第6話 石竹
恥ずかしがるようなことではない。
ああ、そうだ。べつだん、人の道に背くようなことをしていたわけではないのだ。ただただ、凍傷に冒された男の身体を暖めて揉み解してやっていただけなのだ。彼が来てからというもの、毎日のようにやってきた治療の一環であり、医者である
幾らそんなふうに己に言い聞かせても、石竹は羞恥で顔から火が出そうになった。なぜ、なぜ、彼が目覚めたことに気付かなかったのだろう。
簡単なことだ。顔ではなく、もっとほかの部分に集中していたからだ。
(いや、いや、それだけじゃない)
男の容態が落ち着いてきたことによる安堵感も作用していただろう。発見したときの彼の状態はそれは酷いものだった。右腕の欠損はどうしようもなかったが、左手や足の指、鼻や耳などの末端部分は、必死の治療によって凍傷による損傷を抑えられたのだった。
最近は余裕が出てきて、色々と、他のことに気を回すことができるようになった。その結果であるので、つまりは気が抜けて本来の自分が出たのではないかと思うと、恥ずかしくて顔から火が出そうだった。男が目を覚ましたこと、それ自体は諸手を挙げて飛びつきたいほどに嬉しいことのはずなのに、押し固められた氷と同じ色の青い瞳で見つめられては、目を逸らすことしかできない。
彼と出会いは一週間ほど前に遡る。いや、事の始まりから計上すれば、十日前の流星と地震まで思い返してみるべきだろうか。
十日前、その日は春に近づきつつある晩冬の夜が始まった日であった。
まず大きな流れ星があった。圧縮熱によって大気圏内で燃え尽きてしまう小さな流れ星などではなく、眩く輝く巨大な光で、次に訪れた地震も兼ね合わせてみれば、外来種の襲撃かと身構えても仕方の無いことであった。
石竹が流星を見たのは、朝餉のときである。起床後、いつものように髪を編んだあと、炊事場で朝餉の支度を整えた石竹は、妹を起こしに行くために自宅へ一度戻り、未だ半分寝惚けた様子の妹を連れて集会場への雪道を歩いているところだった。
石竹は医者であり、医者の仕事といえば料理による栄養管理で、でなければ凍傷か腹下しの治療と相場が決まっている。集落にある百畳ほどの共同設備であり、炊事場や食堂、会議場などの機能を兼ね合わせた、集落では最も巨大な建物である集会場は昼間の仕事場だ。
集会場と家とを繋ぐ道は、盛り土をした上にいろいろな大きさの石を敷いて、粉雪や雨が降った程度では足下が緩くならないようになっているが、本格的な冬の訪れとともに雪が降り積もるようになると、幾ら舗装しても役に立たない。冷えきった雪氷面はそう簡単に溶けず、滑りにくいものだが、それでも走ると危ない。でなくても、最高気温が零下となるオングルの冬では、走って汗をかくと健康に害しやすい。
だから集会場まで、ゆっくりと歩いて戻った。戻ると、暖房兼照明である中央の囲炉裏のところに、二十数人が車座になって集まっていた。朝食どきだけあって、集落の殆どの人間が集まっている。その中に、気象観測の担当であり、石竹と同じく集落では最年長の
「おっかしいなぁ………」
彼女は地震計の記録を見て眉根を曇らせ、そんなふうに呟いていた。
何が変なのか、それは気になったものの、「おはよう。今日の
おはよう、と返しながら、苔桃が応じるところでは、「
綿ちゃん、と彼女が呼ぶところの人物、
騎手。それはオングルを守る兵器を駆る人間のことだ。現在のオングルでは日替わりの当番制となっている。
「いや、でも、うーん、なんだろな………」
と苔桃はぶつぶつとひとりごちる。煮え切らない様子は、彼女には珍しい。
「なにか変なんですか?」と訊いたのは、同じく集まっていた女たちのひとりである、
「方向が、おかしい。南に落ちた感じがする」
苔桃が並べ比べているのは、地震計の波形記録であった。不凍液が一定間隔で流れ落ちることで時間経過を計る時計に
石竹が毎日の全員の食事を作るという仕事が有るように、苔桃にも仕事がある。僅かな人間が身を寄せ合っているオングルでは、それぞれが特化して仕事をこなさなくては、生きてはいけないのだ。
苔桃の場合、その仕事とは気象と地震の観測である。観測装置の保全と点検を行い、データを集めて未来の天気や気温の予測をする。何より重要な仕事は、地震計の記録を頼りに外来種の兵器の落着地点を推定することだ。
外来種は基本的に赤道付近に落ちてくるもので、集落のある南緯四三度までは落ちてこない。この理由は、外来種が大気圏外で軌道を変更する術を持たないからだろうと推測されている。
外来種の兵器とは、惑星から勢い良く打ち出されたあとは、そのまま他の星へと突き刺さることしかできないのだ。大気圏内での飛行技術はあるようだが、大気圏外では推進剤を運動量に変換する技術は見せない。
