3.密やかなる月影の下で-2

 執務室に、月光が注ぎ込む。

 時折、雲に遮られては沈黙する光の気配に、メイシアの心は震えていた。

 ほんの少し気になったことを、イーレオに確認したかっただけである。しかし、実は恐ろしくだいそれたことのように思えてきた。……かといって、今更、引き返すのも失礼だろう。

「ふたりだけで話をしたいとは……いったいどうした?」

 イーレオの声が響く。

 彼は片方の眉をわずかに上げ、魅惑の美貌をかすかに歪めていた。けれど口元はほころんでおり、決して不快に思っているわけではないことを示している。

 執務机で相対あいたいするのではなく、ソファーで話そうと彼は彼女を促した。

 同じ目線でイーレオと向かい合う。相変わらず横柄に足を組んだ姿勢であったが、彼がイーレオである以上、それは仕方のないことだった。

「夜分遅く、申し訳ございません。私の我儘な面会の申し入れ、快諾いただきありがとうございます」

 メイシアが水平になるまで深く頭を下げると、長い黒髪がローテーブルを撫でた。そんな相変わらずの律儀さに、イーレオから苦笑が漏れる。

「俺は別に構わないが、こんな時間に、俺とお前がふたりきりなんて知ったら、ルイフォンは穏やかじゃないだろうな?」

 ふわりと包み込むような柔らかな顔。彼女の緊張を解きほぐすかのように優しく覗き込む視線は、けれど、どこか色めいている。夜も遅いからか、背で緩く結わえた髪は乱れがちで、頬をかすめて揺れるさまは妙になまめかしかった。

 途端、メイシアの顔が耳まで真っ赤になった。

「あ、あの……っ!」

「しかも、あいつに悟られないよう、料理長を通して密かに約束を取りつけるとは……」

「イ、イーレオ様っ!」

 無論、メイシアには分かっている。イーレオは、単に彼女をからかっているだけであると。純情な彼女を赤面させて楽しむところはルイフォンそっくりで、さすが彼の父親といえた。

 イーレオは、にやりと満足げに目を細めた。

 それから、ふっと真顔になる。

「つまり――それだけ、あいつに聞かれたくない話なんだな?」

 密談にふさわしく、低い声で囁く。

 急激な変化にメイシアは一度、目を瞬かせたが、すぐに「はい」と答えた。

 イーレオは黙って頷くと、組んでいた足を戻す。肘は肘掛けに載せたままだが、気持ち背を起こした。それを合図に、メイシアは話を始めた。

「ルイフォンの記憶に、違和感を覚えたんです」

「記憶に、違和感?」

 イーレオが眉をひそめる。

「はい。『記憶』と言いますか、彼の『思考』に……」

「ふむ」

「……勿論、私の考え違いかもしれません。けれど、もしも、私の推測が正しければ、ルイフォンは〈天使〉の介入を受けたのだと思います。――おそらくは彼のお母様に。それに関係することで、イーレオ様にお尋ねしたいことがありました」

「ほう……?」

 意外だ、と言わんばかり顔で、イーレオは相槌を打つ。けれど、深い色の瞳からは、その心は読み取れない。

「イーレオ様?」

「ああ、いや。てっきり、『母親のキリファが〈天使〉ならば、ルイフォンも〈天使〉なのではないか』と言い出すのだと思っていたんだが……。まさか、別のこととはな」

 イーレオの言葉に、メイシアは顔色を変えた。

「そ、そのことも気になっていました……! でもルイフォンは『俺の体は普通だし、後天的に与えられた〈天使〉の能力が、遺伝するわけないだろ』と言って、笑い飛ばしています」

