2.残像の軌跡-2
ルイフォンのいる小部屋の扉が再び開いたのは、彼がすっかりスープを平らげ、携帯端末を使って、今回の作戦の報告をまとめているときのことだった。
小さな画面での作業は効率が悪かったが、じっとしていられなかったのだ。
「ルイフォンさん、お迎えがきましたよ」
入ってきたのは、意外なことにレイウェンだった。初めにシャンリーが案内してくれたので、てっきり、また彼女が来ると思っていたのだ。
「ありがとうございます」
ルイフォンは手を止めて、レイウェンに頭を下げる。
彼が苦手というわけではないのだが、レイウェンを前にすると何故か背筋が伸びる。見慣れた鷹刀一族特有の美麗な顔立ちに、柔らかな物腰が加わると、どうにも落ち着かないらしい。
「報告書をまとめていたのですか」
レイウェンは、同じ顔をした他の一族の者では、決してあり得ないような甘やかな笑みをこぼし、ごくごく自然な動作でルイフォンの向かいに腰を下ろした。
「!?」
迎えが来たからには、ルイフォンは鷹刀一族の屋敷に戻るわけだ。だから、身支度を整え、携帯端末をしまおうとしていた。
なのに、レイウェンは目の前に座った。どう反応したらよいのか、ルイフォンは戸惑う。
「良い目をしていますね」
彼の狼狽は伝わっているであろうに、まるで動じない穏やかな低音が響く。折り目正しくありながらも、決して堅苦しさを感じさせない、絶妙な具合いで座る
「あ……、ええと……。お世話になりました」
ルイフォンらしくもなく動揺し、口ごもった。
彼にとって、レイウェンは『リュイセンの兄』という認識だ。
リュイセンと同じく『ルイフォンの年上の甥』ではあるのだが、心情的には、あくまでも『リュイセンの兄』。リュイセンを間に挟んだ関係だ。
そんな『遠い血族』のレイウェンが、ルイフォンにいったい、なんの話があるというのだろう。
……やはり、リュイセンの話だろうか。
生死不明の弟に関して、その原因を作ったルイフォンと話をしたい――と。
ルイフォンは腹に力を入れ、レイウェンに正面から向き合った。
その瞬間。
レイウェンが、朗らかな春の陽射しのように、柔らかに微笑んだ。
「その目……キリファさんにそっくりだよ」
「!? …………なんで、ここで、母さん……?」
あまりにも予想外の発言に、ルイフォンは言葉が続かず、口をぱくぱくとさせる。
一方のレイウェンは、切なげで、それでいて
「……参ったな。君を見送る前に、何か、ひとことくらい良い感じのことを言ってみたかったのだけど……その必要はないね。シャンリーに先攻を取られたのが敗因かな」
悔しいな、と言わんばかりに、とレイウェンは微苦笑を漏らした。
「レイウェン……?」
口調すら変わってしまった彼に、ルイフォンは瞬きを繰り返す。
「君からすれば、私なんか『よく知らない、親戚のおじさん』だろうけれど、私はずっと君を見ていたよ? 『ああ、キリファさんの息子だなぁ』ってね」
『叔父さん』は、俺のほうだ――と、内心で突っ込むが、レイウェンの感慨深げな様子を前に、そんな軽口はとても叩けない。故にルイフォンは、中途半端に口を開けたまま、レイウェンを凝視する羽目になった。
「私はね、ずっと君とふたりで話したいと思っていたよ。だから、さっき我が家を頼ってくれたときには嬉しかったし、同時に君の心を心配した」
「……っ」
レイウェンの草薙家を頼ったのは、ハオリュウの車で行ける場所を選んだだけだ。なのに、喜ばれてしまうとは、申し訳ない気がする。
「――けど、今の君には野暮なだけだね。残念だけど、このまま黙って迎えの者のところに送るよ」
そう言って立ち上がりかけたレイウェンに、ルイフォンは手を伸ばす。
「ちょ、ちょっと待て、レイウェン!」
反射的に呼び止めた。嬉しそうに母キリファの名前を口にして、その息子だからと、ルイフォンに好意的なレイウェンに納得できなかったのだ。
「……母さんは、レイウェンにとって『邪魔な父親の愛人』じゃなかったのか?」
キリファと正妻のユイランが、思っていたほど仲が悪くなかったことは、最近になって知った。けれど、父親の愛人など、やはり気持ちのよいものではないはずだ。
それなのに、何故こんなにも懐かしんでくれるのだろう。
「何を言っているんだい? キリファさんは素敵な人だよ。不思議で、魅力的だった。私もシャンリーも、彼女が大好きだったよ」
「…………。……『あの』母さんを……?」
ルイフォンの頬が、ぴくぴくと引きつる。そんな彼とは対象的に、レイウェンは穏やかに目元を緩めた。
「キリファさんは足が不自由で思うように動けないのに、見てもいない遠くのことまで、なんでも知っていた。子供の私には、不思議だったよ」
「……」
母はクラッカーだ。そのくらい、お手のものだろう。
「いろいろな情報を面白おかしく、時に嘘まで教えてくれて、『騙されるほうが馬鹿なのよ?』なんて言われたりしてね」