オングルを中心として、南極側に人類の勢力圏が在り、北極側に外来種の勢力圏が在る。だから、オングルは地軸の傾きがあって摂動していとはいえ、北極側の深宇宙から打ち出された外来種が落ちて来ることができるのは、せいぜいが南緯三〇度程度までだ。稀に大気圏外でも大砲を撃ったりして軌道変更をする兵器もあるらしいが、それはあくまで攻撃用に砲を撃っているだけであり、推力を得ようとしているように見えることは稀らしい。
外来種の兵器は強固だ。これが人類の兵器なら、地面に落着した衝撃で破壊されてしまうだろう。万が一、兵器その物は無事であったとしても、中に乗っている人間までは無事ではありえない。外来種はそうではない。外来種は、強く、そして堅い。
「もっとも、わたしたちの知ってる外来種のことは百年以上前の又聞きした話で止まっているから、いまでも大気圏外の飛行技術を持ってないのかどうかは判らないんだけどね」と苔桃があまり知識の無い若い娘らに説明をした。「ただ、少なくともオングルに来る外来種に関しては、いままではずっと南緯三〇度以北に来てたってのは経験として知ってるよね」
そこで地震計である。
外来種は常に勢い良く、他の惑星から飛来し、オングルの地表に突き刺さるのだが、その衝撃は地殻を通って各地に伝わる。地震波の伝わる速度は音速だが、波が通る材質によって速度は異なり、縦波か横波によっても速度が違う。普通、縦波と横波は同時に出るので、オングルの地殻を通るときの縦波横波の速度と、その二つが到達するまでの時間差が解れば、震源である外来種の落着位置までのおおよそ距離が解る。更に色々な場所で地震計を設置しておけば、個々の地震計が捉えた地震波の時刻差を比べることで、方位も推定できるというわけだ。
今回の場合、どうやら北に設置された地震計よりも、南に設置された地震計のほうが縦波と横波の到達時刻の差が小さかったらしい。
「あの、さっき流れ星が見えたんだけど………」
と石竹が言うと、苔桃は地震計の出力した布紙から視線を動かさずに、「それは平和的だね。ちゃんと願い事した?」と興味無さげな調子で言った。いつもは無駄口の多い彼女がこうも真剣な表情をしているとは、どうやら余程、己の回収してきた地震計のデータについて悩んでいるらしい。なんでだろう、変だな、ちゃんと更正してなかったっけな、などと呟いている。
「すごく明るい流れ星なんだけど……。南のほうに落ちてったから、捉えた地震波の原因って、それじゃない?」
と石竹が詳しく話すと、苔桃は顔を上げた。
「すごく明るい流星?」
むぅ、と苔桃が唸る。
とそのとき、食堂に背の高い女が入ってきた。入口脇の衣紋掛けに雪の積もった外套をかけるその女は、先ほど話題に出ていた、今日戦闘があった場合の当番であった綿菅である。
「おかしいぞ」と彼女は後ろで纏めた長い髪を揺らしながら、大股に囲炉裏へ歩み寄ってきた。「外来種が来たっていうのに、いまいち反応が悪い」
と彼女が述べたのは、オングルに残された、唯一の兵器に関してだ。その兵器は石竹たちにとっての最後の盾であり、矛でもある。その兵器の今日の当番、騎手である綿菅は、外来種を感知すると戦闘準備に入るはずの、その兵器のところへ行っていたのだ。
「こっちもおかしいよ」と地震計の布紙をひらひらさせて、苔桃が声をかける。「北じゃなくて、南に落ちてる。やっぱり外来種じゃない……、のかな。うん、たぶん、間違いないと思う」
「たぶんで、間違いなくて、思うって、結局どっちなんだよ」
「綿ちゃん、細かいね。厳しい」と苔桃はようやく余裕が出てきたのか、この緊急事態の最中に悪戯っぽい表情でにっこり笑う。「まぁ少なくとも、観測は間違ってない。ちゃんと点検もしてるし。だったら、外来種じゃないんだ」
「じゃあ、なんだ」
(まさか……)
外来種でなければ、人類か。オングルに取り残された石竹たちを救おうと、本土からの救助艇がやってきたのではないだろうか。そう考えれば、筋が通る。人類の勢力圏は、外来種の勢力圏とは反対に、オングルから見て南極側に位置している。救助船が外来種の攻撃が予想される北半球や赤道付近ではなく、南半球にやってくるのは、自然だ。
石竹が己の考えを言ってみると、苔桃は頷きはしたものの、表情を曇らせた。返って来た言葉は、「ただ、地震波の振幅が大きすぎるよ。まるで外来種が落ちてきたみたい」ということであった。
苔桃の計算によれば、落着によって発生した振動の地震波から推測された落着点の距離を考えると、船が着地した程度にしては、計測した震度があまりにも大きすぎる、ということだった。
「そうか?」と綿菅が応じる。「ふつうの、いつもどおりの揺れの感じだったと思ううが」
「いつもどおりじゃあおかしいんだよ。だって、落ちた推定点は南緯六〇度の辺りだよ? いまの季節だと、外来種はだいたい南緯三十度くらいに落ちてくるでしょ。つまり今回の落着地点は、こことの距離を考えると、いつもの落着地点よりも二、三倍は離れてる。そんなに離れてるのに、こんなに振動が来たってことは……」
