1.花咲く藤の昼下がり-1
明るく柔らかな陽の光が、午後の食堂へと注ぎ込む。
一面の硝子張りの向こう側は、目に鮮やかな萌える緑で溢れていた。
祝福の桜は広い庭の奥にあり、残念ながらここからは愛でることはできない。だが、その花びらが、時折こちらの庭まで遊びにやってきていた。
一同を待ちかねていた料理長の指示のもと、次々と料理が運ばれてくる。
この一週間ほどは、次期総帥エルファンと、その次男リュイセン父子が倭国に行っており、料理長としては今ひとつ、腕の振るい甲斐がなかった。
そこへ、そのふたりが帰国した上に、メイシアとハオリュウという
時期よりやや早い藤が、瑞々しい房を優美に垂らし、テーブルに華やぎを添えていた。ミンウェイによって活けられたその花には、『藤咲』という
時刻は少し遡る。
「祖父上! 藤咲ハオリュウに『協力する』とは、どういうことですか!」
リュイセンの食って掛かる声が、執務室に響き渡った。本当は、祖父がそう言ったその場で割って入りたかったところなのだが、さすがに分をわきまえ今まで我慢していたのだ。
負傷しているルイフォンは医務室に、メイシアもそれを追うように付き添った。
緋扇シュアンは後処理のため、既に警察隊に戻っている。
ハオリュウを客間に案内するよう命じられたミンウェイは、ひと足先にハオリュウと共に執務室を辞した。
そして、屍と捕らえた巨漢は運び出された。
――だから今は、イーレオ、エルファン、リュイセンの父子三代に、護衛のチャオラウだけしか、執務室にはいなかった。
「ふむ? リュイセンには情報が行ってなかったのか? メイシアとハオリュウの父親が斑目に……」
イーレオが、執務机の定位置にて椅子を揺らす。
「ああ、聞いていますよ! つまり! 『協力する』ってのは、囚えられている、あいつらの父親を救出するということですよね! 我々、鷹刀が! 危険を承知で!」
リュイセンは、こめかみに青筋を立てた。
帰国してからずっと、怒鳴り続けている気がする、と彼は思った。
いい加減、疲れが溜まっているので風呂でのんびりしたい。だが、ここで放置すれば、この祖父はまた喜んで厄介ごとを背負い込むのだ。
「俺が言いたいのは! なんで我々が、
リュイセンは唾を飛ばし、熱弁を振るう。
「けれど! 斑目からあいつらの父親を助け出すのは、全然、別の問題です! なんのメリットもない! 『救出』は『攻撃』よりも、ずっと大変です。それは、祖父上もご存知でしょう!」
「落ち着け、リュイセン」
低い声でそう制したのは、彼の父エルファンである。
エルファンは息子に下がるようにと目で命じ、執務机の前に立った。座っているイーレオの顔に、怜悧な眼差しを落とす。
「私も、今回のことは随分と軽率なことをなさったと思っています。――我々が手を貸してやるだけの価値が、あの姉弟にはあるのですか?」
「ある」
イーレオは即答し、にやりと口の端を上げた。椅子に背を預け、両腕を組みながら鷹揚にエルファンを見上げる。その過剰なまでに好戦的な楽天ぶりに、エルファンは氷の微笑を溶かした。
「そうですか。なら、従いましょう」
「父上! なんでそれで納得するんですか!?」
孤立無援となったリュイセンが、不満を全面に出して抗議する。
イーレオ、エルファン、リュイセンの三世代の血族は、年齢だけが違う、同じ人物を見ているかのようにそっくりだった。特に、声だけを聞いたなら、三人のうちの誰が喋っているのか、判別は難しい。しかし、声色と発言内容から意外に聞き分けられるものだと、一歩下がった位置で控えていたチャオラウは苦笑した。
彼がわずかに無精髭を揺らしたとき、廊下に気配を感じた。
彫刻の鷹――〈ベロ〉という名の守護者との問答がかすかに聞こえるが、聞き耳をたてなくても外にいる者が誰だか、チャオラウには分かった。
「俺だって、あの姉弟が可哀想だとは思っていますよ!? 運悪く利用されただけ、とね。しかし、世の中に不幸な奴はごまんといます。いちいち付き合っていたらたまりません。別に危害を加えようと言っているわけじゃない。ただ追い出せばいいだけです!」
リュイセンが、そう吠えたとき、執務室の扉が開いた。
「お昼食についてお伺いを立てに来たところだったのですが、お取り込み中でしたか」
白い調理服に身を包んだ、恰幅の良い初老の男。一族の胃袋を預かる厨房の
彼は腹を揺らしながら歩み出て、室内の面々を順に見やった。ぐるりと一巡したあと、拳を握りしめたリュイセンに目を留める。声にこそ出さないものの、明らかに「ははぁ」と得心のいった顔になった。
「いや、この話はこれで終わりだ」
冷たく言い放ったイーレオの言葉に、リュイセンは唇を噛んだ。
「失礼します!」
「待て、リュイセン」
「何か?」
