2.眠らない夜の絡繰り人形-4

 無影灯の光が、天井から注がれていた。影を作らぬ明るい光が、さして広くもない室内に熱く満ちている。シュアンの額から汗がにじみ出て、彼の三白眼を嘲笑うかのように、その脇を不快に流れ落ちた。

「くっ……」

 シュアンは腹の底から息を吐いた。煮えくり返るような思いが内臓を渦巻き、湧き立つ血流が血管を浮き立たせる。

 この場限り……、今だけは奴に従うべきなのだろうか――。

 シュアンの口が、小さく、力なく音を出す。

「待……」

「緋扇さん……!」

 それまで脅えるばかりだったミンウェイが、シュアンの袖を掴んだ。力強く引かれた制服の左肩がずり下がる。

「私、お父様のところに行きます。だから、緋扇さんの先輩は……」

「ミンウェイ!」

 彼女の言葉の途中で、ローヤンの憤怒の声が割り込んだ。

「君は、こんな男のために私のもとに来るというのか!? 私の〈ベラドンナ〉が、私以外の男のために指一本でも動かすなんて、あってはならないことだろう? そう教えたはずだ!」

 嫉妬に歪んだ顔で、ローヤンはシュアンを睨みつけた。視線だけで殺せそうなほどの憎悪が、ほとばしる。

「お父様、私は……、私は、もう……、〈ベラドンナ〉ではありません!」

 つやを失った、むき出しの声が、悲鳴のように響き渡った。

 つかえていた胸の思いを吐き出し、彼女の肩が苦しげに上下していた。ひとつに束ねられた長い髪は、意思を持った生き物のように背中で波打っている。

 彼女にとって、父親は幼少時の絶対的な支配者。

 それは、天に逆らうにも等しい叫びだった。

「何を言っているんだい? 私の可愛い〈ベラドンナ〉。その豊富な知識も、高度な技術も――そして何より、その美しく完璧な肉体も……。すべて私が与え、磨きあげた。君は私の至高の芸術品だよ」

 ミンウェイの体が、雷に打たれたかのように大きく震え、硬直した。その振動は、袖を掴まれたままのシュアンにも伝わり、彼女の恐怖を彼は肌で感じ取った。

「……腐ってやがる……」

 シュアンの押し殺した唸り声が響く。

「あんたは本当に、悪魔、だ」

 拳銃で撃ち殺したい衝動に駆られるが、その肉体は先輩のものだ。

 シュアンは音が鳴るほどに歯噛みした。

「ミンウェイ。あんたが、こいつの言いなりになることはない。俺やあんたが言いなりになったところで、こいつは先輩を殺すだろう――嗤いながら俺の目の前で。そういう人種だ」

