第17話 星の名が付けば

 歓声、フラッシュの点滅、矢継ぎ早のインタビュー。その最中に目を閉じて、開いたら、関係者出入り口に突っ立っていた。聴こえたのは際限のない雨音、見えたのは夕方の土砂降りに晒される市松町の街並み。

 大袈裟なシーンカットだけど、体感的にはほとんどそんなかんじだった。


 第31期ハリヤマ興業ファミリーミュージカル『ルメルシエ』キャスト・スタッフの発表が行われた。劇場内でいちばん大きなリハーサル室に大勢の候補者と関係者が集められ、みんな学校の朝礼みたいに体育座りをし、じっと発表を待つ。

「ルメルシエ役、綿貫ちえり。セドリック役、針山きよみ」


 そのふたりが呼ばれた瞬間、力強い拍手が響き渡った。絶対的な主役への祝福と安堵の下、どれだけの人がもがいているのだろう。私達はそんなことにいちいち気を配ってる暇なんてなくて、自分のあるべく立ち位置に辿り着くためなら何だってやる。少なくとも、今この部屋にいる人たちはみんなそうだ。

 ちえりちゃんと兄はお互いに視線を滑らせ、最初から確信していたと言わんばかりの顔でニヤリとし、立ち上がる。


 私が専門学校で先生に怒鳴られながら服作ってた時から、主役はもうずっとこのペアだ。番狂わせを夢見る役者はたくさんいるけど、夕映市民にとって『ルメルシエ』の顔はこのふたりである。

 配役発表を終えると、今回の公演の裏方の配属発表がはじまる。やはり、というかなんというか、配役発表のような華もなく、どこかの企業が朝礼でやっているであろう、人事異動の発表ってこんな感じなんだろうな、と想像させるような事務的な雰囲気になる。役者の中には、すでに興味を失ってる人もいる。


「ハリヤマ興業の舞台の裏方は誰がやっても同じ、そう思われるようになりなさい」

 と、必ず新人さんに説いているのは、監督でも演出家でも裏方のえらい人たちでもなく、私の父、つまり社長だ。

 社長って、役員の人たちと一緒にリハーサルの視察とかに来て二言三言踏ん反り返っておけば、あとは何も我々のことを注視する必要はないんじゃないかってかんじするけど(完全に私の偏見)、父は演劇が好きなのだ。ちょっと偏ってる気もする。まあいっかシャチョーだし。


「一定の仕事をこなしていればいいという意味ではなく、ましてやナメられてなんぼという意味でもない。君たちは演劇の土台なんだ。役者と観客が没頭できる空間を、少しの誤差も無く整えなければならない。息を殺して現場を見つめ、世界の綻びを許してはいけない。観客の誰にも存在を悟られないまま、舞台上で起こる一瞬一瞬すべてを完璧なフィナーレに導き、守り抜く。誇り高い役割であるんだよ。誰がやっても同じ、つまり全員が常に最高の仕事をしなければならない。君たちはウチの作品を良いと思って、血と汗と涙を飲み下しながらここまで来てくれたんだよね。その『良い』になるんだ。映画じゃないから名前が載るエンドロールもない。カーテンコールにも出れない。ただ『良い』になるんだよ」

 それが、私のつくべき役割だった。私が立つべき場所は、そこにしかなかった。ずっと前からそうだった。兄がセドリック役であるように。


 衣装縫製課のチーフが、真顔も真顔でみんなの前に立つ。肝っ玉母さんといった風情の人で、作品づくりには鬼みたいに厳しく、裏方の間でも畏怖されている。

「ご存知の通り、今期から演出や大道具、衣装デザインを一新します。『ルメルシエ』に所縁ある世界各地の劇場凱旋ツアーを終え、ハリヤマの『ルメルシエ』の歴史を一区切りしたと言っても過言ではありません。変わらず愛されていくために、変わる必要があります。演者のみなさんも、私達裏方も」

 チーフが力強く言い放つ。「口を動かす暇があるなら手を動かせ」が座右の銘である彼女は、この手の演説が何よりも嫌いだった。そんな彼女が、舞台に立っているかのような気迫で、熱を纏った言葉を響き渡らせる。


「ハリヤマの裏方は、誰がやっても同じだと思われるようになれ。社長のお言葉です。全員が最高でいなければなりません。勤勉で妥協を許さない、だからこそ変化に恐れをなさない。転換期の第一歩とも言える今公演は、縫製課にとっても重要な局面です。緊張感、そして希望を持った最高の仕事。その新たな礎を築くメンバーを率いるに相応しい、縫製技師を選び抜きました」なんだか大層なことになってしまった。

