1.天上の星と地上の星-1

 欠けた月の空に、溢れんばかりの星々が瞬いていた。

 郊外の空気はつんと澄んでいるからだろうか、春先の夜風は思っていたよりも冷たく、軽く肌が震える――。

 斑目タオロンは、夜闇のバルコニーから眼下を見下ろした。

 闇といっても、この別荘の幾つかの窓からは電灯の明かりが漏れ出していたし、庭の外灯は敷石のざらついた表面の陰影がはっきりと分かるほどの光量がある。室内よりは暗い、といった程度だ。

 時折、庭をうろつく影が外灯の光を遮り、青芝生に人の形を浮かび上がらせていた。見回りの者たちだ。やる気のなさそうな、のんびりとした足取りである。

 タオロンが視線を伸ばして門を見やると、左右に分かれて立っているはずのふたりの門衛たちは、仲良く並んで壁に背を預けて座っていた。おそらく、雑談でもしているのだろう。どうにも別荘にいる者たちは、本邸警備の者たちと比べ、たるんでいる。

 ……気持ちは分からないでもない。

 元来、凶賊ダリジィンなんてものは、規律正しい世界が息苦しくなった者たちの行き着く先だ。勤勉な者など珍しい。

 タオロンが溜め息をついたとき、隣の敷地にある森に囲まれたキャンプ場から、ぱっと赤い光が飛び出した。

 ほぼ同時に、破裂音が聞こえてくる。

 どっと、歓声が上がる。――やや甲高い少年たちの声だ。花火だか爆竹だかで遊んでいるらしい。

 キャンプの気候は、まだ先だ。今は、夜遊びしたい悪餓鬼どもの丁度よい遊び場なのかもしれない。

 この騒ぎが気になって、タオロンはバルコニーに出たわけなのだが、与えられた部下たちは敷地外のことにまで関わりたくはないと言わんばかりの態度――というわけだった。

 命令しなければ駄目か……。

 タオロンは再び溜め息をついた。

 部屋に戻るべく戸に手をかけた瞬間、右上腕に軽い引きつりを覚え、彼は庇うように左手で押さえた。その下には、貴族シャトーアの娘に刻まれた傷があった。彼女には「かすり傷だ」と告げたが、それほど簡単なものでもなかった。彼の経験上、一週間は刀を振るえば傷が開く。

「……」

 そのはずだった。

 だが、〈七つの大罪〉の〈ムスカ〉の治療を受けた途端、傷口が新しい皮膚で盛り上がった。素振りをしてみても、鋭い痛みはあるものの傷は開かなかった。

『だから、私の本分は医者だと申し上げたでしょう?』

 低い声が見下したように嗤う。

『少しは私の言うことを信じたらどうですか?』

 ――今、斑目一族の本邸には、鷹刀一族の軍勢が向かっているという。次期総帥、鷹刀エルファンが指揮しているというから、本気でかかってくるつもりなのだろう。

 タオロンとしては、そちらの部隊に加わりたかった。しかし、〈ムスカ〉が、怪我を理由に別荘に配置するよう、総帥に進言したのだ。

 斑目一族の総帥は、〈七つの大罪〉の技術に夢中だった。そして、それをもたらす〈ムスカ〉の言いなりだった。タオロンが、貧民街で貴族シャトーアの娘を仕留められなかった罪でさえ、〈ムスカ〉の口利きによって不問となっている。

