3.冥府の守護者-2

 いったい、いくつの恐怖の響きが聞こえただろうか――。


 メイシアは、頭上からの銃声に驚いて天井を見上げた。数多の赤い光が飛び散り、それらはすぐに白い煙に取って代わられた。

 何が起きたのか。

 彼女が周囲を見渡そうとしたとき、「姉様、駄目!」という鋭いハスキーボイスと共に、飛び掛かられるようにして両目が塞がれた。

 背後から包み込むような気配は、異母弟ハオリュウのもの。けれど、かつて背伸びをしながら「だーれだ?」とメイシアに目隠しをしてきた彼は、彼女の耳の高さで荒い呼気を吐いていた。

 瞼に、汗ばんだ掌を感じる。骨ばった指からは、幼き日に手を繋いで歩いたときの柔らかな面影は消えていた。硬く触れる金属の感触は、当主の指輪――。

「姉様、見ちゃ駄目だよ。こういうのは全部、僕の役目だ。姉様は綺麗でいて……」

 祈るような声は決して低くはないけれど、記憶に残る音よりも、ずっとずっと深い。

「メイシア!」

 むせ返るような火薬の臭いの向こうから、必死のテノールが近づいてきた。

「ルイフォン!」

 思わず体を動かしたメイシアを、ハオリュウはぎゅっと捕まえて放さない離さない。

「ハオリュウ、離して」

「嫌だ」

「何が起きたの? どうなっているの!?」

 メイシアは細い肩を震わせていた。

 さっきまでは聞こえていた罵声と呻きが、聞こえなくなっていた。煙った重い空気がだんだんと薄くなり、つんとした血の臭いが鼻腔を突く。

 ハオリュウに問いかけながらも、メイシアは閉ざされた視界の中で悟っていた。

 天井からの発砲は、この執務室のあるじを守るためのもの。銃声の直前にイーレオの声が聞こえたことが、それを裏付けている。

 だから、皆、無事。鷹刀一族の人たちは無事。

 ……偽の警察隊員たちは――異母弟が頑なに彼女を離さないのが、何よりの証拠だ。

「メイシア!」

 すぐそばでルイフォンの息遣いを感じたが、彼女の体はハオリュウによって遠ざけられた。

 ルイフォンとハオリュウの間で、険悪な雰囲気が漂ったとき、「なるほど。天井に伏兵が隠れていたのか」と、警察隊の緋扇シュアンが驚いたように呟いた。

「たいした腕前だな。ほぼ全員、頭を一撃。これだけの人数を相手に、ここまで正確にやるとは……」

 まるで確認でもするかのような口ぶり。

 自他共に射撃の名手と認めるシュアンは、感嘆とも皮肉ともとれる声を上げた。いったい、どんな奴らが隠れているのだと、彼は天井を仰ぐ。しかし、そこには穴の開いた天井板しかなかった。

 ややも期待が外れたことに、シュアンは鼻を鳴らした。

「銃器を使うような凶賊ダリジィンは、格好悪くて姿を見せられない、か」

 揶揄するような物言いを間近で聞き、ルイフォンはむっとした。ハオリュウと睨み合っている最中であるが、この仕掛けを施した責任上、聞き逃すわけにはいかない発言だった。

「親父の名誉のために言っておくが、俺たちは凶賊ダリジィンが正々堂々、向かってきたのなら刃物を使う。これは、不当に襲われたときのために、俺が仕掛けておいた防衛システムだ」

「はぁ?」

 シュアンのぼさぼさ頭の下から、胡乱うろんな三白眼が覗く。

「この屋敷はコンピュータ〈ベロ〉の庇護下にある。特に親父のいるこの執務室は、親父がひとこと命じれば、許可なき者を即座に抹殺するよう厚く守られている」

「じゃあ、機械が撃ってきたというのか……!?」

「ああ。この部屋に入るとき、虹彩認証をしただろ。あれは『不審者を部屋に入れないためのセキュリティ』じゃない。『〈ベロ〉の攻撃対象から外すための手続き』だ」

「ほぅ……えっ!?」

 危うく聞き逃すところで、シュアンは目を見開いた。そこに苛立ちをあらわにしたルイフォンの顔があった。いつもなら機械類の話ともなれば、得意気に話し出す彼だが、ちらちらとハオリュウを気にしている。

