第360話 致仕願い

 有斗は尚書令に命じて王師各軍に出陣を命じ、兵糧と武器を運ぶ輜重の手はずを整えさせる。有斗は命じるだけ。細かい事務手続きや実際の準備作業は現場の諸官が当然やることになる。

 そんな中、出立の準備が終わるまでの間に有斗は一人の将軍を特別に呼び出した。

「陛下、御呼びと聞き、ガニメデ参上いたしました」

「やぁ、忙しいとこすまないね」

 共に激戦を戦ってきた有斗と王師の将軍たちの心の距離はアエネアスほどでなくてもそれなりに近いものだ。

 戦陣でのいつものように気安い言葉で語りかける有斗だったが、ガニメデのほうは普段のように返事をすることを躊躇ちゅうちょした。

 戦場で肩を並べて戦っている時はそうでもないのだが、やはり王城の奥にて厳重に警備され、大勢の女官に担がれ、官吏たちを手足のように使いこなしている姿を見ると、有斗も立派な権威ある王様に見え、気軽く語りかけるのは難しいようだった。

 ガニメデはいつも以上に深々と頭を下げて、執務室に入る。

「はっ」

「この間、ガニメデから貰ったこの上奏書だけれどもね、考え直す気は無いかな?」

 というと有斗は脇に避けて積んである未決済や保留の書簡の中からガニメデが有斗に奏上した書簡を取り出す。

「いえ、できますれば願いを許していただきたいのです。我侭勝手だとは承知しておりますが・・・」

 直接話したら意見も変わるかもしれないと思い、呼び出したのだが、どうやらそれは無駄であったようだ。

 有斗は溜息混じりに書簡を開いて目を落とす。そこにはガニメデの王師第十軍将軍職の引退の願い出が書かれていた。

「しかしねぇ・・・ガニメデといえば今や王師の将軍の中でも屈指の有名人だよ。いわば王師の看板といっていい。兵士たちからの信望もある。それが辞めるとなるといらない憶測を生んでしまう。きっと根も葉もない噂が飛び交うよ。ひょっとして権力争いに巻き込まれて失脚したのだとかさ。僕なんかはそれを守ってやれない王なのかと陰口を叩かれること請け合いだ。それどころか、その実績と能力に嫉妬して、王自らが遠ざけたなど言われかねないよ。僕としても王としての鼎の軽重を問われる事態になりかねないから簡単に認められないんだけどな」

「私が心の底から隠遁いんとんしたいと思っているだけでして、陛下にご迷惑をかけるようなことは決してありませぬから、どうか・・・」

「例え真実がそうであっても、皆がそう思ってくれないよ・・・それに確かガニメデは見かけによらず、まだ四十代じゃなかったっけ。子供も小さいんだし、引退するには早すぎるよ」

 横のほうから伸ばした毛で薄くなった頭髪を隠すその頭、戦場往来を重ねた古強者にはありえない脂肪で膨らんだ腹からは、嫌な意味での中年親父の貫禄・・・それも部長とか取締役とか社長とかの偉い立場の貫禄ではなく、もっと下の退職間際の中間管理職のおっさんの悲哀あふれる貫禄を全身から感じさせるが、ガニメデはまだ四十三だという。

 もっと上だと思っていた有斗はそれを聞いたときには耳を疑ったほどだ。ともあれ四十三ならばまだ引退する年齢ではない。

 確かにアメイジアの平均寿命はなんと驚きの二十二歳、現在の八十歳に比べたら目を疑う数字だ。それを考慮すると一見、引退してもおかしくない年齢であるかのように思えるかもしれない。

 だがそれにはもちろんカラクリがある。この時代は乳幼児の死亡率が極端に高い。なんと驚きの五割超である。

 もともと、流行り病や通常の病気に対するこの時代の医学のレベルは極めて低く、乳幼児死亡率がそれだけで三割程度ある上に、戦乱に巻き込まれ戦死したり、極端に悪化した食糧事情によって飢え死にしたりで、そのとんでもない数字になっているのだ。

