四、生還の保証無し Safe Return Doubtful
第35話 ディー
『リリヤへ。
オングルに来てから、もう二年になる。
だがぼくには、その時間が二倍にも三倍にも感じられた。それは単にきみに会えないからだけじゃなく、この星では、本土よりもずっと早く季節が流れるせいだと思う。
このところ、生と死についてよく考える。無敵号の騎手として戦っているからか、多くの人の死に直面したからか、それともほかの理由があるのか、自分でもよく解らない。
ぼくはそんなに生きたいのだろうか?
よく考える疑問はこれだ。たぶん本土にいた頃なら、考えなかったような疑問だと思う。
考えなかった、というのは、本土にいれば自然と生きたいと思うから、というわけじゃない。生きようとしなくても、そうそう死にはしないからだ。
オングルでは、違う。
朝起きて、まず囲炉裏の火を確認する。外が明るくても暗くても、犬小屋に出かけて犬たちの様子を確認し、餌をやる。集会場へ行って、飯を食べる。それから本格的に仕事が始まる。ぼくの仕事は、朝もやった犬の世話と、集落中の観測装置のデータを集めての天気予報で、なかなか上手くいかない。でも冬場は吹雪をきちんと予報できないと、狩りに行った人が死ぬ。夏でも、大雨や雷雨は危険だ。狩りや採取も手伝う。食べるものがなくては生きていけない。住む家を修繕したり、縫い物をしたりもするが、いちばん大事なのは、やはり食べることだ。
動物は殺されるために人間のもとを訪れるのだと、以前に聞いたことがある。動物たちの魂は、一時的にこの世界にやってくるのだけれど、ほかの動物に殺されなくては次の世界には行けない。だから殺され、食べてもらいに来るのだ。そしてそれは人間も同じなのだ、と。
死んでも次の世界があると思うと、なんとなく希望があるように感じる。不思議なもので、次があると思うと、次回頑張ろうと言って怠けるんじゃなくて、いま、もう少し頑張ってみようという気になるんだ。
生きるためには食べなくてはいけない。そのために働かなくてはいけない。死なない努力をしなければ生きてはいけない。
でも、生きるためには目的が必要だ。生きる理由なんていらないけれど、ないよりはあったほうが良いし、心の標になる。
何のために生きているのだろう。
きみのため?
いや、違う。
たぶん、きっと、ぼくは、もうきみの隣へは行けない。それはわかっている。
だからきみのために、きみの隣にいるはずの自分のために生きたいわけじゃない。なぜ生きたいのか。本当に生きたいのか。それがわからない。
子どもができたんだ。
ずっと書けなかったことを、この手紙に書く。子どもができた。結婚して、その人は死んだけれど、また子どもができた。これは重大な裏切りだ。ぼくはきみに謝らなくてはならない。
だがもうひとつきみに頭を下げなくてはならないことがある。きみに頼みたいことがあるんだ。
この惑星の人々は、とても強くて、それでいて弱い。高山植物だとかと同じで、その環境ならば生きていけるけれど、他の生物の賑わいのある雑多な空間では萎れてしまう。
だからどうか、子どもたちや、その母親たちを守ってやって欲しい。
虫の良い話だというのはわかっている。でも、ぼくにはお金もないし、力もない。何より、約束を守るだけの誠実さがない。きみは、違う。きみは、優しくて、強くて、だから、あの子たちを守れるのは、きみだけなんだ。
だからぼくは、きみに頼みたい。
ディー』
***
***
眼前が真っ白に染まっている。
「ホワイト・アウトだ」
氷というものは、たいへんに可視光に対する反射率が高い。ふつう、土壌や森林の反射率はせいぜい五〇から七〇パーセント程度で、砂漠地帯だともう少し高いが、雪氷面はさらに高く、混じりけない雪氷面では、ほとんど百パーセント近くなることもある。氷の反射率が高いのは、地面に張り付いている場合のみならず、大気中でも同じだ。ここ、オングルの南緯四〇度帯、冬の真夜中では、気温は零下二〇度を下回り、ときによっては零下四〇度を下回ることもある。大気中の水蒸気が凍り、視界は散乱された光で真っ白に染まる。
ディーは周囲を見渡した。どちらを向いても、ただ白い空間があるだけだ。自分の足元さえも白くなっていて見えず、手先も覚束ない。足跡も見えない。
ここが集落と墓地との間だというのはわかる。墓参りに行き、帰って来るところだったのだ。平時なら、僅かに小高い場所にある墓地から集落の家々が見渡せるはずだが、いまは木々の一本も見えず、方角さえ解らぬ。
もし
