3.冥府の警護者-2
部屋の外にある照明のスイッチを入れ、ルイフォンは分厚く頑丈な扉を、体重をかけるようにして押し開けた。
メイシアの手を引き中に入り、また閉じる。
すると、今まで感じていた振動がぴたりと収まった。すぐ隣で――続き部屋であるので、本当に壁一枚を隔てた向こうがわで、〈ケル〉がうなりを上げているにも関わらず、まったく音も揺れも感じない。
「凄い防音壁だな……」
母のキリファが、休息を取るのに使っていた小部屋――。
仮眠をとるのが主な目的の部屋であるから、壁が厚いのは当然、といえば当然かもしれない。
実はルイフォンは子供のころ、ここは入ってはいけない場所だと思っていた。理由は簡単で、扉が重すぎた。入りたくても入れなかったのである。
大きくなってからは、そんなことはなかったのだが、無意識の遠慮があった。それは、ただのすり込みで、けれどそのために、この部屋は盲点だった。まさに、真の〈ケル〉の隠し場所にふさわしい。
「……母さん、狙っていたな」
厳重に隠すのではなく、見える状態にしておきながら、気づかないルイフォンを鼻で笑う。なんとも、あの母らしい気がする。
そんな感慨にふけっていると、メイシアの視線を感じた。
「ああ、すまん。ちょっと思い出してな」
「ルイフォン、嬉しそう。……よかった」
何を思い出していたのか説明しなくても、彼女は分かっている。そして、先ほど母への苛立ちを爆発させた彼に『よかった』と言ってくれる。
「俺、嬉しそうか?」
「うん」
「そうか……」
彼女の小さなひとことが、心を落ち着かせる。
だから、大丈夫だと思える。だから、真の〈ケル〉が何を告げても構わない。
ルイフォンは、ゆっくりと部屋を見渡した。
飾り気のない殺風景な部屋に、仮眠用のベッド。軽食でも摂るのに使っていたであろうテーブルと椅子。
奥に据えられた
「……!?」
ルイフォンは顔色を変えた。
モニタのそばに、白金の光を放つ
大きさは握りこぶし大、といったところか。ゆらりゆらりと緩やかに明るさを変えながら、彼を誘っている。
「……」
一見したところ洒落た置物のようであるが、母にそんなものを飾る趣味があったとは思えない。引き寄せられるように近づいて見れば、
一本一本の糸が、細くなったり太くなったりを繰り返し、時折り糸の内部をひときわ強い光が駆け抜ける。そのさまは、生命が脈打っているかのよう。
――そう。これは、まるで……。
「……間違いない。これが、真の〈ケル〉だ」
「これが……?」
メイシアが、驚きに瞳を瞬かせた。
彼女は当然、無機質な筐体を思い描いていただろう。ルイフォンだって、この
「ああ。これは、〈天使〉の羽にそっくりなんだ」
「!」
メイシアが息を呑んだ。
侵入した斑目一族の別荘で、ルイフォンは〈天使〉のホンシュアと出会った。
薄暗い月明かりの中、彼女の背から、まばゆい白金の光の糸が噴き出した。無数の糸は互いに繋がり合い、網の目のように広がり、羽となった。
――この
ルイフォンは静かに
キーボードが奏でる、カタカタという調べ。
ルイフォンの指先がキーの上で軽やかに踊り、モニタ上の表示が目まぐるしく変わる。
リズミカルな音を打ち鳴らし、チカチカと光るバックライトを浴びながら、〈
壁の向こうにある巨大な〈ケル〉と対峙していた、先ほどのルイフォンとは違った。
彼は今、とても穏やかな顔をしている。〈
不意に、〈
どうしたのだろうと、メイシアがルイフォンの横顔を見やれば、彼の呼吸が荒くなっている。忙しなく明滅するモニタの光と、息を合わせているかのように速い。
画面の中で、カーソルが点滅していた。
初め、メイシアは入力を促されているのかと思った。しかし、それは既に終わっているらしい。彼女には分からない、難しい文字の羅列が打ち込まれている。
――けれど彼の指先は、ひとつのキーの上に載せられたまま、ぴくりとも動かない。
「ルイフォン」
メイシアは、すっと彼に寄り添った。止まったままの彼の手に、そっと自分の掌を載せる。
「一緒に……押していい?」
機械類に詳しくない彼女にも分かった。このキーを押せば、〈ケル〉への強制アクセスが可能になるのだ。
「……メイシア」
ふっ、と。
彼が破顔した。嬉しそうに、愛しそうに目を細める。
「ああ、頼む」
力強く、彼は頷く。
その声を合図に、ふたりはキーの上に力を加えた。――刹那、部屋の照明が消えた。