 乳幼児を無事に過ごした人間の自然死における平均寿命は四十三歳程度、恵まれた環境にいる官吏などは五十五歳前後である。

 それを考えると、まだまだ引退するには早すぎる年齢なのだ。

「とは申しましても長年の不摂生で体はこの通り肥満し、剣を振るうにも気ばかりが急いて、他の将軍たちのように満足に槍働きができませぬ」

 突き出たお腹を撫でながら、もっともらしくしかめ面をしてガニメデはそう言うが、それが本当の理由でないことは有斗にだって分かっている。きっとそれは表向きの理由に過ぎないに違いない。将軍の役割は兵を指揮することであって、自ら槍を持って敵兵を討ち取ることではないのである。もっともベルビオやヒュベルのような例外もいることはいるのだが。

 でも嫌なことを王命で無理に仕事をさせるのも、それはそれで有斗の本意ではない。そこで代案を出すことにした。

「ならば王師の将軍を辞めて官吏になればいい。王師の将軍は退官後、宰相になるのが決まりだ」

 だが、その有斗の好意もガニメデは婉曲に断りを入れた。

「いえ、地方の要塞の指揮官と言う地味な裏街道を歩んできた私には、朝廷などといった華やかな舞台苦手です。それに官吏の皆様方は皆、切れ者ぞろい。私のような愚鈍な男にはとても務まりますまい」

「ならば・・・宰相みたいな公卿がいやと言うのならば、武部尚書とか実務官になるというのはどうだろうか? ・・・あるいは西京か南京あたりの武官の責任者と言う手もある」

 武部省ならばそれまでやってきた経験が生かせるだろうし、なにより王師の将軍たちと朝廷とを繋ぐ役目、王師の裏方だ。仕事的にも戸惑うことは無いだろう。だがそれでもやはり中央官庁で官吏たち相手に腹芸や脅し、取引や交渉といった政治そのものが嫌だというのならば、地方に出てのびのびと働いてもらうという手があるな、と有斗は考えたのだ。

「陛下のお言葉は有難いのですが、私は官界そのものが嫌いなのです。怖いのです。私は軍人として功名を立て、高位に就くことをずっと望んでおりましたが、実際になってみて、その怖さを初めて思い知ったのです」

「・・・何かあったの?」

「私は戦場で少しばかり功を立て王師一の将軍だなどと呼ばれております。陛下の覚えもめでたく拙宅に足を運んでいただく栄誉に恵まれました。『不敗』などというこちらが恥ずかしくなるような驍名ぎょうめいで呼ばれるようにもなりました。ですが全ては運が良かったに過ぎない。いえ、陛下は違うとおっしゃってくださりましょうが、実際そうなのです。私と王師の他の将軍との間に大きく能力に開きがあるわけではありません。とにかく得がたい運に恵まれて諸々の勝ちを拾ったに過ぎないのです。ですが世間はそうは見てくれません。巨大な武勲を戦場で立てた王師で一番の将軍、陛下の覚えもめでたく、やがて官界でも大きな力を発揮するだろうと思うようなのです。王都に帰還以来、私の周りには様々な人々が寄ってきます。ある者は私を与党に取り込もうとし、またある者はその行為は私を篭絡しようとするためなので気をつけた方がいいなどと言って恩を売ろうとします。またある者は私におべっかを使って私を頭にした新たな派閥を作ろうとし、そうかと思えばまた違う者は他者が私に敵意を向けているなどと吹き込んで私をけしかけ、自分の代わりに私をその者と争わせようとする。そこにあるのは私をどう利用するか、またはどうやれば利用できるかという考えだけ。私のことを本当に思って話しかけてくれる者など一人もいません。私は周囲の人間全てを敵として見なければならないような、そんな世界が恐ろしい」

「何を弱気な。周囲を味方に幾倍する敵に囲まれても勇をくじかずに戦い続けたガニメデらしくない言葉だよ」

 ガニメデは周囲全てが敵という圧倒的不利な状況で幾度も危機を乗り越えてきたではないか、それに比べたら官界など平和なものだと思う。

 有斗はそう言ってガニメデの弱気を笑って翻意を迫るが、その考えは違うとばかりにガニメデは首を横に振った。

「戦場では敵は敵、味方は味方です。もちろん戦場にだって寝返りがあり裏切りだってありますが、それでも戦うべき相手と共に戦う味方は見ただけで区別できます。官界のように味方なのか敵なのか分からないまま、さも味方のように接して付き合うことなどありません。それにもっと恐ろしいものがありました。そう言って近づいてきた周囲の人間全てを敵として見ていた私の心です。近寄ってきた中には、かつて王師に加わったときの私がそうであったように、きっと私の武勲にあやかりたいだとか、高名な将軍と一度会話してみたいだとか、そういう人物もいるというのにです。だが私にはその区別が出来ないのです。善意を持つものと悪意を持つものを見分けることが出来ないのです。私は周囲を疑って、自分の身を守ることだけしか考えてない私の醜い姿をこれ以上見ることに耐えられないのです。私がどんな形であれ官界に残る限りは、きっとこれはついて回る問題でしょう。ですから引退させて欲しいのです」