 不安がるメイシアに、ルイフォンは『心配するな』と髪を撫でた。

 だから、彼を信じて、彼女はその疑惑は封じた。確かに、彼が〈天使〉なら、今までに何かしらの予兆があってしかるべきだろう、と思って。

「あいつらしいな」

「あのっ、イーレオ様は何かご存知なのですか?」

 恐る恐る、と言ったていでメイシアは尋ねる。

「俺にも分からん。だが、十六年間あいつを見てきて、羽が生えてきたことは一度もない、とだけは言える」

「そうですか……」

 真実は不明であることに変わりはない。しかし、イーレオの証言を得たことで、メイシアは少し安堵した。

「話の腰を折って悪かったな。――それで、お前が訊きたいことは? 詫びと言ってはなんだが、なんでも答えてやろう」

 イーレオの魅惑の微笑に、メイシアの気持ちが和らぐ。彼女は「ありがとうございます」と頭を下げ、ぎゅっと胸元のペンダントを握った。

「少し、遠回りの話になりますが……」

 できるだけ簡潔に話すべきと思いつつ、強く違和感を覚えた理由を伝えるために、彼女はあえて回り道から入る。

「ご存知だと思いますが、私の実家――藤咲家のライバルである、厳月家の当主が暗殺されました」

「ああ」

「いろいろと悪い噂のある方でしたから、ほうぼうで恨みを買っていたと思います」

「そうだな」

「けど、今、このタイミングで、と考えると……」

 メイシアは、そこで言いよどんだ。彼女の中で答えは出ているのだが、いざ口にだすのは勇気のいることだった。

 それはイーレオも察していた。だから、彼はじっと待った。

『言わなくても分かっている』と言って、メイシアに楽をさせることは簡単である。しかし、彼はそれほど甘い男ではなかったし、彼女の強さを認めていないわけでもなかった。

 メイシアは意を決し、まっすぐにイーレオを見つめた。

「私の異母弟ハオリュウが、警察隊の緋扇さんに暗殺を依頼したのだと思います。厳月の当主は、私たちの父を〈影〉にした仇のひとりですから……復讐、です」

「おそらくな」

 イーレオは静かに頷き、メイシアを見つめ返す。

「……凶賊ダリジィンの総帥なんぞをやっている俺からすれば、ハオリュウを末恐ろしい奴だと評価するが、お前は納得できないか?」

 彼は肘掛けに体重を載せて、見守るような眼差しでのんびりと頬杖をつく。

 メイシアは、かぶりを振った。

「いいえ。私も、厳月の当主を許せないと思いました。だから同罪です。……でも、まさかハオリュウが――と思ってしまったのも事実です」

「メイシア、ハオリュウはそういう男だ。歳こそ若いが――いや、若さすら武器にする、喰えない奴だ。俺が今、一番敵に回したくない男だよ」

「そんなっ……!?」

「やれやれ。彼の真価に気づいていないのは、お前くらいだろう。今後も鷹刀は、彼と良好な関係でありたいね」

 そう言って、イーレオがくすりと笑う。

 メイシアは思いがけず異母弟を褒められ、恐縮に身を縮こめた。それから、すっかり話がそれてしまったことに気づく。

 ハオリュウのことは、もういいのだ。複雑な思いはあるが、素知らぬふりを通すと決めた。――強くなることをルイフォンが教えてくれたから。前に進むことのできる自分でありたいから……。

「すみません、イーレオ様。回り道が過ぎました。……つまり、親を殺された私たちは、当然のように復讐を考えたのです」

「あ? ああ……?」

 急に様子の変わったメイシアに、イーレオが戸惑いを見せた。

 そのことを申し訳なく思いつつ、彼女は切り出す。

「――なら、ルイフォンは?」

 メイシアの目線が射抜くようにイーレオに向かう。

「ルイフォンのお母様は、正体の知れない者に殺されたと、彼から聞きました。――彼は、お母様の仇を討とうとは考えなかったのでしょうか?」

 イーレオが、息を呑んだ。

 メイシアは声を荒立てるでなく、淡々と続ける。

「ルイフォンの気性なら、お母様を殺した者を決して許せないはずです。仇を取りたいと思うはずです。……なのに彼は復讐を考えていないのです」

「お前は何故、『ルイフォンは復讐を考えていない』と思うんだ?」

「彼が『正体の知れない者』と言ったからです。それは、『情報収集を得意とするルイフォンが、お母様の仇の素性を調べていない』。つまり、復讐を考えていない、ということになるんです」

 頬杖の姿勢のまま、イーレオの動きが止まった。凶賊ダリジィンの総帥ともあろう者が、その瞬間、完全に無防備になっていた。

 だがすぐに彼は自分の動揺に気づき、何ごともなかったように「なるほど」と呟く。そして、視線だけを動かし、深い色の瞳でメイシアを見つめた。

「ルイフォンの行動としておかしいから、キリファの〈天使〉の能力が関係しているのではないか――と、お前は考えたわけか」

 メイシアが「はい」と頷く。

「おそらくは、お前の言う通りなのだろう。……残念ながら、確かめるすべがないがな」

 イーレオは、小さく溜め息を漏らした。

 キリファの死を思い出すことは、決して愉快なことではない。だが、メイシアがこんなにもルイフォンを想い、心を配ってくれることは喜ばしい。果報者め、と言ってやらねばならん……。

 そんな、切なくも穏やかな気持ちは、メイシアの顔を見た途端に吹き飛んだ。

「イーレオ様」

「メイシア!?」

 彼女とは思えぬ低い声に、イーレオはたじろぐ。

「キリファさんが、死の間際にルイフォンの記憶を改竄したのなら……それは、彼が『見てはいけないものを見てしまったから』に他なりません。……お母様の仇は、ルイフォンが信じているような、ただの強盗ではあり得ないんです」

