十月桜編・番外1〈静香〉
――文化祭二日目、裕貴がフローラ達の索敵から逃げ回っていた頃。
昼過ぎの静香の店「十月桜」
静香が古びたジャージにエプロンをして、カウンターの奥、小さな流しで洗い物をしていた。
するとドアが開く音がして、誰かが近づく気配がする。
「アカネちゃん? 片づけは私一人で大丈夫だって言ったでしょ」
静香が振り返らず、少し嬉しそうに言葉をかける。
「僕だよ」
しかし返事をしたのは水上昇平だった。
「ええっ!?」
静香が飛び上りそうに驚く。
「まだ腕のケガが治っていないのに水仕事なんてダメじゃないか。僕が代わるよ」
昇平が優しく声をかける。
「どっどどっ!! どうして? ――って、その顔!!」
振り返った静香が驚きながら、泡まみれの指を向ける。
「あー、まあ亜紀子にちょっとね……」
指を向けられた昇平の顔は熟しかけの桃のように、赤と肌色のまだら模様になっていた。
「……そう」
静香が顔を曇らせる。
「それより卒業するからもういらないって、防犯用に置いてったそのジャージ、まだ持っていたんだね。……懐かしいな」
昇平が静香を見て笑いかける。
静香が着たジャージは青一色で、背中に『3-10、水上』とマジックで書かれた布が縫い付けられていた。
「まさかこんなタイミングで来るなんて……」
静香がエプロンの裾を握りしめて赤くなる。
「家に行ったら涼香ちゃんから教えてもらったんだ。『ママがお店の方で昨日の片づけをやっているはずだから手伝ってあげて』ってね」
「――っ!! あの子ったら!!」
「さあ、洗い物は僕がやるよ。静香さんは拭いてくれないかな?」
「……分かったわ。けど営業時間じゃないからサービスなんかしないわよ」
「ふふ、いいよ」
「まったくもう……」
そうして二人並んで洗い物を片付けていく。
「…………十四才か」
黙々と洗いながら昇平が呟く。
「――え!?」
「僕が静香さんに出会ったのは」
「……ええ。そうね」
それをきっかけに二人が思い出話を始める。
„~ ,~ „~„~ ,~
――2004年春、東京某所。
とあるショッピングモールの生鮮野菜売り場に、一人の女子高生がカゴを下げて野菜を吟味していた。
少女の名は
先ほど高校入学の説明会を終え、自宅マンションに帰る途中、食材を買うためにここへ寄った。
そんな彼女を、周りの主婦たちが、チラチラ見ながら、知り合いとひそひそ話をしていた。
少女はそれらの視線を感じながら顔を赤らめ、慣れない手つきで野菜を見定めながら、キャベツを手に取ってカゴに入れる。
それもそのはず。その女子高生はお世辞にもハイセンスとは言い難い制服を着ていた。
今の彼女の着ている制服は、この時代ですら目にしないようなデザインだった。
ブラウスは無地で襟は丸みを帯び、ジャンパースカートは単純な濃紺で、ウエスト左前で無骨に蝶結びするだけ。
羽織っているブレザーも同じ色で、前開き四つボタンの質素なもので、幼稚園児の制服をそのまま成長させたようなデザインだった。
だがそれは古き良き伝統を今に受け継ぐ、私立の有名女子高の制服であった。
……やっぱり制服を着替えてくればよかったかしら。でも家の近くのスーパーじゃここよりずっと高いし。
少女はそんな事を思いながら、玉ねぎの陳列棚を見つめ、何個入りを買うか値札を見くらべ、バラで三つ備え付けのビニール袋に入れた。
キャベツ、玉ねぎ、ジャガイモ、あとは卵と食パン……はぁ、いきなり一人暮らしで自炊なんてムリに決まってるじゃない、でも……。
ため息をつきながら、こんな事になった経緯を思い出す。
『――歌手を諦めて女優になる? わがままもたいがいになさい! ここまで散々歌手になるって言って我を通してきて今更路線変更? それならいっそ芸能人になるのを諦めなさい!』
和服を普段から着こなし、厳しい顔をした静香の母親、
『まあまあ春香さん。静香だってまだ十五歳だから悩む事だってあるでしょう。幸いな事に静香は春香さんに似て、容姿と歌や踊りの才能には恵まれてる。歌手でも女優でも、どちらでも名が売れれば九重家の為になります。赦してやってくれませんか?』
スーツを着た、小柄で気弱そうな紳士――静香の父親、
『お父さん……』
静香の胸が熱くなる。
『……あなたは本当に静香に甘い。由緒ある九重家に
春香が頑なに拒絶する。