 八方塞がりの現状。やり場のない怒り。口をついて出る毒の言葉は、ただ自分の無力さを確認しているだけだ。

「こいつは俺を弄んで楽しんでいるだけだ。こいつにとって、俺は玩具で、利用した体は、ただの道具。要らなくなったら片付けると、そう言ってい――た…………?」

 そのときシュアンは、自分が言った言葉の中にある『真実』に気づいた。

 ローヤンの載せられた台に向かい、大股に近寄る。袖を掴んでいたミンウェイの手が、戸惑うように離れた。

 シュアンは、ローヤンの頬をかすめるように、どん、と大きな音を立てて台に手をついた。そして、じっとローヤンの目を見る。悪魔の嘘を見逃さないように――。

「『使った体は役目を終えたら片付けるもの』? ――何故、片付けるんだ?」

「不要だからですよ」

 当然だろうと言わんばかりに、ローヤンの中の悪魔が答える。

「ああ、そうだ。あんたにとって『不要』だ」

 シュアンは口角を上げ、嗤った。

 ローヤンが不快気な顔をする。シュアンの意図が分からず、態度を決め兼ねているようにも見える。シュアンは構わず、そのまま、ゆっくりと続けた。

「だから、万一、あんたの悪事がバレたりしないよう、きっちり『お片付け』しておいたほうが後腐れないってことだよなぁ?」

 シュアンは腰をかがめ、台の上のローヤンに息が掛かりそうなほど顔を近づけた。

 見知った顔を前に、心がえぐられる。けれど彼は、皮肉げな口調で話しかける。

「ところでさ。役目を終えたあとの『不要』な道具が、元通りに使えるメリットは……あんたには『ない』な? 使い捨ての道具だ、壊れてしまって構わないだろう」

 自分の心臓が早鐘を打ち始めたのを、シュアンは感じた。落ち着けと、腹の底から自身に命じる。

「何が言いたいんですか?」

 ローヤンが鼻を鳴らす。

 シュアンは息を吸って、吐いた。否定してくれと、祈るような気持ちで次の句を告げる。

「つまり――一度、あんたに使われた人間は……元には戻らないんだ」

 その瞬間、ローヤンは、くっと口の端を上げ、弓なりに目を細めた。

 シュアンの見たこともない表情で、嗤っていた。

「おみそれしました。……見かけによらず、あなたは鋭いようですね」

 その返答が、シュアンの心臓を撃ち抜いた。彼は倒れそうになる足をこらえ、感情の動きを目深な制帽の下だけに抑え込む。

「はっ! お褒めにあずかり光栄ですね。――だが、つまりだ。先輩が元に戻らない以上、俺もミンウェイも、あんたに従う義理はまったくないというわけだ」

 シュアンは鼻で笑った。そして、背後のミンウェイを振り返る。

「ミンウェイ、こいつに自白剤をぶちこんでやれ。ありったけの情報を吐かせるんだ」

「は、はいっ……」

 かすれたミンウェイの声に、「待ってくださいよ」というローヤンの声がかぶる。

「あなたに、この体に使われた技術についてご説明いたしましょう。それを聞けば、あなたは私に協力したくなりますよ」

 真実を見抜かれてなお、ローヤンは変わらぬ愉悦の微笑を浮かべていた。

 聞く耳持たぬと、シュアンは背を向ける。しかし悪魔は囁き続けた。

「ああ、自白剤は無駄ですよ。あなた方が欲しい情報に行き着く前に、この体もその巨漢と同じ運命をたどるはずです。――それよりも、私たちは手を組むべきなんですよ」

 かすかに笑みの入った、親しげな声でローヤンが言う。

 背後を振り返れば、あの醜く歪んだ顔があるのは分かっている。けれど、優しげな声は先輩そのもので、シュアンは苛立ちもあらわに吐き捨てた。

「うるさい。黙れ、蝿野郎」

 シュアンの反応があったことに、悪魔は喜色を上げた。

「あなたは『私』を〈ムスカ〉だと言いいましたね? ――それは半分合っていて、半分間違いです」

「黙れと言っているだろう!」

 シュアンは思わず振り返った。振り返ってしまった。

 彼の三白眼に飛び込んできたのは、生真面目な先輩の顔だった。

「『私』は〈七つの大罪〉の技術によって、あなたの先輩の体という肉体ハードウェアに、〈ムスカ〉という精神ソフトウェアを入れられた存在です。――〈七つの大罪〉では、こうして作られた者を〈影〉と呼びます。つまり『私』は、あなたの先輩ではありませんが、〈ムスカ〉とも違う、まったくの別人なのです」

 耳を塞がねば……。

 シュアンは咄嗟に思ったが、凝り固まったように体が動かなかった。

「あなたの先輩の記憶を〈ムスカ〉の記憶で上書きした、と言えば伝わるでしょうか。――この肉体は間違いなく、あなたの先輩です。けれど、この体が不要になって片付けられるとき、『私』も一緒に死にます。『私』とあなたの先輩は、文字通り一心同体なのです」

 ローヤンは、突き刺すような視線でシュアンを見た。

「『私』は死にたくありません。あなたも、先輩に死んでほしくないでしょう?」

 声をつまらせるシュアンに、ローヤンはゆっくりと口の端を上げ、嗤う。

「あなたと『私』が出会ったことは、お互いにとって幸運でした。――手を取り合って〈ムスカ〉を殺すためにね」

「……ふざけるな」

 深い憤りがシュアンを襲った。固く動きを止めていた喉から、つぶれた声が漏れる。三白眼が、かっと見開いた。

「あんたは、ずっと〈ムスカ〉の指示に従ってきただろう? それが、どの面下げて『手を取り合って〈ムスカ〉を殺す』だ?」

 ローヤンは、ふっと口元をほころばせた。

 それは笑んだつもりだったのかもしれない。けれど、あまりの禍々しさに、シュアンの背はぞくりとし、知れず後ずさった。

「『私』は――ああ、正確には『私』と、そこの死体となった男のふたり、ですね――〈ムスカ〉の〈影〉にされた『私たち』は、『呪い』に支配されているんですよ」

「『呪い』?」

「ええ。便宜上、そう呼んでいるだけですけどね」

 ローヤンが思わせぶりに、くすりと嗤う。

「私は先ほど、〈影〉について『元の人間の記憶を、別の人間の記憶で上書きした』と言いましたよね。――つまり、〈七つの大罪〉は『人間の脳内に介入する技術』を持っているのです。そして『書き込む』ものは、『記憶データ』でなくてもよい。『誰かに逆らってはいけない』というような、『命令コード』を植え付けることも可能なんですよ」

