『親』といういきもの

アリス・アザレア

わたしのはなし

1.小学1年生のとき、『これを食べたら死ぬんだ』と強く思った。


 まず、私の話から始めたいと思う。




 私の両親が離婚したのは小学一年生、六歳のときのことだ。

 きっかけについて詳しく訊いたことはないが、おそらく、『子供にお金がかかるから』という理由で父親の方から、であった気がする。

 というのも、両者とも『子供はできない』と思っていたのである。

 実は、私の父に当たる人との結婚は母にとっての結婚であった。なんと一度目の結婚があったのである。それは大人になってから知らされた。最初の人とは子供ができなかったことで離婚した、というのだ。

 だから母は二度目の結婚は『妊娠しづらい、子供をもうけにくい身体からだである』=『子供はできない』というふうに伝えていたのだそうだ。父は母だけを養っていくつもりでいたのだ。にも関わらず子供ができてしまった…。そして、数年で、二人の関係は破綻したのだ。

 父親はもともと自由人だったと聞く。毎日のように酒を飲み、趣味は車などお金のかかること。そんな自由な父に趣味などをガマンして子供のために働いてくれというのは、それを予定していなかった父からすれば、冗談じゃない、という話にもなるのだろう。

 そもそも、本当に子供を作らないように気をつけるなら、夜の床ですべきものをしているべきなのだが。

 そんな父と母の間に生まれた私の家は、借家であった。

 みなさん、借家はご存知だろうか。アパートの一軒家バージョン、と思ってもらえればいい。ただし、私が家としていた借家に二階はない。子供の時分で広いと思ったことがない家は、よくても六畳の部屋が二つほどの広さ。台所の前を通らないとお風呂に行けず、玄関横のドアの向こうのトイレは冬場はとても寒かった記憶がある。

 極めつけは害虫だ。台所につきもののゴキブリが、畳からは蟻が。今思い返してもなかなかに酷い家に住んでいたと思う。

 これは未だに憶えていることなのだが、その分、父の車は立派だった。車種などの詳しいことは憶えていないが、黒っぽい色の大型車で、それだけ見れば本当に立派だった。お値段も当時の三百万超え…当時の物価を思えばもっと高い価値の車になるに違いない。

 そんな車をローンで買ったなら、当然、返済がある。返済があれば、家にお金をかける余裕などないことは明白だ。

 そういった理由で私は父と母が離婚するまで借家に住んでいた。

 そして離婚が成立し、私と妹は母親に引き取られた。

 母は自分の母親、私からいう祖母の家に帰った。そこから祖父母の住む家は私の家にもなった。

 これが、私の幼少期。両親が離婚して母方に引き取られるまでの話である。



 そんなわけで、私は祖父母が住んでいる家で暮らし始めることになったわけなのだが。

 小学一年生。いきなりの知らない土地、知らない場所、知らない学校。知らない人達。何もかも知らないものに囲まれて、私の精神は自分で思うよりもずっと緊張や不安で圧迫されていたに違いない。

 小学生である以上、学校には通わなくてはならない。

 ほどなくして、私は家から近い学校に転入した。

 転入初日、母親はしばらくの間、教室にいる私の様子を見守っていたように思う。だが、給食の時間になる前には『新しい仕事』のために私を残して学校をあとにした。シングルマザーとしてやっていくなら仕事をしなくてはならないのだから、母の選択は当然といえば当然だ。

 しかし、緊張や不安で圧迫されていた私は、唯一頼れる、知っている人間さえもいなくなってしまい、恐怖に駆られた、のだと思う。

 その日出た給食を、私は食べなかった。一口も口にしなかった。『これを食べたら死ぬんだ』という強い確信が自分の中にあった。根拠などはない。だが、幼心にそう思わせる恐怖というのは、いかほどのものか、想像してほしい。

 私は口を引き結び、涙目で給食を睨みつけ、決して食べようとしなかったという。

 そんな日が三日は続いたらしい、というのはあとになって聞かれて知った。『これを食べたら死ぬ』という強いその瞬間のことは私の記憶に強く焼き付いて今も離れないが、逆を言えば、それ以外は霞んでしまっていて、よく憶えていない。

 小学生。遠足や修学旅行、運動会その他、それなりにイベントはあったはずである。

 けれど、私はあまり憶えていない。どちらかと言えば、楽しいことよりも、嫌なことの方をずっと憶えている。


 体育で走って転んで怪我をしたこと。

 小学校のガキ大将的な男子に難癖をつけられそうになり、必死に強がって張り合いその場を逃れた自分の涙目の視界。

 誰かの何気ない言葉が私を傷つけたこと。

 誰もやりたがらない委員会に入らされたこと。


 そういった嫌なことは二十年たった今でも思い出すことができるのに、楽しかったこと、嬉しかったことの記憶が見つけられない。 

 あるいは、転入初日、私が強く恐怖したことが、私の精神を形作る何がしかに影響を及ぼしたのかもしれない。

 母親は、新しく始めた仕事や自分のことで手いっぱいだったのだろう。学校のイベント事ぐらいは反応するだろうが、子供の心の状態などよほど気にかけなければ知ることはできない。

 私は大人しい子供だった。わがままを言わない、一番上の子供の典型的なタイプと言っていい。そこに『お兄ちゃんなんだから』『お姉ちゃんなんだから』と子供にとっては理不尽な理由でいい子になるように矯正される。私の家もその口で、故に妹は伸び伸びと育ち、私は内心鬱屈を抱えたまま育った。その鬱屈をまだ自覚していなかった。だから私は、自分の心の靄や霧を晴らすことができないまま、小学校を卒業してしまった。




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