怒りを、申し訳程度に押さえ込んだだけの声は、総帥であり祖父である男に対して、限りなく刺々しいものであった。
「お前、貧民街で〈
「は……?」
能天気な祖父のこと。てっきりふざけた言葉のひとつでも出して、この場を茶化して終わらせるつもりなのだろうと、リュイセンは思っていた。だから、その問いかけは、まったく予期せぬものであった。
彼は、はて、なんのことかと一瞬、悩んだ。
貧民街での記憶を手繰り寄せ、やたらと尊大な、不愉快な男のことを思い出す。父のエルファンと比べられ、散々、馬鹿にされた不快感までもが蘇り、リュイセンは鼻に皺を寄せた。
彼にとって、〈
だが、扉に向かっていたリュイセンには見えない位置で、エルファンの頬に緊張が走った。
「ええ、会いましたよ。父上のことをよく知っているようでした」
「どんな男だった?」
畳み掛けるように、イーレオが問う。
「サングラスで顔を隠していましたが、歳は……そうですね、体つきからして父上と同じか、少し上くらいでしょうか。細身の刀を使い、動きが素早い。決して『強い』とは言い切れないのですが、奴は『負けない』。ああ、本業は医者だと言っていました」
「分かった。――行っていいぞ」
こんなふうに聞かれれば、気に掛かるものである。
しかし、イーレオの言葉は、退室の『許可』ではなく『命令』だった。そして、リュイセンは気が立っており、自分から尋ねる気になれなかった。
彼は「失礼します」と低く言うと、振り返ることなく執務室を出ていった。
ともかく、風呂と飯。そして寝るに限る――。
リュイセンは肩を怒らせながら、自室に向かっていた。
執務室に来た料理長の口ぶりから、飯はじきに用意されるはずだ。だから、まずは熱い湯に浸かりたい。そして、すべてを流すのだ。
彼とて、総帥が決定したことに逆らうつもりはない。一度は異議を申し立てるが、聞き入れられなければ、すっぱりと諦める。――とはいえ、現在において、苛立ちが胸の中を吹き荒れているのはどうしようもなかった。
「リュイセン様!」
背後から、重量感ある足音が聞こえてきた。本人は小走りのつもりなのだろうが、地響きのせいで、そうは感じられない。
「料理長?」
「お呼び止めいたしまして申し訳ございません」
料理長はリュイセンのそばまで来て姿勢を正すと、足を揃えて優雅に一礼した。
「大変、ご立腹なご様子でしたので、僭越ながらひとこと申し上げようと参りました」
「いや、いい。済んだことだ」
リュイセンは首を振る。肩までの
「あの姉弟を、『
「何を言いたい?」
「そうですねぇ。例えば、気位の高い
「なんで、そのことを……?」
遠巻きに見ていたであろう料理長には、声は聞こえていないはずだ。
「私は料理人です。食べ物を味わう口元の動きには敏感です」
肉付きのよい顔に満面の笑顔をたたえて、料理長はリュイセンのささやかな疑問を煙に巻く。
「まぁ、それよりも、気になるのはお嬢さんのほうですけどね」
料理長の言葉に、リュイセンは儚げな容貌の
「……いったいルイフォンは、どうなっちまったんだ?」
リュイセンは吐き出すように、ぼやく。
帰国してからずっと、彼は、弟分のらしくない言動に驚かされ続けていた。彼の知るルイフォンは、もっと飄々としていて掴みどころがなく、損得勘定が上手で要領が良い。そして、誰かに固執することはない人間だったはずだ。
「さて? ……私は昨日の晩、彼女がルイフォン様と食堂で話しているのを、聞くともなしに聞いてしまったのですが――そのときの彼女は、繊細で綺麗すぎて、いざとなれば舌でも噛み切りかねないような危うさがありました」
「あの女、そんな
メイシアを買いかぶる料理長に、リュイセンは反感を
「ええ。今の彼女は違いますね。出かけている間に何があったのやら……?」
「知るかよ」
投げやりに言い放ったリュイセンに、料理長は目を細めた。ふっくらとした顔の中に目が埋もれ、それがまた、実に穏やかな福相を作る。
「あの子は、世間ずれしていない
「え……?」
リュイセンは、一瞬だけ料理長から不穏な空気を感じ取り、ひやりとした。だが、どう見ても人の好さそうな料理長の丸顔に、気のせいだと思い直す。
「リュイセン様、気になるのなら、ご自分の目でお確かめになられたらよいかと思いますよ」
厨房へと戻る料理長と途中で別れ、リュイセンは医務室に向かった。ルイフォンが怪我の手当てを受けに行ったはずだからである。
しかし、医務室に行ってみると、ルイフォンは来ていないと言われた。
では、ルイフォンはどこに行ったのか――リュイセンはすぐに思い当たった。
ルイフォンの自室、『仕事部屋』だろう。
執務室に突如現れた〈ベロ〉――ルイフォンの母親が遺した、人工知能らしきもの。ルイフォンは、あれについて調べているに違いない。