「凄いおっきい船がやって来たってこと?」
「それも要因としてはあるだろうけど、外来種みたいに減速しないで降って来たってこと。ちゃんと穏やかに着陸しないでね」
苔桃の言葉は回りくどくはあったが、石竹にも彼女が何を言いたいのか、何とか理解できた。
旧世代の英雄、ニュートンが示したという運動の三法則は、「古典的」という形ではありながら、今もなお巨視的なスケールでは世界を表現し続けている。すなわち、慣性という概念のこと、力が運動量の変化に比例すること、作用には反作用が付き物であるということ、この三つである。
このうち第一法則と第二法則、慣性と力と運動量の変化について言葉で書き下すと、こうなる。重いものほど動き難いが、一度動けば止まりにくい。重いものを動かすためには、大きな力を加えなくてはならない。
これに第三法則を組み合わせると、苔桃が何を言わんとしているかが解る。大きな振動波が有ったということは、それだけ落着した物体からオングルの地殻へと力が加えられたはずだ。反作用でその物体にも力が加わったはずだ。そんな大きな力を発生させた物体は、重く、かつ大きな速度を持っていた物だったはずだ。
人類の船は、外来種のそれと比べて遥かに優雅なものらしい。勿論、産まれてこの方、人類の飛行機械などというものに直接お目にかかったことがあるわけではないが、それでも物語や写真などを通して、一応の知識はある。極々一部の例外を除けば、人類の飛行機械というものは、ただ真っ直ぐに突き刺さってくるだけの外来種とは違い、ゆっくりと軽やかに着陸するものだ。それなら、こんなに大きな振動は起きない。
つまり、船は着陸したのではない。落下してきたのだ。人類も外来種のように、無茶な航法でも問題ないような耐久度を持ったのかといえば、そんなはずがなかった。何せ人間が乗っているのだから、幾ら外側を硬くしても、無茶な降り方をすれば中の人間が壊れてしまうのだ。
具体的には何が起きたのか。
墜落した。
それが苔桃が示唆していることなのであろう。
「それに、震源がちょっと時間差があって二種類ある……。ほぼ同一地点だと思うけど」苔桃は顎に手をやる。「折れた船体かな。二つに空中分解して、それが順々に落着したのかも」
「じゃあ、やっぱり救助に来た船が何かの理由で墜落したってことですか?」と若い女の中から、
「その可能性が高いんじゃないかな。少なくとも、外来種ではない気がする……。急いで戦いに行く必要はないし、しばらく様子を見たほうが良いかもしれない」
「でも、墜落したんだったら助けに行かないといけないんじゃない?」
と石竹は議題を呈した。もし本当に救助に来た船が、何らかの事故によって墜落したのであれば、それを助けに行かなければならない。彼らは石竹たちを助けに来てくれたのだ。それが達成できなかったとはいえ、助けに行く義務がある。でなくとも、危険な目に遭っているかもしれない人がいるのならば、助けずにはいられない。
「そんな義務は無いよ」と苔桃は肩を竦める。「向こうが勝手に来て、落ちただけだもん」
「でも、助けに来てくれたんだよ?」
「いや、それよりも」と綿菅が口を挟む。「距離のことを考えるべきだろう。落ちた場所は、だいたい南緯六〇度とかそのへんだって言ったな? ここから十五度以上も離れてるんだぞ。緯度だけ考えても、百キロ以上だ。雪道だし、
若い葉薊も綿菅に同意する様子を見せる。「時期を考えると危ういですよね。助けたいという石竹さんの意見も解らなくはないですけど、冬の、しかもこの夜の間に助けに行くというのは大変です」
「というか、そもそもさ、生きてる輩なんか居ないんじゃないか? 凄い勢いで突っ込んできたんだろ? だったらぐちゃぐちゃだろ」
「いや、それよりも、助けて何か利益が有るかというのも問題ですよね。こっちも余裕が有るわけじゃありませんし」
「でも、助けに来てくれたんだから、礼儀として助けに行かないといけないんじゃないの?」
「助けに来た人たちを、逆に助けるというのがねぇ………」
などなど様々な意見が女たちの間で喧々囂々と意見を交わす中で、おずおずと手を挙げる者の姿が有った。
「あのぉ……」
おずおずとした調子で手を挙げたのは、
「どうしたの、一華ちゃん?」と石竹。
「なんだ、一華さん」と綿菅。
「華ちゃん、遠慮しないで良いよ」と苔桃。「全然、遠慮しなくて良いから、ほんとね、わたしとか、綿ちゃんとか、竹ちゃんとか、ばばあどもばっかり喋ってて、ごめんね。遠慮なく、このばばあ、ちょっとは黙れ、って言って良いから。泣かないし、怒らないし、いびらないから、ね? じゃあ、はりきって意見をどうぞっ!」
「おまえ、一華さんに意見言わせる気、ないだろ?」
