4.若き狼の咆哮-2

 リュイセンの叫びは、まるで若き狼の咆哮だった。


『祖父上は、あの〈ムスカ〉を『血族』だと思ってらっしゃるのです!』

『いい加減、はっきりさせましょう! 俺たちの前に現れた、あの『〈ムスカ〉』という男は、我々にとって『何者』なのか――!』


 イーレオは眼鏡の奥の目をわずかに細めた。秀でた額に皺が寄り、思索の表情を作る。だがそれは、どことなく迷いの印象をもいだかせる顔だった。

「リュイセン! 言葉が過ぎる」

 エルファンの厳しい叱声が飛んだ。

 だが、氷原を吹きすさぶ雪嵐の一喝にも、烈火をたたえた今のリュイセンは動じない。そもそも、次期総帥たる父の叱責など、承知の上だったのだろう。ただ静かに一礼をし、リュイセンは着席した。

 なおも言葉を重ねようとするエルファンを、イーレオは「構わん」と遮った。そして一族の総帥は、わずかに背を起こし、皆を睥睨する。

 深い海の色合いの瞳は、ひとりひとりの心を覗き込むかのようでもあった。果てなき淵に似た双眸からは、感情を読み取ることができない。

「では、リュイセンに尋ねよう。お前は、あの〈ムスカ〉を『何者』だと捉えている?」

 リュイセンはごくりと唾を呑んだ。思いがけぬ質問であったが、これは特別に与えられた提言の機会チャンスだった。

「奴は、現在の〈七つの大罪〉が作り出した、ただの『駒』です。大華王国一の凶賊ダリジィンである鷹刀、および総帥である祖父上を害するための刺客で、我々に揺さぶりをかけるために、わざわざ因縁のある人物を選んで作り出した、卑劣な罠です」

「そうか」

 イーレオは、ふっと口元を緩めた。

「つまり、お前の見解では、『黒幕』の目的は、あくまでも『俺や鷹刀に危害を与える』こと。その手段として〈ムスカ〉を使っただけであり、奴を血族とみなしたり、ましてや血族の情に流されるようでは、思う壺だと」

 海底から響くような、低い低い声。暗い渦に呑み込まれそうな気配に、リュイセンの肩がびくりと動く。

「祖父上……」

「そう言って、お前は俺を愚弄したわけだな?」

 リュイセンは、ぐっと奥歯を噛んだ。息が止まり、冷や汗が背を伝う。

 しかし、彼の視界の端にはミンウェイがいた。狂った父親が紡ぐ世界に囚われていた娘。彼女に、再び悪夢を見せる必要はない。あれはただの『駒』で、彼女の父親とは関係ない――!

