4.金環を巡る密約-1

「父様、お加減は如何ですか?」

 ハオリュウは、父コウレンの部屋を訪れた。

 その後ろから、からからとメイドの押すワゴンの音が続いてくる。トレイの上には、鮮やかな花柄のティーセットが載せられ、ぴんと角の揃ったサンドイッチが綺麗に並べられていた。

 コウレンはベッドで横になっていたが、眠っていたわけではないらしい。ハオリュウの声に体を起こした。

「ああ、ハオリュウか」

「父様、まだ寝てらしたんですか。病人じゃないんですから、そろそろ起きてください」

 顔をしかめるハオリュウに、コウレンがむっと眉間に皺を寄せる。

「あの医者という娘も言っていただろう。私は疲れが溜まっている」

「ミンウェイさんですね。でも、健康状態はいいとも言っていましたよ?」

 そんなやり取りをしていると、良い香りが漂ってきた。メイドがお茶を淹れてくれたのだ。部屋の中央にあるテーブルに、ことんとソーサーが載せられる。

 ハオリュウが「ありがとう」と会釈すると、彼とたいして歳の変わらぬメイドは頬を染め、深々と頭を下げて退室していった。

「よくお目覚めになられるよう、父様のお好きなローズヒップティーをお願いしたんです」

 ハオリュウはそう言うと、父にくるりと背を向けて、こちらに来てください、と言わんばかりにテーブルに着いた。ティーカップを手に取り、独特なハーブの香りを楽しむ。父を待たずにひと口飲んで、彼はカップをソーサーに戻した。

 やがて不機嫌な顔のコウレンがやってきて、のろのろと向かいに座る。それを確認すると、出し抜けにハオリュウは口を開いた。

「この屋敷のメイドは、随分と若いですよね」

「あれじゃ、ただの子供だろう」

 唐突に何を言い出すのだと、コウレンが訝しげな目を向けた。すると、ハオリュウはじっと父を見つめ、口元をほころばせる。

「――最近、父様付きで雇った子も、姉様と変わらないくらいでしたよ?」

「さっきの子供よりは、ずっと上だろう?」

「……僕付きの子は、あの子くらい若いほうが、僕は嬉しいんだけどなぁ」

 上目遣いにコウレンを見て、ハオリュウはにっこりと笑う。

「なんだ、おねだりか。ふん、帰ったらな」

「話の分かる父様は、好きですよ」

 ぺろりと舌を出し、彼は満面の笑みを浮かべた。

 それからハオリュウは、おもむろにサンドイッチをつまみはじめた。コウレンも、それに促されるように手を伸ばす。

 皿が半分ほどになったところで、ハオリュウがナプキンで口元を拭った。

「……父様」

 やや低めのハスキーボイスが、父を捕らえる。今度はなんだと、コウレンは不快感を隠さずに息子を見返した。

「ずっと気になっていたんですが、当主の指輪はどうされました?」

「……っ」

 コウレンは、はっと顔色を変え、自分の指に目をやった。当然のことながら、その指に金色の指輪はない。

「囚えられているときに、奪われたんですか」

 剣呑な光を瞳にたたえ、ハオリュウが静かに尋ねる。

「あ、ああ……」

 歯切れ悪く答える父に、ハオリュウはまなじりを吊り上げた。

「あれがどれだけ重要なものか、父様は分かってないんですか!?」

「あ、相手は凶賊ダリジィンだぞ! ……お前こそ、息子の分際で偉そうに!」

 コウレンは、わなわなと身を震わせ、怒鳴り返した。

 そんな父に、ハオリュウは蔑みの眼差しを向ける。薄笑いを顔に載せ、スーツのポケットから小さな箱を取り出した。

王手チェックメイトですよ」

 ことん、と音を立てて、布張りの小箱がテーブルに載せられる。

「……!」

 目を見開くコウレンの前で、ハオリュウはゆっくりと蓋を開けた。

 中に収められた指輪が金色の輝きを放ち、コウレンは顔色を失う。

「父は家を出る前に、自室に指輪を置いていったんですよ。でも、そんなこと、〈影〉のあなたは知るよしもありませんよね」

 コウレン――の姿をした〈影〉は、後ずさるようにして立ち上がった。勢いに椅子が倒され、大きな音を立てる。

「僕も、斑目一族に囚えられていたことは、ご存知ですよね? ――そこで、奴らが話しているのを聞いてしまったんですよ。僕が子供だと思って、気を抜いていたんでしょうね」