「何を仰る。わたしはいつでも他人のことを思いやって、慈しんで、労わって発言してるんだからね」
「そういうやつは自分で言わないと思う」
「あの、一華ちゃん、提案があるなら、喋っていいからね」と、綿菅と苔桃のやりとりに呆然とする一華を憐れみ、石竹は彼女に話を促してやった。
「あ、はい」
頑張ります、と彼女は両の手を腰に構えた。
「頑張れ」とにっこり笑って、苔桃。
「余計な茶々は良いんだよ」と綿菅が睨む。
「ほんと、このふたりは気にしないでね」
石竹の言葉に、はい、と慎重な様子で頷いてから、一華は発言した。「あの、とりあえず、朝を待ってから、犬橇でその何かが落ちてきた現場に行ってみるのはどうでしょうか?」
「犬橇で? 馴鹿じゃなくて?」
と疑問を発したのは綿菅であったが、石竹も同じ疑問を抱いた。
現在、オングルに存在する乗り物は三種類。馴鹿、雪上車、そして犬橇だ。
馴鹿がいちばん一般的で、季節を問わずに使用でき、背に荷物を乗せたり、小さな橇なら引いていける。速度もある程度は出るし、馴鹿自身が安全な氷板を見分けてくれるので、雪の裂け目に落ちる心配がない。速度も最も速く、最高時速でいえば八〇キロまで達する。
一方、雪上車は百年以上前の代物で、騙し騙し使ってきたものだが、それでも最も重い荷物を運べ、風がなく、地面が堅ければ時速六〇キロ程度まで出すことができる。また中で寝泊りできるという、ほかの乗り物にはできない便利な特徴がある。だが燃料の残りは僅かであり、そう気軽に使えるものではない。また、今回は特に、南の地形がよく判っていないのが良くない。氷の裂け目が在ったり、急な傾斜に為っていたりした場合、小回りの利く馴鹿ならその地形を避けていけば良いのだけのことでも、雪上車では大きく迂回しなければならない場合もあるだろうし、割れ目に気付かずに落ちてしまうということもありえる。南へはあまり行く機会が無く、特に五〇度以南の領域は、かつてデポの物資回収へ行ったときの記録が有るくらいだ。その記録とて、何十年も昔の物なので、今では地形が変わっているかもしれない。
そして複数の犬で橇を牽引する犬橇は、雪道で重い物を運ぶのには有利で、例えばテントのような、簡易宿泊設備も運べるので、急な悪天候にも対応し易い。オングルの犬は雪の裂け目を探知する能力に優れており、ある程度進路を犬に任せることで、クレバスへの落下を防ぐことができる。だが速度は最も遅く、馴鹿や雪上車では一時間で走破できる距離でも、犬橇では二時間も三時間も掛かる。
「荷物をあまり載せなければある程度の速度は出ると思います。往復で三日はかからないはずです」
と反論に対し、一華が説明する。荷は、ええ、最小限で良いでしょう。それなら馴鹿ほどではないですが速度も出ますし、犬たちも疲弊しにくくなりますからね、と。
「荷物を載せないんなら、橇で行く意味が無いんじゃないか?」
「帰りに人や荷物を乗せる必要があります」
ああ、そういえばそうだね、と石竹は声に出して納得をした。確かに、救助に行くのであれば、人を載せる余裕を確保しておく必要が有るのだ。であれば、馴鹿で行くという選択肢は無い。馴鹿橇というのもあるが、犬橇のように速度を出すことはできず、長距離の移動用というよりは、短距離の運搬用だ。雪上車なら積載運搬は容易だろうが、リスクが大きすぎる。
「犬橇の速度って、どのくらいだっけ?」と綿菅が問うた。
「雪面の具合が良ければ時速三、四〇キロくらいは出せます」と一華。「でも体力とか、あと雪面の状態を考えると、たぶん一日一五〇キロくらいが限界じゃないかと思います」
「一五〇キロ行けるなら、一日で向こうまでは辿り着けるかな……、迷わなければ」
「予備でもうひとつ橇を引いていったほうが良いと思うので、もう少し速度は落ちるかもしれません」
「どっちにしても、最低二日仕事だな。ほんとに墜落したんだったら、救助に時間もかかるだろうし、途中で何か事故があるかもしれん。そうすると、昼の間三日でぎりぎりか………」
「今週の昼は三日続けて晴れだよ」と気象観測担当であり、天気予報も行う苔桃が口を挟んだ。
「おまえの天気予報はあてにならない」
「あんまりほんとのこと言わないでよ」
えっと、と一華が視線を彷徨わせて一華と苔桃の間で視線を往復し始めたので、石竹は先を促してやった。
「ええと、それでですね……」と一華は説明を再開した。「一日かけて向こうに着いたら、とりあえず手当てをして、無事そうな人を運べば良いんじゃないでしょうか」
「みんな死んでたら?」
「その時は、物資だけ頂いて帰りましょう。兵器とかは使えなくても、燃料だとか、食料だとか、あとは衣料品やお薬とかは積んでると思います。それで、また一日かけて帰ります」
