4.金環を巡る密約-2

 ルイフォンは、回転椅子に背を預け、ふぅと盛大な溜め息をついた。

『メイシアの父、コウレンには、なんらかの事情があり、敵に従わなければならない状況にある』

 これが、皆の一致した見解だった。

 その『事情』を探るため、ルイフォンは仕事部屋に籠もり、情報の欠片を集めていたのだが、空振りばかりだった。

 彼は、癖のある前髪を乱暴に掻き上げた。

 ――こんなことをしていても、埒が明かない。こそこそ調べ回るのではなく、直接、話すべきだ。

 ルイフォンは椅子から立ち上がった。メイシアと共に、コウレンのところに行こうと思ったのだ。

 彼女はきっと、不安な思いをしていることだろう。そばに居てやるべきだったかもしれない。駄目だな、と反省して、自分の頭をこつんと叩く。

 ちょうどそのとき、扉がノックされた。来訪者は、まさに逢いにいこうと思っていた相手、メイシアだった。

「ルイフォン!」

 取り乱した様子で、彼の名を呼ぶ。

「い、今! ハオリュウが私の部屋に来て……」

 息を切らせて話す彼女の頬が、薔薇色に染まっていた。

「メイシア、落ち着け。何があった?」

「ハオリュウが、お父様から事情を聞けたって。説明するから、イーレオ様と三人で、お父様の部屋に来て、と――」



 窓から入り込んだ春風が、レースのカーテンをゆっくりと揺らしていた。

 穏やかな動きの影が、ベッドで半身を起こしたコウレンの横顔で踊り、彼はわずかに目を細める。それは、影と表裏一体を成した光の舞の眩しさ故か。あるいは、勢い込んで現れた愛娘に向けられたものか――。