亡き苔桃がディーを死の世界に引きずり込もうとしているのかもしれない、などと幻想を抱きながら、地面の固まった雪氷に手斧を突き刺す。固まった雪を掘るのは困難だが、切り裂くのは難しくは無い。手斧を持ってきていたのは幸いだった。雪を煉瓦のブロックのような直方体に切り抜き、組み上げていくと壁になる。高さ一メートルほどまでに積み上げれば、立派な風除けとなる。
手袋を脱いで敷き、膝を抱いて座る。吹雪が強くなってきた段階で絞っていたフードの口を、さらに強く締める。隻腕を袖から抜き、服の中で己の身体を抱く。これで一先ず、吹雪が皮膚に触れたり、風が身体を叩くことはなくなった。気密性が高い海豹皮の服は、体温で温められた空気を逃がすこともない。
一時間ほど、そのまま待ってみた。ホワイト・アウトは収まってきたような気がするが、一向に吹雪は止まず、やはり視界は覚束ない。
ぼうとしていると、腹が減ってきているのを感じたる。腰に付けていた日用の小袋を紐解く。ペミカンが入っていた。口に入れる。よく噛んで食べる。空腹はだいぶんましになった。
眠くなってきたので寝る。
起きる。未だ吹雪は止まない。時計を身に着けていないため、どれくらい経ったのかは解らない。吹雪による太陽光の散乱は、太陽の位置さえも霞ませてしまっている。しかし腹具合から考えて、そう長くは寝ていたわけではないことは解る。せいぜい一時間といったところか。外気は冷たいものの、身体が冷えているわけでもなく、またほとんど動いていないため、尿意がないのは幸いだ。この格好で用を足せないではないが、穴を掘る必要があるし、一時的にでも手や腰のものを外に出さなくてはいけないので、そこから冷えてしまう。
少し喉が渇いていたが、水は持ってきていない。周りには幾らでも雪があるが、雪を食えば身体の内から冷えていくので、食えない。ただ、待つ。また寝た。今度は二、三時間ほどか。
「生きている」
ディーは呟いた。まだ生きている。生きようとしているわけではない。が、自分は生きている。
二年ほど前、生きるために己の腕を手斧で切り落とした。船が破壊され、オングルに落着し、そして降下艇の破片に挟まれたのだ。あのときはただひたすらに、生きたくて、生きたくて、だからそのために斧を振るった。
昔から、人と争うのが苦手だった。人と争って傷つけるくらいならば、最初から争わずに妥協したほうが良いと思って生きてきた。リリヤに対しても、それは変わらなかった。だから結婚に反対するリリヤの父親とも争えず、彼が与えた課題をそのままにこなそうとした。そして腕を切断した。
いま、爆発しそうな降下艇に腕が挟まれていたとしても、きっと遮二無二にこの腕を切り落とすことなどできないだろう。既に隻腕だから、腕が潰されていたら斧など振るえないという問題を脇に置いたとしても。
だがいまの生きようとしていない自分のほうが、生きるためにならなんでもしようとしていた頃の自分と比較して、まだしも生き延びられそうだという感覚があった。
どちらかが強いか、という問題ではないが、敢えて比較するならば、以前の自分のほうが強かっただろう。己の腕を切り落とすだけの強さがあった。だがその後はただただ極寒の大地を彷徨うだけだった。家畜として飼われていた経験のある
ただときどきで、相応の努力をすればいい。ディーにとってそれは、騎手として働くときで、しかし無敵号に乗るたび乗るたび、己の腕に斧を振り下ろす覚悟をしているわけではない。
もちろん腕を切り落とすだけの強さがなければ、その場合もきっと潰されたままで死んでいただろうとは思うが、しかしいまの自分が本土で生きていたら、恋人と結婚するために己の身を戦火の中に投じようとはしなかっただろうと思う。何か違う形で彼女の父親に認めさせてやろうと努力していたか、でなければ諦めていただろう。昔は違った。彼女を失ったら、死ぬだけだと思って、そうして遮二無二に戦っていたのだ。
いまは違うのだ。ただ生きているだけということができる。
変えたのはオングルの女たちかもしれない。
一瞬頭を過ぎった、死した女がディーを死の世界へ連れて行こうとしているのではないかという空想事は、己が生きているということそれで霧散した。いま生きているのは、オングルの女たちから与えられたものの賜物だ。吹雪やホワイト・アウトのときの心構え、風除けのブロック作り。座り方、寝方。斧と保存食の常備。そしてうたた寝をしていても飽きぬほどの甘美で、穏やかな夢。すべてオングルの女たちから貰った。だから生きていられる。
またしばらく寝た。
起きた頃には吹雪が止んでいた。強張った身体を伸ばし、立ち上がる。尻の下に敷いていた手袋は濡れてしまったので、予備の手袋を身につけて帰った。集落の家々は銀色に輝いていた。
そしてまた生きていく。
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