第322話 牧野が原に陽は落ちる(Ⅲ)

 高低差は一町(約百九メートル)もない山だったが、素直な形をしておらず、獣道は傾いており、急勾配がそこかしこにあった。

「これは思ったよりも結構急ですぜ」

 現れた急な下り道にザラルセンの配下は一斉に難色を示した。それは下り道というよりは崖に近かった。人が通るにしても猟師だけ。主に猪や野犬でも通るのだろうか、あちこちに突き出した岩あり、崩落したのか石や砂で覆われて、そこに足を踏み入れでもすれば、足を取られて転倒することも考えられる。

 そしてこんな急斜面で乗った馬が転倒したらまず命の保障は出来ない。これでは馬で駆け下りるというのは無理な相談だ。

 何故なら河北出身の彼らにとって馬は生活に必要不可欠な物の一つ、財産でもあり、家族同然の大事な存在なのだ。

 戦場で命を落とすのは仕方が無い。それが戦場というものだからだ。だがこんなところでその大事な馬の命を失うのは勘弁願いたいというのが本音だった。

 だがしぶる部下たちの前でザラルセンはこともなげに言い放った。

「大丈夫だ。さっき道の端に鹿のフンが落ちていた。つまりこの道はいつも鹿が通っている道だということだ」

「兄貴、鹿と馬は違うでしょうが」

 馬は草原で、鹿は山岳地帯で暮らすように出来ている。外見は似ていても、持っている筋肉が違うだろう。それに鹿がここを上り下りするのに、人間を乗せているわけでもあるまいし。

「鹿も越えられるんなら、馬だって越えられるさ」

 だがザラルセンはそんな部下たちの懸念を一向に解さない。笑い飛ばした。

「別の道を探していたら、獲物を全て他の奴らに取られちまうぞ! 馬が惜しい奴は後から馬を引いてのろのろと降りてくればいいさ! 命の惜しくない勇気あるものだけが付いて来い!」

 そう言うと、愛馬に鞭を一当てし、一気にその獣道を駆け下り始める。その後ろを慌てて配下たちが続いた。

 良くも悪くもザラルセン隊の前身は野を駆ける流賊、侠気の世界で生きる男たちである。その世界では舐められたら飯の食い上げ、一生浮かび上がることは無い。

 その時の癖が染み付いている彼らには、馬が惜しいやつなどと言われて、『はいそうですか』などと大人しく引き下がれるわけが無い。

 それまで降りることを渋っていた男たちも、次々と男気を見せるためにザラルセンに続いてその急坂を下り降りる。

 不運にも足を折った馬や、怪我をした者は数え切れない。だがとにかくもザラルセン隊は牧野が原に降り立ったのだ。

 ここで彼らの目はようやく戦場の実情を見ることになる。

 右でも左でも、オーギューガは王師を優勢に押しているようだ。

 オーギューガの旗は攻撃に併せてくるくると隊ごとに綺麗に一団で同じ動きを示すのに対して、王師の旗は入り乱れ、互いの部隊が交じり合う様子、そしてばらばらに動く様子が見て取れた。旗色は王師が極めて悪かった。