 そう言って、「例えば」と、ローヤンの視線が隣の台の巨漢を示す。

「その男は〈ムスカ〉の『奴隷』です。〈ムスカ〉が望むであろう言動を取ります。それが至上の喜びであると錯覚する『呪い』とでも言うべき『命令コード』が、脳に刻まれているのです」

「――だから、俺がこいつを人質にしても『私のことはどうでもいい』と……」

「そういうことですね。〈影〉の思考は、記憶の元となった〈ムスカ〉と同じですから、『かゆいところに手が届く』判断ができます。実に都合のよい、便利な駒です」

 拘束されていても、かろうじて自由に動かせる首を動かし、ローヤンは巨漢を顎でしゃくった。

「彼は、自白剤によって『〈影〉』と口走りました。鷹刀イーレオも、おそらく〈影〉という存在を知っているでしょう。だから、それ以上、情報を流してはいけないと判断した彼の脳が、血管に対し破裂するよう命令を出したわけです」

「……」

 シュアンも、巨漢を見やる。

 首まで掛かるような、大きな刀傷を抱えた男だ。どうせろくな人生を送ってこなかったに違いない。しかし、ここまで無残な屍を晒さなければならないほどの悪党だったのか――それは疑問だった。

「そして私にも、『奴隷』の『呪い』が掛けられるはずでした。けれど肉体との相性が悪かったのか、『自我』のようなものが残りました。そのため〈ムスカ〉は、私には口頭で命令したことへの絶対服従の『呪い』を加えました」

 ローヤンの声に陰りが入る。深刻な顔になると、やはりシュアンのよく知る先輩にしか見えなかった。シュアンは、わずかに視線をそらす。

 そんなシュアンの心を揺さぶるように、ローヤンは静かに告げた。

「現在、私に課せられた命令は、巨漢の補佐と事態の報告。そして、今夜中に〈ムスカ〉のいる場所に戻ること。――さもなくば、血管が破裂します」

 シュアンは息を呑んだ。

『こいつ』を捕らえたままにしておくだけで、先輩は死ぬ。けれども、逃したところで、先輩が元に戻るわけではない。

 自分のすべき行動を求め、シュアンは目深な制帽の下で、三白眼を忙しなく動かした。

 硬質な床には、巨漢の噴き上げた血溜まりが広がっていた。それが、近い未来の先輩の姿と重なり、彼は目を閉じる。眉間に深く皺が寄り、やるせない思いが溜め息となって口から漏れた。

 鷹刀イーレオを説き伏せて、ここにやってきたのに。相手は〈七つの大罪〉だと、知っていたのに――何もできないのだろうか……。

「ここまで聞けば、あなたはどうすべきか、もう分かりますよね? ――私と手を組みましょう」

 微笑みさえ浮かべ、ローヤンは言った。

「あなたと私は『この肉体を殺したくない』という点において、完全に利害が一致しています」

 論理的に聞こえる話。理知的なローヤンの声。だが、これは悪魔の言葉なのだ。

 耳を傾けてはいけない。そう思うシュアンの耳は、視界を閉ざした分だけ、いつもより鋭さが宿り、悪魔の声がはっきりと届いた。慌てて目を開くと、今度はローヤンの悲痛な面持ちが目に飛び込んでくる。

「遅かれ早かれ、私は〈ムスカ〉に始末されます。――その前に、あなたに〈ムスカ〉を殺害してほしいのです」

 真摯なふりをして訴えてくる。だが、先ほどミンウェイに投げつけた言葉は悪魔そのものだった。あれが本性だ。

 心を鎮めようと、シュアンはゆっくりと息を吐く。

「あんたの言いなりになったって、先輩は戻らないんだろう?」

「分かりませんよ?」

 ローヤンの目元が狡猾に歪む。

「〈七つの大罪〉は研究組織です。確かに、現在の技術では元に戻すことはできませんが、研究を続ければ、可能になるかもしれません」

「戯言だ……」

「私は肉体の再生技術を持っています。だから、私は新たな『私』の体を作り上げ、『〈ムスカ〉』に戻りたい。そのとき、この体を返すことになんの問題もない――分かりますか? 利害は一致しているんですよ?」