 ハオリュウは、にっこりと嗤った。

 彼が情報を得たのはシュアンからであり、囚われていたときには何も聞いていない。だが、こう言ったほうが、より多くの情報を知っているように錯覚させられると踏んだのだ。

「……っ!」

 コウレンから、深い憤りが漏れる。歯ぐきをむき出しにしてハオリュウを睨みつけた。

 しかし、ハオリュウは怖気づくことなく、更に追い詰める。口元に笑みを浮かべ、すべてを知っているかのように装い、勝負に出る。

「ねぇ、『厳月さん』」

『厳月』の名前に、コウレンがびくりと肩を上げた。

わしが、厳月の当主だということも知っていたのか……!」

「ええ」

 口では平然とそう言いながら、実のところ、カマをかけただけだった。

 この〈影〉が、厳月家の関係者であろうことは予測していたが、自分から当主だと名乗ってくれたのは、予想外の朗報だった。これで話を進めやすくなったと、ハオリュウはほくそ笑む。

 シュアンから〈影〉という技術を聞いたとき、初めはシュアンの先輩と同じく、父にも〈ムスカ〉という人物が入り込んでいるのだと思った。

 しかし、〈影〉とは『脳内の記憶を上書きして中身だけが別人になったもの』だ。

 ――そう。〈ムスカ〉である必要はない。そして、噂に聞く〈ムスカ〉は、かなり狡猾で頭の切れる人物だ。彼や異母姉に、違和感を与えるような言動を取るとは考えにくい。

 ならば、父に成り代わって得をする人間は誰か? ――と考えたとき、厳月の名に行き当たった。

 確証を掴むために、この軽食を料理長に頼んだ。食事の所作には育ちが出る。案の定、〈影〉の中身が貴族シャトーアであることは、ナプキンの使い方から明らかだった。

 更に、年若いメイドについて言及した。好色と噂に聞く厳月家の人間なら、どんな反応を示すかと謀ったのだ。ハオリュウは、女性をそういった卑下た目で見ることを蔑視している。いくら演技とはいえ、自分で言っていて胸が悪くなった。

「厳月さん。あなたは、僕の父の体を奪うことで藤咲家を手に入れられる――そう教えられたのではありませんか?」

「……」

 すべてお見通しだ、と言わんばかりに尋ねるハオリュウを不快げに睨みつけ、コウレンは無言で返す。

 押し黙った相手に、肯定の意を読み取り、ハオリュウは畳み掛けるように続けた。

「『あなた』は、ご自分がどういった存在なのか、分かってらっしゃいますか?」

 コウレンは小鼻を膨らませ、しかし口はつぐんだままだった。

 答えられるわけがない。きちんと理解していたなら、〈影〉となることに同意するはずないのだ。ハオリュウは侮蔑の微笑みを浮かべる。

「『あなた』の記憶は厳月の当主ですが、肉体は僕の父です」

 目の前の愚かな男でも、このくらいは理解できているだろう。

 問題は、この先だ。

「そして、『あなた』に記憶を与えた厳月の当主は、今までと何も変わらずに厳月の屋敷で暮らしているんですよ」

「……どういうことだ? 厳月の当主は――わしは、ここにいるだろう?」

 憤慨し、唾を飛ばす。そのさまは憐れですらあり、ハオリュウは酷薄な笑みを浮かべる。

「何を言っているんですか。『あなた』に記憶を写したところで、厳月の当主の肉体にはなんの変化もありません。ふたりに同じ記憶があっても、肉体は別々――別人として、それぞれ生きているんです」

わしがもうひとり、いる……?」

 ハオリュウは薄く嗤い、ゆっくりと首を振った。そして、分かりやすいように、はっきりと告げる。

「厳月の当主の姿をしていない『あなた』は、もはや厳月の当主ではありません。『藤咲コウレン』です」

「な、なんだと!?」

 コウレンは血相を変えた。

「これから『あなた』は、『藤咲コウレン』として生きていくんです」

「ふ、ふざけるな! そんな……、そんなことがっ……!」

 コウレンは、ぎりぎりと音を立てて歯噛みした。取り返しのつかない事態に陥っていたことに、ようやく気づいたのだ。

 コウレンの姿をした〈影〉は、自分自身の愚かさを呪うような殊勝な人間ではなかった。だから、残酷な事実をもたらしたハオリュウに怒りの矛先を向けた。

「この、このっ……!」

 殴りかからんとして、ハオリュウに詰め寄る。

 衰えの見え始めたコウレンと、急に背が伸びてきたハオリュウとでは、圧倒的な力の差はないかもしれない。だが体格的には、まだまだ大人と子供。大人には敵わないことは、シュアンで経験している。