「室内のカメラによる画像認証で、敵味方を区別できれば楽なんだが、さすがに生死を委ねられるほどに高性能とはいえない。だから基本的に室内にある生体は『敵』。例外として部屋に入るときに、虹彩を確認できた者は『味方』と判断するように〈ベロ〉に教えてある」

 ミンウェイが、指揮官以下、偽の警察隊員たちを部屋に通したところをシュアンは目撃している。やけにあっさり入れたものだと思ったし、彼女に「ご自慢のセキュリティとやらも形無しだな」などと言った記憶もある。

 一方で、先ほど部屋に入るとき、気が急いているのに、何故このお子様は認証とやらにこだわるのだろうと、彼は疑問に思った。登録してある人間のうち、誰かひとりが扉を開ければすむことではないか、と。

 その謎が解けた。

「……この部屋自体が、総帥を餌にした、害虫駆除兵器、ってか……」

 シュアンは体の芯から怖気おぞけが走るのを感じた。相手が人間であれば、どんな卑劣な行為にも驚くことはないが、機械の仕業というのは生理的に受け入れられない気味の悪さがある。

「じゃあ、貴様は、この事態になることを知っていたんだな?」

 凍るようなハオリュウの声がした。唐突な割り込みに「え?」と、ルイフォンは戸惑う。

「分かっていて、僕の大切な姉様を血生臭い場に連れてきた、ということだな!」

「ハオリュウ!」

 諌めるようなメイシアの声が飛んでくるが、ハオリュウは「姉様は黙っていて!」と一喝した。穢れなく美しい異母姉の魂を傷つけるような輩を、彼は何人なんびとたりとも許せなかった。

「……」

 斬りつけてくるようなハオリュウの眼差しに、ルイフォンは言い返せなかった。

 指揮官が襲われていて、ひと騒動起きるなんて想定外だった。そう反論しようと思えば、できるかもしれない。けれど、そういう問題ではない。

 今、彼女の視界を塞いでいるのは自分ではなくて、ハオリュウだという事実――そこが重要なのだった。

「すまない」

 ルイフォンの口から、謝罪の言葉がいて出た。

 姿勢の悪い猫背が更に曲げられ、頭が下げられる。目の前に降りてきた癖の強い黒髪に、敵意むき出しだったハオリュウも戸惑いを覚えた。

 離れたところで様子を窺っていたリュイセンが、隣に立つ従姉の耳元に口を寄せる。

「おい、ルイフォンはどうなっちまったんだ?」

 訊かれたミンウェイは、野暮ね、と言わんばかりの溜め息を返し、黙ってなさいと目で命じた。

 場の流れが、わずかに途切れたところで、イーレオが「こほん」と咳払いをした。

「皆、聞け」

 魅惑の声が響く。イーレオは、その場の生ある者の顔を確認し、細身の眼鏡の奥の目に、静かな海の色をたたえた。

「各人、思うところはあるだろうが、ここは俺の城だ。俺に従え」

 イーレオはゆっくりとベッドに近づき、そこに残されていた上着を取った。そのまま、警戒した顔のハオリュウのそばまで持っていき、彼の手ごとメイシアの頭に被せる。

「メイシア、状況は理解しているな。落ち着いたら、自分でそれを取れ。焦る必要はないぞ」

 そう言って、イーレオは執務机に向かう。予想外の、だが穏やかに包み込むような行動に、ハオリュウは驚いてイーレオを目で追った。

 と、同時に、メイシアが上着を取り払った。気がそれていたハオリュウの手も、勢いのままに跳ね除ける。その瞬間、彼女は綺麗な顔を歪めた。が、口元をきゅっと結び、イーレオに駆け寄って上着を返した。

「お気遣い、ありがとうございます。私は大丈夫です」

 細い糸を爪弾つまびくような、儚い声。けれど、その糸は、見た目よりもずっとりの確かなものであった。

「そうか」

 イーレオが柔らかく笑う。心なしか嬉しそうな様子に、メイシアは「はい」と、はっきりと答えた。

「さて。まずは、俺の一族にひとりの死傷者も出さなかったことに礼を言う。皆、よくやってくれた」

 いつものように執務机につき、イーレオは椅子に背中を預けた。一族を守る慈愛の瞳で、一人ひとりの顔を確認する。

 そして、最後にハオリュウに目を向けたとき、イーレオは背を起こして、きちんと頭を下げた。さらさらとした黒髪が机の上に流れる。

「ハオリュウ氏にも、感謝申し上げる。庭で暴動が起きなかったのは、あなたのおかげだ。先ほどは余計なことを言ってしまったが、年寄りのたわごとと思って許してくれ」

 改まったイーレオに、ハオリュウは戸惑った。この不思議な男は、留まることを知らぬ波のように、掴みどころがない。怒りをぶつけても、ゆらりゆらりと躱され、いつの間にかハオリュウが翻弄されている。

