3.桜花の懐抱-2

 案内された部屋は一階の端だった。

 部屋に通された瞬間、メイシアは目を見張った。

 満開の桜が彼女を出迎えてくれたのだ。

 正面に、庭へと出られる大きな窓があり、今が盛りの優美な姿を誇っていた。

「今年も見事に咲いてくれたわね」

 声もなく魅入っているメイシアにミンウェイが言った。

 窓を開け、ミンウェイが自慢げに微笑む。爽やかな風がやってきて、メイシアに一枚の花弁を贈ってくれた。

「寒いかしら?」

「いえ、平気です」

 ミンウェイの言葉にメイシアはかぶりを振った。

「……ミンウェイ様、どのくらいの間、このお屋敷に置いていただけるのか分かりませんが、しばらくはよろしくお願いいたします」

 この部屋はミンウェイの歓待の気持ちなのだと、メイシアは思った。

 部屋の調度は、派手さはないが質の良いものが集められており、イーレオの執務室へ行く前に通された小部屋のものより数段よい。

 けれど、ミンウェイがこの部屋を選んだ理由は、この麗々とした桜に違いなかった。

「メイシア、堅苦しいのはよして。『ミンウェイ』でいいわ」

「ですが……」

 恐縮するメイシアに、ミンウェイはくすりと笑う。

「ええとね。あなたの今の立場は、『総帥の愛人』なのよ。お祖父様の正妻はとっくに亡くなってらして、今は他に愛人はいないから、ある意味であなたは現在、この屋敷でお祖父様に次いで『偉い』のよ」

 総帥の愛人には、何人たりとも危害を加えることができない。イーレオはそこまで考えて、メイシアを愛人という名の庇護下に置いたのだ。

 ほどなくして、初めにお茶を出してくれたメイドが現れ、今度はふくよかな香りのジャスミンティーを淹れてくれた。

 ミンウェイが、またメイドを労うと、今度は緊張した面持ちで、メイドはメイシアに視線を移した。使用人と言葉を交わすことなどめったになかったメイシアは、戸惑いを隠せなかったが、ミンウェイに倣って礼を述べると、メイドは可愛らしくはにかんだ。

 その後、ミンウェイから幾つかの指示を受け、メイドは退出する。ふわりとしたスカートを翻す際に彼女はえくぼを見せた。自分より年下に見えるメイドが働いているのが、メイシアには新鮮だった。実家では澄ました大人の使用人ばかりだったからだ。

「少し、この屋敷のことを話しておいたほうがいいわね」

 ミンウェイがお茶を口に運びながら言った。

「ここには、お祖父様とそのごく身近な血族、それから鷹刀に忠誠を誓った使用人や護衛たちが住んでいるわ。お祖父様の信頼の特にあつい者たちがね。中には今のメイドの子のように、親を失い、引き取った一族の子もいるわ」

 ミンウェイが説明するところによると、ここに住んでいる血族は五人。

 まず、総帥の鷹刀イーレオ。

 次いで、イーレオの長子で次期総帥のエルファン。続いて、エルファンの次男で、イーレオの孫にあたる十九歳のリュイセン。このふたりは今、倭国を旅行中だという。明日には戻ってくるので、あとで紹介するとのことだった。

 そして、先ほど会った末子ルイフォン。

 最後に、孫娘であるミンウェイ。リュイセンとは従姉弟同士ということなので、どうやら彼女はエルファンの娘ではないらしい。

 それから、ミンウェイはいくつかの説明と質問を繰り返し、日が暮れるまでにはメイシアが当面生活するのに充分すぎるほどの品々が揃っていた。その手際は実に鮮やかで、この屋敷を切り盛りしているのがミンウェイであることは、疑いようもなかった。



 夕刻になり、メイシアの部屋にふたり分の食事が運ばれた。

 普段は食堂で血族が揃って食事をするのだが、今日はエルファンとリュイセンが不在で、ルイフォンが部屋に籠ってしまった。なので、イーレオの計らいで、女同士交流を深めよ、ということらしい。

 ミンウェイとの食事は実に楽しかった。

 自然体で話す彼女はまるで十年来の知己のようであり、面倒見のよい姉のようでもあった。知識も豊富で、花言葉を教えてくれたことからも分かるように、こと植物に関しては詳しい。

 メイシアはこの数日、食べ物がまともに喉を通らなかったのが嘘のように食が進んだ。

 献立は、目が奪われるような豪華な一品というものはない。けれど一皿一皿に、腕の確かな料理人の計算しつくされた趣向が凝らされていた。旬の野菜の煮物は素材を生かした薄味で、しかも彩り鮮やかであり、白身魚の焼き物は味噌と共にほのかな柚子の香りがする。ひとつひとつの食材は決して珍しいものではないが、それらが互いを引き立て合い、見事な調和を生み出していた。

 この屋敷を訪れてから、数時間。メイシアには少し分かってきたことがある。

 鷹刀一族は平民バイスアでありながら、下手な貴族シャトーアを軽くしのぐ財力がある。しかし、質実剛健を体現したような家風なのだ。

 たとえて言うのなら、彼らが欲するものは、上質な布地を使った縫製のしっかりとした動きやすい普段着である。生地こそ高価であるものの、一度袖を通しただけで仕舞い込まれるような凝ったデザインの夜会服ではない。そんなものを着ていたら身動きが取れなくなってしまうではないか、ということらしい。