〈ベロ〉は、ルイフォンご自慢の虹彩認証システムを鼻で笑っていた。リュイセンとしても、正直なところ、執務室に入るたびに認証処理をするのは面倒だったので、〈ベロ〉というのが勝手に敵を判別してくれるなら楽でよいと思う。――つまり、ルイフォンと、その母親との
「――相当、荒れているだろうな……」
執務室を出ていったときのルイフォンの後ろ姿は、憐れなものだった。
リュイセンは弟分の心情を思い、溜め息をつく。自信家だけに、プライドはズタズタだろう。
彼がそう思ったとき、少し先の扉が急に開いた。
「す、すすすみません! 失礼します!」
鈴を振るような、可愛らしい声――ただし、悲鳴に聞こえなくもない――が響いた。
リュイセンは、はっと身構える。ルイフォンの部屋から飛び出してきたのは、リュイセンの頭を悩ませている諸悪の根源、あの
彼が咄嗟に思ったことは、何やら面倒臭そうだ、であった。
すっと端に寄り、気配を殺して壁と同化する。
顔を真っ赤にして、必死に廊下を駆け抜ける少女には、それで充分だった。リュイセンに気づかずに走り去っていった。
「なんだったんだ?」
階段へと消えていく彼女の背中を唖然として見送ったあと、リュイセンはルイフォンの部屋の扉を開ける。
その瞬間、冷気が彼を迎え入れ、思わずくしゃみが出た。
相変わらず、寒い部屋だった。機械に合わせて空調を設定しているとかで、通年この温度だ。だからその点については驚かない。
「お前…………」
リュイセンはルイフォンの姿を認めて、絶句した。
それまでの経緯から、彼の弟分は荒れているか、落ち込んでいるか。そのどちらかの状態だと想定していた。
しかしルイフォンは、半裸の肉体を冷風に晒しながら――。
――――。
「お、リュイセン、どうした?」
ルイフォンの表情に呑まれていたリュイセンは、はっとした。気づいたときには、彼の弟分は、いつものひと癖ありそうな猫の顔で笑っていた。
そのあまりにもあっけらかんとした様子に毒気を抜かれながら、リュイセンは、かろうじて可能性のありそうな解の正否について尋ねる。
「……襲ったのか?」
「喜びを分かち合っていたんだよ」
からかうように、ルイフォンは目を細めた。……どう受け止めればいいのか、よく分からない。
けれど、リュイセンは確かに見たのだ――扉を開けた瞬間の、ルイフォンの表情を。
鋭くも柔らかく、遠ざかるものを名残惜しげに慈しむ、愛しさにあふれた男の顔を――。
「……落ち込んでいると思っていたぞ」
まるで、ふてくされた子供のようにリュイセンは言った。
結構、心配していたのだ。頭が異次元に行ったまま、数日は帰ってこないだろうと思っていた。
「ああ。落ち込んでいるさ。たぶん、かつてないほどにな」
「そうは見えないぞ」
「今やるべきことを、あいつが教えてくれたからな」
ルイフォンはそこで言葉を切り、猫背を伸ばして
「リュイセン、礼を言う――ありがとな」
リュイセンの眼下に癖の強い黒髪が広がった。唯我独尊のルイフォンが、きっちりと頭を下げていた。
「ルイフォン……?」
自分の目が信じられず、リュイセンは瞬きを繰り返す。
「お前のお陰で、俺もメイシアも無事だった。感謝している」
リュイセンは、あんぐりと口を開けたまま、穴が開きそうなほどルイフォンの後頭部を見つめる。
やがて顔を上げたルイフォンが、そんな彼を見て苦笑した。
「何、驚いているんだよ?」
「ああ、いや……。らしくないな、と……」
「そうだな。――俺もそう思う」
澄んだテノールだった。ルイフォンが、明るい青空の顔で爽やかに笑う。
ルイフォンに聞けば、素直に答えてくれるだろう。弟分は、そういう奴だ。
だが、きっとこれは、自分の目で確かめなければ意味がない。
「……仕方ねぇな。関わっちまった以上、最後まできっちり面倒を見てやるべきだな」
リュイセンは口の中で、小さく呟いた……。
料理長がリュイセンを追うように執務室を出ていき、扉が閉まる音を確認してから、エルファンは口を開いた。
「――父上。〈
からんと、グラスの中で氷が響くような涼やかな声色で、彼は尋ねる。
エルファンは感情をあまり表に出さない。特に、焦りを見せることは敗北を招くと考える。だから事態が深刻さを増すほどに、彼の言葉は穏やかに、纏う気配は冷気を帯びる。
「分からん。ただ、貧民街でルイフォンたちを襲った者の中に〈
「ヘイシャオ……」
エルファンが口に出した名前に、イーレオが黙って頷く。長い黒髪がさらさらと流れ、秀でた額を覆った。
「……奴は死んだはずです。私がこの手で殺しました」
エルファンの声が、乾いた音を立てながら凍りついた空気を裂いた。
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