「あ、あのっ……、お父さ……」

 開きかけたメイシアの口を、ハオリュウが「姉様」と柔らかく、しかし毅然とたしなめた。そして彼は、視線の先を彼女の後ろにいるイーレオに移す。

「本来なら、こちらから出向くべきところを、お呼び立てして申し訳ございません」

 ハスキーボイスを鳴り響かせ、ハオリュウが頭を下げた。

「父はまだ、立ち上がると目眩を起こす状態でして……。ベッドからで失礼します」

 そう言いながら、ハオリュウは椅子を勧める。

 父親のコウレンはといえば、軽くこちらに顔を向けただけだった。凶賊ダリジィンを相手に、余計なことは言うまいと身構えてでもいるのだろうか――。

 どうにも感じが悪い。

 ルイフォンは、ふと、斑目一族の別荘で、初めて対面したときのことを思い出した。同行していたリュイセンが、コウレンを見て呟いたのだ。『貴族シャトーア、だな』と。

 あのときは思わずリュイセンに掴みかかってしまったルイフォンだったが、こうしてみると確かに感じる。言うなれば、判で押したような貴族シャトーアだ。

「父様――」

 沈黙したままのコウレンを咎めるように、ハオリュウが声を漏らした。しかし、彼は首を振り、父にはそれ以上、何も言わずにイーレオと向き合う。

「――すみません。父は囚われていたトラウマで、人間不信と言いますか……凶賊ダリジィンに対する嫌悪感がどうしても拭いきれないのです。どうか、ご理解ください」

 取りなすハオリュウの眉間には、悲愴感すら漂っていた。そんな彼を慮るように、イーレオが魅惑の微笑を浮かべる。

「これまでのことを考えれば、当然のことだろう。気にする必要はない」

「そう言ってくださると助かります」

 ハオリュウが、ほっと安堵の息を吐く。そして、少しだけ緊張の緩んだ顔で「父に代わり、僕がお話させていただきます」と言った。

「実は――父は『女王陛下の婚礼衣装担当家を辞退する』という書状を書いてしまったそうです」

 その瞬間、部屋の中に空白が生まれた。誰もが声を詰まらせ、春風だけが抜けていく。

 やがてメイシアが、かすれた声で呟いた。

「お父様……」

「姉様、仕方ないよ。父様は、先に囚えられていた僕の命を盾にされたんだ。しかも、ご自身も囚われの身で迫られたら、冷静な判断なんてできないよ」

「あ、ううん。私はお父様を責めるつもりはないわ」

 メイシアが慌てて首を振る。ハオリュウは、異母姉に相槌を打つように頷き、それから続けた。

「その書状は斑目一族が持っています。だから父様は、斑目一族の言いなりになって、イーレオさんを捕まえる手伝いをしようとした、というわけです」

「つまり、〈ムスカ〉は、わざと親父さんを逃したんだな」

 ルイフォンは唇を噛む。苦労して救出したつもりが、掌の上で踊らされていたとは……。

 だがそこで、ハオリュウがにっこりと笑った。

「でも、その書状、無効なんです」

「はぁ?」

 わけが分からない。

 ルイフォンは顎をしゃくり、「どういうことだ?」と苛立ちの声でハオリュウを促す。

貴族シャトーアの正式な書状には、封の上に指輪の家印を押すものなんです。でも指輪は、僕が持っていました」

「あぁっ……」

 メイシアから、高い声が飛び出す。

 彼女は思わず出てしまった大きな声に顔を赤らめ、口元を抑えた。そんな異母姉に、ハオリュウがにこやかに微笑んだ。

「直筆の書状なので効力があるのでは、と父は脅えていたのですが、これは無効です。何か言われても、僕がきっちり反論してやります」

「おい、ハオリュウ。――ということは……?」

 思わせぶりな話の進め方がもどかしく、ルイフォンが掴みかからんばかりに詰め寄る。

「ええ。僕の誘拐から始まった一連の事件は、もう終わったんです」

 ハスキーボイスが響き渡り、ハオリュウが凛然と宣言した。その眼差しは、徐々に顔をほころばせていく異母姉に向けられている。

 メイシアは瞳を潤ませながら、傍らのルイフォンを見上げた。彼の手が、彼女の頭に伸びてきて、くしゃりとする。細められた猫の目は、いつもなら獲物を狩る獣の鋭さを放つのだが、今は優しさに満ちていた。

「イーレオさん」

 ハオリュウが、イーレオに声を掛けた。

 コウレンへの配慮からか、ずっと静かに見守っていたイーレオは、凪いだ海のような穏やかさで「ご苦労だったな」と、そっと囁く。

 深い色合いの瞳に、ハオリュウはどきりとした。嘘まみれの彼には、そんな慈愛の微笑みは眩しすぎた。

 ――けれどハオリュウは、自分を奮い立たせる。

「父と僕で、話し合いました」

 澄んだ、真剣な声が響く。

「藤咲家の次期当主は僕です。けれど母の身分が低い僕は、立場が弱い。姉様を利用して藤咲家を我が物にしようとする輩が、今後も現れるかもしれません。だから――」

 ハオリュウはそこまで言って、ベッドの上の父を見やった。今まで人形のように、ただそこにいるだけだったコウレンがゆっくりと頷いた。

 ――そして、しゃがれた声で宣告した。

「そうなる前に、メイシアを鷹刀ルイフォン氏のもとへやろう」

 場が、一気に湧いた。

 ルイフォンがメイシアを抱き寄せ、くしゃくしゃと頭を撫でる。そのメイシアの瞳からは、あとからあとから涙があふれ出ている。

 イーレオがにやりと口の端を上げ、果報者の息子の背中を叩く。

 そのそばで――。

 ハオリュウは、哀しいほどに切なげに笑っていた。



 数時間後、ハオリュウは再び、父の部屋を訪れた。

 先ほど、異母姉メイシアを含めた鷹刀一族の主要な者たちが執務室に集められた。予告されていた通り、ミンウェイが捕虜の顛末を報告するのだという。

 ハオリュウもイーレオに声を掛けられたが、父が心配だからと丁重に断った。イーレオも無理には誘わなかった。話の内容が、捕虜が〈ムスカ〉の〈影〉だったということであり、鷹刀一族と〈ムスカ〉との因縁は、ハオリュウとは無関係と思ったからだろう。

 シュアンから聞いているハオリュウは、すべて知っていた。だからこそ彼は、皆が――特に異母姉が、確実に父のところに来ない、この時間を狙っていた。

 ふとハオリュウは、別れ際にイーレオに言われたことを思い出す。

『ひとりで抱え込みすぎるなよ』

 おそらく、父が心を病んでいるとでも思っているのだろう。そして、それを支えようとしているハオリュウを気遣った。

 何気ない、ひとことだった。だが、胸が苦しくてたまらなかった。

 ――姉様のためだ……。

 泣き出したいような痛みを押し込め、ハオリュウは仮面を付ける。もはや父ではなくなってしまった『父』に笑いかける――。

「ありがとうございました。おかげで異母姉を喜ばせることができました」

 ハオリュウは、持参したコーヒーをテーブルに載せた。「『藤咲コウレン』は、紅茶よりもコーヒーが好きなんですよ」と言いながら、父に勧める。

 コウレンはまだ湯気の立つカップには手を付けず、やや不満げに呟いた。

「あれほどの娘だ。凶賊ダリジィンにくれてやるのは勿体なくないか? どこかの有力な貴族シャトーアのほうが……」

「『父様』。僕にとって、異母姉だけは大切なんです。政治利用はしたくありません。それに『藤咲コウレン』は娘の気持ちを第一に考える人です。今回の場合、鷹刀ルイフォンにやる以外、選択肢はありません」

「しかしなぁ……」

 未練がましく、コウレンが唸る。

「それよりも、この屋敷にいる間に『藤咲コウレン』のことを頭に叩き込んでください。今日中に藤咲家に戻る予定でしたが、体調がすぐれないと言って二、三日滞在させてもらうことにしましたから」

 すっかり仕切っているハオリュウである。コウレンが半ば呆れたように溜め息をついた。

「藤咲の当主はボンクラで有名だったが、まさかその息子がこうだったとはな……」

「父が頼りなかったから、僕がこうならざるを得なかったんですよ」

 打てば響く返答に、コウレンは舌を巻く。

「まったく、頼もしい『息子』だ。――ありもしない書状をでっち上げ、わしへの疑惑を上手く拭い去った手腕、見事だったぞ」

「『父様』にお褒めいただけるとは、光栄ですね」

 あの作り話は、貴族シャトーアではないシュアンが、家印の重要性を知らなかったことから思いついた。必要なこととはいえ、よくも平然と大嘘をつけるものだと、ハオリュウは自嘲する。

