4.猫の足跡を追って-1
ルイフォンの一本に編まれた尻尾を追いかけて、メイシアは階段を上がる。
彼の青い飾り紐を見ながらメイシアはふと気づいた。中央にある金の鈴は歩くたびに
似たような扉を幾つか通り過ぎた。扉と扉の間隔から中の部屋の広さが窺い知れる。このあたりの部屋は、階下の部屋よりだいぶ広いようであった。
絨毯の柔らかさを踏みしめながら、メイシアはルイフォンの背中についていく。このまま行くと廊下の端までたどり着いてしまう、そう思ったとき彼が足を止めた。
「入れ」
そう言いながら、ルイフォンが部屋に入った。
彼に続こうとしたメイシアは、びくりと体を震わせた。中から冷たい風が押し寄せてきたのだ。風呂上りの肌の熱が急速に奪われていく。
何故、と疑問に思いつつ足を踏み入れると、硬質な床の感触がつま先を伝わってきた。客間はもとより、長い廊下のどこを見ても絨毯の敷かれたこの屋敷において、ここだけは異質だった。
リノリウム張りの床が広がり、無機質な事務机が数台、円を描くように並べられていた。そして、それらの机の上には多種多様な機械類。メイシアにも見覚えのあるタイプのコンピュータもあれば、プリンタと思しき機器やアンテナを生やした謎の筐体もあり、ものによっては周囲のものとさまざまな太さのケーブルで繋がれていた。
彼女の知識では説明しきれない数々の機械類の中央で、ルイフォンが回転椅子に腰掛ける。一台のコンピュータに椅子を寄せると、カタカタと何かを打ち込み始めた。流れるような打鍵はまるでピアニストだ。
「ここは……?」
「俺の仕事部屋」
モニタに向かったまま、ルイフォンが答えた。
彼の足元には、蓋の開きっぱなしになっているダンボール箱が転がっていた。銀色の配線が張り巡らされたメタリックグリーンの基板、何本もの灰色のコードに一本だけ赤いコードが合わさった太いケーブル、色とりどりのコードを生やした換気扇のついた金属箱……そんなものが雑多に押し込められていた。
彼はダンボール箱を蹴らないように器用に回転椅子を滑らせ、車座の反対側の机までたどり着くと、そこにあったキーボードを叩いた。
メイシアが呆然としていると、ルイフォンが手招きをしてきた。彼女は床を這っているケーブルを踏まないように、跨いで机の輪の中に入る。
ルイフォンが机の下に入れてあった丸椅子を取り出し、メイシアに勧めた。続けて、コンピュータに接続された装置を示す。
「これに右中指を載せてくれ」
ちょうど指の第二関節くらいまでが載りそうな窪みのついた、小さな四角い機器だった。どんな材質でできているのか、黒い表面は硝子のように周りの風景を映している。
「……これは、なんでしょうか?」
「指静脈認証ユニット」
端的にルイフォンが答える。
いったい何をする気だろう。メイシアは戸惑いを隠せなかったが、先ほどまでは掛けていなかった眼鏡に、青白いモニタ画面を反射させた無機質な彼の横顔は、彼女に質問を許してくれそうになかった。
メイシアが躊躇いがちに指を載せると、窪みの左右から光が照射された。痛くも痒くもなかったが思わず体を強張らせてしまう。
そのとき、モニタに『pass』という表示が出た。
「よし」
「あの……?」
「静脈認証完了。これでお前は正真正銘、本物の藤咲メイシアだと証明された」
ルイフォンが言った。口の端を上げ、机に頬杖をつきながらメイシアのほうを振り返る。心なしか嬉しそうな顔をしているように感じられた。
メイシアはわけが分からず、きょとんとルイフォンを見る。
「……どういう、ことでしょうか……?」
「さっき言われただろ?『お前は本物の藤咲メイシアか』って。親父はお前を認めたけど、一族の中には頭の固い奴がいてな。お前が本物だとはっきりしているほうが、いろいろと都合がいいんだよ」
「いえ、そういうことではなくて……」
