2.眠らない夜の絡繰り人形-3

「ローヤン先輩……」

 シュアンが呟いた。

 だが、ローヤンの目はシュアンを通り越し、その先にいるミンウェイの背中を食い入るように見つめていた。

 彼女は、まだ心音の止まっていない巨漢を蘇生すべく、胸骨圧迫を施していた。それが適切な処置であるかは疑問だが、大事な情報源を失うわけにはいかぬと必死なのだろう。

 血にまみれ、ぬめる巨漢の体に、彼女は躊躇なき衝撃を与える。ちらりとモニタを確認しては手元に視線を戻し、髪を振り乱しながら規則的な動作を続けていた。

 しかし、その苦労も虚しく、巨漢は全身で地獄の苦しみを表現しながら、徐々に鼓動を弱めていく。

「無駄ですよ」

 ミンウェイを小馬鹿にするように、ローヤンが嗤った。

 シュアンは制帽を目深にずらし、表情を隠した。

 半分、影の入った視界に映るローヤンは、姿形も、声すらも、紛うことなく先輩だった。しかし、目の前の男は、まったく別人であると、シュアンの本能は告げている。

 シュアンは唇を噛む。口腔内に、じわりと鉄の味が広がった。

 桜の大木の庭で、警察隊と凶賊ダリジィンが大集結したときから、ローヤンの様子はおかしかった。

 救出すべき貴族シャトーアの令嬢を一方的に替え玉と決めつけ、発砲した。


『いいか、シュアン。撃つのは一瞬だが、不可逆だからな。――その一発の弾丸が、無限の可能性を摘み取るんだ。俺たちは常にそれを意識して、引き金を引かなければならない』


 ローヤンは、決して臆病な男ではない。

 けれど、軽率な男でもなかった。

「……あんた、誰だよ?」

 獣が唸るような声で、シュアンは問いかけた。

「おや? 警察隊の方が、鷹刀の屋敷にいるとは意外ですね」

 あざ笑うかの調子で、そして、まったく見知らぬ他人への口調で、ローヤンは口元に微笑を浮かべた。

 シュアンの動きが一瞬だけ止まった。だが、すぐに、巨漢につきっきりになっているミンウェイに呼びかける。

「ミンウェイ。こいつは、俺の先輩じゃない」

 ミンウェイの返事はない。一心不乱に蘇生を試みる彼女の耳には、何も聞こえていないようだった。

「おい」

 シュアンは、つかつかとミンウェイのもとに寄って彼女の腕を掴んだ。ぐいと引き寄せ、彼の両手が彼女の両肩をがっちりと捕まえる。そのまま、彼女の体をモニタ画面に向けた。

「そいつはもう、何をしても助からない。分かるだろう?」

「あ……」

 まだ、モニタの波形は直線ではない。ただ、限りなく直線だった。

「それより、こっちだ」

 シュアンはローヤンを示す。

 ミンウェイがローヤンへと顔を向けたとき、ローヤンが目を見開き、喜色満面を浮かべた。

「ああ、ミンウェイ。やっと君に逢えたね」

 愛しい者を見る目でローヤンが呟く。

「美しくなった。さすが、私の〈ベラドンナ〉だ」

 ミンウェイの表情が凍った。乱れた髪が一筋、目元から頬まで抜けていき、まるで彼女の綺麗な顔に傷がついたかのように見えた。

「髪に巻き癖をつけているのかい? 悪くはないけれど、可憐な〈ベラドンナ〉には、その髪は華やかすぎるよ。楚々とした美しい貴婦人の花だからね」

 ミンウェイの顔が蒼白になった。

 彼女の両親は、鷹刀一族の血を濃く引く、従兄妹同士。よく似た遺伝子を持つふたり。だから本来の彼女の髪は、イーレオ、エルファン、リュイセンなどと同じ、まっすぐであでやかに輝く、さらさらの黒髪だった。