わしも、最後に物々しく言ってやれたろう?」

 大根役者が、得意げに胸を張った。

 褒めろとでも言うのだろうか? ハオリュウは、笑顔を保ったまま奥歯を噛みしめる。

 本来なら、書状の件は『父』が説明すべきだった。だが、『藤咲コウレン』とは似ても似つかぬ尊大な〈影〉に喋らせるくらいなら、不自然でも黙っていてくれたほうがましだと思ったのだ。

 望む答えをしてやるのも馬鹿馬鹿しいので、ハオリュウはコーヒーをひと口飲んで誤魔化した。

 そのとき、向かいに座るコウレンが、じっと自分を見ていることに気づいた。粘つくような目つきに、ハオリュウは顔をしかめる。

「お前は子供のくせに、ミルクも砂糖も入れないんだな」

 不快な視線が絡みつく。

「ええ。たまにミルクを少々入れますが、基本はブラックですね」

「なら、わしの前にあるコーヒーは飲めるな」

「……!」

 ハオリュウは、息を呑んだ。

 コウレンがソーサーを押し付ける。テーブルの上を引きずる、ざらついた不協和音。耳障りな音はハオリュウの心臓の外側を引き裂き、心臓の内側を破裂しそうな勢いで脈打たせる。

 中央に置かれた花瓶の境界線を越え、ハオリュウの領域に寄せられたカップの中で、黒い液体が揺らめいた。コウレンの瞳が、狡猾な光を放つ。

「お前は、ブラックが好きなんだろう?」

 ハオリュウの額から、脂汗が一滴、したたり落ちた。

 体の内部はこれ以上ないくらい激しく脈動しているのに、指一本すら動かせない――ただの一呼吸さえもできない。

「盛ったか。――毒を」

 コウレンがどっしりと椅子にもたれかかり、鼻で笑った。

 取り乱したりしたら、相手を無駄に喜ばせるだけだ。そんなことはプライドが許さない。その思いだけで、ハオリュウは無理やり口を開く。

「ええ。僕がこっそり庭から拝借した、トリカブトが入っていますよ」

 言葉とは裏腹の、無邪気な笑顔を返す。

 ミンウェイが薬草と毒草のエキスパートであることは聞いていた。だから、興味本位のふりをして庭師に教えてもらったのだ。

「まさか見破られるとは、思ってませんでしたよ」

 ハオリュウはおどけたように肩をすくめる。

「長年、貴族シャトーアの当主をやってきたわしを甘くみるな。お前ごとき小僧の浅知恵など、わしには手に取るように分かる」

「ご冗談を。あなたに僕の思考が読めるとは思いませんね」

 もはや小馬鹿にした態度を隠しもしないハオリュウに、コウレンは敵意をむき出しにした。

「はっ! お前は当主の座に就きたいんだろう? だったら『父』のわしは邪魔な存在だ。ボンクラの実の父なら操ることもできただろうが、わしは違うからな」

「そうですね。確かに、あなたは父とは違う」

「お前は、初めからわしを消すつもりだった。藤咲家に帰る前に、凶賊ダリジィンの屋敷にいる間に。――そのほうが、わしの死因をうやむやにしやすいからな」

 ハオリュウは何も言わずに、ただ口の端を上げた。それを図星と捉えたのか、コウレンは調子に乗ってまくし立てる。

「現当主が死ねば、嫡男が継ぐ。だが、お前は未成年で、しかも母親が平民バイスアだ。異母姉に婿を取ろうという動きが起きるだろう。そうならないように、わしを使って邪魔な異母姉を美談で排除したわけだ」

「なるほど。あなたはそう考えたわけですか」

 こんな男に本心を語る気は、さらさらない。ハオリュウは、すました顔で受け流す。

わしはな、異母姉を排除したあと、お前がどう出るかを心待ちにしていたのだよ。わしに歯向かってくるか、取り引き通りにするか。はたまた、もっと長い目でわしを狙ってくるか……」

 すべてお見通しだったと言わんばかりにふんぞり返り、コウレンが悦に入る。

「お前は子供のくせに、頭が切れすぎた。子供は子供らしくしておればいいものを。だからわしに疑念をいだかれたのだ」

「確かに、僕は少々、あなたを侮っていたようです」

 ハオリュウは、苦笑混じりに溜め息をついた。それを見て、コウレンが勝ち誇ったように醜く顔を緩ませる。

 けれどハオリュウは、これで打つ手をなくしたというわけではなかった。

「年齢なんて、関係ありませんね」

 低くなりきれない少年のハスキーボイスが嘲笑をはらむ。その口調は、決して尖ったものではなく、むしろ歌うように柔らかかった。

「守るためなら、僕はなんでもできますよ?」

 ハオリュウは、そう言って薄く嗤い――。


 ――胸ポケットから『拳銃』を取り出した……。

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