3.密やかなる月影の下で-1

 窓に浮かぶ月が、やけに大きく見えた。

 紺碧の空から注がれる、光の帯――。その幻想的な揺らめきに誘われ、リュイセンはバルコニーに出た。

 夜は月の支配下にあり、世界は青白く染め上げられている。そのせいか、星明りと庭の外灯は、ぼんやりと遠慮がちに見える。

 綺麗だな、と彼は思った。

 肩までの黒髪を夜風が揺らし、頬をかすめる。暑くもなく、寒くもなく、肌に馴染む心地のよい外気に、彼はほっと息をつく。

 今まで当たり前だと思っていた夜がそうではないことを、彼は先日、倭国で知った。祖父の命令で行った彼の国は、常に鮮烈な白い光であふれ、まどろみすら忘れていた。

 大華王国とて、繁華街は夜でも明るい。けれど、温かみのある橙色をしている。そして一歩、路地を曲がれば、背中合わせの闇を知ることができる。

 端的にいえば、国力の差だ。

 富裕が良いことなのか悪いことなのかは分からない。だが彼の国では、闇の中で刀を振るう者などいない。

『父上は、私かお前か、遅くともその次の代には、鷹刀を解散するつもりだ』

 彼の国の夜景を眺めながら、父エルファンはそう言った。

『私たちは時代遅れの存在だ』

 リュイセンは愕然とした。足元が崩れ落ち、奈落に吸い込まれるような感覚を覚えた。

『じゃあ、俺たちはなんのために、日々鍛錬に励み、一族を守ろうと努めているんですか!?』

『未来のためだ』

『未来?』

『父上は、本当は凶賊ダリジィンの総帥などにはなりたくなかった。ただ、殺された恋人のために、復讐をしたかっただけだ』

『なんだって……?』

『だが、それでは本懐を遂げたところで未来はないと、シャオリエ様に諭されたそうだ。だから父上は長い長い時間を掛けて、鷹刀という凶賊ダリジィンを――いや、この国から凶賊ダリジィンそのものをなくそうとしている』

 眠りを知らない夜の光が、自分とそっくりな父の美貌を照らし出す。華やかな色彩が視界の端で踊り狂い、リュイセンは言葉を失っていた。

 祖父イーレオは、絶対的な存在だ。けれど、どこか手ぬるくて、凶賊ダリジィンの総帥らしからぬ言動が多かった……。

『――俺に、どうしろと言うんですか?』

『別にどうしろ、ということではない。今は、このままでいい。むしろ急激な変化は避けるべきだろう。ひずみを生むからな』

 理解できるような、できないような、そんな言葉。

 ただ、長い目で未来を見据えろと、父と――そして祖父が言っていることは分かった。

凶賊ダリジィンの未来、な……」

 リュイセンは溜め息をつく。

 父から話を聞いたときには漠然と受け止めただけであったが、今は少しだけ見えてきた気がする。それは、叔父にして弟分であるルイフォンに起因する。

 確かにルイフォンは、武力面では弱い。けれど知力によって、たった半日足らずで斑目一族を壊滅状態に陥らせた。今まで誰も成し得なかったことを――たったひとりで。

「あいつが一族最強ってことじゃねぇか……」

 そう呟いてから、弟分はもはや一族ではないことを思い出す。

フェレース〉は鷹刀一族とは対等な協力者なのだと、ルイフォンは明言した。その立場をはっきりさせることが、メイシアの居場所を作るために必要なのだと主張した。

 リュイセンは、再び溜め息をついた。

 後継者だったはずの兄も、一族を出ていった。

 幼馴染の一族の女を娶る際に、『彼女を表の世界で活躍させてやりたい』と言って、我儘を通すためにチャオラウとの一騎打ちの勝負に出た。義姉となった女は、王宮に召されるほどの実力を持った剣舞の名手であり、凶賊ダリジィンの妻となるのは都合が悪かったのだ。

 兄は会社を興し、一部の部下たちがあとを追って一族を抜けた。今から思えば、それもイーレオが画策している、一族の緩やかなる解散の一環だったのだろう。

 鷹刀一族は――凶賊ダリジィンは、滅ぶべき存在なのだろうか……?

