3.すれ違いの光と影-2

 じわりと汗の滲む手で、ルイフォンはゆっくりとドアノブを押していった。

 そこに、無明の空間が広がっていた。部屋の照明は落とされ、カーテンもぴっしりと閉ざされている。

 闇を切り裂くように、ルイフォンが流し込んだ廊下からの光が、細く長く伸びていく。

 何処にいる――?

 相手は、メイシアの大切な父親だ。一刻も早く、無事な姿を確認したい。 

 しかし、現在のルイフォンは不審な侵入者だった。信用を得るまでは、彼を脅かさぬよう、慎重に行動する必要があった。

 焦りは禁物。まだ闇に慣れぬ目を凝らして、ルイフォンは彼の姿を探した。

 刹那、部屋の奥から、空気を鋭く吸い込んだような、声にもならぬ悲鳴が聞こえた。

 扉の開きと共に、徐々に光が幅を広げ、ベッドに半身を起こした男の姿が見えてくる。彼は迫りくる光を恐れるかのように、あとずさりようもないベッドの端で震えていた。警戒し、脅えきった様子でこちらを凝視している。

 いた――!

 最愛の人の父親との、初めての対面としては、およそ最悪のものといえよう。

 けれどルイフォンは、彼が無事だったというだけで、ぐっと胸が熱くなった。

 今すぐメイシアに連絡してやりたい。傍受が怖いため、途中での通信ができないのがもどかしい。

 ルイフォンはリュイセンを伴って、さっと部屋に入り、扉を閉めた。まずはこちらの自己紹介をせねばなるまい。

 脅えている父親を刺激しないよう、距離をおいたまま、ルイフォンはまっすぐに瞳を向けた。

 ――と、その後ろで、リュイセンがいきなり部屋の照明をつけた。

 父親が、引きつったような甲高い悲鳴を上げる。ぎょっとしたルイフォンは、振り返ってリュイセンに詰め寄り、小声で抗議した。

「リュイセン、驚かすような真似をするな!」

「落ち着け、ルイフォン。暗い部屋の中で、見ず知らずの奴と閉じ込められるほうが、ずっと怖いだろうが。相手は一般人だ。俺たちのように夜目が効くわけじゃない」

 半ば呆れたような、リュイセンの冷静な低音が響く。すっかり気分が舞い上がっていた自分に気づき、ルイフォンは恥じ入った。ここまで順調にきていたから、つい調子づいてしまったらしい。

「あ、ああ……。それも道理だ。……悪かった」

 明るくなった部屋で顔を確認すると、彼は確かに藤咲家当主、藤咲コウレン――メイシアとハオリュウの父親だった。事前に写真で覚えておいたから間違いない。

 ただ、随分と様相が変わっていた。ハオリュウとよく似た顔立ちはそのままなのだが、妙に老けて見える。

 情報屋トンツァイの報告や、別の場所とはいえ、同じく囚えられていたハオリュウの証言からすると、健康状態を害するような、酷い扱いは受けていなかったはずだ。しかし、寝不足と過労からくるものなのか、眼球が落ち窪み、白髪も増えた気がする。

 早く連れ帰ってやりたい――はやる気持ちを押さえ、ルイフォンは猫背を正した。それからきちんと直角に頭を下げる。彼が滅多に取ることのない、最上の礼だった。

「はじめまして。俺は鷹刀ルイフォンと申します。あなたのお嬢さんのメイシア――さんに頼まれて……」

 そこまで言って、ルイフォンは首を振り、顔を上げた。癖のある前髪がふわりと揺れて、鋭く力強い眼差しがコウレンを捕らえる。

「――そうじゃない。『俺が』、あなたをメイシアに逢わせたいから、あなたを助けに来たんだ。あなたのことは必ず守るから、俺と一緒に来てほしい」

 鋭く斬り込むようで、それでいて、まろみのあるテノール。ルイフォンをよく知る、兄貴分のリュイセンが、聞いたことのない響きに耳を奪われた。

 ひとりの男の、心の底からの言葉が、声に力を宿していた。

 ルイフォンが一歩、前に進み出る。

 そのとき、コウレンの目が見開かれた。

「く、来るな!」

 叫びながら、コウレンは手元にあった枕を投げつけた。上質で大きめの枕は、ベッドからさほど飛距離を伸ばさずに、あっけなく落下する。

 彼は瞳に恐怖を浮かべ、身を隠すように毛布を胸元まで引き寄せた。

「鷹刀!? わ、私を殺すのか? 斑目は!? 金は渡したはずだろう!? 厳月が動いたのか? 藤咲をどうする気だ!」

 がたがたと震えながら、コウレンは言い放った。

 これは、いったい……。

 ルイフォンは愕然とし、言葉を失う。

 コウレンの頭の中では、貴族シャトーアの権力闘争が激しく繰り広げられているようだった。わっと叫んだかと思うと、両手で頭を押さえ込むようにしてうずくまり、耳と心を塞ぐ。