「おっしゃるとおりです」

 リュイセンは一同を見渡し、ひときわ声を張り上げた。

「あれは『駒』です。なのに、祖父上も、父上も、……ミンウェイも! 生前の奴を知る者は皆、惑わされる……!」

 彼は唾を飛ばし、熱弁をふるう。

「――それは、愚かなことです!」

 その一声は、まるで神速の閃光。

 一族の長の威圧を、リュイセンは愛刀を振るうが如く斬り捨てた。抜き身の双刀を宿したかのように、ふたつの瞳がぎらりと煌めく。

「リュイセン!」

 エルファンの声が、轟いた。

 それを、イーレオの視線が制する。

 真空のような無音が広がった。吐息で場を乱すことさえも許されぬ、張り詰めた静寂の支配下となる……。

 どのくらいの時が、過ぎただろうか。

 ルイフォンは、ふと、奇妙な気配を感じた。

 ゆるりと柔らかな息遣い。まるで微笑みが漏れ出したかのような、穏やかな呼吸――。

 場違いな違和感の発生源をおっかなびっくり、たどってみれば、リュイセンに慈愛の眼差しを向けるイーレオがいた。

「親父……?」

 ルイフォンの呟きに応えるかのように、イーレオの目元に笑い皺ができる。その茶目っ気たっぷりの様子に、ルイフォンは理解した。

 イーレオは、わざと怒らせたのだ。リュイセンは誰の目にも明らかなくらいに、不満を抱えていた。だから、それを吐き出させた。

 そして同時に、リュイセンを試したのではないかと、ルイフォンは邪推する。

 ――鷹刀イーレオという人間は、何よりも人を魅了する『人』が好きである。そして今、イーレオは、とても満足げな顔をしている。つまり、リュイセンは期待に応えたのだ。

「リュイセン」

 イーレオが名を呼んだ。

 ルイフォンとは違い、状況を飲み込めずにいるリュイセンは、イーレオの柔らかな声に戸惑い、瞳を瞬かせた。

「俺は、あの〈ムスカ〉の正体を、おそらく正確に言い当てられる」

 ざわりと場が色めき立つ中で、リュイセンが「祖父上!?」と、一段大きな声で叫んだ。その反応を予測していたイーレオは、すかさず言を継ぐ。

「推測が当たっている自信はある。だが、確たる証拠を掴むまではと、伝えるのを先延ばしにしていた。そのせいで――リュイセン、お前の気を揉ませた。……悪かったな」

 寄せて返す波のように、低い声がすっと消え入った。

「そ、祖父上、そんな……! 顔を上げてください」

 わずかに、ではあるものの、確かに下げられたイーレオのこうべに、リュイセンは狼狽する。

 イーレオの静かな語り口調は、どこか遠くに向けられていた。なんとなく儚げに見える眼差しに、ルイフォンは一抹の不安を覚える。

「親父……、親父は〈ムスカ〉を……、その……見逃したいのか?」

「逆だ」

 イーレオの答えは端的で、そして即答だった。

 予想外に険しい口調にルイフォンが面喰らっていると、付け足すような低い声が続く。

「奴は、葬り去らねばならない存在だ」

 無慈悲なほどに凪いだ目で、イーレオは、はっきりと告げた。

「……だが、尊厳は守ってやりたい。甘いかもしれないがな」

 溜め息と共に、わずかに首を傾ければ、長髪のひと房が頬に落ちた。イーレオは、それを指先ですっと払う。綺麗に染められた黒髪はつややかに光を跳ね返しはするが、所詮、若作り。まがい物だ。

「どういう、こと……ですか!? 祖父上は、何を……ご存知なのですか?」

 気持ちの上では一直線に問いただしたいリュイセンであったが、イーレオの雰囲気に呑まれ、ためらいながら言葉を選ぶ。

 イーレオには、それが手に取るように分った。わずかに苦笑して、けれど、どこから話したものかと悩み、眉を寄せる。

「……あの〈ムスカ〉は、ヘイシャオに似た年格好の人間の変装などではなく、生き返ったヘイシャオである。つまり、『〈七つの大罪〉には、死者を生き返らせる技術がある』――このことには皆、納得しているな?」

 イーレオの問いかけに、一同は思い思いに頷いた。

 ルイフォンとリュイセンが見た〈ムスカ〉の顔は、明らかに鷹刀一族のものであったし、ミンウェイが会話した〈影〉は、間違いなく父だと彼女は感じた。

 一方で、十数年前には、エルファンが確かにヘイシャオの息の根を止めており、その亡骸を埋葬している。実は生きていた、なんてことはあり得ない。

「だが、俺が〈悪魔〉の〈獅子レオ〉として、〈七つの大罪〉に関わっていたころには、そんな技術は存在しなかった」

「え?」

 誰からともなく、疑問を漏らす。それを受けるように、イーレオは深々と頷いた。

「俺が抜けたあとに、研究されたんだ。――〈七つの大罪〉に残ったヘイシャオによって、……『死者を生き返らせる技術』が」

「……!」

 ミンウェイが息を呑んだ。華やかな美貌から、色味が消えていく。

 イーレオが総帥になり、鷹刀一族は〈七つの大罪〉と手を切った。だが、ミンウェイの父ヘイシャオは、妻の病の研究を続けるために一族を捨て、〈七つの大罪〉を選んだ。

 ――『病を治す研究』のため……のはず、だった……。

たもとを分かって、数年後。ミンウェイが生まれるよりも前のことだ。音信不通になっていたヘイシャオから電話があった」

「お父様から……!?」

「ああ。『助けてください』と、彼は電話口で声を震わせた」

 今までの〈ムスカ〉――ヘイシャオの印象からは、信じられないような発言に、場の空気が揺れる。

「『もう、妻の体は長くはたない』と。『どんなに手を尽くしても、変えられない運命だ』と。ヘイシャオは嘆いた。そのときの俺は――」

 イーレオは目線を下げ、自嘲の笑みを浮かべた。

「来るべきときが来たなと、ただ冷静に聞いていた。それどころか、わざわざ連絡を寄越すとは律儀だな、とすら思った。……薄情だろう? 彼の妻は、俺の娘なのに。――俺の中では、あの子はとっくに死んでいたんだ……」

 鷹刀一族の濃い血を持った人間が、無事に育つ確率は極めて低い。それを目の当たりにしてきたイーレオの諦観は、仕方のないことといえた。



 イーレオは、ヘイシャオに心からの感謝を述べた。

「今まで、ありがとう。お前のおかげで、あの子も幸せだったろう。残りの時間を有意義に……」

『何をおっしゃるんですか! 彼女はまだ生きている! そして、彼女が生きられる方法があるんです!』

 電話回線を通したヘイシャオの声は、興奮でひび割れていた。

 頭に血が上った彼の話は、しばらく要領を得なかったが、彼は本来、理詰めでものを言う医師であり研究者である。やがて落ち着きを取り戻し、これまでのことを語り始めた。

 彼の研究は、初めは『病の治癒』だった。

 それが、いつの間にか『延命』になった。

 そして――。

「ヘイシャオ、それは『死者の蘇生』と同じじゃないか? いくらなんでも、自然の理に反している」

『違います。臓器移植と同じです。新しい体に記憶を移すだけです!』

 救うことのできない肉体の代わりに、彼女の遺伝子をもとに、病の因子を排除した健康な新しい肉体を作る。そして〈天使〉を使って、記憶を移す。――ヘイシャオはそう言った。

