月華の宣誓

 兄上が鷹刀の屋敷を出た。

 約束されていた後継者の地位を捨て、赤子のころからの相棒だった義姉上と、外の世界へと旅立っていった。

 総帥の補佐として、一族を切り盛りしてきた母上も一緒だ。夢だったデザイナーになるのだという。

 そして鷹刀は、いずれ俺が総帥となって率いていく。

 ――無茶苦茶だ。

 俺は兄上のように強くもなければ、人格者でもない。

 一族は、俺への不満でいっぱいだ。いや、自らの手で後継者の地位を手に入れたわけでもない俺は、『不満』にすら思ってもらえない。ひたすら『不安』に思われているだけだ。

 あとは、憐憫と諦観。そんなところだろう。俺の耳には入らないようにしているつもりなのだろうが、嫌でも雰囲気は伝わってくる。

 けど、鷹刀一の猛者チャオラウと一騎討ちをして、見事、打ち勝った兄上には、誰も逆らえなかった。

 当然だ。兄上は、皆を黙らせるために、挑んだのだから。義姉上と祖父上以外、誰も信じていなかった、自分の勝利を懸けて。



 どうしても寝つけなかった俺は、夜風に当たりたくて外に出た。

 庭のあるじたる桜が、満開の枝を広げていた。月明かりを浴びて白く輝くさまは、凄い迫力だと思う。幻想的な夜桜に、芸術なんか分からない俺だって、やっぱり綺麗だなと心を奪われる。

 この大樹を見ると思い出す。

 母親に未熟だと馬鹿にされて、怒って桜に八つ当たりしようとしたけれど、指は大切だからと拳を止めた、あいつ――ルイフォン。

 あいつは言った。

『餓鬼だから、その程度で『よく出来ました』ってヤツ? 年齢に甘えるなんて阿呆だろ。同じ土俵に立ったら、周りは全部、ライバルだ』

 俺より年下のくせに、あいつは強い。武力ではなくて、魂が。

「……俺も、頑張らないとな」

 兄上が抜けたあとの繰り上がりだったとしても、俺は鷹刀を任された。

 だったら俺は、応えるべきだ。総帥にふさわしい人物になるように。

 いきなり、なんでもできるようになるのは無理だけれど、俺にできそうなことから、一歩ずつ……。

「とりあえず、筋トレでもしてから寝るか」

 刀があれば素振りができたのだが、あいにく持ち歩いていなかった。夜着姿のまま、ふらりと散歩に出ただけなのだから仕方ない。

 密かな鍛錬を、夜番の見回りの者たちに見られるのも恥ずかしいので、俺はそろそろと庭の端まで移動する。自分の部屋に戻ってもよかったのだが、夜を支配する月明かりが神秘的で、俺の冒険心がくすぐられたのだ。

 春風に誘われるまま、温室にたどり着いた。建物の影なら、誰にも気づかれないだろう。

 そう思ったときだった。

「!?」

 人の気配を感じた。

 俺は、反射的に鋭い気を放つ。

「リュイセン!?」

 温室のそばの茂みが揺れ、つやのある美声と共に、ひとりの少女が現れた。

 すらりとした綺麗な立ち姿。波打つ黒髪に月の光が注がれ、まるで銀色の王冠をかぶっているかのよう。

 血族の証である美貌が、月影によって陰と陽とに塗り分けられ、夜闇に浮かぶ。はっきりとした陰影は白い夜着にまで及び、少女でありながらも豊満な彼女の肉体を誇張していた。