 リュイセンには、そうは思えない。一族は互いを必要とし、心のりどころにしている。

 そして、傷だらけのミンウェイを守れる場所は、ここだけのはずだ。

 紺碧の空に雲が走り、月が陰った。

 青白い世界は黒く沈み、庭の外灯だけが、ぼうっと虚ろに闇を照らす。

 リュイセンはふと、自分だけが取り残されているような不安を覚えた。



「おい、ちょっといいか?」

 そんな声と共に、ルイフォンが部屋に入ってきた。

 今まさに、この弟分のことを考えていたリュイセンは、なんとなく、ばつが悪い。曖昧な返事をしながらバルコニーから戻ると、ルイフォンが勝手知ったるとばかりに戸棚からグラスを出しているところであった。テーブルの上には、厨房から頂戴してきたらしき酒瓶が載っている。

「飲もうぜ?」

 そう言いながら、リュイセンの返事を待たずに、ルイフォンはふたつのグラスに酒を注ぎ始めた。

 とぽとぽと音を立て、色の濃い液面が上がっていく。そのさまを、弟分は猫のような目を細め、楽しげに見つめる。母親が〈天使〉だったと知って以来、ふさぎ込んでいた様子だが、今宵はいつになく上機嫌だった。

「いったい、どういう風の吹き回しだ?」

 ルイフォンの向かいに座り、リュイセンは尋ねた。

「最近、お前と飲んでいなかったな、と思ってな」

「メイシアはいいのかよ?」

 マイペースなルイフォンなので、こうしてふらりとリュイセンの部屋に来ることは珍しくはない。だが、このところ、それが少なくなっていたのは、やはりメイシアが原因だと言わざるを得ないだろう。

