無言で指示に従おうとしたとき、〈ムスカ〉がふんと鼻を鳴らした。

「鷹刀の子猫なら、そのへんに隠れていて当分、出てこないでしょう」

ムスカ〉は、ルイフォンが出ていった仕切りのカーテンを見やり、溜め息をつく。

「ならば、リュイセンを囚えておくのが得策です。あなたの娘より、よほど確実な人質になりますからね。そのためには、彼に死なれては困るのですよ」

「ああ……。なんだ、そういうことか……」

 タオロンは得心する。〈ムスカ〉を見直しかけた自分は愚かだったと、彼の顔には書いてあった……。



「……リュイセンは……死んでなかった……」

 ルイフォンは脱力し、全身をソファーに投げ出した。

 今までの疲れが、どっと出たらしい。彼の体は、ずるずると背もたれを滑り落ち、ぱたりと横になった。とても、他人の家でする行儀ではないが、家主のレイウェンは柔らかに微笑んでいる。隣で寝転がるルイフォンの顔を覗き込み、「お疲れ様」と労ってくれた。

 あ、まずい。

 ルイフォンはそう思い、慌てて右肘を目の上に載せた。浮き上がってきた涙ごと顔を隠し、拭い取る。こんなのは情けなくて恥ずかしいだろと、自分を叱咤しながら……。

 そんな彼の心を察してくれたのだろう。レイウェンが、そっと視線を外した。

 なんともいえない沈黙が流れる。……けれど決して、不快なものではなかった。

 ルイフォンは、先ほどの映像を反芻する。

 リュイセンは重傷だが、天才医師〈ムスカ〉が、血相を変えて治療にあたると言っていた。ならば、ひとまず安心といっていいだろう。

「けど、これで『助かった』と、断定できるわけじゃねぇか……」

 唐突に冷静さを取り戻し、ルイフォンはおもむろに体を起こす。

 いくら〈ムスカ〉でも、あれだけの深手を負ったリュイセンを回復させるのは、並大抵のことではないはずだ。やはり、万一の可能性は残っている。

 癖のある前髪をくしゃりと掻き上げ、ルイフォンが思案の海に沈み込もうとしたときだった。

「リュイセンは生きているよ」

 隣から、レイウェンが断言した。

「え?」

「見た目に派手な出血をしていたけど、リュイセンは、ちゃんと直撃を避けていた。致命傷は受けていないよ。大丈夫だ」

 力強い低音が、ルイフォンの鼓膜を震わせる。緩やかな振動は耳の中から徐々に波紋を広げ、じわじわと心にまで響いてきた。

「本当、か……?」

 現実のあの瞬間と、録画記録と。ルイフォンは二度も、リュイセンが〈ムスカ〉の凶刃をその身に受ける姿を目にしている。どう見ても、致命傷だった。

 同意しかねるとの思いを、はっきりと顔に載せてレイウェンを見つめる。半信半疑……というよりも、あからさまな不信――『そんな馬鹿な』だ。

 すると、レイウェンはくすりと笑った。そして、まっすぐに、いとおしげな眼差しをルイフォンに注ぐ。

「俺の育てた弟を信じろ。――もうひとりの、俺の異母弟おとうと

 ぞくりとするほど甘やかな、低い声。

 言葉遣いさえ微妙に変わった、不可思議な言葉。

「レイウェン……? 今、なんて……」

 ルイフォンは、細いはずの猫目をいっぱいに見開き、レイウェンを凝視した。

「君は、キリファさんと、私の父上――鷹刀エルファンの息子だよ。だから、私の異母弟になる」

「……は?」

 ……なんで? 冗談だろ。そんな言葉が頭の中を巡るが、声にならない。

「確かめたわけではないけどね。少なくとも私は、君が生まれたときから、ずっとそう思っているよ」

 異母兄を名乗った彼は、包み込むような心地の良い声で、そう告げた。そして、ルイフォンとはまったく似ていない、鷹刀一族特有の美貌を煌めかせながら続ける。

「実はね、『リュイセンが死んだかもしれない』と伝えられたとき、私はたいして心配していなかったんだよ。リュイセンならば大丈夫だと信じていた。――それよりも、君のことが心配だった。私の大切な異母弟ルイフォンが傷ついていたからね」