 だから、ハオリュウは機を逃さぬよう、絶妙なタイミングで余裕の笑みを浮かべた。

 ――この部屋を、コウレンを訪れた真の目的を口にする。

「僕と、取り引きしませんか?」

 明らかに子供の声であるハスキーボイスが、魔性の響きを持って木霊こだました。

 ハオリュウは、闇色の目でコウレンを見つめる。その視線に気圧けおされ、コウレンの振り上げた拳が空中で凍りつき、やがてゆっくりと下ろされた。

「取り引き、だと?」

「僕と『あなた』の利害は一致しているんですよ」

 涼しげな声で、ハオリュウが言う。

「藤咲コウレンである『あなた』がすべきことは、厳月家の繁栄のために尽くすことではなく、藤咲家を盛りたてることでしょう? 藤咲家の嫡子の僕と同じです」

 ハオリュウの言うことは、まったくもって真実だった。けれど、その現実は、即座に受け入れられるようなものではない。

「何を言う! わしは厳月の当主だ。藤咲のためになんか!」

 怒りの赤を超えた、どす黒い顔でコウレンが体を震わせる。

「でも、厳月の屋敷には、『あなた』とは別人である厳月の当主がいますよ」

「違う! わしが……、わしこそが、厳月の当主だ……!」

 斑目一族や〈ムスカ〉への怒り。今も厳月家の屋敷でのうのうとしている『自分自身』への妬み。これからの自分の運命への恐れ……。

 複雑な思いが絡み合い、コウレンの顔色は目まぐるしく変化する。その不安定な心の隙間に、ハオリュウは誘惑の美酒を静かに注ぎ込む。

「『あなた』は、自分をこんな目に遭わせた者たちが、憎くありませんか?」

 ハスキーボイスが、甘い芳香を放つ。

「残念ながら、『あなた』を元に戻すすべはないと聞いています。けれど復讐ならば、可能です」

「……」

「過ぎたことを悔やむよりも、先に進むべきです。――『あなた』は、婚礼衣装担当家に選ばれた藤咲家の当主『藤咲コウレン』です。今一番、隆盛を誇る貴族シャトーアですよ。厳月の当主だったことを忘れ、藤咲の当主として、栄華を極めるんです。そして、その権力と財力でもって復讐すればいい」

「……!」

 かっ、とコウレンの目が見開かれた。ハオリュウは、相手が堕ちたことを確信し、口の端を上げる。

 そんな見透かしたような笑みが、かんに障ったのだろう。コウレンはぎろりとハオリュウを睨みつけ、鼻を鳴らした。

「はっ! 藤咲の小僧が何を言う? お前からすれば、わしは父親の体を奪ったかたきだ。取り引きなどと言って、わしの足元をすくおうというはらだろう?」

「そうおっしゃると思いましたよ」

 ハオリュウは焦ることなく、薄っすらと嗤った。

「でも残念ながら、かたきを取ろうと思うほど、僕は父と仲が良くなかったんですよ。……ご存知ありませんか? 正当な後継者の地位にありながら、親族中から邪魔者扱いされている、平民バイスアを母に持つの嫡子の噂を――」

 思い当たったのか、コウレンがぴくりと眉を動かした。

「聞いたことがあるな」

「僕は小さいころ、怒った大叔父に殴り飛ばされそうになったことがありました。そのとき僕を庇ってくれたのは異母姉であり、抗議すべきだった父は脅えているだけでした。父は善人かもしれませんが、役立たずです」

 そこでハオリュウは、コウレンの顔をぐっと覗き込んだ。

「でも『あなた』なら、僕の理想の父に、そして藤咲家にふさわしい当主になってくださるでしょう?」

 ハオリュウの漆黒の瞳が嗤う。少年の形をした闇が、コウレンを侵食していく。だがコウレンには、それが見えていなかった。だから、鼻息荒くハオリュウに尋ねた。

「それで、わしが藤咲家の当主を演じてやるとして、その見返りはなんだ?」

『演じてやる』という、自分の言葉の厚かましさに気づいているのか、いないのか。まだ態度を決め兼ねているような素振りを見せつつも、コウレンがすっかりその気になっているのは、火を見るより明らかだった。