 敵兵がこちらを指差して何事かわめいている。背後のザラルセン隊に気が付いたということであろう。

 つまりそれだけオーギューガにはゆとりがあるということだ。

 当初の予定では王師に押されている敵の背後を一叩きして、ザラルセン隊は崩れた敵をさっと料理するつもりだった。だがそういった楽観視できる状況ではないようだ。

 だがザラルセンは味方の危機にも、敵の優勢にも一切気を払うことなく放言する。

「こりゃあいいや。右も左も敵だらけだ。り取り見取り選び放題って奴だ。戦う相手に不自由しねぇや」

 だがさすがのザラルセンの配下も引きつった薄ら笑いを浮かべるので精一杯だった。

 それはそうだろう。この現状でオーギューガの背後を突いてもどれほどの効果があるのやら・・・

 オーギューガの向こうにいる味方の兵と挟撃しようにも、あそこまで押しまくられていては、味方に反撃する余力があるかどうかすら不明だった。

 しかし逃げ帰るわけにも行かない。上越街道は王師とオーギューガの兵が大激戦を繰り広げていて通行したくても通行できない。

 かといって今まで通ってきた道を引き返そうにも、今度はあの下り落ちた断崖絶壁に近い坂を馬で駆け上がるなど出来るわけがない。無理な相談だった。

 つまりザラルセン隊は逃げ延びる退路がなくなった状態なのである。すなわちザラルセン隊は死地にいた。

 だがザラルセンはそんなことを毛ほども考えていないかのように敵陣を眺めては嬉しそうに舌を出して半笑いを浮かべていた。どこまでも鷹揚な男だ。

「兄貴、オーギューガといやあカヒの兵すら恐れる強兵ですぜ。流賊あがりの俺らには重荷だ。相手にならねぇや」

「なに弱音吐いていやあがる。俺らの得意技を忘れたっていうのかよ」

 流賊の得意技といえば、弱敵には容赦なく襲い掛かり、自分たちが敵わない強敵にあったら一目算に逃げることだ。

 しかし逃げるといっても逃げ道はどこにも見当たりもしねぇ、とザラルセンほど暢気にはいられない配下たちは一様に困惑した顔を浮かべた。


「御館様、後方に敵影が見られたとの事」

 その知らせにもテイレシアは柔和な顔を崩すことなく平然と受け止めた。

「敵が山を抜けてきたか。思ったよりも早かったな」

 それもテイレシアにとっては織り込み済みだった。

 前方で戦が始まり、しかもそれが劣勢であると後方に待機中の味方に伝われば、どうにかして戦場に辿り着こうとすることは童子にでも思いつくことだ。そして街道が塞がっているのなら、誰でも山越えを考えるだろう。

 だがもう少し時間がかかると思っていた。王師は重装備だ。行軍速度は遅い。しかも知らない土地での慣れぬ山越え、一刻や二刻はかかると見るのが常識だ。

 新手の敵は前面の部隊を全て川底に叩き落してから相手をすればいいといった具合に割り切っていた。

 だが敵はたった半刻後に現れた。オーギューガ全軍は王師に対して圧倒的に戦場を支配しているものの、まだ大勢は決していない。

「敵は軽騎兵です。重装の兵では時間がかかると判断し、軽装の隊を選んで派遣したというところでしょう」

「なるほど考えたな。王か側近かは知らぬが知恵者がいるようだ」

 状況を見定め、実に手早く最適な手を打つ、とテイレシアは感心した。もっとも実際はザラルセンが独断で行ったことだ。だからそれは単なる誤解であった。

「旗印を見ると王師第五軍、ザラルセン隊と見受けられます」

「ああ・・・北辺の流賊あがりのあれか。王師でも一風、毛色の違った部隊だったな」

 元からの王師と違い錬度は低い。しかも以前、北辺で一度戦い、さんざん打ち負かした過去がある。

「とりあえず後詰のアストリアに相手をさせよ。手持ち無沙汰で暇をもてあましているだろうからな」

 テイレシアはそう命じると、前面の敵に意識を集中する。後一歩、まさに後一歩と言うところまで王師を追い詰めていた。

 テイレシアの命を受けザラルセン隊と正対することになったアストリアは陣形を後ろに向けると、オーギューガの後方を守るように布陣する。敵の目的は九十九谷川に追い落とされつつある味方部隊の救出だ。