『いつまでも前時代のようにいかないと思ったから、お義父さんは僕のような一般人を婿養子にしたんでしょう? ですからもう少し広い目で見てやって頂けませんか?』
秀恵が食い下がる。
『……分かりました。それなら高校卒業までの間の芸能活動は許しましょう』
『お母さん!』『春香さん!』
『ただし! 条件があります』
『なんですか?』
秀恵が聞き返す。
『あなたが仕事の宿泊用に確保してるマンション、そこで静香に一人暮らしをして貰います』
『ええっ!?』『はっ春香さん!』
静香の驚きとは別に、秀恵が動揺混じりの驚きを見せた。
『……どうしました? あなた、可愛い静香の為ですよ? 月に数日泊まるだけのマンションなら、静香に空け渡してご自分はホテルへ泊まったらどうです?』
春香が嫌味な笑いを口の端に見せ、にたりと笑う。
『わかっ……分かりました春香さん。――静香、そういう事だから大人しく従ってくれ』
そういう父親は、自分以上に悔しそうな表情をしていた。
『……はい。お父さん』
反論できない理由を知る静香は、優しくも芯を持っている父親の、苦渋の決断に素直に従った。
『そうそう、もう一つ条件があるわ』
春香が追い打ちをかけるように二人に向き直る。
『なんですか?』
『……お母さん』
『生活費は月一万円でやりくりしなさい』
『『ええっ!?』』
『ほら、何とかってテレビ番組でやってるでしょう? 静香も芸能人を目指すなら同じ事をしてみなさい。家事や料理も覚えられるし、いい花嫁修業にもなるでしょう』
『でっでも、女子高生がいきなり一人暮らしで一万円生活なんて、とてもじゃないけどあそこでの生活費の全部は賄いきれませんよ』
秀恵が困惑する。
『そういえばそうね。なら光熱費、学費、通学、病院、衣料品代とかの雑費は家が出しますから、静香は食事だけを一月一万円でやりくりしてみなさい』
『……仕方がない。静香、それで頑張って見なさい』
『……はい』
厳しい母親からなにかと庇ってくれ、こうして自分の居場所まで提供してくれた気弱な父親が、これだけ奮闘して譲歩案を引き出してくれたのだから、静香はこれ以上反論できなかった。
――「きゃっ!!」
そんな風に物思いにふけっていたら、陳列棚の角の出っ張りにカゴを引っ掛け、はずみでカゴの持ち手が外れ、キャベツや玉ねぎが転がってしまう。
慌てて人の足の間に転がっていった野菜類を、カゴを置いて追いかける。
「すいません」
いくつか拾ってカゴに戻すと、キャベツと残りの玉ねぎが目の前に差し出された。
「はい、お姉さん。大丈夫?」
顔を上げると、黒いスポーツバックを肩に下げて、青いジャージを着た、静香と同じく買い物カゴを下げた、純朴そうな少年が拾った野菜を差し出していた。
少年のジャージには桜のマークの中心に㊥と刺繍があり、縫い付けられた新しい名札には「3-10、水上」と書かれていた。
「ええ、えと、……ありがとう」
受け取ってカゴに戻したはいいが、持ち手が壊れていて持てそうにない。
どうすればいいか悩んでいたら少年が手を出してきた。
「ちょっと見せて。……うん、外れただけだからすぐ直るよ」
そう言うと、持ち手の角度を見計らいながら、パチンとハメてあっさり直してくれる。
「ありがとう、助かったわ。それじゃ」
照れもあり、それだけ言ってそそくさと立ち上がる。
「お姉さん、そのキャベツあんまり良くないから交換したほうがいいよ」
「え!?」
振り返って少年を見る。
「……ていうかさ、落ちたショックで芯の近くに傷が入っちゃってるから、すぐ傷んじゃうよ」
少年がこっそりと囁く。
「でっでも、私が落としたんだし責任もって買わなきゃ」
「大丈夫だよ。今日のキャベツは出荷ぎりぎりの不揃いB級品だし、仕入れ値がめっちゃ安い販促用の投げ売り商品だから」
「そうなの?」
「そう。時々あるんだ。農家が休耕田の税金対策や、連作障害を防ぐ為に違う野菜を植えたりするんだけど、本来育てたい野菜じゃないから、あんまりいい育ち方をしてないんだ」
「ふうん」
そう言われてキャベツを見ると、虫食いが所々あり、割れて開いた根元には土がついてるのが見え、あまり手をかけていないように見えた。
「普通はそういった野菜はトラクターでそのまま一緒くたに耕して、次の肥やしにしちゃうんだけど、組合の出荷調整でこうして出回る事があるんだ」
「へえ、よく知ってるわね」