 レイウェンの中では、ルイフォンは完全に異母弟になっているらしい。

「待てよ、レイウェン! どうして、俺がエルファンの子なんだ!?」

「だって、私はキリファさんを知っているからね。彼女が、父上以外の男の子供を産むなんてあり得ないよ」

「俺だって、母さんを知っているぞ! あの母さんなら、なんでもありだろ!」

 破天荒で常識はずれ。他人に予測できない言動など、日常茶飯事。レイウェンの弁は、単なる思い込みだ。くだらない与太話に過ぎない。

 しかし、レイウェンに引き下がる気配はなかった。やんわりと詰め寄ってくる。何があっても、ルイフォンを異母弟にしたいらしい。

「君は『父上と一緒にいるときのキリファさん』を知らないだろう?」

「それは……そうだけど……」

「キリファさんは、凄く、可愛らしい人だったよ。意地っ張りで、素直じゃなくて。いつも、思っていることとは逆のことばかり父上に言っていた」

「……そんな女、可愛くねぇだろ」

「父上も父上で、朴念仁で気が利かなくて。キリファさんが涙ぐんでいるのを見て、初めて彼女の本心に気づくような不甲斐なさだった」

「……エルファンも情けねぇな。……ああ、いや、あの母さんは泣かないだろ」

「父上もキリファさんも、不器用で、言葉が足りなかった。でも……いや、だからこそ、強く惹かれ合い、そっと寄り添うように背中を預け、支え合っていたんだよ」

「…………っ」

 ルイフォンは、反射的に何か返そうとしたが、なんの言葉も出なかった。

 母とエルファンが仲睦なかむつまじくしている姿など想像できないのだが、現実としてふたりは好い仲だった。そして、別れたあとも、本当はずっと想い合っていたらしいことは、母の親友ともいえる人工知能〈ケル〉の様子から、ルイフォンも察している。

 しかし、だからといって、いきなり自分の父親がエルファンだと言われて、納得できるわけもない。

「……なんでレイウェンは、俺を異母弟にしたがるんだよ。――というか、単に『血縁』でも、『叔父と甥』でも、なんでもいいじゃねぇか。今まで疎遠にしておいて言うのもなんだけど、俺はレイウェンのことを信頼しているぜ? どんな間柄でも、それは変わらない」

 関係を示す言葉など、別にどうでもいい。

 レイウェンは想像していたよりも、ずっといい奴だった。これからも付き合っていきたいと思う。だがそれは、血族だからではなく、レイウェンだからだ。

「ありがとう。……そうだね、君なら、そう言うだろうね」

 彼は、優しく甘やかな美貌をルイフォンに向けたまま、瞳はどこか遠くを見つめていた。その眼差しに、憂いの影が混じる。

「ごめんね。これは私の感傷だよ」

「レイウェン……?」

「私は、ほら、鷹刀の直系だろう? 血を濃く煮詰めすぎた『鷹刀』だ。――私は運良く健康に生まれたけれど、私の上には育たなかった兄弟が何人もいるし、私とシャンリーは、生まれたばかりの弟が、ほんの数時間で息を引き取ったのをこの目で見ている」

「あ……」

 一族には子供が生まれない、育たないと聞かされているが、ルイフォンは濃い血の血族の死を目の当たりにしたことはない。だから、実感がなかった。

 頭では理解しているつもりだったが、それは一族が〈七つの大罪〉に支配されていた古い時代の話で、遠い世界のことのように捉えていた。

「だからね、私にとって、兄弟というのは特別なんだよ」

 穏やかであるのに、強い声。その裏に見えるのは、ルイフォンへの深い愛情だ。

 思い込みにせよ、ルイフォンが生まれたときから、気に掛けてくれていたことは本当なのだろう。……むず痒いけど、悪くはない。

「ま、いいか。エルファンが俺の父親というのは納得できねぇけど、レイウェンが兄っていうのなら歓迎だ」

「…………え?」

 想定外の発言であったのか、レイウェンの美麗な顔が、一瞬、呆けたように崩れた。

「それで、いいだろ?」

 ルイフォンは念を押すような口調で言ってから、抜けるような青空のような笑顔を浮かべる。

「……ああ、そうだね。ありがとう」

『兄』もまた、麗しの美貌を輝かせて微笑んだ。

 ふと。

 ルイフォンは、自分の心が極めて平静であることに気づいた。明鏡止水とまではいかないが、これからすべきことが、きちんと見えている。

 彼は猫の目を鋭く光らせ、隣のレイウェンに向き合った。背中の金の鈴が、道を切り拓くようにくうを薙ぐ。

「レイウェン、ありがとな。――リュイセンは必ず俺が助ける」

「頼んだ。『俺の異母弟おとうと』になら、安心して任せられるよ」

 この約束が、暇乞いとまごいの挨拶だ。

 どちらからともなくソファーから立ち上がり、握手を交わす。

 問題は山積みだ。けれど、負ける気はしない。

「あ、そうだ。シャンリーに『スープ、美味かったです。ご馳走様でした』と伝えてほしい」

「ああ、彼女の料理は世界一だからね」

 とろけるような甘やかさで、レイウェンが破顔する。

「……」

 惚気のろけの入った『兄』に苦笑し、ルイフォンは草薙家をあとにした。

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