 そう――。

 怪我を理由に、この別荘に来た。それなのに、〈ムスカ〉は、あっという間に傷を癒やした。

 ならば、自分が別荘に引きこもる理由などないではないか、とタオロンは〈ムスカ〉に詰め寄った。

『この別荘には子猫が来ますよ。あの娘の父親を取り返しに。そのとき、あなたくらい腕の立つ人間がいないと、格好がつかないでしょう?』

 幽鬼のように気配もなく、すれ違いざまにそう言い残して、彼は部屋を出ていった。

 タオロンは三度みたび溜め息をつき、太い眉を寄せた。



 夜の森を貫く、狭い散策路――。

 鬱蒼とした木立が左右から迫り、湿気った青臭さが鼻をついた。

 別荘からは目と鼻の先であるのに、深い木々の闇で隔てられた道は、まるで異空間だった。頭上の星明りでは心もとない。足元を細長く照らす、懐中電灯の光が道しるべだ。

 目的地たるキャンプ場は、すぐ左手であり、それを証明するかのように、甲高い少年たちの笑い声が耳に障る。腰にいた刀の重みを感じながら、三人の凶賊ダリジィンたちは、決して軽やかとはいえない足取りで歩を進めていた。

「面倒くせぇ」

 ひとりの男が、大あくびをしながら呟いた。三人の中では一番背の低い、小男である。

 寝ていたところを叩き起こされ、男は不機嫌だった。昨日、夜番だった彼は、まだまだ眠かったのである。

 隣を歩いていた男が「まったくだな」と同意した。だが、そのふたりの前を歩く大男は無言だった。先頭に立つ者の責任のつもりなのか、機械的にも見える律儀さで、懐中電灯を持つ手をまっすぐに伸ばしている。

 小男は、付き合いの悪い同僚に舌打ちした。そいつは配置転換で来たばかりの新顔で、口数が少なく日頃から感じが悪いと思っていた奴だった。何より、貧相な自分に比べ、巌のような大男であることが気に食わない。