何故、今の行為で自分が本物と証明できたのかが分からないのだ。そう言おうとして、ルイフォンが目を細めていることに気づいた。メイシアの困惑を楽しんでいるのだ。
彼は「もう、指を外していいぞ」と言って、指静脈認証ユニットと称した機器をダンボール箱にしまった。それを部屋の端まで運び、壁一面に据え付けられた棚の一つに収める。
棚の半分は似たようなダンボール箱で埋まっており、残りの半分は分厚い洋書に占められている。簡単な物語程度なら原書でいけるメイシアだが、それらの本のタイトルは読めない。正確にいえば、読めるのだが理解できない。いわゆる専門書なのだ。
ふと鼻がむずむずして、メイシアは小さなくしゃみをひとつした。
「あ、悪い。寒かったか」
ルイフォンが棚から緋色のストールを出してきて、メイシアにほうった。
「ここは俺の仕事部屋だ。人間より機械が優先される。だから通年、空調が効いているし、埃が出るから絨毯も敷かない」
ストールはミンウェイが置いているものだと説明してくれた。メイシアはありがたく羽織りながら質問する。
「仕事、というのは……?」
ルイフォンがにやり、と猫のように笑うと、回転椅子まで戻って腰を下ろす。
「俺が何故、お前の本人証明ができたと思う?」
「分かりません」
「お前は王立銀行に口座を持っているだろう。口座を開いたとき、カードも作ったはずだ」
「キャッシュカードのことですか?」
「そう、静脈認証機能つきのやつだ。俺は銀行のデータベースから『
メイシアはルイフォンの言うことが理解できなかった。
彼女は、銀行でカードを作るときに、生体認証機能云々と説明されたことは覚えていた。しかし、何故そのことをルイフォンが知っているのだろう。データを、盗ってきた――?
「ルイフォン様は王立銀行の関係者――というわけではありませんよね?」
「『様』は、よせ」
ルイフォンが心持ち、憮然とした顔になった。メイシアはしばし考えて言い直す。
「ルイフォン――は、王立銀行の技術者ではありませんよね?」
メイシアは敬称をつけようとして、途中でやめた。どうやらそれは正解だったようで、目元の微妙な動きからルイフォンが機嫌をよくしたことが分かる。
「少なくとも、王立銀行から金を貰ってはいないな」
楽しそうな、揶揄すら含んだ口調。
つまり、
「〈
「『フェレース』?」
「『フェレース』は、ラテン語で『猫』という意味だ。猫のように音もなく情報に忍び寄り、狙った獲物を盗っていくクラッカー。コンピュータネットワーク世界の情報屋だ」
メイシアは改めてルイフォンを見た。やや癖のある前髪に、一本に編んだ後ろ髪。飾り紐には金の鈴。目は雄弁に物を語り、姿勢は常に崩している。彼のどことなく猫を思わせる仕草に、その名はよく似合っていた。執務室の扉の仕掛けも、彼の手によるものなのだろう。
「さて……、『礼状』でも出すか。メイシア、ちょっと見てろよ」
ルイフォンは再びキーボードに指を走らせる。
すると、モニタ画面が真っ白になったかと思ったら、右端から黒い猫の影が入ってきた。
可愛らしくも、しなやかな足取りで、猫はモニタ上を歩き回り、通ったあとに足跡を残していく。やがて、猫の姿は見えなくなり、足跡だけが次々に表示され、ついに画面は真っ黒になった。――もうモニタは何も映さない。
「え……?」
「こいつを王立銀行に送る。ウィルスじゃないぞ。これは、ただのアニメーションだ。先方がどう思うかは知らないけどな」
ルイフォンの意図が分からず、メイシアは首を傾げた。そんな彼女に対し、彼は目を細めて軽く笑う。
「〈
「それは……何か、変な気がします。ルイフォンが攻撃する側なのか協力する側なのか分かりません」
「両方だよ。ネットワークは本来、性善説に基づいている。悪意ある使い方には非常に脆弱な代物なんだ。だから昔の技術者たちは互いにセキュリティを突破し合い、侵入した痕跡を残したそうだ。善意でね。まぁ、俺は先人たちほど善人じゃないから、気まぐれと売名行為かな?」