「……!」
ルイフォンは、即座に椅子から立ち上がった。メイシアを抱き寄せ、守るように後ずさる。
ふつり、と。照明に続き、モニタがブラックアウトした。
そして……。
唯一の光源となった
「っ!」
鋭い息を発したのは自分なのか。それとも、そばにいる最愛の相手なのか。
ルイフォンにも、メイシアにも分からなかった。ぴたりと触れ合った体では、早鐘のような心音が共鳴し合っている。
「〈天使〉の羽、だ……」
ルイフォンが呟いた。
それは、光の波紋。急流のような勢いで駆け巡り、部屋を覆っていく。
あるいは、光の渦。壁にぶつかっては跳ね返り、すれ違う光を巻き込みながら、部屋を包んでいく。
瞬く間に、光の繭が出来上がった。そして、ルイフォンとメイシアは今、その内側にいる。
闇に浮かぶ幻想的な光は、妖しくも神々しく、人の目には禁忌なのか、あるいは畏敬なのか……。
張りぼての〈ケル〉の後ろに、真の〈ケル〉が封じられていた理由を――封じられなくてはならなかった理由を、言葉ではなく本能で感じ取れた。
ルイフォンは、ごくりと唾を呑んだ。
考えようによっては得体の知れないものに『閉じ込められた』。だが、それを口にしても、メイシアを不安がらせるだけだ。
彼は口角を上げ、余裕の笑みを作る。ハッタリは得意だ。
「よぅ、〈ケル〉。やっと会えたな」
何に話し掛ければよいのか分からなかったので、とりあえず
〔ルイフォン……〕
何処からともなく、声が響く。
〔ごめんなさい〕
高くもなく、低くもない、落ち着いた少女の声。清らかな川の流れのように澄んでいるのに、物悲しい
ルイフォンは拍子抜けした。
なんとなく、女の声で出てくるであろうとは予測していたが、『ごめんなさい』は予想外だった。〈ベロ〉があの通りなので、もっと高圧的にくると思っていたのだ。
「何故、謝るんだ?」
彼の質問に、近くを流れていた光が、さぁっと陰りをはらむ。人でいうのなら、あたかも顔を曇らせたかのようだ。
〔あなたが来ることは〈ベロ〉様から聞いておりました。けれど私は、あなたがここまでたどり着けないことを祈っていました〕
丁寧ではあるものの、きっぱりとした拒絶の姿勢。
母キリファに作られた『もの』であるはずの〈ケル〉にも、しっかりとした人格が感じられる。〈ベロ〉にシャオリエというモデルがいるように、〈ケル〉にもおそらくモデルがいるのだろう。
それは誰なのか。心当たりはないが、キリファが〈ケル〉を作ったのは、ルイフォンが生まれる前だ。そもそも彼の知らない人物である可能性のほうが高い。
そんなふうに〈ケル〉について推測しつつ、ルイフォンは尋ねる。
「なんで、俺に会いたくなかったんだ?」
〔あなたが知りたがっていることを、私はお答えできないからです。――申し訳ございません〕
声だけなのに、きちんと正座をした『彼女』が、三つ指をついて頭を下げる姿が目に浮かぶ。しとやかな淑女。けれど、ややもすると素っ気ない印象も受ける。
「母さんと先王が、何を話していたのか――『教えるわけにはいかない』と、いうことだな?」
ルイフォンは、慎重に言葉を言い換えた。
『知らないから、答えられない』のではなくて、『知っているけれども、答えられない』のだということの確認だ。
〔はい〕
「理由は?」
ルイフォンはぐっと顎を上げ、姿なき〈ケル〉を威圧的に睨んだ。
そこら中を漂うこの光の糸が、もし本当に〈天使〉の羽と同じものなら、〈ケル〉と人間を繋ぐ
けれど〈ケル〉は、彼がたどり着けないことを祈りながらも、彼の呼びかけに応えた。直感に過ぎないが、〈ケル〉は敵ではない。非現実的な光景には気圧されたが、恐れることはないのだ。
〔理由は……。言えば、あなたは怒ります〕
「とりあえず、言ってみてくれ。どう感じるかは、俺が決めることだ」
〔そうですね。あなたは昔から、そういう子でした〕
「……?」
ルイフォンは眉を寄せ、それから気づく。少女の声に惑わされてしまいそうだが、〈ケル〉は彼が生まれる前からこの家にいる。彼のことは、なんでも知っているのだ。
〈ケル〉の糸の一部が、淡く光った。その光は揺らぎを見せながら、緩やかに伝搬していく。
それは、
〔……私は、キリファの支配下にあるのです。だから、キリファの望まないことは、私にはできません〕