 小男は、大男を無視して、隣の男に話しかけた。

「……ったく、なんだって、俺たちが餓鬼に説教しに行かにゃいけねぇんだぁ?」

「あぁ。あの坊っちゃん、図体のわりに細けぇな」

 隣の男は吊り目を細め、せせら笑った。相手が話に乗ってきたことに調子づき、小男は鼻息を荒くする。

「そうそう! だいたいよぉ、なんで、あの坊っちゃんがこっちの別荘に来てんだよ?」

 不満をぶちまける小男に、吊り目男は「知らねぇのか?」と意外そうに声を出す。

「なんでも、怪我して前線を外されたらしいぜ?」

「怪我? あの坊っちゃんより強い奴なんていたわけ? 化物かよ?」

 吊り目男は、ふっと嗤い、勿体つけるように声を潜めた。

「――ああ、鷹刀の孫だ」

 噂が広がっていくうちに、いつの間にか、タオロンは『神速の双刀使い』――鷹刀リュイセンに負けたことになっていた。

「ははっ、そりゃ、立つ瀬ないわぁ!」

 小男が、タオロンを卑下するように手を叩いた。

 その瞬間、今まで黙って先頭を歩いていた大男が、いきなり振り返って小男の胸倉を掴み上げた。放り出された懐中電灯が、明後日の方向を照らし出す。

「あの人を悪く言うんじゃねぇ。殺すぞ」

 表情の見えぬ薄闇の中で、どすの利いた声が響く。

「……なんだよ?」

 掴まれた小男は声を返し、そして得心がいったように続けた。

「ああ、お前、坊っちゃんの『信者』だったのか」

「別に『信者』なんてもんじゃねぇ。ただ、あの人は『まとも』だ、ってだけだ」

 ふたりの凶賊ダリジィンの間で、暗い火花が散る。吊り目の男は内心で溜め息をついた。――なんとも馬鹿らしく面倒臭い争いである、と。

「お前ら、喧嘩すんなよ」

 斑目一族にしては実直すぎる、『坊っちゃん』こと斑目タオロンの周りは、二派に分かれる。『好き』か『嫌い』か、ただそれだけだ。

「部下たちが争っても、『タオロン様』は、お喜びにならないぞ」

 皮肉を込めて言う吊り目男は、小男の味方だった。

 この喧嘩は、放っておけば体格差であっという間に勝負がつく。だが、こう言えば、タオロンを崇拝している大男は引くしかない。

 案の定、大男は、むっと額に皺を寄せ、仲裁に入った吊り目男の顔を睨みつけたものの、やがて黙って手を離した。そして懐中電灯を拾う。

 そのまま踵を返し、大男は歩き出した。

 小男と吊り目男は肩をすくめ、あとに続いた。



 もともと、そう遠い距離だったわけではない。それからすぐに、タオロンの部下たちはキャンプ場の入り口に着いた。

 急カーブで曲がるオートバイの轍が、水はけの悪い地面に幾つも刻まれていた。それを目印として、あとを追うかのように、彼らも直角に曲がる。途端、火薬の臭いが濃くなった。

 ――だが、彼らは思わず、足を止めた。

 開けた草原の上を、今にもこぼれ落ちそうな星空が覆っていた。

 凶賊ダリジィンですら、美しいと認めざるを得ない、光あふれる紺碧の星月夜……。

 そのとき、地上でも星が散った。続いて、爆発音――。

「おー!」

「やりぃ!」

 ――甲高い歓声。

 キャンプ場の真ん中に、少年たちがいた。

 誰かが火を付けてはそれを投げ、周りがやんややんやと囃し立てる。だいぶ酒も飲んでいるらしい。すっかり出来上がった調子だった。十数人はいるだろうか。思ったよりも多い。

「ちっ、餓鬼が……」

 小男が忌々しげに唾を吐いた。

 彼は、先頭の大男を押しのけて前に出た。そして、足元に転がっていた空き缶を、少年たちに向かって蹴り飛ばした。

 アルコール臭と、缶底に残っていた、べとつく、ぬるい液体を撒き散らしながら、缶が飛ぶ。

 彼我の距離からして、当然のことながら少年たちのところまでは届かなかったが、軽いアルミの音は、端のほうにいた少年を振り向かせるくらいの役には立った。気づいた者が、近くの者の服を引き、やがてそれが集団全体に伝搬する。

 少年たちが緊張の色に染まり、水を打ったかのように静まり返った。

 小男は、ふっと鼻で笑うと、おもむろに腰の刀を引き抜いた。これ見よがしに高く掲げ、星明かりを、ぎらりと反射させる。美しい刀身が、地上の星とは自分のことだと主張しているかのようだった。

「おいおい、殺すなよ。素人の餓鬼を殺すと面倒だぞ」

 吊り目男が半ば呆れたように忠告する。

「分かっているさ、ちょいと脅すだけだ」

 そう言って小男は、肩を怒らせながら少年たちに近づいていった。

「オラオラ、餓鬼ども!」

 派手に刀を振り回し、小男は大声を張り上げる。立ち尽くす少年たちの細かな表情は読み取れないが、微動だにしない様子から相手が凶賊ダリジィンと気付き、脅えているのだろう。

 小男は愉快に思いながら、大股に歩いて行く。

 もう少しで、少年たちが刀の間合いに入る、というときだった。

「おっさん! 何様のつもりだよ?」

 耳障りな、キンキンと高めの声が放たれた。一番奥で、木製のベンチに座っていた少年が立ち上がった。

「ここは俺らの遊び場だぜ? 邪魔すんなよ」

 痩せぎすだが、物怖じしない目をしていた。少年は顎をしゃくりあげ、ベンチにおいてあった酒瓶を片手に、ゆっくりと小男に向かっていく。

「……あ?」

 怖気づいているとばかり思っていた相手に、おっさん呼ばわりされ、小男は一瞬、状況が掴めなかった。

 少年は小馬鹿にしたように酒をあおり、にやりと笑って酒瓶を近くにいた仲間に手渡した。やおら胸ポケットに指先を突っ込むと、次の瞬間、彼の手の中でライターがカチリと音を立てる。