彼女の台詞が台詞ではなく、誰かに指示された演出ではないことを全員が分かっている。それがまた、ほんとうに大層さを引き立てているのだった。

「今期『ルメルシエ』における“王女様の仕立て屋”、針山めるこ」


 その後のプレスリリース記者会見の場に出された裏方の人間は、私だけだった。「全員が最高」のはずなのに、茶番だなあ。そうは思っても、まあ、口に出せるはずもない。

 まずは主役ふたりの囲み取材、そこへ司会者に呼ばれた私が現れる……という演出だった。

「さあ、そして今回おふたりの衣装、そして王女様のドレスの縫製リーダーに抜粋されたのは、なんときよみさんの妹、めるこさんです!」

 役者ではない素人の私は、どう登場するのが正しいのかわからず、カメラマンやら記者やらにぺこぺこしながら進みでる。


 そうして兄の隣まで来ると、もう我慢ならないという様相で強引に抱きしめられた。うわ、と思う間もなく想像を絶するほどのフラッシュ音と、暴力的なまでの光の点滅に晒される。私たちはリハ室での発表から今まで、お互い口をきかなければ目も合わせなかった。その方が感動的な記者会見になると、私だけに父が言った。父や周りのえらい人たちは兄をよく理解し、手玉に取っていた。


 背中にしがみつく兄の指は、私の内臓に食い込みそうなぐらい力が入り、兄の頬は私の肩に埋められ、兄の身体は私の身体を光の砲弾から隠し、そのまま自分の中にすっぽりと取り込んでしまおうとするかのようだった。兄の背に手をやるべきだっかもしれないけれど、身動きが取れなかった。美しい台詞ばかりを口にする美しい唇が、やわらかに耳朶と擦れる。


「君はこんな光を見てはいけない。舞台を射る君の大切な両目が傷ついたら、大変だ」

 は、と息をつくと、兄の襟元に温みが蟠る。この人にとって、私はいつまでも小さな妹のままなのだ。

「そんな簡単に壊れないよ」小さく笑う息の感触が、耳元にほのあたたかく残った。

「君だけをずっと待ってた。おめでとう」

 それだけ言うと兄は報道陣に向き直り、私の肩を抱く。好き勝手に点滅するフラッシュと突き出される無数のマイクに向かい、彼がいちばん得意な柔和な笑顔を見せる。

「兄として、とてもうれしいです」


 従業員出入り口に突っ立ち、豪雨をぼんやりと見つめる。ばしゃばしゃと激しく道路に打ちつける雨粒が、町に薄灰色の膜をかけていた。

 警備のおじさんに一応聞いてみたけど、保管期限の過ぎた拾得物の傘も出払っているらしい。うーん、と首を傾げてもどうにもならない。そうしているうち、後輩の子が携帯電話で通話をしながらやってきた。「じゃあ、出口で待ってるね」と言って切り、私の横に立つ。

「傘、ないんですか」

 分かりきっているだろうに、彼女はそう聞いてきた。頷いたか頷いてないかのうちに、彼女はケータイの画面を覗いたままべらべら喋る。「私も無いんですけど、カレシが迎えに来てくれるんで。付き合ってだいぶ経つけど優しいんですよぉ。こないだは誕生日にコレ買ってもらったんです、かわいくないですか?」

 彼女が示すハンドバッグは、有名ハイブランドのロゴが押されていた。またもや私がうん、と言うのに被せるように、彼女が喋る。「まだこのバッグ使ってるんですか? やだあ、なんかシミついてるじゃないですか。いいやつ買いましょうよお」

 ライオットラジオでお便りを採用された時にもらった、トートバッグの生地をつままれる。コーヒーが跳ねちゃって、と言ってもいいけど、そんなことは彼女にはどうでもいいことだと思うので適当に笑っておいた。ちら、と伺うように彼女の丸い目が私を見る。


「先輩は、何でも持ってるんですから」

 この子入社日の自己紹介で「きよみさんの衣装を担当するのが夢です」って言ってたなあ。うーん、まあ、いいけど。久々に他人のこういう声音を聞いた。たぶん、私にはいつまでも纏わり付いてくる類のものだ。気にはしていない。ただ、蚊柱の中に顔を突っ込んでしまったような気持ちにはなる。