「まあね。でもどうしてお姉さんみたいな名門校のお嬢様が制服着たまま、こんな庶民向けスーパーで買い物なんてしてるの?」
「……ちょっと訳があって、卒業まで一人暮らしして、低予算で自炊しなきゃならないのよ。ていうか君、色々知ってるみたいだし、少し話したいから会計を済ませてホールで話さない?」
年下の親切な中学生に警戒心など湧くはずもなく、静香は困った状況を相談しようと決めた。
「いいよ」
――そうしてお互いにレジを済ませ、広いホールの隅にある休憩所へ行き、白い丸テーブルの椅子へ腰かけた。
「さっきはありがとう。私は九重静香、四月で高校一年になるわ」
「僕は水上昇平、四月で中学三年になります」
「昇平君、いきなりなうえに不躾で本当にすまないんだけど、スーパーでの買い物のコツを教えてくれない?」
「それはいいけど。さっき言ってた低予算って具体的にはいくらぐらい?」
「……月の食費が一万円」
さすがに少し照れながら小声で話す。
「えっ!? つっ、月一万円って少なくない?」
「ええ、だからやりくりにちょっと自信が無いの」
「まあ無理もなさそうだけど。お姉さ……、静香さんは料理とかできる?」
「できないけど、本を見ながら頑張るつもり」
少し照れながら答える。
「どんな本?」
「……これ」
そういって静香がカバンから取り出したのは、図書館のタグが張られ、周りを古びた布で巻かれたハードカバーの本だった。
「なになに、『日本和食全集・其の一』…………………………」
少年が絶句した。
「変かしら?」
「うん、初心者が読む本じゃないんだけど、……まあ分からないならしょうがないね。いいよ、家が兼業農家なんだ、僕が分かる事は教えてあげる」
少年が困ったように笑う。
「ありがとう、助かるわ!」
静香も困らせているのを自覚しつつ、少年の好意に甘える事にした。
「だけど、僕は田舎から出てきた旅行者だから、東京に居られるのはせいぜい十日くらいだよ?」
「えっ!? そうなの? でもそのジャージ姿は?」
「これはまあ、ジモティっぽくして変に目立たないようにしてるだけなんだ」
「じゃあ何でスーパーに買い物に?」
「それはこっちで泊めてもらってる親戚へのお礼に、今日の夕飯を作る為なんだ」
「そっか。……でも確かにそうね。変に浮いたようなカッコの中学生が、一人で東京をウロウロしてたら目立つものね」
「そうそう! このカッコでスポーツバックや、買い物袋下げてれば補導もされないしね。それに昨日新宿の裏路地歩いてたら、
少年がにかっと笑う。
「……あきれた。水上君、土地勘もない中学生が一人でうろつけるほど安全な街じゃないのよ?」
「夜も遅くなければ大丈夫でしょ。……まあ、そんな風に結構気楽に色んな所を探検しているんだ――っと、そうだ! 教えてあげる代わりに面白い所を知ってたら教えて欲しいな。どうにも電車だけはよく解らなくて乗れないんだ」
「ふう、大した度胸ねえ……」
――その後、連絡先を交換し、翌日に待ち合わせをして静香は自宅マンションに少年を招いた。
時間は昼前、10時を少し回ったくらいだった。
「ふわあ……すごいマンションだね。出入りする人間の認証登録までするんだ」
「そ、だから君が私に何かしても、すぐに捕まってしまうわよ」
エレベーターを待ちながら話す。
「ははは! 静香さんならそんなリスク負ってもいい気がするね」
「――っ! きっ、来たわよっ! さっさと乗りなさい!」
間接的に嬉しい褒め言葉をもらい、静香が照れる。
部屋のドアに立ち、手の平をセンサーに当て、ロックを解除して中に入る。
中に入ると広さは“2LDK”ほど、レンガ調のヨーロピアンなインテリアで統一され、家族数人が暮らしていそうなほど家電類が充実した、落ち着いた雰囲気の部屋だった。
「うわあ、女の子っぽいいい匂いがするね。姉ちゃんの部屋とは大違いだ!」
くんくんと鼻を動かして昇平が驚く。
「……これは香水の香り。お父さんがここで大切にしていたロシア人女性が好きだった香水で、“スティル・オー・ド・パルファム”って言うの」
そう言うと静香が俯いてしまう。
「ごっごめん。なんか無神経な事言っちゃって……」
「いいのよ。私は大好きなお父さんの癒しを取り上げてしまったから、なんとしてもこの試練をやり遂げなければいけないの」
「静香さん……」
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