 ――ぼっ……。

 少年が火を吐いた。――口から一気に吹き出されたアルコールの粒子が、炎を纏って小男に襲いかかった。

「うわっ!?」

 想像だにしなかった出来ごとに、小男が飛び退く。

「へっ、ばーか」

「こ、こぉんの、糞餓鬼がぁ!」

 少年に向かって、小男が本気で刀を振り下ろそうとした瞬間、その背後にしなやかな黒い影が走り寄った。影は軽やかに跳び上がり、小男の後頭部を蹴りつける。

 強烈すぎる衝撃に、声もなく倒れる小男……。

 ふわり、と黒い影が草原に降り立った。長く編まれた髪も、一瞬だけ遅れて彼の背中に着地する。飾り紐の中に収められた金色の鈴が、きらりと星明りを跳ね返した。

「ナイスだ、キンタン」

 テノールが響く。

「ルイフォンも、さすがだな」

 ふたりの少年のシルエットが、ハイタッチを交わす。

「な……」

 少し離れたところで見ていた吊り目の凶賊ダリジィンは、おのれの目を疑った。自分が受けた衝撃を、なんと呼ぶべきかすら分からない。

 たかが子供に、天下の凶賊ダリジィンが手玉に取られた。確かに、あの小男は強いとは言いがたかったかもしれない。だが、完全に見下され遊ばれていた。

 倒された小男を、少年たちが寄ってたかって拘束しているのが見えた。刹那、彼の中に激昂が生まれた。

「が、餓鬼がぁ……! ふざけんじゃ――っ!」

「動くな」

 低く魅惑的な声が、吊り目男の行く手を遮った。

 風がはしり、星明りの闇に黄金比の美貌が浮かび上がる。

 見渡す限りの草原の中、いったい何処に隠れていたというのだろう。少年たちの集団から離れたこの場に、突如として現れた美の化身。闇色でありながらも、つややかに輝く黒髪が、肩口で疾風の名残りに揺れていた。

「鷹刀……リュイセン……」

 つい数時間前、斑目タオロンを倒したとして、情報を受けた顔と名前。

 圧倒的な存在だと、吊り目男の本能が悟った。彼は刀の柄に手をかけたまま、腰が引けた。

 だが、そのとき。すぐそばで獣の雄叫びのような太い声が上がった。同僚の大男が、地響きを立ててリュイセンに踊りかかったのだ。

「うぉぉぉ!」

 リュイセンは涼しい顔のまま、両手を腰にやり――……。

 吊り目男は、その先を目で追うことができなかった。理解できたのは、リュイセンの凶刃がぎらりと光を放ったということ。そして、大男が中途半端に刀を引き抜いた状態で自分の足元に転がっているということだった。

「『神速の双刀使い』……」

 相手に抜刀すらも許さぬ、神の御業――。

「リュイセンさん、かっけー!」

「さすが!」

 遠くで少年たちが沸き立ち、拍手喝采に口笛が木霊する。

「あ、あ、ああ……」

 吊り目男の、柄にかけられていた右手と、何もしていなかった左手が、同時に上がった。リュイセンの刀尖が、吊り目男の喉仏の前で止まり、勝負が決まる。

「おい、リュイセン。本当に斬っちまったのか?」

 小男を蹴り倒した少年が駆け寄ってきた。――鷹刀一族総帥の末子、鷹刀ルイフォンである。

「お前が峰打ちにしろと言ったから、そうしたぞ」

「だって、そいつ、ぴくりとも動かねぇし」

 出血はないが、大男は完全に意識を失っている。

「本気の相手に、全力を出して何が悪い?」

「いくら峰打ちでも、リュイセンさんが全力でやれば、こうなるだろ……」

 火を吹いた少年が呆れたように言いながら、ふたりのやり取りに加わった。繁華街の情報屋、トンツァイの息子のキンタン――カードゲームでルイフォンにわずかに及ばず、毎度のように勝負を仕掛けてくる彼である。

 ――こうして、メイシアの父、藤咲家当主救出作戦は、繁華街の遊び仲間に紛れて別荘に近づくところから始まった。

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