 そのうちカレシが車で乗りつけ(どうでもいいけど10台あっても父の愛車を買えそうにない車種だった、どうでもいいけど)、後輩の子は帰っていった。曲がり角に車が消えるのを見送り、私もこうしていては仕方ないので帰路につく。雨音は無尽蔵なシャッター音に似ている。歩き出してすぐ、水溜りを踏んで薄っぺらいパンプスが水浸しになった。

 夕映市はその昔、夕立市という名前だったらしい。由来は安直そのもの、夕立が多い地域だから。けれどその後の晴空が綺麗だからと、いつの間にか夕映の名が勝った。


 何度となく今日を想像してきたけれど、もっと底なしに嬉しくて、はしゃいで、宮廷に迎え入れられたような心地になるんだと思ってた。私だってそれぐらいの想像ができるのだから、読み古してぼろぼろになった、そういう筋書きを踏むのだと思ってた。兄はみんなが期待している、みんなが感動する、綺麗ななにかを見せてくれる。それができない私は、役者には向いていなかった。


 兄と私は、みんなにすてきなお話を望まれていた。それを作れる身の丈ではなかったこと、壊してしまったことに、幼かった私には恐ろしさと罪悪感があった。今は今で、みんなが勝手につくったすてきなお話に放り込まれているのかもしれない。相変わらず兄は演技が上手で、私のはひどいものに見えるのだろうな。

 致し方あるまい、そういう星回りに生まれたのだ……なんて自分に言ってみるのも、物語じみている気がする。なんでもいいけど。


 コンビニの前を通りかかり、自動扉の前にこれ見よがしに陳列されたビニール傘を見やる。ちょっと足を止めて、600円ぐらいするんだろうな、と思ってやめた。レジ前にあるおでんの保温器からうっすら立ち昇る湯気のほうがよほど魅力的で、けれど足の親指で靴の中の雨を揉んで歩き出す。

 軽トラックが通りすぎ、跳ね上がった雨水で膝から下がずぶ濡れになった。うわあ、と思いつつ、鼻から笑いの息がもれる。だってやっぱり、よくできたお芝居みたいだ。世間から見れば華やかで何もかもを手にした人物の、実のところうだつの上がらない生活を示唆するシーン。


「星の名が付けば――」一歩大きく踏み出した先はまた水たまりだった。中敷きがじゅるじゅるで、もうどうでもいい。「迷うことはないのか」

 セドリックのソロナンバー『星の名が付けば』を、何の気なしに口ずさんでしまう。もはや兄の血肉のひとかけらと言える曲だ。


 記者会見のあと、ちょっとした祝賀会を兼ねた顔合わせが行われた。

 演者も裏方ともひととおり「おめでとう」と「よろしく」の握手を交わした。誰もがほどよく緊張し、誰もが前向きに見えた。この人たちと『ルメルシエ』をつくれるのは、純粋に嬉しい。ちえりちゃんは、私にとっておねえちゃんのようで、友達のようでもある人だ。はつらつとした女優で、兄のセドリックと並び、唯一無二のルメルシエと評されている。

 彼女もまた、浮き立つ心を律するような笑顔で私の手をとった。すべらかな両手が私の両手を包み込む。


「めるこちゃん、おめでとう」

 彼女の手の温度は、誰もが思い描く、ルメルシエのあたたかさそのものだった。彼女の手と私の手を挿げ替えたところで、得ることのできない血が巡っている。ちえりちゃんだって、勤勉で狂いの無い縫い目をつなぐ、誇り高い私の手を盗むことができない。


「ありがとう。ちえりちゃんもおめでとう」

 彼女は控えめに頷き、唇をわずかに震わせた。そして、封じこめていた秘密をそっとこぼすようにして、彼女の口が開く。

「……私ね、きよみくんのことがこわいの」

 言っていいよ、という代わりに、彼女の目をじっと見つめ返す。

「……最近、この人は誰なんだろうって思うことが増えたの。彼がなんのために役者になったのか、よく知ってるつもりだし、役者として本当に尊敬してる。なにを演っても堂々としているし、自分のことも共演者も観客も、物語に没入させるってことに関しては、きよみくん以上の人を知らない」