不可能でもないな、と綿菅を筆頭に今まで救助に向かうことに反対意見を唱えていた女たちが、一華の意見に全面的な同意の姿勢を見せ始める。が、元々救助に向かうことに賛成であった石竹としては、気になることが一つあった。
「朝になるまで待つっていうけど………、三日も待ってる間に、生き残ってた人が死んじゃうかもしれないんじゃないの?」
オングルの一日は二十五時間だが、一週間は昼の日が三日、夜の日が三日と続く。今日はまだ夜になったばかりなのだから、冬のこの時期、朝になるのを待つとなると、これから七、八○時間は待たなくてはいけない。もし怪我をしている人がいるのならば、すぐに助けをいかなくてはいけないだろうに、そう悠長にしていて良いのか。
「言い方は悪くなりますが」と躊躇いがちに一華は答える。「もしそれだけの危険な状況に立たされているのであれば、たぶんわたしたちが今すぐ助けに行っても、道中で死んでしまうでしょうし、こちらも危険です。ですから、出来る限り無理をしない程度に頑張るのが良いのではないかと思います」
自分より十も年下の娘に冷静に諭されては、石竹としても返す言葉は無かった。頷いて、同意を返す。
場の雰囲気も、一華の案に乗る方向に流れ、話し合いをしている間に集まってきた、総勢二十六名、まだ六歳の石竹の妹を除く全員の同意を以って、三日後の明朝、薄明の時間帯を狙って犬橇で出発することに相成った。
残る問題は、救助に向かう人員である。順調に行けば、昼の間に行って帰って来る行程になるはずだが、道が悪かったり、また余りにも助けるべき相手が多かったりした場合は夜の日まで掛かる可能性がある。週の初めの明け方の頃合は、三日間太陽が出なかった影響で、気温は零下四〇度以下になることもある。幾ら装備を整えていっても危険な行程だ。あまり多くの人数は裂けない。でなくても、厳しい冬を過ごすため、皆日々の作業に忙しいのだ。
「行くのは、わたしと石竹さんだけで良いと思います」
というのが発案者の一華の意見であった。彼女曰く、犬を最大限に効率良く走らせるためには、犬番の仕事を担当している自分が行ったほうが良い。また救助すべき相手が怪我や凍傷を負っていることを考えれば、医者の石竹が行くべきである、と。
「いや、ふたりだけじゃ危ないだろ。わたしも行くぞ」
と最後まで追いすがったのが綿菅であったが、「橇の大きさと余剰を考えると、ふたりが限界です」という一華の言葉で跳ね除けられて、救助に向かうのは石竹と一華に決まった。
その日から三日間の間、石竹と一華は旅の準備をし、集落を留守にする間の仕事を先取りして料理を作った。特に心配なのは、まだ幼い、やんちゃな妹、
三日後の朝。空は晴天。風は無風。地平線に隠れた太陽が散乱光で雪面を照らす薄明の時間帯に、石竹と一華は八頭曳きの犬橇に乗り、南の落着地点を目指して出発した。
犬橇は乾燥させた木と骨材とを舟形に組み合わせた形状で、海豹の毛皮で皮張りされている。後ろには座椅子のように骨材が突き出ており、ここが操舵手の乗る所で、綱を引いて犬の行き先や速度を決定する。まずは犬橇に慣れた一華が操舵手の位置に立ち、石竹は橇の前方の風防に背を向けて座った。
ポンチョを頭からすっぽり被った一華の見た目は、まだまだ幼い少女のそれであったが、さすが毎日犬の訓練のために橇を走らせているだけあり、彼女は己が手足のように犬を操り、橇を進めた。
犬橇の走行自体は一華に任せておけば問題無いが、気になるのは進路である。南のほうは地下構造がよく解っていないため、地震波から苔桃が特定してくれた落着予想地点は大きな曖昧さがあり、落着した場所に到着できるかどうか不安があった。正確な落着地点がわからなければ、一〇〇キロ、二〇〇キロ走っても無駄になるかもしれない。
しかしそれはすぐに杞憂になった。
十一時頃、食事と給水のため、石竹と一華、それと八頭の犬は休憩をとった。出発してから二回目、今日三度目の食事だ。日常生活では、仕事の忙しさや食料状況によっては朝一食しか食べないこともあるが、犬橇に乗って常に冷たい風に晒されているとなると、十分に栄養を取っておく必要があるのだ。橇を引き続ける犬にとっては、食事はなおさら大事だ。
人も犬も食べるものは同じで、形態性に富み、腹持ちの良い、海豹の脂肪だ。一華が一頭一頭に餌をやり、水を与え、体調を診ている間、石竹は太陽の位置から現在の緯度を推測した。南緯五〇度といったところか。
(時速二〇キロってところかな………)
時速四〇キロも、橇の扱いに慣れた一華が操舵を行っている場合の話。石竹が操舵をしている間は速度が落ちる。また休憩を取ったり、山を迂回したり、崩れそうな雪道を回避したりしていれば、しぜんと進まなくなる。一日で落下推定地点まで辿り着くのは、机上の空論ではないかという気がしてならなかった。
頼りになるのは犬たちだけだ。一華の診るところでは、どの犬も疲弊しておらず、天候の状態も良いので、十分走り続けられるだろうとのことだった。