「売名行為?」
「〈
メイシアと会話しながらも、ルイフォンの指先は軽快にキーボードの上で踊っていた。
表向きは、鷹刀一族は〈
「……セキュリティ対策をされてしまったら、また王立銀行に用があったときに困るのではないですか?」
「そのときはそのときで、また別の抜け穴を探すさ。『この世に完璧なプログラムは存在しない。存在しうるのは、まだバグの発見されていないプログラムだけだ』――俺の母親がよく言っていた言葉だ。誰かの受け売りらしいけどな」
「お母様……?」
「先代の〈
そう言ったルイフォンの顔は少し誇らしげで、そしてどこか寂しげだった。メイシアはある可能性に気づいたが、それを確認する気にはなれなかった――おそらく、それは当たっているであろうから。
ルイフォンがぐっと背筋を伸ばすと、回転椅子の背もたれがぎぎいと軋むような音を立てた。それから彼が首を左右に曲げると、小気味いいほどにぽきぽきと彼の骨が鳴った。疲れた様子の彼を見て、メイシアは「あっ」と小さな声を上げた。
「ひょっとしてルイフォンは夕方、廊下で別れてからずっと、ここで作業をしていたのですか?」
愚問だ。
言ってからメイシアは自分の愚かさに気づく。ルイフォンはあのとき言っていたではないか。『部屋に籠もる』と。『〈
あれから何時間が過ぎたのであろう。もうすっかり夜も更けている。
メイシアがミンウェイと楽しく食事を摂っていた間も、風呂でくつろいでいたときにも、ルイフォンはここで働いていたのだ。それは誰のためか。――言うまでもない、メイシアのためだ。
「申し訳ございません」
「ん? 何が?」
「私のために今まで……」
「お前、俺を舐めている? 俺は王立銀行の穴くらい一瞬で見抜ける。時間がかかったのは、親父の命令で調べることがたくさんあったからだ。お前が気にすることじゃない」
「けれど……」
納得いかない様子のメイシアにルイフォンは少し困ったような、それでいて目元だけはまんざらでもなさそうな顔をした。
「そういうときはな、『ありがとう』と言うんだ」
ルイフォンの言葉はそっけなく、そして温かい。
敬慕の眼差しを向けてきたメイシアに、ルイフォンは照れたように「ミンウェイの口癖だけどな」と付け加えた。
「ありがとうございました」
長い黒髪を揺らしてメイシアは深々と頭を下げた。シャンプーの香りがふわりと漂い、ルイフォンが表情を崩した。
「ま、少しは疲れたかな?」
彼はそう言うと眼鏡を外し、目を軽くマッサージするように指で押さえる。
「あの、大丈夫ですか。モニタを見続けると目が疲れるんですよね?」
「まぁな」
「目がお悪いんですか。イーレオ様も眼鏡を掛けてらっしゃいましたし……」
「違う! 親父のは老眼鏡! 俺のはOAグラスだ!」
ルイフォンが牙をむいた。
「……ったく。俺をあの助平親父と一緒にすんな」
苛立たしげに癖のある前髪を掻き上げる。そんな仕草はやはり十六歳の少年のようで、猫のようにくるくると印象の変わる彼をメイシアは不思議な気持ちで見つめていた。
「さて――」
ルイフォンがちらりとメイシアを見る。ふと、何を思ったのか、彼はにやりと笑った。
「夜食に付き合え」
「え?」
「俺は、晩飯に片手でつまめるものしか食ってない。作業中だったからな。腹が減った」
「申し訳ございません」
「そこで謝るな、って。だからさ、一人で飯を食うのも虚しいから、付き合えよ。お前は食わなくてもいいから。……それに、藤咲家と斑目について、真面目に訊きたいこともあるしな」
その言葉を聞いた途端、メイシアの背中を緊張が走った。
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