 ハオリュウが態度を決めかねているうちに、イーレオはまた、すうっと別の流れへと行ってしまった。

「今後のことを話し合いたいところだが、庭にいる警察隊の奴らを追い返すのが先決だ。緋扇シュアン、頼めるな?」

 突然、水を向けられたシュアンは、驚きに一瞬、言葉が遅れたが、すぐに三白眼を斜に構えた。

「イーレオさん、あんたまだ、俺がどうしてここにいるのか知らないはずだ。それを便利屋のように顎で使わないでほしいですね」

「エルファンが、お前を連れてきた。それで充分だ。俺は細かいことは気にしない」

「はぁ……」

 あっけなさ過ぎて、肩透かしを食らったような気分のシュアンであるが、ともかく彼の目的は達成できたようだった。

「イーレオさん」

 硬いハスキーボイスが響いた。流れをこちらへと、ハオリュウは呼び寄せた。

「僕は、凶賊ダリジィンが嫌いです。異母姉にも関わってほしくありません。けれど現在、僕が、僕の家のために取るべき選択は、あなたの協力を得ることだと思います」

 ハオリュウが頭を下げた。上質なスーツが、折り目正しく直線的に動いた。

「歓迎する」

 イーレオはそう言って破顔した。

 すかさず、「ならば父上、よろしいですか」と、イーレオとよく似た低い声が加わった。今まで後ろのほうで寡黙に控えていた、次期総帥エルファンである。

「庭で凶行に走って、リュイセンに叩きのめされた男がいましたよね。シュアンによると、あの男は正規の警察隊員なのですが、普段と様子が違ったとのこと。何か知っているかもしれません」

「ほう」

 イーレオが興味深げに相槌を打つ。

「ハオリュウの権力で、あの男の身柄を確保しましょう。あの男は貴族シャトーアの令嬢に銃を向けている。そこを突けば逆らえません」

「分かりました」

 イーレオが返答するよりも前に、ハオリュウが即答した。まだまだ信頼関係とはいい難いが、協力体制が整いつつあった。

 イーレオは、ふと、この場を引っ掻き回してくれた巨漢に目をやった。彼もまた、他の偽警察隊員たちと同じく、その巨体を自らの作った血の海の中に沈めていた。

「チャオラウ、すまんな。せっかく捕まえてもらったのにな」

 短く「いえ」と答える護衛にとっては、本当にたいした労力ではなかったのだろう。

 だが、情報源を失ったのは痛い。この巨漢こそ、何かを知っていたに違いないのだ。だから、敵を一掃してしまう〈ベロ〉の手を借りずに、チャオラウに捕獲を頼んだのだ。

〔あら、その男は殺してないわよ?〕

 唐突に、女の声が響いた。

「何……?」

〔それなりの深手だけどね。だってイーレオが、その男を欲しがっていたでしょう?〕

 初めて聞く、けれど聞き覚えのある、流暢な女声の合成ボイス。

〔それと、指揮官も生きているわ。いくら屑とはいえ、警察隊員を殺しちゃうと、鷹刀の立場が危うくなりかねないもの〕

 かすかな雑音と共に聞こえてきた音声に、イーレオはルイフォンに驚きの目を向けた。しかし、そこにあったのは、更に驚愕の表情をした息子の姿であった。

「……〈ベロ〉なのか!? 俺はそんな機能……! 母さんが作ったのか……?」

〔ルイフォン、お前からすれば、『はじめまして』かしらね? お察しの通り、私は〈ベロ〉。キリファが作った……そうね、『プログラム』でいいのかしら?〕

〈ベロ〉はつやのある声でくすくすと笑う。

「馬鹿な……。こんな柔軟に会話できるはずが……。いや、それより、この解析……判断能力……あり得ない……」

〔自分が支配できないマシンがあるなんて、お前はきっと許せないでしょうね〕

〈ベロ〉が揶揄するように言う。

〔だけど、敵を全滅なんて処理は大雑把すぎだわ。もう手出ししないから、あとはせいぜい頑張りなさいね。ひよっ子に何ができるか。楽しみにしているわ〕

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