犬のうちの一匹が急に南へ向かって吼え始めたのは、休憩を終えて旅を再開しようとしたときだった。
水辺や森ならともかく、雪上で犬を捕食するような大きさの肉食生物といえば
しかし、蟹喰い海豹に比べて身体の大きく、アデリー
では一体何がやって来たのか。そう思って犬の気持ちに通じている一華を見やれば、彼女も疑問の表情を浮かべていた。よくよく犬の具合を見てやれば、どうもその吼え方は怯えや警戒とは色が違うように感じられた。
犬の鳴いている方角は太陽とは反対側だったが、雪の照り返しで眩しい。目を細めながらも、小高い丘の上に何かが立っているのが見える。初め、その影は、二本足で立つ、腕の無い、角を持つ化け物に見えた。化け物でなければ、神さまだったかもしれない。
実際のところ、正面を向けていたその身体を逸らして四足が見えれば、その生き物は化け物でも神さまでもなく、雌の馴鹿であった。雑食の馴鹿は、栗鼠などの小型動物くらいなら食べてしまうが、犬を喰うほどに凶暴ではない。念のためと預かってきた銃を片手に、犬と共に近づいてみれば、その馴鹿の面相には見覚えがあった。
「ダリー?」
石竹の声に反応して、馴鹿は鼻を近づけてくる。やはり今年の夏に飼っていたダリーだ。
オングルでは馴鹿を家畜として飼っているが、冬の間の世話の負担が大きいため、それは基本的に夏場だけだ。冬が終わると、まず馴鹿を捕まえる。狙うのは特に雌で、夏の初めに角が落ちるため、色々な材料として使える。また乳が利用できるのも良い。妊娠している個体は、子どもを産ませて人間に馴れさせる。夏の終わりには移動用に使う数頭を除いて、一部は野生に戻し、残りは殺す。屠殺した馴鹿は、肉は食用に、脂は燃料に、角は什器に、血は味付けに、骨は骨材に、毛皮は衣服などに用いる。
石竹も夏場には移動時には自分用のものを一頭決めて乗っていた。六ヶ月で春夏秋冬が流れるオングルの短い夏とはいえ、それでも何度も乗っていれば顔くらい覚える。目の前の馴鹿は、間違いなく自分が愛用していたダリーだ。正しくはダリアというその名は、石竹が名付けたものである。だから忘れない。見間違いはしない。それは犬も同じなはずだ。
相手が見慣れているはずの馴鹿だとすると、なぜ犬が警戒していたのだろうか。その疑問はすぐに氷解した。ダリーは背に人を乗せていた。ゴーグルや襟巻き、防寒帽で面相は判然としなかったが、厚手の布地に包まれてもなお立派なことが解る筋肉と上背から、それが男性であるということがはっきりと解った。
なぜダリーが人を乗せているのかという疑問は無いではなかったが、それ以上に男の状態のほうが気になった。見慣れぬ装備から、彼が本土からオングルに取り残された住民を救助しにやって来た人間であることは明らかだが、体調は酷く悪そうだった。体温が非常に低く、さらには右腕が肘から無い。血の気が殆どなく、肌の色は真っ白になっていた。全身が凍傷に侵されており、皮膚に水疱が現れる二度の症状が現れている部位もある。早めに手当てしなければ、凍傷が三度に進行して腐り落ちるかもしれない。いや、既にそうなっているかも。そんな焦りが石竹を急がせた。
彼を連れて、これから最低でも丸一日は掛かる行軍は無茶だ。石竹たちは集落へ取って返すことに決めた。
一華にはできるだけ急いでもらい、石竹は橇の上で火を焚き、薬を飲ませ、遂には自分の肌を以って男の身体を温めた。犬の努力の甲斐も有り、行きの行程の約半分の時間で集落へ戻ることができた。戻るや否や、何か想定外の事態でも有ったのかと女たちに質問を浴びせかけられたが、その説明は全て一華に放り投げ、石竹は男を自宅に運んだ。そして本格的に治療を行った。
一つ驚いたのは、帽子やゴーグルを外して出てきた男の顔だった。石竹はここ十数年ほど、男というものを見ていなかったが、彼は石竹がこれまで見たことがないような姿をしていた。海のように青い目と、雪の下の土のような灰色がかった金色の髪。石竹よりも四十センチは高い背に、がっしりとした身体つき。尖った喉仏。太くて長い指。そして整った彫りの深い容姿。
(物語の王子さまみたい………)
彼を助けられたのは僥倖であったと、石竹は何度も何度も喜びを噛み締めた。
凍傷の治療といえば温めること、そして清潔を保つことくらいしかない。だから石竹は男の服を脱がせ、身体を拭き、血行を良くするために揉み解してやっていたのだ。最初のうちはできる限り局部を見ないよう、目を背けて拭いていたし、一週間経った今とて、マッサージや身体を拭くとき以外は服を脱がせないようにしていた。身体の一箇所を十秒以上見つめることもしないように心がけていた。
なのに、なのに、なぜ折り悪く、こんなふうに最悪の状況で目を覚ますのだろう。