「あいつは料理長の手伝いがあるとかで、まだ厨房にいる。そもそも、あいつは滅茶苦茶、酒に弱い。あいつとは飲めん」

「……俺は明日一限から、講義があるんだが?」

 言っても無駄だと思いつつ、リュイセンは一応、婉曲な断りの文句を言ってみる。

 案の定、返ってきたのは素っ頓狂なテノールだった。

「あぁ? お前、大学生だっけ? 似合わねぇ!」

「似合わなくて悪かったな。これでもレポートは真面目に提出してるし、必要な単位は落としてない」

「あー……。わりい。俺には、お前の言っていることの重要性が理解できん」

 少しだけ困ったような猫の目が、リュイセンを見ていた。

 ルイフォンは母親が自由民スーイラで、父親は平民バイスア。彼自身は平民バイスアということになっているはずだが、初等教育すらまともに修めたかどうか怪しい。

 けれど、彼は天才クラッカー〈フェレース〉であり、なおかつ違法行為に頼らずとも、身につけた技術で一財産築けるという。

 どう説明したものかと悩むリュイセンに、「ま、いいや」というルイフォンの声が掛かった。

「ミンウェイだって大学に行って、医師免状を取っていたもんな。そんなもんなんだろ?」

 少々ずれた解釈のような気もするが、納得してくれたならそれでいい。

 リュイセンは頷いた。

「ああ、そんなもんだ」

「ふむ」

 酒をあおりながら、ルイフォンが相槌を打つ。そして「ならさ」と続けた。

「お前は、なんのために大学に行っているんだ?」

 それは、たいして深い質問ではなかったに違いない。その証拠に、物好きだなぁと言わんばかりに、弟分の口の端は上がっていた。

 ――リュイセンは、何も答えられなかった。

 焦燥が全身を襲う。

 しかし彼がとった行動は、慌てる素振りを見せるでなく、ただ目の前のグラスを手に取り、中身をゆっくりと口に含むことだった。

 まろやかで美味いはずの酒が、妙に苦く感じられた。

 ルイフォンはそれ以上、言及しなかった。気遣いだったのかもしれないし、もともとそれほど興味がなかっただけなのかもしれない。

 弟分はいつの間にか空になっていた自分のグラスに、新たな一杯を注いでいた。何が楽しいのやら、揺れるグラスの水面に向かって微笑んでいる。

 そして、唐突にリュイセンを見上げた。

「俺さ、母さんが〈天使〉だと親父にはっきり言われてから、らしくなかったよな?」

「あ? ――ああ……?」

 確かにそうであったが……と、リュイセンは訝しげに眉を寄せる。

 目の前のルイフォンに、昨日までのふさぎ込んでいた面影はない。それどころか、どこか余裕すら感じられた。

「母さんは、昔から秘密めいたところがあってさ。……だから〈天使〉って存在ものを知ったとき、なんか納得したんだよ。母さんは〈天使〉だったんだな、って」

 ルイフォンが、手元のグラスに視線を落とす。

「だから別に、母さんが〈天使〉だってことは、ショックでもなんでもない。そうじゃなくてさ……なんて言えばいいんだろうな?」

 ルイフォンは困ったような顔をして、くしゃりと前髪を掻き上げる。

「俺にとって、母さんは『無敵』だった。悔しいけど、俺なんか足元にも及ばない。いつも高いところから俺を見下して、小馬鹿にしている。――そんな人だった」

 リュイセンと初めて出会ったときも、ルイフォンは母親に未熟さを指摘されて苛立っていたところだった。幼かった彼は、その鬱憤を桜の木にぶつけようとしていたのだ。

 ――懐かしい思い出が、リュイセンの頭をよぎる。

「〈天使〉ってのは、憐れな人体実験の被害者、ってことだろ……? あの母さんが、そんな弱くて脆い存在だったなんて――俺は、認めたくなかったんだろうな」

「ルイフォン……」

 弟分はテーブルに肘をつき、手の中のグラスを揺らしていた。白いテーブルクロスの上で、濃い色の影が踊っている。

「――そしたらさぁ。……今日、メイシアがなんて言ったと思う?」

 不意に、ルイフォンがにやりと笑った。得意げな猫の顔だった。

 リュイセンは、はっと顔色を変えた。

 どうやら弟分の調子が戻ったのは、メイシアのお陰らしい。つまり、こいつは惚気けに来たというわけだ。

 リュイセンは急に馬鹿馬鹿しくなってきた。

「……知るかよ」

 そんなリュイセンの無愛想な返事も気にせずに、ルイフォンは実に嬉しそうに告げた。

「『覇気がない』」

「……は?」

 無視を決め込んでやろうと思っていたリュイセンだが、思わず反応を返してしまった。

「『覇気がない』だ。――最愛の男に向かって言う台詞かぁ?」

 言葉とは裏腹に、ルイフォンは満面の笑顔である。

 普通の女なら、こういう場合は可愛らしく『元気、出して』と言うことだろう。メイシアは、外見なら文句なく可愛らしい。ならば、それを使わぬはないだろうに……。

 そう思う一方で、彼女が決してそんなことを言わないことをリュイセンは知っていた。儚げで美しい容貌から、彼女はか弱い女性と判断されがちだが、それはとんでもない間違いなのだ。

「メイシアは…………。…………斬新な意見を言うな」

 ご機嫌な弟分の気分を削いでも仕方ないので、リュイセンは精一杯の譲歩で評する。

「俺が穏やかすぎるんだと、それで覇気がないと。まったく、あいつの中で俺はどんなイメージなんだよ?」

 ルイフォンは、からからと笑い、酒をあおった。

「けどな、あいつのそのひとことが俺を解放した」

 実に美味そうに息をつき、また注ぐ。

「俺はいつだって、俺なんだし、俺であることが一番大事なんだよな」

 酒が揺れる振動を楽しむかのように、掌の中でグラスをもてあそび、ルイフォンは目を細めた。

「お前、酔ってもねぇくせに、言っていることが酔っ払いみたいだぞ」

 先ほどから立て続けに飲んでいるが、このくらいで酔うようなルイフォンではない。

「俺は素面でなんでも言えるけど、お前はそうじゃないだろ?」

「はぁ?」

 いたずらを企んでいるようなルイフォンの猫の目が、うずうずとリュイセンを見つめている。

「俺は分かりやすく落ち込んでいたけど、お前だって分かりにくく落ち込んでいただろうが。――お前も『覇気がない』ぞ」

「なっ……!?」

「ミンウェイのことか?」

 ルイフォンの言葉が足音もなくリュイセンの心に忍び込み、爪痕を残していく。

「……違うさ」

 リュイセンは、凶賊ダリジィンの未来について悩んでいたはずだ。

 ミンウェイのことは、ついで程度のことだ……。

 不意に、窓の外が陰りを見せた。流れてきた雲が、月光を遮ったのだろう。

「……飲むか」

 リュイセンはグラスをあおる。

 空になったグラスがテーブルに戻されると、ルイフォンがすかさず酒を注いでった。



 ルイフォンとリュイセンが、酒を酌み交わしていたのと同時刻――。

 メイシアはひとり、執務室を訪れていた。

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