「なっ!? また、母さんかよ! おい、今の俺には『強制アクセス権』があるんじゃないのか? それでも、俺より母さんに従うのか?」
〔ごめんなさい。『強制アクセス』とは、『隠れている私を強制的に引っ張り出し、
〈ケル〉の言葉の裏に、ルイフォンは、自分とそっくりな猫の目で、にやりと笑う母を見た。
癖のある前髪を、彼は乱暴に掻き上げる。その髪もまた、癪なことに母親譲りであった。
――ふと、ルイフォンの腕の中で、メイシアが動いた。黒曜石の瞳が、頼むように彼を見上げている。〈ケル〉に何か言いたいことがあるらしい。
どうやら危険はなさそうだ。彼はそっと力を緩めると、彼女は「ありがとう」と囁き、隣に立った。
「はじめまして〈ケル〉、私はメイシアと申します。誰よりも、ルイフォンを愛する者です」
高く透明な声が、凛と告げた。
少し前には考えられなかったような強い言葉に、ルイフォンはどきりとする。
〔ええ。知っています。いつも、ルイフォンをありがとう〕
ふわりと微笑むように光が流れた。と、同時にメイシアが、はっと顔色を変える。
「あっ……、そうでしたね。この家で起きたことは全部、ご存知なのですよね……」
尻つぼみになる声と共に、頬がさぁっと熱を持ち、彼女はうつむく。
メイシアが何を考えたかを察し、ルイフォンは苦笑した。〈ケル〉は『なんでも』知っているのだ。些細な失敗から、ふたりの睦言まで。
第一声で、彼をどきりとさせたくせに、こんなことで耳まで赤く染めるとは、相変わらずだ。
「メイシア」
ルイフォンは、彼女の髪をくしゃりとした。
「〈ケル〉が何を見ていようと、俺は気にならない。俺はいつだって、俺として恥ずかしくないように、俺らしく正々堂々と生きているからだ。――お前だって、そうだろ?」
「え……!? あ……、う……」
ルイフォンが腰に手を当て、胸を張る。過剰なまでに、自信に満ちあふれた彼の顔に、メイシアは視線をさまよわせて狼狽する。
しかし有無を言わせぬ彼の笑顔に、やがて彼女も「はい」と微笑んだ。――顔は赤いままだが、それは仕方ない。
メイシアは改めて、姿なき〈ケル〉と向き合った。
照明の消えた室内。太く細く、ゆっくりと明暗を繰り返す〈ケル〉の光がメイシアを照らす。薄闇に浮かび上がる横顔は……緊張に彩られていた。
「〈ケル〉……。四年前、キリファさんがお亡くなりになったときの『ルイフォンについて』、お話をさせてください」
「俺について……?」
唐突な、思いもよらぬ発言だった。
メイシアがいったい何を言うつもりなのか、ルイフォンには見当もつかない。けれど聡明な彼女は、何かに気づいたのだ。それだけは理解した。
だから彼は、そっと彼女の手を取った。冷静な口調とは裏腹に、固く握りしめられた彼女の拳が、小刻みに震えていたからだ。
〔……何のお話ですか?〕
光が揺らいだ。〈ケル〉の声もまた、不安定に揺らいでいた。メイシアは返事があったことに少しだけ安堵して、口を開く。
「あの日。この場所にルイフォンが来たのは、キリファさんにとっては予定外のことだったと思います。だから記憶を改竄して、ルイフォンを守ろうとしたのだと思います」
〔そうですね……〕
抑揚を失った〈ケル〉の声が、静かに相槌を打つ。
「なら、何故、ルイフォンはこの場に来たのですか? ……偶然ですか?」
本人を目の前にしながら、メイシアは〈ケル〉に尋ねた。ルイフォンは首をかしげつつ、口を挟む。
「メイシア、俺は警報音で起きたんだ。部屋を飛び出すと警護の者が殺されていて、胸騒ぎがして地下に……」
「待って、ルイフォン。あなたの記憶ではそうかもしれないけれど、本当は警護の者たちは休みを出されていたのでしょう?」
「……!」
キリファは警護の者たちに暇を出していた。それは、キリファと先王の密会が、秘密裏に行われるべきものだったからだ。
誰にも知られずに、密やかに……。息子のルイフォンにも、悟られないように……。彼が眠っているうちに……。
――なら、あの警報音は……?
「おかしいと思うのです。何故、夜中にルイフォンが目を覚ましたのか。……都合よく目覚めるなんてあり得ないと思うのです」
そしてメイシアは、まっすぐに前を見つめた。
「〈ケル〉、あなたがルイフォンを起こしたのではないですか?」
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