 ――けれど、それを知っている者は、今となってはそう多くはない。

 ミンウェイは、一歩後ずさった。

 その背に、シュアンが手を回す。腰が引けた彼女を逃すまいとしているようであり、倒れそうな彼女を支えているようでもあった。

「あんた、この男を知っているんだな?」

 シュアンが低い声で尋ねた。

「し、知らない……。知りません!」

 ミンウェイが激しく首を振る。

「知らないってことはないだろう?」

「彼は、あなたの先輩でしょう!?」

 すがるような目で、ミンウェイはシュアンに訴える。よろけかけた姿勢から彼を見上げたとき、目深な制帽で隠していた彼の目元が見えて、彼女は息を呑んだ。

 独特な、彼らしい軽い口調が変わらなかったから、彼女は今まで気づかなかった。

 果てしない憎悪――。

『不快なものを殲滅したい』と、応接室で彼女に語ったときと同じ、暗い暗い炎が揺らめいていた。

 軽く口の端を上げたままの、笑んだような口元から狂犬の牙が覗いた。だらだらと涎を垂らしながら、噛みつける相手を見つけた歓喜に喉が鳴っている。――ミンウェイには、そんな幻影が見えた。

「俺は『こいつ』のことは知らない。――俺は先輩の交友範囲なんて把握してないが、少なくとも凶賊ダリジィンの女と付き合っているなんて聞いたことがない。だが、『こいつ』は明らかに、あんたのことを知っている」

「……信じられない。だって、あり得ないもの……」

「現実ってヤツは、信じる者を踏みにじるために存在しているのさ」

 そう言って、シュアンは『ローヤン』を睨みつけた。

 この絡繰からくり人形が、どんな手段で作られたのかは分からない。重要なのは、ローヤンは怪しい小細工に堕ちた。それだけだ。

 警察隊内外から信頼のあつい男だった。それはつまり、邪魔に思う敵が多いということだ。シュアンの上官たる、あの指揮官も疎んでいた。

 ――ほら、絡繰からくりの歯車は揃っている……。

「あんたは、休んでろ」

 彼は、ミンウェイの背に回していた手を外し、彼女とローヤンの間に体を割り込ませた。突然のことに彼女はたたらを踏むが、なんとか踏みとどまる。

「緋扇さん……?」

「俺は、『こいつ』と話すために、ここに来たんだ」

 シュアンは、ローヤンの載せられた台に近づいた。ミンウェイの気遣わしげな視線を感じるが、完全に拘束されている相手を恐れることはない。

「よぉ、〈七つの大罪〉の〈ムスカ〉さん。はじめまして」

 馴れ馴れしく言って、口元から牙を覗かせた。背後でミンウェイが何やら反応しているが、そんなものは無視である。

「ほぅ、私を〈ムスカ〉と呼びますか」

「ああ」

 この男は先輩ではない。先輩とは別人の『誰か』なのだ。そして、ミンウェイとのやり取りを聞いていれば――。

「だって、それしか考えられないだろう?」

〈七つの大罪〉の技術とやらで、ローヤンを操っている。――それがシュアンが導き出した答えだった。

「そして、そっちの巨漢も、『あんた』だ」

「ふむ。どうしてそう思うんです?」

「そいつは見た目が脳筋馬鹿のくせに、小賢しい口を叩いていた。あんたそっくりのな」

 シュアンは、ちらりと隣の台に目をやった。モニタ画面は、生と死の境界線を描いたかのような直線となっていた。

「昼間……鷹刀イーレオの部屋で、俺はそいつを人質に、偽警察隊員に武器を捨てるように言った。そしたら、そいつは『私のことはどうでもいい』と言いやがった」

 執務室に仕掛けられた、〈ベロ〉という人工知能の活躍で事態が収束したため、皆の記憶からは抜け落ちてしまったかもしれないが、シュアンは覚えていた。一度は、シュアンがあの場を制圧したのだ。