「僕は、『あなた』が『藤咲コウレン』として藤咲家に溶け込めるよう、協力しますよ」

 そう言いながら、ハオリュウはティーカップを手に取る。

「例えば、父はハーブティーが嫌いなんですよ。匂いがどうしても苦手だとか。それを平気な顔で飲んでいたら、藤咲の者たちは違和感を覚えますよね」

「お前……! わざと、この茶を……」

「ええ。――お茶くらいなら、好みが変わったとでも言えばいいでしょう。けれど、『藤咲コウレン』として明らかにおかしな言動を取ったとき、親族から『気が触れた』と決めつけられて、失脚させられる可能性もあります。父は嫌われていますからね」

「……」

 コウレンが憮然とした面持ちで、ハオリュウを見やった。その顔には、藤咲家の当主に成り済ましたところで、ちっとも権勢を振るえないではないかと、ありありと書かれていた。

「僕がいれば大丈夫ですよ」

 ハオリュウがにっこりと笑う。

「まず手始めに、父の秘書を解雇しましょう。『あなた』にとって一番、障害となる相手です」

「藤咲の秘書は、確かお前の伯父ではなかったか?」

 コウレンは驚きの声を上げた。

 無能な当主が今まで藤咲家を支えてこれたのは、秘書の働きがあってこそ。それはライバルである厳月家の当主であった〈影〉も、痛いほど知っていた。藤咲家が衣装担当家の役職を得られたのも、秘書の手腕に依るところが大きかった。

 藤咲家にとって不可欠な人間であり、かつハオリュウの伯父である男を排除するという。〈影〉が訝しむのは当然だった。

「彼は、僕の異母姉を凶賊ダリジィンに売りました。先妻の娘だからと、日頃から何かと異母姉を目のかたきにしていたんです。……僕はね、小さなころから異母姉に守られてきたんですよ。だから、彼女に害をなす者は決して許しません。異母姉に対する償いとして、伯父には出ていってもらいます」

 怒りの炎を宿した瞳にハオリュウの本気を感じ、コウレンは「分かった」と頷いた。

「では、藤咲コウレンの妻である、お前の母はどうする? 身近な者ほど感づきやすいだろう?」

「母は……。……体を悪くしています。別荘で養生させましょう」

「ふむ。なら、お前が大切にしている異母姉はどうする気だ?」

 コウレンが、心持ち意地悪く問いかけた。

「鷹刀ルイフォンに渡せばいいでしょう?」

「ほぅ? お前は、異母姉を凶賊ダリジィンに売った伯父を許さないくせに、あの若造にならやってもよいと?」

 コウレンの揶揄するような口ぶりに、ハオリュウは悔しげに「くっ」と息を漏らす。

「仕方ないでしょう! 認めたくはありませんが、姉様はあの男がいいと言っているんです」

 ハオリュウは、こほんと咳払いをした。思わず出てしまった本音を取り繕うような――相手がそう信じ込むような、絶妙な間合いを計る。

「――僕と異母姉は仲が良いですが、藤咲家の跡継ぎという意味では、彼女は僕の敵になります。彼女が望まなくとも、彼女の夫となった者が当主の座を狙うことがあり得ます。だから、外に出してしまうのが一番なんですよ。……僕は、異母姉には幸せになってもらいたい」

 嘘で塗り固めたハオリュウの言葉の中で、それだけは心からの真実だった。

「だから『あなた』は、これから異母姉とルイフォンを呼び出して、ふたりの仲を認めると言ってやってください」

 ハオリュウは、ぎゅっと拳を握りしめた。奥歯を噛み締め、ただ異母姉のために祈る。汚いことは全部、自分の役目。異母姉は何も知らずに綺麗でいてほしい……。

 異母姉への切なる思いでいっぱいのハオリュウに、コウレンの無粋な声が割り込んだ。

わしは〈ムスカ〉という男に、鷹刀イーレオをひとりで呼び出すよう命じられている。その件は……」

「今更、そんな約束に従う義理はないでしょう!」

 噛み付くようなハオリュウの返事に、コウレンが呆気にとられたように瞬きをした。

「あ、いえ。失礼」

 ハオリュウは冷静さを取り戻し、コウレン――の姿をした、厳月家の当主の〈影〉――と正面から向き合った。

「取り引きは成立、ということでよろしいでしょうか?」

 薄い笑いを浮かべ、ハオリュウが最終確認をする。

「よし、それで手を打ってやろう」

「では、これは『あなた』のものです」

 そう言って、ハオリュウは金色の指輪の入った小箱を差し出した。

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