 彼は、追い詰められていた。過度のストレスが精神を蝕んだのだろう。

 荒事とは縁のなかった貴族シャトーアが、数日間も凶賊ダリジィンに監禁されたのだ。予測してしかるべきだった。同じ状況にあったハオリュウが、解放されてすぐに鷹刀一族の屋敷に乗り込んできたことのほうが異常だったのだ。

「……貴族シャトーア、だな」

 いつの間にか隣に現れたリュイセンが、鼻に皺を寄せながら不快げに呟いた。

 その言葉の中には、明らかな侮蔑が混じっていた。安穏な生活しか知らぬ、人は金で動かせるものと信じ込んでいる、判で押したかのような貴族シャトーアということだろう。

 ――ルイフォンはそう解釈した。それは決して間違いではなかった。しかし実は、可愛い弟分の誠意を踏みにじられたことこそが、リュイセンを苛立たせた一番の原因だった。

 そうとも知らず、ルイフォンはリュイセンに掴みかかる。

「おい、メイシアの親父を侮辱する気か!?」

 ルイフォンとて、貴族シャトーアに肩入れする気はない。だが、コウレンはメイシアの父親である。

 彼女の話からすると、コウレンは穏やかで争いを好まず、貴族シャトーアの当主よりも庭師が似合うような男だ。なのに、愛息たるハオリュウのために斑目一族の元へ飛び込んでいった。結果、あっけなく囚えられてしまったわけであるが、そんな優しい父親なのだ。

「……別に貴族シャトーアすべてを否定しているわけじゃない」

 殺気立つルイフォンに襟元を掴まれたまま、リュイセンは冷静に答えた。

「ハオリュウと――あの女のことは認めている」

「え……?」

 貴族シャトーア嫌いのリュイセンとは思えない言葉に、ルイフォンの手の力が緩んだ。

 その手を軽く押しのけ、リュイセンは自由を取り戻す。そして、ルイフォンが何かを言う前に「すまんな」と謝罪した。

「今は、俺たちで争っている場合じゃない」

 そう言いながらリュイセンは、ルイフォンの体を強引にコウレンへと向けた。

「今、やるべきことは彼の説得だ。――だが難航するなら実力行使で行く。時間がない」

 脱出時には、タオロンや〈ムスカ〉と交戦することになるだろう。そんなとき、遊び仲間の少年たちが引き受けてくれた下っ端が帰ってきたら、かなりの苦戦を強いられる。

「……俺こそ悪かった。――ありがとう」

 ルイフォンは、肩越しに振り返ってリュイセンに礼を言うと、再びコウレンと対峙した。コウレンは少しだけ毛布を下ろし、訝しげな顔で、じっとこちらを見ていた。

「メイシアから伝言を預かっている。これを聞けば、あなたが俺を信用してくれると言っていた」

 彼女が幼いころ、父コウレンが言った言葉だという。何故か顔を真っ赤にしながら、教えてくれた。

「『暁の光の中で、朝の挨拶を交わしたい人と出逢いました』」

 ルイフォンは、メイシアの言った言葉をなぞる。中途半端な暗号のようだが、伝言はこれだけだった。

 コウレンの目は、ぼんやりとしていた。その顔は記憶を探っているようにも、続きを求めているようにも見える。

 すぐさまコウレンの反応が返ってくることを期待していたルイフォンは焦った。更に、背後からは、「おい……」と咎めるようなリュイセンの声も聞こえてくる。

 どうしたものか、と途方に暮れかけたときだった。リュイセンが息を呑む気配が、鋭く耳朶を打った。

 ルイフォンが「どうした?」と声を掛ける間もなく、彼はすぐさま照明を消した。いきなりの明るさの変化に、ルイフォンの目がついていかない。

 目を凝らし、かろうじて見えたのは、ベッドに向かって走り出すリュイセンの背中。

 ――次の瞬間、リュイセンは、有無も言わせずコウレンの首筋に手刀を落とし、気絶させた。

「な……っ!?」

 ルイフォンは思わず声を上げた。だが、すぐに気づく。

 階段を上がる足音。――敵が近づいてきていた。

 位置的にいって中央にあるメイン階段だろう。ならば、ふたりが倒して縛り上げた、端の階段の凶賊ダリジィンたちには、まだ気づいていないはずだ。

 ベッドの下に隠れて、やり過ごせるだろうか。――ルイフォンがそう思ったとき、リュイセンがコウレンのそばから舞い戻った。

「斑目タオロンだ」

 ルイフォンは顔色を変えた。そして、じっと神経を研ぎ澄ます。

 リュイセンの言う通りだった。先行する小さな気配がひとつあるが、その後ろにタオロンの持つ圧倒的な存在感が続いている。下っ端なら誤魔化せても、タオロンを隠れてやり過ごすことは不可能だろう。

