第7話 ディー

 たった百年。オングルが他の星々と切り離された期間だ。人の一生に相当する短い時間で、よくもこう変わったものだ。

 馬小屋のような藁葺きの天井を見上げて、ディーは息を吐く。


 もともとのオングルは、惑星開拓が進んでおらず、自然回帰主義者たちが好んで入植した惑星だったとはいえ、この家のような原始的ではなかったはずだ。外来種の戦争が始まってから生活環境が変わったのは違いなく、僅かな期間でこんな電気も無い原始的な環境に変わった。

 住んでいた場所を追われ、人々が死んでいくような場所ならば、文明がこれだけ後退してもおかしくはないのかもしれない。

 ディーはもう一度、ゆっくりと呼吸をした。

 己の呼吸で空気が喉や頬を掠めるだけで痛みを感じるのだから、体調は余程酷いらしい。喉以上に酷いのは、手足の痛みだ。指先は凍傷のためか、骨や血管を捻られているようにじんじん傷む。

「生きているからだ」

 血が足りていないせいか、頭もずきずきと痛むが、それさえも生きている証と思えば幸福だ。失くした腕ではなく、今ある指が痛むのだから健全だ。

 改めて、生を実感する。

 ちらと視線を横に向けてみれば、一生懸命に手を揉む幼い子どもの姿がある。撫子である。もうひとりの家人、石竹という名の女性は厚着をして家を出て行ったため、今は撫子とふたりきりだ。

(きょうだいなのか、親子なのか)

 そうした抽象的な事柄を質問できるほど、意思疎通ができているわけではない。だが言葉が通じなくとも、絵を介してある程度の情報交換は行えた。

 絵を描くための道具はペンのような形状の道具で、どうやら先端の植物の茎のような部分が液体を吸い上げて中に溜め込む構造になっているらしく、筆圧にさえ気を付ければ万年筆のように扱うことができた。墨らしき液体は生臭い匂いがして、血かとも思ったが、色が暗緑色なので、おそらく植物の汁だろう。

 石竹は最初、難しい顔をして絵を描いていたが、撫子が笑って何か言うと、諦めたような表情でペンを撫子に渡したからには、絵を描くのが得意ではないのだろう。石竹の描いた惑星や、動物や、集落を模しているらしい絵を見れば、一目瞭然であった。石竹の指示を受けながらの撫子が描いたもののほうが、解り易い。


 幾つか、簡単な事情が知れた。

 この場所は石竹と撫子が住んでいる家だということ。

 家はおよそ南緯四三度にある集落に存在しているということ。

 ディーは馴鹿の背に乗って、この集落の近くまでやって来たということ。

 トイレは外に在るということ。

 また、だいぶん抽象的な概念を絵として伝えてきたので正しく理解できたかどうかは解らないが、今日はディーがこの家にやってきてから六日目だということも知れた。

 次にディーが情報を伝える番になり、慣れぬ道具を受け取ったとき、腹が威勢良く鳴った。撫子が笑い、石竹が何か、おそらくフォローするようなことを言って、囲炉裏の上に吊るされていた鍋の中を覗く。その中に食事が入っているらしいが、量があまり無いのか、はたまた他に添えるべきものがあるのか、撫子に何か声を掛けたのち、パーカーのようなフード付きの上着を着て、毛皮の帽子を被り、腿まで丈のある靴を履いて、ディーに一礼してから外へと出て行った。

 今は石竹が戻ってくるのを待ちながら、おそらくは凍傷の痛みが和らぐようにということなのだろう、撫子にマッサージをしてもらっているところである。唇を噛み、一生懸命な撫子の表情を見ていると、自然と笑みが毀れてくる。

「なに?」

 と撫子が言った。どうやら笑っているのが気に喰わなかったようである。

 ディーは撫子に握られていた腕を振り解き、頭を撫でてやり、「ありがとう」と礼の言葉をかけてやる。母国語で、だったが、撫子が「おう」と気分良さそうに頷いてくれた。


 マッサージが再開される。最初に手当てをしてくれた石竹の手は、皸や切り傷だらけでありながら、柔らかく、温かかったが、撫子のぷにぷにとした子どもの手は、石竹以上に気持ちが良い。痛みと熱から逃れるように、ディーはその柔らかさと体温へ神経を集中させた。心が和らぐ。

 心地良さにうとうとしかけていると、不意に撫子が言葉を投げかけてきた。

 短いその言葉は、意味する内容がさっぱり理解できない、が、撫子の言葉が疑問形であったことと、独り言ではなくディーに向けられた言葉であることは直感的に理解ができた。痛くないか、だとか、気持ち良いか、だとか、そんなことを聞いたのだろうか。いや、そんな当たり障りのない言葉ではなく、好奇心からなる疑問をぶつけているように感じた。撫子の琥珀色の瞳が輝いている。