 それは、夜に咲く華。妖艶なる月の女神――。

 俺は、ごくりと唾を呑み込んだ。

「ミンウェイ……」

 俺の全身が、かっと熱を持ち、まだ低くならない俺の声が、妙にかすれて情けなく響く。

 見てはいけないものを見てしまったような、そんな罪悪感。

 それは、彼女のなまめかしさのせい。

 けれど、それだけではなくて……。彼女があまりにも――。


 儚げだったから……。


「こんな夜更けに、どうしたの? リュイセン」

 いつもと変わらぬ調子で、ミンウェイは尋ねてきた。

 けれど俺は、すぐに返事をできなかった。何故なら俺は、はっきりと見ていたから。

 ――濡れた彼女の睫毛まつげが、月明かりを跳ね返すところを。

「リュイセン?」

「ああ、うん。……兄上が出ていって、俺が後継者になっただろう? だから、俺はもっと強くなるべきだと思って、夜の鍛錬をだな……」

 不安で寝つけなかったことは、無意識にすっ飛ばしていた。卑怯な格好つけだ。

「その心がけは、よいことだけど、子供がこんな遅くに駄目よ?」

 優しく諭すように、彼女は年上の顔をする。

 俺はさっきとは、まったく別の意味で、頭にかっと血が上った。

 ミンウェイこそ、こんな遅くに、だ。

 屋敷にいる者たちが、ミンウェイに悪さをすることはないと信じている。けど、こんな扇情的な姿を見せられたら、惑わされる者がいても不思議ではない。

 ――ああ、違う。いや、勿論、ミンウェイの無防備さは問題だ。

 でも、そうじゃなくて……。

「ミンウェイだって、同じだろう?」

「え?」

「不安なんだろう? 母上の代わりに、一族を切り盛りする役割を任されたのが。それで寝つけなくて、こうして庭に……」

 口に出してから、これでは俺自身の不安を暴露しているようなものだと気づく。せっかくの格好つけも台無しだ。

 ミンウェイは、切れ長の目を瞬かせた。その拍子に睫毛まつげに掛かっていた雫が弾け飛ぶ。

 年下の俺に、図星を指されて戸惑ったみたいだった。……少し考えれば、誰でも分かることなのに。

『いずれ』総帥になる俺とは違って、ミンウェイは『明日から』鷹刀を担う。母上が好き勝手するために出ていってしまったからだ。

 まったく、滅茶苦茶だ。

 なのにミンウェイは、ちっとも不満を言わない。

「ええ。勿論、不安だわ。自信なんかないもの。でも、ユイラン様が夢を叶えられるのは、素晴らしいことよ。応援しなきゃ」

 俺より少しだけ高い位置にある目線を下げ、たしなめるように俺の顔を覗き込む。

「……っ」

 そんな模範的な答えで、柔らかに微笑む。本当は苦しくてたまらなくても、ミンウェイは気丈に振る舞う。

 いつもそうだ。

 だから俺は、彼女は『強いお姉さん』なのだと、ずっと騙されていた。しかも、『ちょっと凶暴な』だ。何かあると、すぐに俺の首を絞めたりしたから。

 でも、そのうち気がついた。俺の野生の勘が、自然と理解してしまったのだ。

 ミンウェイの中には、小さな女の子がいる。

 ふとした瞬間に『彼女』は現れ、迷子のように瞳を揺らす。

 乱暴にしか、じゃれつけなかったのは、心が不器用だからだ。初めのころは、本気でいじめられていると思っていた。けど、加減を知らなかっただけなのだと、今なら分かる。

 無邪気にふざけて、触れ合いたい。

 その裏にあるのは、人恋しい気持ち。

 それはたぶん、ぬいぐるみなんかを抱きしめたいような感情で、対象は俺とかルイフォンとかの、ミンウェイより『弱くて、小さいもの』。『強くて、大きなもの』に対しては――なんて言うんだろう。顔色を窺う、だろうか?

 そんなふうに漠然と感じていたことが、正しかったと知ったのは、つい最近だ。

 彼女の心の支えである、母上と義姉上を連れて行ってしまうからと、兄上が言葉を選びながら、屋敷に来る前のミンウェイのことを教えてくれた。

「ミンウェイ」

 俺は名を呼んだ。努めて低く出した俺の声色に、彼女は不思議そうな顔をする。

「不安は、ちゃんと泣いて流したほうがいい」

 俺の言葉に、ミンウェイは悲鳴のような小さな声を漏らし、確かめるように自分の顔に触れた。

 その慌てぶりに、俺はなんだか言ってはいけないことを言ってしまって気がして、つい「俺も同じだから」と付け加えてしまった。

「そ、そうよね。リュイセンも、いきなり後継者だもんね」

 ほっとしたような彼女に、俺の心がちくりと痛む。きっと彼女は、俺もひとりで泣いていたのだと勘違いしただろう。

 それでも俺は、ミンウェイの心が穏やかであるほうがいい。

 彼女は、小さいころに、心の一部をどこかに置き去りにしてきてしまった。

 だから無防備で、不安定で、危うい。

 そんな彼女の欠けた心を、俺は埋めてあげたい。

 ――彼女を守りたい。

「ミンウェイ」

 俺は彼女に手を伸ばしかけ、けれど途中でやめた。

 今の俺がミンウェイを抱きしめたって、彼女は『後継者の重圧に震える、子供の俺』が、すがってきたとしか思わないだろう。

 だから代わりに、まっすぐに彼女を見つめた。

「今すぐじゃないけど、俺は総帥になる。だから、そのとき――俺を補佐してほしい」

 これが、精いっぱいの告白。

 月光に彩られた彼女は、今の俺には高嶺の花。ルイフォンの言う通り、年齢なんて関係ないと思うけれど、俺はまだ実力不足だから……。

「え?」

 ミンウェイがきょとんとする。俺の気持ちに気づかなければ、当然の反応だろう。

「だからさ……。俺たち、頑張ろうぜ」

 そう言って俺が右手を出すと、ミンウェイは俺の手をしっかりと握ってくれた。



 その日を境に、ミンウェイは、むやみに俺に抱きつかなくなった。

 彼女の草の香を至近距離で感じられなくなったことは、素直に寂しい。

 けれど、でも――。

 いつかきっと、俺から彼女を抱きしめる。

 その意味を、彼女が勘違いしないようになった、そのときに――。

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