5.紡ぎあげられた邂逅-1

 今が夜であることを忘れたかのように、別荘の廊下は煌々とした光で満たされていた。

 メイシアの父、コウレンとの対面を果たしたルイフォンとリュイセンは、明るすぎる廊下に落ち着きのなさを感じながら、先を急いでいた。

 脱出経路は、侵入経路の逆順。端の階段を使って一階まで降り、厨房から外に出る――。

 額から汗が伝い、流れる。

 だが、ルイフォンがそれを拭うことは叶わなかった。意識のないコウレンを背負っていたためである。混乱が危険を招くと判断したリュイセンが気絶させ、更に途中で目覚めると厄介だからと眠り薬を打ったのだ。

 感動の、とまではいかないまでも、それなりに絵になる救出劇を思い描いていたルイフォンにとって、予定とは随分と違う展開になっていた。

 一階の階段室を出る直前で、前を行くリュイセンが合図を送ってきた。ルイフォンが了承の意を返すと同時に、リュイセンは流星もかくやという速さで躍り出る。

 見回りの凶賊ダリジィンが三人、突如として現れたリュイセンに凍りついた。

 刹那、ルイフォンは鈍い物音を聞いた。

 リュイセンの向こうで凶賊ダリジィンが倒れた。と、同時に幾つかの打撃音が続く。

 ひときわ重い、どさりという音が床を揺らした。それが最後の男だった。そして、あたりは人気ひとけのない、森閑とした廊下に戻る。

 相変わらずの見事な技に、ルイフォンは口笛を吹きたいのを我慢して、にやりと口の端を上げた。



 入ってきたときと同じく、厨房は闇に包まれていた。廊下との落差から、ここだけが光の世界から置き去りにされたかのように思える。夜が更けてきたためか、室内の空気はひやりと冷たく、それが物寂しさを助長させていた。

 このあとは、そこの勝手口から庭を駆け抜け、一気に門を出る。事前に把握しておいた見回りの人数からすれば、途中で敵に遭遇する確率は極めて低いはずだ。

 唯一の懸念は〈ムスカ〉の存在であるが、純粋な力量ならリュイセンが上回ることを、前に〈ムスカ〉自身が認めている。

 別荘の外に出てしまえば一安心で、近くに待機させている車が迎えに来る手はずになっていた。

 だから、救出作戦の成功は目前であった。

 しかし、ルイフォンとリュイセンは、暗い厨房の中ほどで立ち止まった。

 戸惑いもあらわに、リュイセンが後ろのルイフォンを仰ぐ。ルイフォンも、予想外の事態に唖然としていた。

 今は一刻も早く、メイシアと父親を会わせてやりたい。

 しかし、勝手口の前に、ちょこんと座り込んだ小さな影をどうすればいいというのだろう?

 ルイフォンは、困惑に目眩がしそうになった。

 影は、こくり、こくりと船を漕いでいた。ぴょんと跳ねた癖っ毛が、肩の上で可愛らしく揺れている。――タオロンの愛娘、ファンルゥである。彼女は扉を塞ぐようにして眠っていた。

 まさかの伏兵だった。

 別れ際に、ちゃんと部屋に戻るように言ったはずなのだが、そのまま寝てしまったのだろうか。ともかく、ファンルゥを乗り越えなければ外に出られない。

「起こさないように、そっとどかしてくれ」

 小声で、ルイフォンはリュイセンに指示を出す。子供相手の役回りはルイフォンのほうが適任なのだが、生憎、彼の両手はコウレンを背負っているので、文字通り手一杯だった。

「無茶を言うな」

「起きたら、そのときは、そのときだ。……仕方ない」

 急いでいるのは勿論であるが、それを抜きにしても、今はファンルゥと接したくなかった。三階の部屋では、タオロンが深手を負って倒れている。彼女は知らなくても、ルイフォンたちは父親を襲った賊に他ならなかった。

「――ああ、本当に仕方ねぇな……」

 心底嫌そうな顔でリュイセンは屈み込み、ファンルゥの背に手を伸ばした。

「ふにゃ!?」

 案の定、手が触れるや否や、ファンルゥが大きな目をぱちりと開けた。リュイセンの舌打ちが漏れる。

 彼女は、間近に迫っていたリュイセンの顔をじっと見つめた。そして「はふぅ!?」と、わけの分からない雄叫びを上げたかと思うと、いきなり大声を出した。

「あぁっ! 来たぁ! ホンシュア、起きて! 本当に、ルイフォンとリュイセンが来たよ!」

 ファンルゥは、喜色満面である。

 だがルイフォンは、彼女の言葉に頭の中が真っ白になった。あまりにも不可解な情報が、無数に散りばめられていた。

 ――ファンルゥは、『待っていた』のだ。

 出口を塞いでいたのは偶然ではない。

 さっき会ったときには知らなかったはずの、『ルイフォン』と『リュイセン』の名前を口にした。

 そして、口ぶりから彼女は独りではない。ここで待っていれば、彼らが来ると教えた者――おそらく彼らの名を教えた者が、この暗がりの中にいる。

「どこにいるんだ……?」

 ルイフォンの気持ちを代弁するように、リュイセンが呟いた。

 武にけたリュイセンすら、気配を探れない相手。しかも――。

「『ホンシュア』だと――?」

 ルイフォンは仇敵にでも会ったかのように、瞳を尖らせた。

 リュイセンはその名にぴんとこないだろうが、ルイフォンは忘れるわけがない。〈フェレース〉たる彼が、ほぼ徹夜で調査しても正体の片鱗すら突き止められなかった、メイシアを唆した仕立て屋の名前だ。

