アルナー王
圷 とうか
暗黒時代の再来
1
一羽の
そこは地上より遥かに高く、最も太陽に近い場所にもかかわらず、鷹は気持ちよさそうに泳いでいる。その姿を見ていると、その場所が一番涼しい場所のように錯覚してしまう。
一人の人間が、日差しの強さに目を細め、流れ落ちてくる汗を拭った。その行動は一人に留まらず、見渡せばあちらこちらで目にする。太陽から隠れようと建物の陰に入っても、体にまとわりつく熱は全く引きそうにない。
街に入るための門の前では、多くの人が並んでいる。長旅の後に着いたのか、大半の者が疲れた表情をしている。ようやく入門の許可を得た者は、少しでも早く用事を済ませようと目的の場所へと向かう。
街の中は、まだ日が昇って数刻しか経っていないにもかかわらず、賑わいをみせている。街の中に流れる川で洗濯をする者。商いの準備を始める者。走り回る子供たち。
街の豊かさが、一目見ただけでわかる。
「エレルヘグ!」
晴れ渡る空に、幼い少年の声が響いた。
空を旋回していた
鷹の視線の先には、年端もいかない少年が腕を伸ばして嬉しそうに待っている。鷹はその腕に止まると、一鳴きして見せた。
「エレルヘグ、おかえり。楽しかったか?」
鷹は少年の手から干し肉を貰うと、また嬉しそうに鳴いた。
「今日はいい天気だから、お前も気持ちよかっただろう?昨日の大雨が嘘のようだ」
鷹は、まるで少年の言葉がわかっているかのように、少年の手に擦り寄った。その鷹の行動に、少年はさらに笑みを深めた。
「殿下!アルナー殿下!」
少年が鷹と戯れていると、老人の切羽詰まったような低い声が響いた。
声のした方向へ視線を向けると、大理石の回廊を老人と数人の女官が走っている。
それを見た少年はバツが悪そうに笑った。その表情から、その老人は少年にとって馴染みのある人間だとわかる。
「ようやく見つけましたぞ、アルナー殿下」
少年のもとに声の主がたどり着くと、老人の額には汗が浮かび、女官の顔は青ざめていることがはっきりと見て取れた。
「ヴァイオン、そんなに慌ててどうしたんだ?」
少年は苦笑を浮かべたまま、息をつく老人に声を掛けた。
間違いなく少年には、老人が何故ここまで慌てているのか分かっていることだろう。そのことが表情から明々としている。
「どうしたではございません!勝手に出ていくなとあれほど申しているというのに、せめて一言女官に申し上げ下さい。でなければ、御目付け役である私めの立場がございません!」
「悪かったよ。次からは気を付ける。だからそう怒らないでくれ」
少年は、ほとほと困ったような表情で笑った。
「気を付けるではなく、以後このようなことがないようにお願いいたします!」
「・・・・善処する」
老人は、少年の返答に盛大に溜息をついた。
エレルヘグと名付けられた鷹の頭を撫でながら微笑む少年は、もう一度鷹を空へと放つと、噴水に腰を掛けた。
「アルナー殿下、どこか優れないところでもございますか?」
少年は空を見上げると、太陽の光に目を細めた。
噴水を囲む煌びやかな建物はこの国絶対の象徴である王宮であり、聳え立つ城壁が城下と王宮を切り離している。城下から民の声が聞こえようとも、その様子を覗い見ることは出来ない。
少年は、何度もこの鳥籠のような王宮から逃げ出そうと試みていたが、その度に王宮に仕えている兵たちに連れ戻されていた。
自由を求める鳥に、自由が与えられることは決してない。王族は死ぬまで王族でしかいられない。生き方も、死に方も、自分で決めることを赦されない。
少年は、空からヴァイオンへと目線を移した。
「ヴァイオンは私に何か用があったのではないか?」
「そうでした!殿下、国王陛下より夕刻に王の間に参ぜよとのことです」
「・・・・・そうか、わかった」
国王陛下と聞いた瞬間、少年の顔に影がかかった。
国王陛下、つまり少年アルナーの実の父親だ。
アルナーの表情が曇った理由は、父子の間は家族と言えないほどに冷め切っているからだ。その理由を知る者はいないが、父子の仲が良くないことは王宮に仕えている者全員が知っている。
アルナー自身にも邪険にされる理由はわからず、何度も関係を改善しようと試みたが、それは無駄に終わってしまっていた。
「ヴァイオン」
「いかがいたしましたか?殿下」
少年は瞼の裏に父の顔を思い浮かべた。
「私は父上のようになれる気がしないよ」
「殿下は、陛下のような
少年は少し考えると、小さく首を横に振った。
「父上のような王になりたいのではなく、ならねばならないのだ。民や下臣が求めるのは父上のような君主だろう?」
少年の言葉に老人は考える素振りを見せることなく、即座に首を横に振った。
「殿下。殿下は殿下の思う王におなり下され。この国の王はみな陛下のようだったわけではありません。絶対の王などこの世に存在しないのでございます」
「だが弱き王ではこの国が滅びてしまう」
アルナーの言いたいことは、ヴァイオンにも十分伝わっている。だが強い王が必ずしも良き王とは限らない。
これまでにも武に優れた王は何人もいた。だが、その王が民にとって良き王であったかと聞かれれば、必ずしもそうだったと答えられるわけではない。
戦に勝てようが、政を怠る王は民を苦しめるにすぎない。戦に出た男と再び相見えることが叶わず、残される女子供は苦しい生活を余儀無くされる。
民が求めるのは、国を守り、民の生活を豊かにする王だ。だが大半の王は国民の生活に気を留めたりしない。己の国を守ることで手一杯なのだ。
