3.冥府の警護者-1
かつん、と靴音を鳴らし、ルイフォンとメイシアは地下通路に降り立った。
照明は点けられているものの、どこか薄暗い感は否めない。緊張するメイシアを引き寄せ、ルイフォンは肩を抱くようにして奥に進む。
ほどなく、〈ケル〉の収められた部屋の前にたどり着いた。
挑みかかるように瞳を光らせ、彼は分厚い扉を力強く開け放つ。
「……っ」
封じられていた冷気が解放され、波濤のように押し寄せる。
と同時に、〈ケル〉本体と冷却装置が生み出す、激しい振動の二重奏が襲いかかってきた。
「……いつものことだけど、ここは人間の来るところじゃねぇな」
軽口を叩くルイフォンの声も、騒音とも言うべき機械音に、半ば掻き消される。
彼には馴染みの場所であるが、メイシアにとってはまだまだ物珍しいらしい。今日、初めて見たというわけではないのに、部屋を埋め尽くす〈ケル〉の巨大な筐体に圧倒され、溜め息をついていた。
鷹刀一族の屋敷にある兄弟機〈ベロ〉と同じく、〈ケル〉もまた小さな家一軒分くらいの床面積を持つ。そして、それに見合った放熱量を誇るため、専用の冷却装置を備えていた。そんな重量と騒音の問題から、『彼ら』は地下に設置されているのだ。
普段は〈ベロ〉は仕事部屋から、〈ケル〉はこの家の別の部屋から遠隔操作している。しかし、今回は特別だった。
母キリファの『手紙』によれば、〈ケル〉のすぐそばにある
「メイシア」
ルイフォンは彼女の名を呼び、
おそらく、騒音に負けて声は届いていなかったろう。けれど彼女は気配に頷き、彼についてくる。
回転椅子にどっかりと座ったルイフォンがモニタと向き合うと、メイシアが隣の椅子にちょこんと品よく腰掛けた。
「それじゃ、〈ケル〉を呼び出すか」
ルイフォンは、にやりと笑い、おもむろにOAグラスを鼻に載せる。
「ねぇっ……」
メイシアが遠慮がちに彼の袖を引いた。声は聞こえていなかったが、彼女の口の動きから、たぶんそう言ったのだろうと思う。
「なんだ?」
叫ぶようにして言葉を返すと、メイシアは彼に寄り、耳元で尋ねた。
「先王陛下とキリファさんは、本当にこの部屋で話をしていたの?」
「……!」
ルイフォンは息を呑んだ。
この騒音の中では、まともな会話が成立するはずがない。
はっきりと顔色を変えた彼を捕らえ、メイシアの黒曜石の瞳が不安げに揺れた。
OAグラスに反射した青白いモニタの光が、ルイフォンの肌の色の彩度を落とす。いつもの豊かな表情は
――彼のもう一つの顔、〈
座っているだけのメイシアは面白くもないだろうに悪いな、などと最初は気にしていたルイフォンだが、いつの間にか彼女のことも騒音のこともすっかり忘れていた。実に彼らしいことである。
メイシアも、ちゃんと心得ていて、邪魔にならないようにおとなしくしていた。それでいて、たまに、持参したお茶を絶妙なタイミングで差し入れるのだった。
ルイフォンが
状況は芳しくなかった。
あの『手紙』の通りなら、とっくに〈ケル〉が応えているはずだった。
彼は癖のある前髪を、くしゃくしゃと掻き上げる。
まだまだこれからだと思いつつも、疲れを隠しきれなくなってきたころ――すなわち、集中力が途切れかけて初めて、ルイフォンはメイシアが何か言いたげな顔をしていることに気づいた。
作業中の彼には、彼女は決して声を掛けない。
ルイフォンはOAグラスを外し、小休止を示した。
「どうした?」
「ルイフォン」
騒音の中に落とされた小さな呟きは、実際には聞き取れなかったのだが、彼女の顔を見ていれば分かる。彼の名を呼ぶときは、いつだって彼女は嬉しそうなのだ。――と、彼は自負している。
「何かあるんだろ? 言ってみろ」
「この部屋で、先王陛下とキリファさんが話をしたというのは、やはり無理があると思って。それで……」
先ほどの疑問を、彼女はずっと考えていたらしい。
言いにくいことがあるのだろう。萎縮したような上目遣いになる。
そうしないと声が通らないからだが、彼女はおずおずと彼の耳元に唇を寄せた。空調で冷やされた耳朶に、温かな、彼にとっての癒やしの息が掛かる。
けれどそれは、彼女のためらいの吐息でもあった。
「エルファン様は……、先王陛下とキリファさんが〈ケル〉のそばで話をしていた、とはおっしゃっていない。――そう言っているのは、ルイフォンだけなの……」
「……!」
「私、気になって……それで、さっきエルファン様に確認したの。……勝手に、ごめんなさい」
メイシアが差し出した彼女の携帯端末を、ルイフォンは半ば奪うようにして受け取った。食い入るように履歴を見つめる彼の耳に、同じ内容がメイシアの声で囁かれる。
「この部屋の隣に、お母様が休憩をとられるときに使ってらしたお部屋があるのでしょう? ――エルファン様は、そこだと……」
「俺の記憶が、偽りだと……?」
母の最期の瞬間は、〈ケル〉のそばのはずだ。
改竄の疑いがある記憶を
けれど、メイシアの言う通り、この場所では会話などできない。
体中に響く振動は、慣れているルイフォンですら神経を逆なでされる。メイシアが初めてここに来たときには、耳鳴りがするとさえ言っていた。この家の
だから、エルファンの証言は正しい。そう、認めざるを得ない……。
「また、母さんかよ……! なんだよ! いったい、なんなんだよ!?」