 ローヤンは、利害の一致を繰り返し、強調した。

 シュアンは、濁った三白眼をローヤンの瞳に向ける。

 頭上の無影灯が、やけに熱く感じられた。シャツは背中に張り付き、制帽に押さえつけられたぼさぼさ頭が痒くてたまらなかった。

「そんな甘言を信じられるほど、俺は恵まれた人生を送ってきてねぇんだよ……」

 これは悪魔なのだ。言葉巧みに罠に陥れるもの。今までだって、数知れない『悪魔』がシュアンを襲ってきた。

 信じたら、裏切られる。

 喰われる前に、喰ってやる。

 シュアンは懐から拳銃を取り出した。

「私を撃つんですか?」

 ローヤンは――ローヤンの顔をした悪魔は、平然とシュアンを見上げていた。撃てるわけがないと高をくくっていた。

「先輩は元には戻らないと、あんた自身が言ったんだ。だったら、うるさい蝿は始末するだけだ」

「現時点では、と言ったでしょう?」

「うるせぇ!」

「短気な人ですね。ここは、とりあえず私の手を取るべきですよ。可能性はゼロじゃないんです。希望はあります」

 駄々っ子を諭すような口調に腹が立つ。シュアンは顎を伝ってきた汗を、手の甲で乱暴に拭った。

「悪魔が『可能性』だの、『希望』だの。反吐が出るね!」

 シュアンはローヤンの額に照準を合わせた。

 そのとき――。

「緋扇さん……!」

 ふわり、と。

 シュアンの横を干した草の香りが抜けた。彼の銃口の前に、ミンウェイが立っていた。斬り込むような鋭い視線。強い意志を持つ、決意した者の顔だった。

「そのカードは、まだ切っては駄目です!」

 ミンウェイの厳しい声が響く。

 彼女は威圧の瞳でシュアンを抑えると、ひとつに束ねられた波打つ髪を翻し、ローヤンに向き合った。白衣の背中が凛と、無影灯を反射する。

「緋扇さんの先輩を、必ず元に戻すと約束してください。代わりに、私は『あなた』のものになります」

 シュアンは「な……っ!?」と言ったきり絶句し、ローヤンが複雑な顔で唸りを上げる。

「その警察隊員のために、君がそう言ったのだと思うと、腹わたが煮えくり返るね。……だが、君はまた、鋭いところを突いてきた……」

「ええ。お父様ではなく、『あなた』です。『あなた』が望むなら、私はお父様の殺害でもしてみせましょう」

 今まで饒舌に喋っていたローヤンが押し黙る。

 ローヤン――否、目の前にいる『彼』にとって、〈ムスカ〉は、いわば『本体』。敵意、対抗意識、競争心――そういったものが、ないまぜになった感情が『彼』にはある。

「ミンウェイ! なんで、ここであんたが出てくるんだよ!? 関係ないだろ!」

 やっとのことで口を開いたシュアンが、ミンウェイの肩を掴み、無理やり自分の方へ向かせた。

「緋扇さん、私は〈ムスカ〉の娘なんです。見ないふりなどできません。――そして、可能性はゼロではないんです」

「馬鹿か、あんた! お人好しすぎだろ。あんたなんか、逆に喰われて終わりだ!」

 シュアンとミンウェイの視線が交錯する。

 綺麗な女だと思った。

 切れ長の瞳に、通った鼻筋。つやめく唇。豊満な肉体は、しなやかな筋肉に覆われ何ひとつ無駄はない。――〈七つの大罪〉の最高傑作の血を持つ女。

 闇の中で生きてきたくせに、光の存在を信じている。

 綺麗すぎて、優しすぎて……愚かだ。

「ミンウェイ、あんたの気持ちはありがたいが、これはもう、詰んでいるのさ。だって、〈ムスカ〉と同じ思考を持つ『そいつ』は、約束を守るような奴じゃないだろう?」

 言いなりになったら、骨の髄までしゃぶり尽くされる。そんな現実をシュアンは見続けてきた。

 どんな正義も、喰われていく。

 だからシュアンは、信じることをやめた。

 だから無情な狂犬になって、愚か者たちが喰われる前に、喰い散らすようになった。

「約束しても無駄だって、あんたが一番よく、知っているはずだ」

 ミンウェイは、何も答えられなかった。

 もし、ここで彼女が何か言ったのなら、シュアンの心はひるんだのかもしれない。