泣きたくなった己を押さえつけ、とにかく状況を説明しようと自分自身を励ます。男のほうが、きっと自分よりも混乱しているに違いないのだ。説明してやらなければ。
「あの……」
あの、に続く言葉が出てこなかったのは、目の前の男が喋り始めたからだった。同時に言葉を紡ごうとした石竹に遠慮してか、一度は口を噤んだが、手を出して促してやると、長らく動かしていなかった口と喉とをもたつかせながらも言葉を紡ぎ始めた。低いながら、よく通る声だった。
が、その言葉の意味する所が、石竹には全く理解できなかった。てっきり己の混乱が言語理解不能という形で表れたのかと誤解しかけたが、妹の撫子も「なに言ってんだこいつ」と言い出したため、彼の言葉が自分たちに理解できない言葉で紡がれていることが解った。
なぜ言葉が理解できないのか。怪訝な顔をする男を見つめているうちに、その理由に思い当たる。
(これ……、たぶん本土の公用語だ)
本土の多くの人々は、最低でも二つの言葉を使えるらしい、というのはオングル生まれオングル育ちの石竹にも知識として伝わっている。二つというのは、すなわち母国語と公用語だ。この例外になるのは、母国語が公用語の国の人間だけで、つまり公用語はみなが喋ることができる。
しかしオングルでは、戦争によって他の惑星と交流を無くした百年の間に、ふたつの言語を使う余裕が薄れ、石竹たちの代では既に公用語はほぼ風化してしまった。現在のオングルで残っている言葉は、それまで使っていた言語がまぜこぜになったものらしいから、ある程度公用語も単語として組み込まれているのかもしれないが、たぶん文法はまったく違う。目の前の男の言葉がまったく理解できないほど。
(とりあえず、状況を説明しないと………)
兎に角、今やっていたのは単なる治療なのだと、それを伝えて誤解を解きたい。でなければこの先、彼の青い瞳を真っ直ぐに見据えることはできなくなってしまう。
「あの」
もう一度、あの、と言ってみたところで、やはり続く言葉が見つからなかった。言葉が通じぬ相手に、どうやって意思を伝えれば良いのか。まずは自己紹介から始めてみるべきか。
しかし例えば己の胸に手をやって、「石竹」と名前を言ったところで、それが彼女の名であるということを解ってもらえるだろうか。こんにちは、だとか、はじめまして、だとか、挨拶の言葉を投げかけていると勘違いされるかもしれない。胸だとか、身体だとか、そういった普通名詞を指していると思われるかもしれない。身体は大丈夫か、という気遣いの疑問文として受け取られる可能性もある。文化の差があれば、ジェスチュアも正確に伝わるかどうか怪しいものだ。彼は本土の人間である。そして本土の文化が、オングルと大きく異なるということを、石竹は本に描かれた物語を通して知っている。
「あの………」
だから、あの、以上の言葉が続かないのだ。
囲炉裏の薪が燃える音と、外の吹雪の音だけが聞こえてくる。男を助けてから一週間。折り悪く、吹雪が続いていた。ときおり陽が出ていても、地吹雪が酷くては落着予想地点である南緯六〇度帯を目指すことはできない。だから石竹は男の治療に尽力することができたのだが、まだ救助を要している人が居るかもしれないと思うと、気が気ではない。できる限り早く、彼と意思疎通を取らなければいけないのだが、しかしその方法が解らない。
だいたい、年頃を過ぎてから男の人と話すのは初めてなのだ。こうして男性と、しかも見目麗しい金髪碧眼の、物語に出てくる王子さまのような男を向き合っては、頭が熱くなってくる。息が荒くなってくる。口の中には涎が溜まる。視線は自然と、未だ露になったままの彼の胸元や尖った喉にひきつけられてしまう。
その喉が動いて、また言葉を紡いだ。やはり何を言っているのか解らないその言葉に、石竹はただ、「すいません、あの、言葉が解らないのですが」と己の言語で言うことしかできない。
が、それで一応は、彼にも言語の違いというものが伝わったらしい。それまでは意味どころか、音として理解することさえ困難であった言葉を、ひとつひとつ区切って発音し始めた。一言一言区切ったその言葉は、「えんぐりっしゅ」と聞こえたが、それが彼の名前なのだろうか。それとも、助けてくれてありがとう、か、でなければ、人を脱がせて何をやっていたんだ、この変態め、という意味か。
「あ、あの……、違うんですよ?」
そんなふうに言ったところで、やはり何か共通の言葉が無ければ、何も理解できないし、理解してもらえない。さりとて、本土とオングルで共通の物がなんなのか、オングルから出たことの無い石竹には解らない。少なくとも物語で読んだ限りにおいては、この家の中に本土と共通していて、見た目や用途も同じものなど有りはしないのだ。
ろくろく言葉も紡げなくなってしまった石竹の前で、男はゆっくりとひとつきりの腕を振り上げた。その逞しく長い腕を見て、不意に石竹は、殴られるのでは、と目を瞑ってしまった。