 ディーが首を傾げてやると、撫子はマッサージを一時中断して思案げな表情でしばらく考えたのち、両手を開いてみせる。

「いち」とひとつひとつ指を折っていく。「にぃ、さん、しぃ、ごぉ、ろく」そして己を指差す。「なでしこ、ろく」

 ディーが黙って見ていると、もう一度同じ動作を繰り返した。そしてディーへと掌を向ける。

 孤児院で暮らしていたディーは、軍に入ってからも、休暇を利用して己の育った施設へと戻ることがあった。そのため、幼い子どもを見れば、年齢くらいはわかる。撫子は、五、六歳といったところだろう。指を折り曲げた回数も六回。そしてディーに何かを尋ねる様子から、撫子が年齢を尋ねようとしているのだということが理解できた。

 差し出された撫子の手の指を折り曲げて、ディーは己の二十歳という年齢を数えあげてやった。言葉は勿論英語で、だが。

「へぇ」

 と撫子は感心する様子を見せる。何か思うところがあったらしく、ディーに言葉を次々にと投げかけるのだが、まったく理解ができない。撫子も言葉が通じぬことを思い出したようで、少し考えたのちに、「おねえちゃん」と言って、木造りの扉を指差した。そして、「いち、にぃ、さん」と両の指で数え始める。右手から始まった指の運動は左手へ移り、折り曲げる動きが伸ばす動きになって左手から右手へと戻ってくる。そしてまた折り曲げる動きに戻る。「にじゅうに、にじゅうさん、にじゅうよん、にじゅうご、にじゅうろく」と、そこでようやく止まる。「おねえちゃん、にじゅうろく」

 二十六。撫子は扉を指していたが、撫子の年齢、ディーの年齢と来たあとに、扉が作られてからの期間やこの家の築年数を教えてくれたわけではあるまい。あの扉を開いて出て行った人間のことを指しているに違いない。

「せきちく?」

 と訊いてやると、「そう」と撫子は頷いて、「おねえちゃん、にじゅうろく」と再度言う。

 撫子の数えていたのが年齢であるという己の推測に関して、自信がなくなったものの、しかし何度考えてみても年齢以外にはありえないだろうと思う。オングルでは公転速度が違うので、歳の数え方が違うのやもと一瞬思いかけたが、オングルの公転速度は地球の二倍なので、もしオングルの公転速度に合わせて惑星が一周する時間を一年と定めているのであれば、オングルの一年は本土の半分ということになり、石竹は本土でいえば十三歳ということになってしまう。上背はともかく、流石にあの豊かな胸で十三歳ということはなかろう。撫子が三歳だというのも、ありえない。一年の数え方は、かつてオングルと本土の交流があった頃から受け継がれて本土に倣っているか、でなければ年齢の数え方だけでも本土と共通なのだろう。

(もっと若いかと思ったなぁ………)

 容姿から、石竹はまだ十代であろうと検討をつけていた。東洋人は若く見えるというが、まさか自分より六つも上だとは思わなかった。

 石竹が二十六歳で撫子が六歳だというのなら、やはりふたりの関係は親子なのだろうか。髪や瞳の色の違いは気になるが、撫子のそれは父親譲りなのだろうか。


 先ほど絵を描いて事情を説明されたときには、家の中には寝ている人間と大小ふたりの人間、合わせて三人の人間が描かれていて、それぞれがディー、石竹、そして撫子なのだろうと検討をつけたのだが、それは単に、今の時間における家の中にいる人間を描いたからかもしれないし、省略したというだけのことかもしれない。

 この家の広さは三〇平米ほどだろうか。外に出る戸のほかには、襖やドアといった部屋と部屋を仕切るようなものがないワンルーム構造のため、家の中にあるものはベッドに寝たままで見渡せるのだが、己が寝ているものも含めて寝台が三つあるというのも気になる。石竹と撫子だけで暮らしているのなら、ひとつ余分だ。

 そもそもうら若い女性が子どもとふたりで暮らしている家に、ディーのような素性の判らぬ男が運ばれて来たということを考えても、この家にはもうひとり、男性がいると考えるのが自然だろう。ディーがこの家で治療を受けているのだから、その男は、この集落の長のような立場なのかもしれない。仕事でも行っているのであろう、その人物が戻ってきたときに、自分の立場や状況について、どうにか説明できるようにしておかなければなるまい。

「あ、そうだ」

 とマッサージを再開していた撫子が急に立ち上がり、壁際のテーブルに近寄ると、その上から象牙色の瓶を選び取った。瓶の中から、何か丸い物を取り出す。白色のそれはビー玉より少し大きいくらいで、ほぼ球形だ。撫子はまずそれをひとつ自分の口の中に放り込み、次にもうひとつ抓み出すと、ディーの口元に近づけてくる。