ルイフォンは乱暴に
母の遺した『手紙』が、彼を翻弄する。〈ケル〉は、
母は、彼のものであるはずの記憶を勝手に奪う。情報を改竄されるおぞましさは、クラッカーである彼にとって何よりも許しがたい。
何を信じたらいいのか、分からない。
何をしても、結局、母に踊らされる。……母に、敵わないような気がしてならない。
「畜生……!」
「ルイフォン!」
「お母様は、ルイフォンを悪いようにしない!」
彼をきつく抱きしめ、彼女が叫んだ。触れ合った体を通じて、〈ケル〉の騒音よりも確かな振動で言葉を響かせる。
「必ず、意味があるはずなの! お母様を信じて……」
シャツ越しにも分かる肌の熱と共に、早鐘のような鼓動が伝わってくる。
彼女の存在を、全身で感じる。
「メイシア……」
うつむいた彼女の首筋で、長い髪が左右に分かれた。小刻みに震える肩にあわせ、うなじの白さがちらちらと見え隠れしていた。
「差し出がましいことを……ごめんなさいっ」
美しい歌だけを歌うように育てられた鳥籠の小鳥は、大空を羽ばたくようになった今も、警告のさえずりは得意でない。
慌てて離れようとする腕を捕まえ、ルイフォンはメイシアを抱き寄せた。
「すまん」
視野が狭くなっていた自分を恥じる。
彼は、
「〈ケル〉へのアクセスに難航していて、苛立っていた」
ルイフォンは、胸元にメイシアを掻き抱く。強い力に驚いたメイシアが小さく悲鳴を上げる。けれど構わず、黒絹の髪に頬を寄せた。
「俺にとって母さんは、乗り越えるべき壁みたいなもので……。だから、つい感情的になった。すまない。……ありがとな」
いつの間にかメイシアとエルファンがやり取りしていたことも、心穏やかでない原因だったのだが、それは見苦しい嫉妬なので口には出さない。
「私こそ、ごめんなさい。……お母様の最期を見届けたルイフォンの記憶を――気持ちを踏みにじってしまったと思うの……」
「いや……。お前の言う通り、母さんが俺の記憶をいじることに、なんか意味があるんだろ」
そう呟いたとき、ルイフォンは、はっと思い出した。
『記憶の改竄』について、メイシアが初めて彼に話したときの言葉を――。
『亡くなる直前のキリファさんがルイフォンの記憶を改竄したのなら、それはつまり、ルイフォンは見てはいけないものを見たんだと思う』
獲物を捉えた猫のように、ルイフォンの目が鋭く光った。
徐々に口角が上がり、不敵に笑う。先ほどまでとは打って変わった、覇気あふれる顔つきだった。
「ルイフォン?」
急に気配の変わった彼に、メイシアが首をかしげる。
「……解けたよ、メイシア」
「え?」
「俺が〈ケル〉のそばにこだわった理由と、母さんが部屋の記憶を改竄した理由。そして俺が今、〈ケル〉の強制アクセスに失敗している理由も、すべて分かった」
立て板に水を流すように、ルイフォンは言った。
隣の部屋に行って確認しないことには断定できないが、おそらく間違いない。気がつけば、実に単純なことだった。
「俺は、隣の部屋で母さんと先王が言い争っていたとき、先王の顔以外にも『見てはいけないもの』を見たんだ」
「何か、思い出したの?」
メイシアが気遣わしげに尋ねてくる。思い出したくない記憶だろうと、心配しているのだろう。ルイフォンは彼女の髪をくしゃりとした。
「思い出したわけじゃない。けど、前にお前が言ったろ? 母さんは俺が『見てはいけないもの』を見たから記憶を改竄したんだ、と」
「あ、うん……」
けれど、ではいったい何を見たのかと、メイシアの瞳が問うている。
「〈ケル〉だ。――俺は、隣の部屋で〈ケル〉を見たはずだ。それしか考えられない」
「〈ケル〉? 〈ケル〉なら……」
ここにあるでしょう? と言い掛けて、彼女の瞳が見開かれた。聡明な彼女もまた、気づいたのだ。
「そう……〈ケル〉と呼ばれる『もの』は二台ある。張りぼての〈ケル〉と、真の〈ケル〉が。――ここにあるのは、張りぼての〈ケル〉。そして隣の部屋に、真の〈ケル〉がいる……」
メイシアの喉が、こくりと動いた。緊張に彩られた顔貌が、じっとルイフォンを見つめる。
「母さんは〈ケル〉のそばで死んだ。俺の記憶は正しいんだ。――ただし、ここにある張りぼての〈ケル〉ではなく、隣の部屋の真の〈ケル〉のそばで、だ」
〈七つの大罪〉の技術で作られた真の〈ケル〉が、どんな姿をしたものか、ルイフォンは知らない。それでも、母の最期は『〈ケル〉のそば』と、正しく心に刻まれていたのだ。
「そして、〈ケル〉のそばの
母は、ルイフォンが勘違いすることを期待していたに違いない。彼そっくりの猫のような目を細め、ふふんと笑う顔が浮かんでくる。
からかいを含んだ眼差しで、『あんたなんて、まだまだね』と。
――けれど同時に、彼が読み解くことを信じていたはずだ。そうでなければ、わざわざ『手紙』に書き残したりしないのだ。
「お前のおかげだ」
ルイフォンは腕の中のメイシアをぎゅっと抱きしめ、口づける。相変わらず、白磁の肌をさぁっと染める彼女に苦笑しながら、彼は瞳を巡らせる――隣の部屋へと。
「行くぞ!」
ルイフォンはメイシアと手を取り合い、歩き出した。
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