3.妖なる女主人-3

 シャオリエの手には刃物のひとつもなく、昨日、屋敷の門衛に刀を向けられたときのような直接的な危険はないはずだった。なのに、確実に殺される、とメイシアは直感した。

 シャオリエは、うっすらと笑みを浮かべ、目線をテーブルに落とした。

 テーブルの上には、手つかずのままの茶杯が残されている。

 メイシアは顔色を変えた。

 ルイフォンが睡眠薬で眠ってしまったため、この茶杯に口をつける機会を失ってしまっていた。しかし、もし先に彼女が飲んでいたら……?

 目の前にある茶杯の中身は、睡眠薬ではないだろう。

「……毒杯」

 メイシアの呟きに、シャオリエは口角を上げた。

 おもむろに煙管を手に取り、シャオリエは煙を吹かした。質量を感じるような白い煙が漂う。

「お前が鷹刀にとって疫病神だということは、火を見るよりも明らかなのよ。でも、総帥のイーレオが決めたことだから、一族は誰も逆らうことはできない。けれど、私は違う。初めに言った通り、一族のしがらみを持たない者だから」

「どうして、そこまで鷹刀一族が大切なのですか。――あなたは、鷹刀を出た人なのに……」

「私が大切なのは一族じゃなくて、イーレオと彼が愛するすべてのものよ」

 シャオリエは、ふっと笑った。それは愛しいものを見つめる、優しい顔だった。

「イーレオは優しすぎる子だから、すべてを救いたいと願ってしまうのよ。だから、父親を殺して、自分が総帥になった」

「え……?」

 メイシアは自分の耳を疑った。イーレオの手が、血族の血に染まっているとは――。

「やっぱり知らなかったのね? イーレオは三十年前に、自分の父を殺して総帥位に就いたのよ。先代の鷹刀の総帥が、あまりにも非道を繰り返していたから……。まぁ、凶賊ダリジィンの総帥が善人なわけがないけれどね」

 シャオリエは横を向いて、ふぅっと煙を吐く。その横顔は、相変わらず綺麗ではあったけれど、年輪のような皺が刻まれているという錯覚を覚えた。

「彼は、自分が背負える以上の重荷を背負おうとする。だから、私のことまで彼が背負わなくてすむように、私は一族を離れて、外から彼を守ることにしたのよ」

 ふぅっと、白い煙が吐き出される。ため息のような、重い煙。

「お前のことだって、そうよ。お前の事情を知ってしまった以上、イーレオは全力でお前の頼みを叶えようとするでしょう。……だから私は彼の荷物を軽くする」

 シャオリエは、螺鈿の煙管を優雅に煙草盆に戻した。そして、メイシアをじっと見据える。メイシアは、びくり、と体を震わせた。

「私も鬼ではないわ。お前のことは嫌いじゃないしね。……だから、ひとつ提案しましょう。お前が自分自身を助ける方策を――」

「……なんでしょうか」

「お前はさっき、実家とホンシュアと斑目は手を組んだと判断したわね。ということは、お前の家族は、じきに斑目から解放される可能性が高い。だったら、もうお前は鷹刀を頼る必要はないのよ。鷹刀を出ていけばいい」

「え……?」

 言われてみれば、という気もするが……本当にそうだろうか。そんな楽観視できるような事態なのだろうか。メイシアは訝しげにシャオリエを見る。

「もちろん、私だって斑目がすんなりと、お前の家族を解放するとは思わないわ。そして、お前も、鷹刀を出て実家に戻ったところで、歓迎されるとも思えない。本当にお前の実家がお前を売ったのなら、お前は厄介払いされたはずの存在なのだからね」

 実家に売られた、そう、はっきりと言われると、やはり心が痛む。口の中に苦いものを感じる。

「だから、私はお前の後ろ盾になる人間を紹介するわ」

「後ろ盾……?」

 シャオリエの提案は、メイシアが予測もしないものだった。

「今回の件に関わりながらも、すっかり忘れ去られた勢力があるでしょう? 貴族シャトーアの厳月家よ。もとはといえば、厳月家が斑目を使って、お前の実家に女王陛下の婚礼衣装担当家の辞退を迫ったのが発端。そして、厳月家はどちらかというと、お前を三男の嫁にすることのほうを狙っていた」

「え、ええ……そうだったみたいです、ね」

「私は厳月家の三男を知っているわ。うちの娼館の常連よ」

 思わぬところで、思わぬ人物が浮かび上がった。――確かに、スーリンが言っていた。この店に来るお客は貴族シャトーアも多い、と。

「正直に言って、いかにも甘やかされて育った貴族シャトーアのお坊ちゃん、というタイプね。いい男とは言えないわ。でも、お前が彼と婚姻を結ぶ、と言えば、厳月家は全面的にお前をバックアップするでしょう」

 シャオリエが、ぐっとメイシアに迫ってくる。

「……どう? このまま鷹刀にいてイーレオの愛人、ゆくゆくは、どこの馬の骨とも知らない男を相手にする娼婦になるよりも、たとえ気に食わない相手でも一人の男を夫として相手するほうが、よいと思わない?」

 アーモンド型の瞳がメイシアを映す。

 めまぐるしく変わるシャオリエの話。次々に塗り替えられる複雑な勢力図が、メイシアを翻弄する。

 そのとき、ルイフォンが軽く寝返りを打った。それは、まるで、何かを訴えかけているかのようであった。

 彼女は、彼の癖のある前髪を優しく梳いた。そして、アーモンド型の瞳を見返した。

「シャオリエさん、私はもう、貴族シャトーアの藤咲メイシアではないんです。ただのメイシアで、イーレオ様の愛人なんです」

「私の提案を蹴るというのね。そう、残念ね。……じゃあ、やっぱりお前には、その茶杯を飲んでもらうしかないわ」

 シャオリエの視線がテーブルに落ちた。メイシアも、それを追う。

「鷹刀の人間だと言うのなら、一族に害を及ぼす者の排除も、できるはずよ」

 シャオリエが嗤う。

 メイシアは茶杯をじっと見つめた。その中に注がれている液体が、部屋の風景をセピア色に映している。

 そろそろと、テーブルに手を伸ばした。彼女の体が動いたために苦しい体勢になったのか、膝の上のルイフォンが小さくうめく。ずっと彼の頭を載せたままなので、そろそろ膝の感覚が怪しい。誤って彼の頭を落とさぬよう、気遣いながら、メイシアは茶杯を掲げた。

 そして、それを一気に――。

「メイシア、やめろ!」

 鋭い声が、あたりを貫いた。

 メイシアは、茶杯を手にした指に反動を感じた。

 弾かれた茶杯が、中の液体を宙に舞わせながら、空を飛ぶ。

 ぱぁん……。

 高い音が響き、陶器の破片が一面に飛び散った。

「え……?」

 メイシアが状況を理解する前に、黒い影がテーブルの上を抜けた。

 シャオリエの喉元で銀色の刃が光る。

「ルイフォン……?」

 メイシアが彼の名を呟く。

「シャオリエ、返答次第では、俺はてめぇを殺すからな」

 眠っていたはずのルイフォンが、憤怒の形相でシャオリエを睨みつけていた。

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