だが何の衝撃もなく、おそるおそると目を開いてみると、彼は隻腕で握り拳を作って頭の横に置き、人差し指だけを立てていた。
「かりぶー」
かりぶー、と男は言った。間抜けな発音とは裏腹に、表情は真剣そのものである。
「かりぶー」
かりぶー、かりぶー。なんだ、これは。なんなのだ。
いきなりの男の痴態に、石竹は思わず視線を逸らした。まさか、これが本土の挨拶なのだろうか。こんな変な格好で、こんなかっこいい人なのに、それなのに、それなのに。本に載っていた物語だと、手を取って、接吻するだとかは見たことがあるが、こんな恥ずかしい挨拶なんて、厭だ。
「かりぶー」
ともう一度男が言う。これは石竹としても、同じような挨拶を返さなくてはいけないのだろうか。恥ずかしいが、しかし挨拶なのだったら仕方が無い。かりぶーするだけなのだ、頑張れ、頑張れわたし、と己を励まして両手を持ち上げかけた石竹を止めたのは、興味深げに男の様子を見ていた妹、撫子の一言であった。
「
「え?」
撫子が何を言い出したのか問い質す間も無く、彼女は両の手を男と同じように額の横につけ、「となかい、となかい」と言った。
「かりぶー」と満足そうに男が頷いて、もう一度言う。
「となかい」
「かりぶー」
「となかい」
なんとなく、コミュニケーションが取れているような、そうでもないような。
これは石竹も同じ事をやらなければいけない流れなのだろうか、と手を頭に持っていこうとした石竹だったが、あ、という何かに気付いたような男の声があって、びくと静止した。
彼は何か、また最初の頃のように素早く言葉を紡いだ後、言葉を区切る言い方に戻して、何か言った。
「え?」
と聞き返すと、もう一度、さらにゆっくりと何か言った。その言葉は、「ぺんだんと」と聞こえた。
「ペンダント?」
石竹が言葉を繰り返すと、彼は慌てた様子で手を首の周りで忙しなく動かす。首飾り、ということだろう。そんなジェスチュアをしなくても、ペンダントくらい解る。何せ物語で出てきたお姫さまや、皇女さまが付けているものだ。石竹も首飾りは持っていて、それは産まれたのと同じ日に狩られた
(ペンダントって、公用語でもペンダントなのかなぁ)
それとも、オングルの言語の中に公用語の単語が残ったのだろうか。そんなことを考えながら、石竹は寝台を離れて、テーブルに並べておいた男の所持品から、男が身に着けていた首飾りを選び出す。ペンダントを手渡すと、彼は溢れんばかりの笑顔を見せて受け取った。首に通し、二枚貝状のそれを開き、笑顔。ペンダントを戻し、石竹にもうひとつ笑顔。目覚めて以来、初めて見せた柔らかい笑みは、男の印象を精悍なものから、可愛らしいものへと変えた。
「かりぶー」と男は手を頭の横につけ、「ぺんだんと」とペンダントを指差し、そして最後に己を指す。「でぃー」
かりぶーというのは、撫子との遣り取りから推測すれば、どうやら馴鹿のことらしい。ペンダントは、そのままペンダント、首飾りのことだ。ならば彼が彼自身を指すならば、それは彼の名前ということか。
男はもう一度同じ動作を繰り返した。「かりぶー、ぺんだんと、でぃー」
「ディーさん?」
と石竹が手を彼に差し出して問いかけると、「や」と短く返答が有った。たぶん、肯定だ。
石竹も己の胸に手を当てて、「石竹です」と言ってやる。
「せきちくです」と男は鸚鵡返しに繰り返す。
「あ、いや……」石竹は戸惑ってしまった。です、をなんと説明すれば良いのか。「石竹、石竹」
「せきちく………」
男は反芻する。通じ合ったのか、それとも何か大きな勘違いしているのか判らず、不安だ。きちんと理解し合えたのだろうか。
「石竹」と石竹は己を指してもう一度言い、次に妹の頭に掌を置き、「撫子」と言ってやる。そして、男に手の平を向ける。
「ディー」
彼はやはり、そう言った。名乗った。間違いない。彼も、たぶん理解してくれた。
ディーはゆっくりと隻腕を持ち上げる。今度は頭の横にくっつけるのではなく、石竹に向けて差し出した。何を意図しているのか、初め理解できなかったが、握手をしようとしているのだと気付いた。挨拶だ。オングルではあまり使わない挨拶だが、それくらいは知っている。
石竹が慌てて手を出すと、その手が握られ、上下に振られた。節くれだった、硬い大きな手だ。石竹の手をすっぽり包んでしまうほど、大きな手だ。
「よろしくお願いします」
たぶん通じていないとは思うが、石竹はそう言った。緊張のあまり笑顔は作れなかったし、正面から顔も見れなかったけれど、きっとその意味は伝わったと思う。ディーも何か応じたが、たぶん己の言葉で挨拶をしたのだろう。
「喋るの下手だね」と撫子が言った。
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