第5話 楽しくて楽しくて仕方がない旅人の話

 旅人には旅の目的があったはずなのですが、もう思い出せません。思い出そうとすることさえ忘れてしまうくらいに、旅人はいつだって楽しくて仕方がないのです。なぜなら、世の中には見たことも聞いたこともないものがいっぱいあって、旅をすることでそれを知ることができるから。知らなかったことを知るというのは、とても楽しいことだと旅人は考えます。


 その日、旅人のもとに手紙が届きました。とても不思議な手紙です。野宿をしている間に、いつの間にか手元にあったのです。手紙にはすぐに帰ってこいと書いてありました。旅人の家族が病気で倒れたそうなのです。そして、家族が倒れたということは旅の最中にこの不思議な手紙と出会うことで知ることができたのでした。

 旅人は改めて旅は楽しいものだと思います。知らないことがまだまだいっぱいあって、旅はその知らなかったことをたくさん教えてくれるからです。


 旅人は、出会う人々によく尋ねられました。

 どこから来たの?

 どうして旅をしているの?

 どんなところを旅したの?

 故郷に帰らないの?

 どこかに定住しないの?

 旅人はよく思います。

 なぜこんなにも知らなかったこと、見たことも聞いたこともないようなものがたくさんあるところで生活をしているのに、言うことはみんな一緒なのだろうか?

 それをそのまま口に出すと、やっぱり足並みのそろった答えが返ってきました。

 私たちはこの土地を離れたことがなく、旅をしたことがないから。


 旅人はしみじみと思います。

 旅をしていてよかったなあと。もしも旅をしていなかったら、楽しくて楽しくてしょうがない旅の経験もできなかっただろうし、なにより旅をしたことがないというただそれだけのことで、ものを考えることができなくなってしまっていただろうから。

 同じような質問しかできないのは考えることを止めてしまっているせいだと旅人は思ったのです。


 旅人のもとにまた不思議な手紙が届きました。手紙にはすぐに帰って来いと書いてありました。倒れた家族が、もうそう長くはもたないけれど、最後に一度、旅人に会いたがっているのだそうです。

 旅人は手紙をめちゃくちゃに破り捨てると、今まで以上に旅をいそぎました。 

 もともとの旅の目的は思い出せませんが、それは今の旅の目的とは全く違ったもののはずです。

 今の旅の目的は、とにかく少しでもはやく、少しでも故郷から遠くへ行くことでした。

 旅人は故郷のことを忘れたくて忘れたくて仕方がないようなのです。しかし旅人は、そんな気持ちになっているということもすぐに忘れたふりをしました。

 旅人は楽しくて楽しくて仕方がありません。なにせ故郷を思い出させるようなものなんて、旅の最中にほとんどないんですから。


 最後の不思議な手紙が旅人のもとに届きます。手紙には二度と帰ってくるなと書いてありました。倒れた家族が、旅人に会いたがっていた家族が、ついに死んだそうなのです。

 旅人は楽しくて仕方がありません。最後の手紙を荷物の中に押し込むと、すぐに手紙の存在を忘れてしまいました。

 旅人の旅はまだまだ続きます。

 でも、楽しくて仕方がない旅人の物語はここでおしまい。

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