「……!」

「そして『金品ではなく、キリファさんの亡骸を持ち帰った』ことからも、仇が強盗ではないことが分かります」

 イーレオの眉が、ぴくりと動いた。いつも遊び心を忘れないはずの瞳が、剣呑な光をたたえる。

 メイシアは、ためらうように息をつまらせた。だが、思い切って言葉を吐き出した。

「イーレオ様は……仇の正体をご存知なのではないですか?」

 高鳴る心臓を抑え、メイシアは畳み掛ける。

「イーレオ様にとっても、キリファさんは大切な方だったはずです。……復讐を考えられたのではないですか?」

 執務室に、沈黙が落ちた。それに合わせるかのように、月が陰る。

 イーレオは口を閉ざしたままま、額に皺を寄せていた。

「私が今日、イーレオ様にお尋ねしたかったのは、イーレオ様が復讐を果たされたのか否か――ということなんです」

「……それを聞いて、どうする?」

 イーレオが問いかけた瞬間、メイシアはすがるように叫んでいた。

「教えてください! もしも、お母様を殺した者が健在なら、彼に害をなす可能性があります。私……彼を守りたい――!」

 黒曜石の瞳が凛とした光を放ち、まっすぐにイーレオを捕らえた。

 ルイフォンを想う、強い意思。

 気高く美しい、戦乙女。

「メイシア……」

 イーレオは絶句した。

 やや間をおいて、観念したように深い溜め息をつく。

 頬杖から体を起こし、イーレオはゆっくりとメイシアを見やる。その目は氷の海のような色をしていた。

「キリファを殺した者は、既に死んでいる」

「では、やはりイーレオ様が……」

「いや……、俺じゃない」

「え?」

 メイシアが目を丸くする。

 その反応はイーレオの予想通りだったようで、彼は溜め息を重ねた。

「キリファを殺した者は、簡単には手を出すことができない相手だった。そして、俺がもたついている間に、別の奴がそいつを殺した。……俺は何もできなかったんだよ」

「……」

「仇の名前は……言ったら、お前は触れてはいけないものに、触れてしまう。だから、俺がお前に教えられるのは、ここまでだ」

「イーレオ様!?」

 核心に迫ろうというところで口をつぐまれ、メイシアは彼女らしくもなく声を荒らげた。けれど、イーレオは首を横に振る。

「キリファが、ルイフォンの思考を歪めるまでして隠した相手だ。関わらないほうがいい」

「そ、そんな! 相手は死んでいるのでしょう? それなのに、何故、秘密になさるんですか? 危険はないはずでは……」

 イーレオに詰め寄りながら、メイシアは、はっと気づいた。

 大華王国一の凶賊ダリジィンの総帥たるイーレオが、ここまで警戒する相手。そして今、鷹刀一族の周りをうろついている敵と言えば……。

「〈七つの大罪〉ですか……?」

〈七つの大罪〉は個人ではなく、組織。ルイフォンの母の仇が死んでも、組織がなくなるわけではない。危険は残る。

「イーレオ様は、いったい何をご存知なのですか!?」

「過去のしがらみに囚われるのは、年寄りだけでいい」

 イーレオは、にやりと眼鏡の奥の目を細めた。明らかに作りものと分かる微笑は、それでも魅入られてしまうほどに麗しい。

「だ、駄目です!」

 メイシアは反射的に叫んだ。得も言われぬ不安が、彼女を襲っていた。

「イーレオ様! ひとりで抱えるんですか!? そっ……、そんなの、駄目です! 私は、イーレオ様に忠誠を誓った者です。私には、イーレオ様のお役に立つ義務が……いいえ、権利があります! そう主張できるだけの『価値』が、私にはあります!」

 言ってしまってから、口が過ぎたとメイシアは蒼白になった。

 いくら身内も同然とはいえ、イーレオは凶賊ダリジィンの総帥だ。わきまえるべき距離がある。その境界線を一歩超えてしまったことを、彼女は肌で感じた。全身が震える。

 すべての音が遠ざかった。――ただ目の前のイーレオのわずかな身じろぎだけが、かろうじて感じ取れた。

「……メイシア」

「は、はいっ!」

 低く名を呼ばれ、応じる声が裏返った。

「俺は、お前とふたりきりになるべきではなかったな」

「え……?」

 メイシアの疑問の呟きには答えず、イーレオは彼とは思えぬほどに儚げに笑う。

 彼はすっと立ち上がり、月光の注ぐ窓辺に向かった。薄く開いていた窓から夜風が入り込み、緩く結わえた髪をなびかせる。月明かりを浴びるイーレオの背中は今にも消え入りそうで、メイシアは怖くなった。

「シャオリエに言われていたな。俺はひとりで背負い込みすぎだ、と。――だから、手を差し伸べてくれたお前を、俺は頼るべきなのだろう……」

 イーレオはそう言って、ぴしゃりと硝子窓を閉じた。

「イーレオ様……?」

「メイシア。俺はな、〈神〉には逆らえないんだ」

「〈神〉……? それは〈七つの大罪〉の頂点に立つ人のことですよね……?」

 メイシアは首を傾げ、イーレオの言葉を反芻する。

 次の瞬間、彼女の聡明な頭脳がするりと答えを導き出した。あたかも、知恵の輪が抜け落ちるときのように突然に、あっけなく。

「つまり、イーレオ様は……」

 青ざめた顔で、メイシアはやっとそれだけ言えた。

「そういうことだ」

 闇に響くような低い声も、やがて夜の静寂に解けていった――。

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