 切実だった。嘘を吐いていない人の声だった。


「でもね、なんていうか……きよみくんとセドリックの区別がつかなくなってきたの。へんなこと言ってごめん。舞台に立っていない時の彼は針山きよみ役のセドリックなんじゃないかって気がしてきて。しょうじき、前からそういう節はあったかもしれない。それでもやっぱり、近頃ちょっと心配になってきて……私が役者として未熟だから、彼についていけているかっていう不安から、そう感じてるだけだって思いこもうとした。でも違うの。ねえ」

 彼女が何か言いかけたその時、すこし離れた場所で兄を取り巻いていた一団がちえりちゃんを呼んだ。兄が柔らかな目でこちらを見ていた。彼女は微塵も動揺せず、舞台袖からスポットライトのもとに出ていく時と同じように私から離れた。


 雨の湿り気と、私を抱きとめた兄の温度が身体じゅうにわだかまり、もっと前の記憶を呼び覚ます。彼が初めてセドリックに抜擢され、初回公演を終えた時のことを。

 鳴り止まないカーテンコールの中、彼はぐしゃぐしゃに泣き続けていた。共演者もスタッフも観客も、ようやくセドリックとして舞台に立てたことに感極まっているのだと思い込んだに違いない。


 これはSPの山田さんが私だけに教えてくれたのだけど、彼はメイク直前までお手洗いに籠り、ひたすら吐いていたらしい。個室で膝をつき、便座を両手でわしづかみ、鼻水と汗とよだれにまみれながら震えている兄を、今でもやすやすと想像できる。


「お願いだ、観ないでほしい。君を失望させたくない」

 本番前、楽屋でふたりきりになった時、衰弱しきった様子でそう告げられた。すでに関係者席には両親やえらい人たちが着いていて、私の席も用意されていて、観客席は期待と祝福で満ち溢れているというのに。


「こんなことを言っている僕に、もう、嫌気がさしてるんじゃないか」

 私は首を横に振ることしかできなかった。じょうずな台詞は言えず、きれいな身のこなしもできない私は、このまま首がへんなふうにねじれるかもしれないと思った。


 そのまま後ずさって、室内のテーブルに備え付けてあった、小型のブラウン管テレビを抱え込んだ。画面にはホールの劇場の中継映像が流れていて、幕が上がる前の舞台と、観客席を見渡すことができた。

 身体が勝手に動いていた。配線をすべて引っこ抜いて、力任せにテレビを床に引きずり落した。液晶画面を下にして落ちて、がしゃん、とすごい音がした。破片が足のあちこちをかすった。

 全身が一瞬で汗ばみ、心臓がばくばくして、頭がくらくらした。私はほんとうに演技が下手くそだ。ソファに身を投げだし、うさぎのぬいぐるみを抱え、目をつぶった。


 開演。幕が上がる。どこか遠い炭鉱の町、労働を終えた男たちで満員の料亭。せわしなく働くルメルシエ。活発で、愛嬌があって、みんなに愛されてる。みなしごの私を拾ってくれた女将さんにも感謝してる。けれど私には、なんだか大きな予感がある。とてつもない使命を果たす運命が、私を――そこに駆け込んでくるセドリック。腕にはうさぎのぬいぐるみ。迫る敵。応戦するセドリックに、ルメルシエもわけがわからないまま加勢する。戦いのあと、セドリックが語る。王女にかけられた呪いと、祖国の惨状……


 あの時、私のまぶたの裏でだけ上演された『ルメルシエ』が、いままで観てきたどの回よりも、美しく、完璧だったのかもしれない。現実の演劇がそうであるように、いつかの素晴らしかった公演を、まったく同じように再現することはできない。


 さて。

 私が手をつける舞台は、あの頃のまぶたの裏より、ずっと広い。


 などと、雨の中めずらしく感慨に浸っていたら、マンションの入り口で変な奴に出会った。頭からレジャーシートを被ったファニー氏に。


「めるこちゃん、おかえりなさい」

「ただいま。なにしてるの」

「めるこちゃんを迎えにいこうと思ったの。そしたら帰ってきちゃった」

「ねえ寒い。私寒い」

「ごめんね、僕がもっと早くお迎えにいけば」


 ファニー氏が被ったままのレジャーシートの中に潜り込み、胴体に抱きつく。温度がない。ぎちぎちに綿が詰まったボロ布の皮膚に、雨水が吸い込まれていく。目を閉じ、ファニー氏の胸に顔を押し付けてみても、真っ暗で何も見えなかった。


「私ね、うさぎのぬいぐるみの、心臓を縫うことになったの」

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