「今日は疲れたでしょう。ゆっくり休んでね」

 食事のあと、ミンウェイは部屋付きの浴室の説明をして、早々に去っていった。波打つ長い黒髪を揺らしながら、音もなく扉の向こうに消える。もう少し話をしていたいところであったが、忙しい彼女の邪魔をしてはいけなかった。

 給仕がすっかり片づけを終え、メイシアはひとりになった。

 広い部屋が物寂しい。

 昼間の緊張で疲れた体を清めたら、まっすぐに寝室に向かおう。

 慣れない場所であるし、いろいろなことがあった日なので、簡単に眠れるとも思わない。けれど、続き部屋の寝室には上質な羽根布団と、安眠効果のあるカモミールの小袋が置かれていた。横になるだけでも体が休まるだろう。

 メイシアはミンウェイの数々の心遣いに感謝しながら、浴室に入った。



 熱い湯を浴びて上気した肌の上を、小さな水滴が転がり、床へと滴り落ちる。体の汚れと共に、疲れも流れていくかのようだった。

 脱衣所に出て、メイシアは柔らかなバスタオルで全身をくるんだ。皮膚の湿り気を拭き取っていくと、彼女の口からは知らず識らずに、ほぅっと息が漏れた。

 と、そのとき。

 ばたん、と勢いよく部屋の扉が開く音がした。荒々しい足音が部屋の中へ入ってくる。

「ミンウェイさん?」

 何事だろう。まだ濡れたままの髪から雫を降らせながら、メイシアは思わず脱衣所を飛び出した。

「……え?」

 そこでメイシアが見たものはミンウェイの姿ではなく、一本に編まれた髪とそれを飾る金色の鈴の煌きだった。

 ルイフォンである。

 彼は気配を察したのか、「そこにいたのか」と言いながら、くるりとこちらを向いた。

 さきほどは掛けていなかった眼鏡を掛けていて、その奥の目は真っ赤に充血していた。やや癖のある前髪が乱れており、明らかに疲れた様子である。

 どうしたのかと尋ねようとしたとき、彼がすっと目を細めた。

「俺って、ひょっとして凄く運がいい?」

 メイシアは青ざめた。

 バスタオルを巻いただけのあられもない姿――剥き出しの肩から伸びた瑞々しい白い腕。先程タオルでぬぐいきれなかった水滴を若々しい肌が弾き、宝石のように彼女を飾っていた。

 声にならない悲鳴を上げ、メイシアはその場にしゃがみこんだ。両腕で自らを抱き、できるだけ小さく縮こまる。

「お前、綺麗だな」

 感心したようにルイフォンが言った。舐めるような視線に、メイシアの顔が今度は真っ赤になる。

「も、申し訳ございません。見ないでください」

「なんで? 綺麗なものを見ていたいと思うのは人間の自然な欲求だろ?」

 ルイフォンはまるで動じない。それどころか傍にあった椅子に逆向きに座り、背もたれに顎を載せ、文字通りじっくりと腰を据えた。

「か、からかわないでください」

「からかってなんかいないさ。綺麗なものは、綺麗。愛でたくなるのは道理だろ」

 メイシアは、はたと先程のやり取りを思い出した。お前の最初の相手は俺、とかなんとか……。

 ――ひょっとして夜伽というものを要求されているのだろうか……。

 覚悟は出来ているつもりだった。だが、あまりにも急だった。

 メイシアは、がたがたと震えながら上目遣いにルイフォンを見た。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

 そんなメイシアに、ルイフォンはぷっと吹き出した。

 わけが分からず目を丸くする彼女に、彼は更に笑い出す。

「分かっていてやっているわけじゃないだろうけど、それ、凄くそそるぞ」

 椅子の背に顔を押し付けながらルイフォンは腹筋を震わせていた。メイシアは耳まで赤くしてうろたえる。

「安心しろ。いきなりお前を襲うほど、俺は女に飢えていない」

 笑いを抑えつつルイフォンが言う。彼はメイシアよりも年下のはずなのだが、とてもそうは思えなかった。

 彼は「着替えて来い」と言いながら、本来そうあるべき向きに椅子を座りなおし、彼女に背を向けた。

 メイシアはおずおずと立ち上がり、ルイフォンの背中が動かないことを確認し――それでもバスタオルの裾を気にしつつ、脱衣所に戻った。

 できるだけ早く、しかし見苦しくないように身支度を整えてルイフォンの元へ戻ると、彼は少しだけ落胆した顔を見せた。

「惜しいことをしたかもな」

 メイシアが返答に詰まっていると、急にルイフォンの声色が変わる。

「さて。本題だ。俺の部屋に来てくれ」

 そう言うと、彼女の返事も待たずに、彼は金の鈴を煌かせ、部屋を出て行く。

「え? 待って下さい」

 メイシアはルイフォンの部屋を知らない。置いていかれないよう、慌てて彼を追いかけた。

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