「これあげる」

 止める間も無く、撫子はディーの口の中にその丸い物を押し込んだ。咄嗟に吐き出しそうになったが、撫子の様子を見れば、日常的にこの丸い物を食べているらしく、口の中で飴のように転がしている。

 ディーは己の口を指差し、これは何か、と動作だけで尋ねた。

「おやつ」

 と撫子の答えは、意味が不明ながら簡潔であった。

 とりあえずディーも、撫子に倣って口の中で丸い物を転がす。歯で少し押してみる。ぐにゃぐにゃしている。

(蛸みたいだ)

 撫子はしばらくその触感を楽しむ様子を見せてから、歯で噛み砕いて飲み込んでしまった。得体の知れない物であるが、毒でも薬でもないようではある。危険な物なら撫子が取れるような高さには置かないはずなので、一先ず信頼することにして、ディーも口の中の物を噛んだ。中から何やら液体が広がった。そのまま飲み込んだ。あまり味を楽しむ余裕はなかったが、塩っぽく、仄かに甘かった。もうひとつ口に入れて貰えたら、もう少し長く味わっていたかもしれない。


 やがて小さな黒い鍋を携えて、石竹が戻ってきた。彼女は撫子に何か話しかけた後、その小さな鍋の中の物をテーブルの上に置いてあった象牙色の什器へ移し、その上に囲炉裏の上で釣っていた鍋の中の物をかけた。それはシチューに見えた。

 石竹がディーのところまでやって来て、木製のスプーンを手に取り、椀の中に突っ込んで中身を掻き出す。どうやらシチューのような汁物と、かかっている飯を同時に食べるらしい。パンをシチューに浸して食べるようなものなのだろうが、米の食べ方としては初めての食べ方だ。

 飯は一粒が米よりも小さく、太ましい形状をしている。色も黄色がかっていて、もしかすると、米とは違うのかもしれない。雑穀の類だろうか。

 掬ったものを、ふぅふぅと、甲斐甲斐しく息で冷ましてから、石竹はスプーンをディーの目の前に持ってくる。食べさせてくれるらしい。ディーが衰弱しており、しかも隻腕だから、気遣ってくれているのだろう。

 ディーは大人しく、差し出されたスプーンを受け入れる。

 水と先ほど撫子に食べさせて貰った謎の球体を除けば、一週間ぶりの食事ということになる。石竹が冷ましてくれたものの、それはやはり熱く、ディーは思わず顔を顰めた。きっと食事が気に入らなかったと思われたのだろう、石竹はさぁと顔を曇らせた。

 如何にも悲しそうなその表情を見ていると、しまった、という気持ちになる。せっかくの好意で出してくれたものなのだ。ディーは急ぎ、笑顔を作り、己の手でスプーンを扱う旨を手で指し示して見せる。おずおずとした調子で、石竹は椀を寝台の上のディーの膝元に置いた。

 改めてシチューらしき汁物と飯を口に含む。久しぶりに温かなものを流し込んだせいか、やはり口は痛かったが、味そのものけして不味くはない。美味い。そう感じるのは、単に久しぶりの飯だからという理由だけではないだろう。美味いものは美味いのだ。シチューよりかは塩気が薄く、しかしどろりとしていて濃厚だ。米に似た雑穀は固く、汁と混じり合うとちょうど良い歯ごたえになる。口の中で嚙み、潰し、舌に乗せて喉の奥まで運ぶ。生を感じる。汁の中にはごろりとした固形物も入っている。汁の色で分かりにくくなっていたが、おそらくは肉の塊と茹でた根菜だ。肉はしっかりと形を保っていたが、歯で簡単に崩すことができた。味が染みていて、それは根菜も同じだった。

 このシチューのような汁物と、米に似た飯が美味いのは、オングルの冷たくも豊かな自然環境が作り出した食材によるものか。でなければ、目の前の女性の腕が良いからか。いつのまにか、石竹を不安にさせないためではなく、腹と舌の欲求を満たすためにスプーンを動かしていた。

 がつがつとディーが食事を平らげているうちに、石竹がほっと安堵の息を吐くのがわかった。飯が口に合うかどうか、心配していたのかもしれない。

 これだけ気遣ってくれるのは、ディーが単に怪我人だという理由だけではないだろう。オングルの住民を助けに来たと思っているからに違いない。

 ディーが石竹たちを助けに来たという、確かにその認識は間違ってはいない。ディーは、オングルの住民を助けに来た。そしてオングルを外来種から守り続けているその秘密を探りに来たのだ。


 だが実際には、助けに来たつもりが、墜落し、助けられることになってしまった。装備も、道中でほとんどを失い、本土と連絡を取る術も無い。もはや何の力も無い、ひとりの人間でしかない。

 それを知ったら、彼女は果たして態度を変えるだろうか。ディーは胸の奥からこみ上げてくるものを感じた。

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