 今までと違い、それは有斗にも納得できる理由だった。

 有斗だって自分に媚を見せるばかりの官吏たちを内心では軽蔑しないこともない。有斗を利用しようと様々な策略を弄する官吏たちを憎む心が無いとは言えない。

 そして自分が他人を軽蔑している、憎んでいるという事実に気付くと同時に、自分の心の底にある醜さを見せられている気分になり自己嫌悪に陥ることもしばしばあるのだ。

 もっとも、そんなことを話すとラヴィーニアは、そういう醜さも含めて人なのです、人を使うということは醜さにもある程度は目を瞑る寛容が必要ですなどと説教を垂れるのだったが。

 だが誰もがラヴィーニアのように清濁併せ持つ事は出来ないのだ。ガニメデほどの才覚を失うのは国家においては痛手なのだが、ガニメデにはガニメデの生き方を全うさせてやるのが王にできる寛容なのかもしれない、と有斗は思った。

「そっか・・・分かった。ガニメデには官界は合わないのかもしれないね。引退を許そう」

 有斗は突き返すつもりだった書簡を再び未決の山の上に積み上げながらそう言った。

「有難うございます!!」

「だが今回の戦いだけは来てもらうよ。敵は今まで戦ってきた敵とは違う未知数の不気味な敵だ。一人でも多くの味方が欲しい。ガニメデの力がきっと必要になる」

「分かっています。こんな状況下では今すぐ致仕ちしもできますまい」

 だけど致仕が許されたためか、ガニメデの声は晴れやかだった。

「これが最後だ。これが終わればガニメデは自由の身さ。一諸侯として田舎でのんびり暮らしていくがいい。だけどたまには王都に来て顔を見せてくれよ。二人で苦しかった長い戦いの昔話なんかをしようじゃないか」

「はい」

 有斗は手を振ってガニメデに退出許可を出した。ガニメデは大きくゆうの礼をして出て行こうと後ろ向きに数歩歩くが、突然立ち止まると感動の念が込もった顔を上げた。

「それにしても陛下には頭が下がります。私如きの何倍も陛下を利用しようと官吏どもが日々群がって来ているでしょうに、それでも人間不信になることなく、こうやって私の言葉を信じていただき、致仕という我侭をお許しくださる。まさに陛下は天与の人です」

 多少有名人ではあるものの権力もさほど無い自分がこうなのだ。アメイジアに並ぶものなき権力者となった有斗にはその何十倍もの人間が利用しようと毎日訪れるに違いない。

「良かった。僕を理解してくれる臣下がいてくれて。そう言ってくれるのはガニメデだけだよ」

 王とは不平や不満すら口にしてはならぬものだ。迂闊に願いを口に出すとそれを叶えようと、そして不平や不満を口にするとそれを無理にでも取り除こうと、臣下は勝手に行動をしてしまうからだ。有斗はそれをセルノアで十分痛いほどに学んだ。

 とはいえ王と言えども人である以上、心の中には色々な思いを抱えることになる。誰かとその感情を共有したいという感情があることも否めない事実だ。その一端でも正確に理解してくれる家臣がいることは、王にとっては何よりもの慰めであるといえよう。

 だから有斗はガニメデのその言葉がとても嬉しかった。

「わたしも陛下が孤独だってこと、ちゃんとわかってるよ!」

「わたくしもですわ!」

 突如、横合いから不満そうに二つの声が上がった。アエネアスとセルウィリアが有斗の横でふくれっ面をしてこちらをにらんでいた。

「も、もちろんアエネアスやセルウィリアもだよ、と、当然じゃないか!」

 有斗は慌ててそう付け加えなければならなかった。

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