 そういえば、別荘に潜入する前にキャンプ場で情報を吐かせた吊り目男も、地下に〈七つの大罪〉の〈サーペンス〉と呼ばれる女がいると言っていた。その女は『ホンシュア』と名乗っていた、とも。

 ファンルゥは、ルイフォンの剣呑な雰囲気にまったく気づくことなく、無邪気に答えた。

「窓のところにいるよ! ホンシュアは熱があるの。熱い、熱いって。だから窓を開けて涼しくしているの」

「……熱?」

 床に座り込んでいたファンルゥは、ぴょんと元気良く立ち上がると、調理台の間を抜け、換気扇の下に設けられた腰高窓のところに行った。

 見れば、先ほどは閉じられていた窓が開け放たれていた。冷たい夜気が入り込んでいる。どうりで室温が下がったと感じたわけだ。

 ファンルゥは、ちょこんとしゃがみ込んだ。

「ホンシュア! ルイフォンたち、来たよ!」

 そこに、人影があった。

 影は、両足を抱え込むようにして、うずくまっていた。膝に顔を載せるようにして伏しているため、造作は伺えない。

 白いキャミソールワンピース姿で、背を覆う黒髪の隙間から、むき出しの肩が晒されていた。長い裾は床で広がり、緩やかに波打っている。

 今まで気づかなかったのが不思議なくらいにはっきりと、青白く幻想的な光景が暗がりに浮かび上がっていた。

 こんな薄着で、しかも熱があるのに窓を開けるのか。生身の人間とは思えない、そんな錯覚すら覚える。

「これが……『ホンシュア』……?」

 ルイフォンは、情報屋トンツァイから貰った写真でしか、ホンシュアを知らない。斑目一族の屋敷から出てくるところを隠し撮りしたものである。

 派手な女だと思った。濃い化粧と、体のラインがはっきりと表れる服。切れ者を演出するかのように、髪はきっちりとまとめ上げていた。

「ホンシュア、起きてよ!」

 ファンルゥが、ホンシュアの肩を揺らした。

 その様子を呆然と見つめるルイフォンの腕を、リュイセンが引き寄せる。

「ルイフォン、今なら外に出られる」

「け、けど、こいつは〈七つの大罪〉の〈悪魔〉なんだ」

「何……?」

 リュイセンは黄金比の美貌を曇らせた。厄介な奴に会ったと思うと同時に、気配を感じられなかったのも、得体の知れない輩なら道理かと、妙な納得をする。

 たが、彼にとって〈七つの大罪〉は警戒すべき相手ではあるが、積極的に関わる相手ではなかった。彼はホンシュアを一瞥すると、低い声で言った。

「気になるのは分かる。だが、今、俺たちがすべきことはなんだ?」

 リュイセンの視線が、ルイフォンの背中を示す。

「……」

 ルイフォンは肩越しに、背負っているコウレンの横顔を見た。ぐったりとして眠っているが、確かな息遣いが首筋に掛かる。

「……お前の言う通りだ。リュイセン、行こう」

 コウレンを背負う手に力を込める。

 きびすを返したルイフォンたちに、ファンルゥの悲鳴のような声が上がった。

「待ってよ! ホンシュアは、お友達じゃないの!?」

 悲愴ともいえる必死な顔で、大きな目が彼らを責め立てていた。

「ホンシュア、『逢いたい』って、泣いてた!」

「逢いたい……?」

 ルイフォンが思わず足を止める。それを見て、リュイセンが忌々しげに眉を上げた。

「ファンルゥが呼んでくる、って言ったけど、来てくれないだろう、って。だから、ホンシュアは熱があるのに、無理して地下からここまで来たの!」

「ルイフォン、行くぞ!」

 ファンルゥの言葉にかぶるように、リュイセンが叫ぶ。

 そのときだった。

 うつむいていたホンシュアが顔を上げた。

 青白い頬に、熱に浮かされたような、潤んだ瞳。化粧っ気のない顔は写真のホンシュアとは、だいぶ印象が違ったが、気をつけて見れば確かに本人だった。

「あっ……」

 ホンシュアの目が、ルイフォンとリュイセンを捕らえた。中途半端に口を開けたまま、彼女は動きを止める。

 その顔は徐々に歓喜に満ちあふれ、やがて瞳から、ひと筋の涙が流れ落ちた。

「……逢えた…………本当に……」

 荒い息と共に、彼女の口から呟きが漏れた。

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