「俺が奴を引き受けるから、お前はあの貴族シャトーアを守れ」

 リュイセンの低い声が、ルイフォンの耳元で響いた。



 タオロンの心臓は、激しく打ち鳴らされていた。

 ベッドを抜け出したファンルゥを探そうと思った矢先に、本邸からの連絡があった。警察隊による一斉検挙。斑目一族の屋台骨を揺るがす、まさかの事態となった。

 いくら斑目一族が武にけていようとも、資金がなければ何もできない。『世の中は金次第』などと思いたくはないが、現実として、そういう側面は存在する。

 これはチャンスなのだろうか――。

 斑目一族が弱体化すれば、ファンルゥを連れて逃げ切ることができるかもしれない。

 だが一方で、タオロンへの圧力が強まったのも感じていた。

「タオロン様」

 前を行く部下がタオロンを振り返った。本邸から付いてきた監視役だ。ファンルゥを探しに厨房に向かっていたところを、彼に捕まった。

「いいですね。あなたが預かっているのは、貴族シャトーアの厳月家とのパイプです。多くの資金源を潰された以上、厳月家とは懇意である必要があります。分かりますね?」

「……ああ、分かっている」

 階段を上がるたびに、腰にいた大刀が重く揺れる。

 一度に、あまりにも多くの出来ごとが起こりすぎていた。それは、単純明快を好むタオロンの処理能力を超えていた。

『あなたは、いつまで斑目一族に従うおつもりなんですか?』

ムスカ〉の声が脳裏に蘇る。

『私には到底理解できませんが、正義馬鹿のあなたには、この現状は耐え難いことでしょう。ひと役買っている私が言うのもなんですが、なかなかに非道ですね』

 ひと役も何も、全部〈ムスカ〉の仕業だ。ただ、命令したのが斑目一族というだけだ。

『いい加減、斑目一族に見切りをつけて、私の元に来なさい。怪しむことはありませんよ。私は純粋に手駒が欲しいだけです。分かりやすいでしょう?』

ムスカ〉が、幽鬼のような顔で嗤う。

『私に協力してくださるのなら、私は斑目一族から全力であなたを守りますよ?』

 タオロンは、〈ムスカ〉の幻影を掻き消すように、自分の髪を掻きむしった。

 いつの間にか階段を上りきり、彼と部下は三階に来ていた。まっすぐの廊下。片側に続く窓硝子に、情けない顔をした男の顔が映っている。

 もしも――。

 もしも、途中でこの監視役の部下に出くわさずに厨房に行っていたのなら、タオロンは鷹刀のふたりと相まみえることなく、藤咲家の当主をそのまま逃がすことになったのかもしれない。

 けれど現実は、もうすぐ彼らと鉢合わせる。

 これは、こういう星の巡り合わせだったということなのか――。

 タオロンは、廊下の行き止まりに着いた。すなわち、貴族シャトーアの当主を監禁している部屋の前だ。

 彼は、蔓薔薇の彫刻された扉をじっと見る。庭の蔓薔薇も見事であるし、この別荘の前の持ち主は、さぞこの花が好きだったのだろう。

 だがタオロンには、奇っ怪に巻き付く蔓が、まるで自身に絡みついてくるしがらみに見え、鋭い棘からはおぞましさしか感じられなかった。

 部屋の中の気配は、三つ。ほとんど気配を消しているリュイセンと、そういったことが苦手と思われるルイフォン。そして、軽い呼吸だけを感じる――どうやら昏倒させられたらしい貴族シャトーアの当主。

 あの当主の目を思い出し、彼は奥歯を噛む。

『タオロン』

 ふっと、幻の声が、彼の鼓膜を震わせた。

『誰になんと罵られても、あなたはずっと馬鹿でいて』

 懐かしい甘い声。

 幻影を求めて、タオロンは思わず振り返る。だが、そこにいたのは、すぐに部屋に突入しない彼を、不審な様子で窺っている部下だけだった。

『あなたの馬鹿みたいに、まっすぐなところを私は好きになったの』

 姿は見えなくても、タオロンには彼女の声が聞こえる。過去の思い出の中から、彼女は彼に語りかける……。

『あなたは正しいんだから、自分を信じて……』

 ドアノブに掛けられた手に、ぐっと力が入った。太い腕の筋肉が盛り上がる。

 タオロンの全身から、闘気が溢れ出していた。そのあまりの気迫に、背後の部下は気圧され、後ずさる。

 ――がちゃりと、扉が開かれた。

 その瞬間、鷹刀リュイセンの双刀が、タオロンに襲いかかった。

 だが、リュイセンが構えていることを承知で踏み込んだタオロンのほうが、わずかに対応が速い。大刀の一閃で、リュイセンの両の刀を薙ぎ払う――!

 リュイセンとて、この一撃がタオロンに有効であるなどとは、微塵にも思っていない。そもそも、受け流されることを前提とした、挨拶としての軽い一撃である。焦ることなく、次の動きに移る。

 しかしタオロンは、リュイセンに見向きもせずにはしり出した。

 そのまま、ベッドへ――。

 タオロンは、囚えている貴族シャトーアの当主に向かって、まっすぐに大刀を振り下ろした。

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