〈影〉と同じように聞こえるかもしれないが、彼女本人の体を新しく作るのだから、〈影〉とは違う、と。

『クローン技術に、私が研究を重ねて完成させた『肉体の急速成長』技術を組み合わせて、現在の年齢の彼女の体を作ります』

「な……!? そんなことができるのか?」

『既に、実験は成功しています。安全です。何も問題はありません』

 畳み掛けるヘイシャオに、イーレオは言葉を失った。

 理論上は可能だろう。既に成功しているという話も、ヘイシャオが言うのなら、そうなのだろう。多くの犠牲を伴ったであろうけれど。

 ――しかし。これは、禁忌の領域だ。

 イーレオは、本能的な嫌悪をいだいた。

 同時に、ヘイシャオを一族に引き止めなかったことを悔いた。

 生まれつき病弱なイーレオの娘が、天寿をまっとうできるわけがない。その日が近づけば、ヘイシャオが暴走するのは火を見るより明らかだったはずだ。何故ならヘイシャオは、彼女のために〈悪魔〉となったのだから……。

『お義父さん』

 電話口から、決然とした声が響いた。

 そう呼ばれたのは初めてではないのに、イーレオの心臓はどきりと音を立てた。

『この方法を使うためには、彼女の体が生きているうちに、記憶を保存しておく必要があります。けれど、彼女が同意してくれないのです!』

 イーレオは、ほっと安堵の息をついた。ヘイシャオはすっかり動転しているようだが、娘は冷静だった。

『これは『死者の蘇生』ではなく、『もうひとりの自分を作る』技術です。悪用されることもあるでしょう。お義父さんが、よい顔をしないであろうことも承知しています。けれど、悪いのは技術ではなく、使う人間です』

 話の筋道が見えない。イーレオは困惑した。

「お前は、何を言いたいんだ?」

『彼女の説得に、協力してください!』

 ヘイシャオの声が、イーレオの耳に鋭く突き刺さった。

『無茶なお願いをしていると、分かっています。けれど、〈七つの大罪〉を否定したお義父さんが勧めてくれたなら、彼女も納得してくれると思うのです!』

「…………断る」

 イーレオとて、まったく迷いがなかったわけではない。とうの昔に諦めていた娘の命を、これほどまで愛おしんでくれる男に、酷いことを言っていると分かっている。

 しかし……。

 ここに来るまでに、どれほどの努力と――どれほどの犠牲が払われたのか。そしてまた、これから〈天使〉を使えば、その〈天使〉は遠からず熱暴走で命を落とす。

 命をもてあそぶ行為だ。

 許されるはずがない……!

「それは『悪魔』のすることだ。俺はもう、〈悪魔〉をやめた」

精神ソフトウェアはそのままに、具合の悪い肉体ハードウェアを交換するだけ。それの、どこがいけないんですか!』

 どす黒い、執念の叫びだった。けれど、魂が裂けるような想いは、悲しいほどに美しかった。

『お義父さん、どうかお願いします。私は、彼女を失いたくないんです!』

「娘も嫌がっているのだろう?」

『ええ。だから、彼女の意思を無視して、勝手に記憶を保存するようなことはしたくありません』

 破綻しているような理屈だった。

 けれど、ヘイシャオの中では正しく成立していた。何をおいても彼女が一番という、彼の絶対の不文律に対して矛盾しないのだった。

「ヘイシャオ、現実を見据えろ。娘の言っていることを、ちゃんと聞いてやってくれ……」

『どうして分かってくれないんですか! ――彼女が死んだら、あなたのせいだ!』


 イーレオがヘイシャオと言葉を交わしたのは、それが最後だった。

 その後、ミンウェイが生まれ、娘は死んだ。

 そして十数年も経ってから、ヘイシャオは、イーレオではなくエルファンの前に現れた。自分を殺してもらうために――。



「ミンウェイ。この話をお前に聞かせてよいものか。俺は、ずっと迷っていたよ」

 独りごつように、イーレオが呟いた。

 禁忌に手を染め、祖父を罵った、父親の話だ。

 狂おしいまでに深く妻を愛した、父親の話だ。

「いいえ、お祖父様。お聞かせくださり、ありがとうございます」

 ミンウェイは落ち着いた声で、穏やかに笑った。

「お父様は、お母様を亡くすことが恐ろしくてたまらなかったのでしょう。そして、たぶん……お母様は、お父様を残して逝くことが不安だったのだと思います」

 彼女は、緩やかに目を伏せる。

 母には、禁忌の技術を受け入れることができなかった。けれど最愛の人を、ひとりぽっちにしたくなかった。だから……。

「お母様は、ご自分の記憶の代わりに、私を――お父様に遺したんですね。そんな両親を知ることができて……よかったと思います」

 ぽつりと、ミンウェイが漏らした。

 その直後に、慌てたような草の香が広がる。波打つ髪の影に隠し、目頭を押さえる彼女の顔を、誰もが見ないふりをした。

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