「そいつは命を惜しまなかった。――それは中身が『あんた』で、だけど、そいつが死んだところで、本物の『あんた』は、なんの痛みも感じないからだろう?」

 シュアンは再び、巨漢を見る。苦しみ抜いた彼の目尻からは、場違いに澄んだ涙が落ちていた。

「……『あんた』は安全なところから、そいつや先輩を動かしているんだ」

 姑息で卑劣――シュアンが最も忌み嫌うもの。

 彼が三白眼で鋭く睨みをきかせると、ローヤンは、にやりと嗤った。そのおぞましさに、肌が粟立つ。

 ローヤンはシュアンには何も答えず、後ろのミンウェイにうっとりと語りかけた。

「ミンウェイ、私の〈ベラドンナ〉。迎えに来たよ」

「…………本当なの……?」

 消え入りそうな細い声。

 シュアンが振り返ると、蒼白な顔をしたミンウェイが唇をわななかせていた。

「お父様は、生きて……?」

「勿論、生きているよ」

 とろけるような甘い声で、ローヤンが答える。

「ずっと、君に逢いたかった。私の愛する〈ベラドンナ〉。これでやっと――君をまた私のものにできる」

 刹那、シュアンの思考が固まった。

 シュアンの視界に映るのは、拘束された三十路過ぎの男に、言葉をかすらせる妙齢の美女――。

 この光景を物語にするのなら、罪人であるがため、長く恋人に逢えなかった男が、積年の想いを告白している、そんな甘美な恋愛譚。

 だが、男の中身は、彼女の父親なのだ。

 今、奴はなんと言った? 君をまた私のものにできる――?

 徐々にその意味を理解するにつれ、シュアンは吐き気がこみ上げてきた。

 気が狂っている。

 確かイーレオはこう言った。『男手ひとつで育ててきた』と。この異常なまでの溺愛の中で育てられたということは、すなわち――。

 ミンウェイは震えていた。否、脅えていた。

「さぁ、一緒に行こう」

「い、嫌……」

 ミンウェイが喰い殺す側の人間などというのは、嘘だ。彼女は、ずっと親に喰われ続けていたのだ。

 シュアンは拳を握りしめた。

「どうしたんだい? 君は、ずっと私を慕ってくれていただろう?」

「お父様……」

「……思った通りだ。ミンウェイ、君は私と離れている間に、随分と鷹刀イーレオに毒されてしまったみたいだね」

 ローヤンは憂い顔になり、深い溜め息をついた。

「仕方ないから、君をさらっていこう」

「え……?」

 狼狽するミンウェイをよそにローヤンは視線を移し、シュアンに向かって、にやりと嗤った。

「そこの警察隊員。私の拘束を解きなさい」

「あんた、何を言って……!」

 言い返そうとしたシュアンを、ローヤンの声が素早く遮る。

「この体は、あなたの大切な先輩のものなんでしょう?」

「な……!」

 ローヤンの顔は、醜く歪んでいた。ローヤン本人なら決してあり得ない狡猾な表情――。

「私の言う通りにしなければ、この体がどうなっても知りませんよ?」

 そこにいるのは、禍々しい悪魔だった。

 思い切り頭をはたかれたような衝撃が、シュアンを襲った。脳震盪を起こす手前のように、目の前がくらくらする。

 ふらつく足を踏ん張り、シュアンは平静を装う。

 焦ったら負けだ。――彼は、激昂に震える拳をゆっくりと開いた。

「確かに、その男は俺が世話になった先輩だ。けど、俺に説教しやがったんで、殴り飛ばして喧嘩別れしたのさ」

 いつもの軽い口調で、シュアンは言った。それに対しローヤンは、太く黒いベルトに四肢を捕らえられた姿で、小馬鹿にしたように嗤う。

「何を言っているんですか。捕虜の自白の場に立ち会っているのは、この男のためでしょう?」

「鷹刀とは裏取引がある。もともと用があった。ここに来たのは、そのついでだ」

 ローヤンは、どこか演技じみた様子で、溜め息をついた。

「強がりを言うものではありませんよ。あなたにとっては、これが唯一のチャンスなのですから」

 目を細め、思わせぶりにゆっくりと言を継ぐ。そっと囁くような声は、わずかに下げられていた。

「使った体は、役目を終えたら片付けるものなんですよ。この体も、そろそろ潮時と思っていたところでした。……けれど、あなたが私に従うというのなら、始末するのはやめましょう」

 薄ら笑いを浮かべながら、ローヤンが愉しげにシュアンを見上げた。人を追い詰め、陥れる。それは、まさに悪魔の所業だった。

「……俺に、あんたの駒になれと? ふざけるな。俺に命令できるのは俺だけだ」

 甘言に耳を貸してはならない。どうせ、どこかに落とし穴がある。シュアンは神経を研ぎ澄ませ、必死に思考を巡らせる。この場を、どう対処すべきか――。

 シュアンの斬りつけるような三白眼に、ローヤンはくすりと嗤った。

「それでは、この体は始末します」

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