 けれど、彼女は目を伏せただけだった。

 シュアンはミンウェイを退け、ローヤンに銃口を向ける。

「やめろ……!」

 シュアンの暗い炎を前にして、ローヤンが初めて恐怖に声を引きつらせた。

「私を殺して、なんになるんだ?」

「悪魔のくせに、先輩の姿をしているのが目障りだ」

「まだ、元に戻る可能性が……!」

「そんな糞みたいなちっぽけな可能性にかけるほど、俺はおめでたくないのさ」

 ローヤンの右手の甲に、ふたつ並んだ小さな黒子ほくろが見える。新人だったシュアンに、拳銃の構え方を教えた手だった。――よく覚えている。

 こめかみに薄っすらと残る古傷は、凶賊ダリジィンの凶刃からシュアンを庇ったときのものだ。――忘れるわけがない。

 目深な制帽の下で、シュアンの瞳が揺らぐ。それをこらえるように、彼は奥歯を噛み締めた。

 引き金に掛けられたシュアンの指――死の淵を目前にした悪魔の金切り声が響く。 

「私の体は、あなたの大切な先輩なんですよ?」

「あんたは俺の先輩なんかじゃねぇ。〈ムスカ〉という悪魔だ」

 振り切るように、シュアンは言い捨てた。

「緋扇さん……」

 ミンウェイが、シュアンの名を呟いた。

 また止める気かと、辟易としかけたシュアンの目前を、銀色の光が走った。無影灯の光を跳ね返す、輝く残像。細く長い指先が、ワゴンに乗せてあったはずのメスを握っていた。

「私は〈ベラドンナ〉という名で、暗殺を生業にしていました」

 ミンウェイが凪いだ瞳でシュアンを見つめた。人を殺すために、心を殺した少女の面影がそこにあった。

「私が請け負います」

 ぞくりとするほど綺麗な顔の中で、彼女の赤い唇が死神の鎌の形に動いた。

 彼女は手の中でメスを踊らせ、ローヤンの喉元に切っ先を向けた。

「……違うだろ、ミンウェイ。今のあんたは〈ベラドンナ〉って奴じゃないだろ?」

 どこまでも優しい愚か者。精神が父親である責任と、肉体が先輩である不幸は、彼女のせいではない。 

 シュアンは、左手で抱きすくめるようにミンウェイの腰を引き寄せた。

「警察隊がこの屋敷を囲んだとき、一族を守るためにバルコニーから飛び降りてきたあんたは、格好よかったぜ? あれが今のあんただろ?」

「緋扇さん……」

「あんた、『緋扇さん』ばっかだな。俺の名前は『シュアン』だ。覚えろ」

 そう言って、シュアンは口元を締めた。

「これは俺のけじめだ。――邪魔すんな」

 迷いはない。

 愛しい愚か者たちのために、シュアンは成すべきことを成すのだ。

「待て、まだこの肉体が元に戻る可能性が……!」

 血相を変えて叫ぶ悪魔に、シュアンは冷たく言い放つ。

「悪魔の戯言は、もうたくさんだ」


『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ』


 先輩は秋に結婚するのだと、風の便りに聞いた――。


 撃鉄を起こす音が、淡い緑色の壁に反射した。

 そして――。

 …………銃声……。


 シュアンの右手が、力なく降ろされた。

 拳銃が指から滑り落ち、音を立てて床を打ちつけた。銃口から、ゆらりと薄い煙が上がる。

 左手がミンウェイの肩を捕らえ、すがるように抱きしめた。

 ミンウェイの手も、そっとシュアンの背に回る。

 互いの鼓動が感じられた。

 体温には人を惑わす力がある。触れ合い、熱を繋げることで、どこまでが自己われで、どこからが他者かれであるかの境界線を不明瞭にする。

 感情が混じり合い、溶け合い、分かち合っていく。

 われ彼女かれの間には、情も、絆も――ましてや愛など存在しない。

 それでも、熱を求めずにはいられなかった。

 ひとりきりで抱えるには、重すぎる感情であったから……。


 ――先輩、俺、……本当はずっと、あんたと一緒に馬鹿な夢を追っていたかったんですよ……。

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