「なっ……! ……母さんなら言いかねない」
子供を相手に、駄目だろう。
あまりに
レイウェンを引き止めたのは自分のほうであるが、話はこれで終わりにしたい。そろそろ屋敷に戻る、と切り出そうとしたときだった。
「『キリファさんの正体は、魔法使いに違いない』と、シャンリーと言い合ったものだよ。そしたらキリファさんが『そうよ。あたしは〈
そこで、ふっと、レイウェンはルイフォンを見つめた。
母のキリファとそっくりな、猫の――〈
「今は、君が『
「……」
ルイフォンの心に、何かが引っかかった。
伝説に残るようなコンピュータのエキスパートを、俗に
けれど、そんな呼び方を知らなくても、子供のレイウェンは母を魔法使いだと思った。
『……見てもいない遠くのことまで、なんでも知っていた』
だから。
魔法使い――
心がざわつく。何かが、気になる。
「……? どうしたんだい?」
急に表情を変えた彼に、レイウェンが訝しげに首をかしげる。
「……あ、いや……」
この感覚をレイウェンに説明できるわけもなく、ルイフォンは誤魔化すように視線を下げた。……そこにテーブルが――書きかけの報告書が入力されている携帯端末があった。
「!」
リュイセンの生死が『不明』とされていた。
「『
そんな曖昧な情報は『〈
母なら、この場を一歩も動かずに、リュイセンの生死を知ることができるはずだ。
「レイウェン!」
ルイフォンは、猫の目を鋭く光らせた。
「迎えの奴に『少し待ってくれ』と言ってほしい。〈
断言する。
それが、母から〈
「他の奴ならともかく、俺は〈
父イーレオは『戻ってこい』と言った。
だがそれは、『総帥』の言葉ではなく、『〈
「さすが、〈
レイウェンは頷き、すぐさま携帯端末でシャンリーに連絡を入れる。その際、ルイフォンの変貌ぶりを
何故なら、今のルイフォンには周りの様子など何も見えていなかったからだ。彼の思考は既に異次元へと旅立ち、彼の双眸は何も映していなかった。
癖のある、猫のように豊かな表情が消えていき、端正で無機質な素顔が現れる。ルイフォンのもうひとつの顔。情報屋〈
彼は、半ば
だが――。
「監視カメラの電源が切られている!」
ルイフォンにとって想定外の事態――だが、憂慮しておくべき事態だった。
〈
「――っ、糞!」
ルイフォンはテーブルに肘を付き、髪を掻きむしる。
冷静になれ――。
〈
リュイセンは致命傷を負っていた。
最後に見た、あの満足げな笑顔は、今生の別れを告げていた。
即死かもしれない。――即死でないかもしれない。
即死でなければ、〈
――あのあと、リュイセンはどうなったのか……?
「!」
頭の中の歯車が、かちりと噛み合った。ルイフォンは、弾かれたように携帯端末に指を走らせる。
はやる気持ちに対して、小さな端末の処理速度がもどかしい。すっと細くなった猫の目が、睨みつけるように携帯端末の画面を見つめる。
あの館のセキュリティは、たいして高くない。
〈
そして――。
「あった……!」
飛びつくようにして、『記録』を手に入れた。
そして興奮のまま、中身の確認もせずに、そばで見守っていたレイウェンに向かって叫んだ。
「レイウェン! 待たせてすまない」
ルイフォンは、携帯端末から勢いよく顔を上げた。背中で、今までじっとしていた金の鈴が大きく飛び跳ね、鋭い光を散らす。
ずっと座って作業していたにも関わらず、全力で走り続けていたかのように肩で息をしていた。レイウェンが、思わず「大丈夫かい?」と尋ねるが、そんな声は耳に入らない。
「俺たちが〈
監視カメラが撮った映像は、記録装置に残される。〈
「何かの事件が起きたときに、あとから防犯カメラの記録を調べるのと同じです。この『記録』を見れば、過去を――俺が逃げた『あと』のことを知ることができる……」
そのとき、ルイフォンは、はっと気づいた。
『記録』を見るということは、すなわち――。
『リュイセンの死』を知ることになるかもしれない……。
端末を握る手が、小刻みに揺れた。
掌は汗でしっとりと濡れ、鼓動は早鐘のように鳴っていた。情報を得ることに夢中になっていた間は平然としていたのに、いざ真実を知る段になったら、とたんに膝が震えてきた。
ああ、そうか――と思った。
〈
けれど、『リュイセンの弟分』は、知ることが怖かったのかもしれない。だから、〈
それでも、逃げるわけにはいかない。――今度こそ。
「私も一緒に見て、構わないね?」
穏やかな低音が、優しく響いた。
そしてルイフォンの返事を待たずに、レイウェンが向かいのソファーから、こちら側へと移動してくる。
「はい」
弱くて、情けないかもしれない。
けれど、ここにレイウェンがいてくれたことに、ルイフォンは心から感謝した。
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