ヴァイオンは跪くと、幼い少年と目を合わせた。
「殿下は殿下の描く国を築き下され。殿下であれば、きっとよき政をなさると信じております」
ヴァイオンは口よりも目で雄弁に訴えた。少年はその目を見つめ返すと、小さく頷いた。
「ヴァイオンがそういうなら、私は私の思う王になるよ。今はまだはっきりとしないけど」
「まだまだ時間はございます。ごゆっくりお考えくださいませ」
「ありがとう」
憂いにみちた表情に、ようやく笑みが戻った。
―――夕刻、アルナーは身なりを整えて王の間へと赴いた。御目付け役のヴァイオンも控えていたが、王の間に着くと扉の傍へと下がってしまった。
アルナーはそっと息を吐くと、開かれた王の間に足を踏み入れた。
玉座の前まで来ると跪き、頭を垂れた。
玉座が小さく見えてしまうほどの威厳を兼ね備えた、国王でありアルナーの父である男が、アルナーを見下ろした。
「アルナー、汝に命をくだす」
王は低い声で言葉を発した。
百人中百人がこの二人が親子だとは思わないだろう。それほどに似ていない。
アルナーの髪は色素の薄い黄金の色をしているが、国王の髪は威厳を表すような黒に近い髪色をしている。瞳の色も肌の色も一つも同じところはなかった。
「明日よりロージス城塞につけ。我の命がない限り、王宮に足を踏み入れることはない」
「・・・・っ!」
アルナーは、父の口から発せられた言葉の意味を理解するまでに数秒かかった。いや、数分だったかもしれない。
ロージス城塞はこの国で一番大きな塞だ。だが、敵対している国から一番攻められることが多く、その度に多くの兵が命を落としている。その事実を知らない者はいない。
王の不興を買った者などは、即刻ロージス城塞に飛ばされ、そこで命尽きることが多い。つまり、死の宣告を受けたも同然だ。
それを知らないアルナーではない。
「返事はどうした!」
「!・・・陛下の意のままに」
アルナーは何とか返事をすると、震える足を叱咤し、王の間を後にした。
「殿下、どうかいたしましたか?」
「ヴァイオン、荷造りを頼む」
アルナーは、震えそうになる声で言葉を紡ぐと、自室へと足を運んだ。
アルナーが自室に戻ると、気落ちした様子に女官たちが世話を焼こうとしたが、何もさせてもらえずに部屋を追い出されてしまった。
ヴァイオンも部屋に入ることは叶わず、部屋の主は一人殻に閉じこもってしまった。
その日の夜、アルナーはなかなか寝付けなかった。
目を閉じれば父の冷たい両眼が自分を見下ろしている。いつも冷たい眼差しでしか自分を見てくれなかった。だから、親子というものはこういうものだと認識していた。
だが、それは違うのだと知った。ならば、どうして父は自分にあのような目を向けるのだろうか。街で見た親子のように父にあたたかい眼差しで見てもらいたくて、ヴァイオンに幾度か相談した。だが、ヴァイオンは悲しそうで表情をして、「良き王におなりくだされ」としか言ってくれなかった。その言葉はアルナーの心を苦しめるばかり。
アルナーは一滴の涙を流すと、己の身を守るように抱きしめた。
* * *
翌朝、アルナーは数人の兵を連れて城門の前にいた。
「殿下、殿下」
馬に跨り、昇る朝日を見つめていると、これまで御目付け役としてずっと傍に仕えていたヴァイオンが心配そうな目で声を掛けた。
ヴァイオンが何か話す前に、アルナーが口を開いた。
「大丈夫だよ、ヴァイオン。父上にも何かお考えがあるのだろう」
「ですが、殿下はまだ一五になられたばかりでございます。初陣がまだにもかかわらず、ロージス城塞になど。やはり、私めがもう一度陛下に」
アルナーはヴァイオンが最後まで言い切る前に、言葉を重ねた。
「よしてくれ、ヴァイオン。父上の反感を買えば、其方まで追いやられてしまう。私なら大丈夫。ロージス城塞にはスクローレンもいるのだろう」
「そうでございますが・・・、スクローレンがどれほど強かろうと、危険には違いありません」
二人の言ったスクローレンとは竜爵の生まれで、以前は
アルナーは、スクローレンが王宮にいた三年だけ、よく話し相手になってもらう機会があった。
当時のスクローレンは二四歳と若く、アルナーにとっては年離れた兄のような存在だった。それだけに、スクローレンがロージス城塞に行くと知った時は悲しんだ。
だから、再び旧知の者に会えると思えば、少しばかり心が軽くなっていた。
「大丈夫だよ。私も久しぶりにスクローレンに会えることが嬉しい。それにエレルヘグも一緒だ」
空を見上げれば一羽の
「わかりました、もう何も申しません。ですが命を軽んじるような行動だけはなさいますな」
「うん、わかっているよ」
こうして自分の身を案じてくれている人が一人でもいるのであれば、孤独になろうとも生きていけるような気がした。
アルナーは最後にヴァイオンを目に焼き付けうように見つめると、手綱を強く握りしめた。
「出立」
アルナーの言葉に先頭の兵士が馬を進めた。
兵の数はたった六人。到底王太子の護衛の人数ではない。だが、王命に背いてまで、アルナーの護衛につこうとする勇気ある兵士はいない。
ヴァイオンは遠ざかるアルナーの背を見えなくなるまで見送り続けた。
―――トスカル暦二八一年六月下旬、トスカル王国の幼き王太子アルナーの波乱の幕が開けた。
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