 数も五千と揃っている。オーギューガに後方から突き刺さって味方のために脱出の穴を開けるのが目的なのは疑う余地が無い。それを防ぐ為の防衛体制だった。

 だが、アストリアの目論見と異なり、ザラルセン隊は騎馬攻撃に踏み込んでこなかった。

「よし、今から射程圏内まで馬を乗り入れて、個々で判断し敵を射よ!」

 ザラルセンの命に従って兵は次々とアストリア隊に向かって矢を射掛けた。

 騎馬突撃に対して備えていたアストリア隊は慌てて盾を頭上に掲げて対応する。

「軽騎兵らしく弓術にも優れたものをもっているようです」

 盾で防ぎきれず負傷者を出したとの報告にもアストリアは怯む様子を見せなかった。

「ほう」と、口を僅かばかり動かしただけだった。

 何故ならば馬上においての弓術ならばオーギューガとておさおさ劣るものではない。

「こちらからも矢を射かけよ。返礼をせねばな」

 アストリアの命令に今度はオーギューガから矢が一斉に放たれた。放たれた矢は空中で四角い一つの面になり、大地へと降り注いだ。

 だが逃げ場の無い一面の矢の雨が降り注いだにも関わらず、ザラルセン隊には一人の死傷者も出さなかった。何故なら既にザラルセンの部隊は矢を放った次の瞬間、射程外へと逃れでたからである。

 一斉に矢を放って平面を作り上げることで敵に確実に矢を当てる手法は、こちらに向かってくる敵兵の接近を防ぐには実に有効的な手段であったが、一斉射撃されるために、射撃のタイミングが実に分かりやすく、射程ぎりぎりにいる兵にとっては逃げるタイミングを間違えさえしなければ回避することはそれほど不可能ということではない。

 その後もザラルセン隊は各個人がおのおのの判断で射程内に近づいては敵を射るというヒットアンドアウェイ戦法でアストリア隊を苦しめる。

 ザラルセンなどは移動することなく、敵の矢がまったく届かない場所から自慢の五人張りの強弓を存分に振るっていた。

 なにせザラルセン隊と違い、アストリア隊は防衛陣形を敷いて布陣しているから、いわば動かない的だ。狙って当てることが十分可能だった。

 手負いや死者が増えるにつれて、アストリアは焦りを感じる。

「このままでは死傷者が増えるばかりだ。ここは騎馬突撃でケリをつける!」

 敵兵が軽装であることに目をつけて白兵戦で片をつけようとしたのである。アストリアの命に兵は素早く攻撃陣形を形成し、ザラルセン隊に向かって攻撃しようと移動を開始する。アストリア隊は僅か千である。五倍の敵に向かって何の躊躇ためらいも無く向かっていくその勇気と自信には、まさに感嘆するしかないであろう。

 ザラルセンは僅か五分の一の敵に対してもまったく油断することなく、慎重に自らがなすべきことをなそうとした。

 すなわち近づいてくる敵兵に対して、後ろを向いて逃げ出したのである。

「・・・なんだと!?」

 驚いたのはアストリア隊だった。数が逆であるならともかくも、五倍の数を有しながら敵兵の突撃に剣を交えずに逃げ出したなどと言う事例は聞いたことが無い。

 ましてや相手は曲がりなりにも天下の王師である。逃げるなどとはちらとも思い浮かばなかった。

 だが追撃の手を少し緩めると、ザラルセンは取って返して再び追撃しようとするアストリア隊に逃げながら矢を放つ。

 アストリア隊は損害が増していくばかりでなんら打開策が打てる状況に無かった。

 徐々に浮き足立ちはじめ、長駈しただけに戦列が部隊移動に対応できずに戦闘隊形が乱れてしまう。

 それを見たザラルセンは、ここに来て初めてその全旗下の兵に全面攻撃に移ることを命じた。

 オーギューガの強兵といえども、士気が落ち、陣形は乱れ、疲れきっている。一対一では敵わなくとも、五倍の数の前にはもはや抗しきることはできないであろう。

 しかもアストリアにとって間の悪いことに、この時、ザラルセン隊に続いて山中を抜けてきたマシニッサの部隊が牧野が原に降り立ったのである。

「ザラルセンの奴、なにやら楽しいことをやっていやがったみたいだな」

 マシニッサは戦場を一望して、その全てを一瞬で把握した。

 そしてマシニッサほどの戦上手がその好機を逃すはずが無い。兵を素早くアストリア隊の後方に並べ終え、万全の布陣をしてアストリア隊の退路を塞いだ。

 後はザラルセンが勝手にやってくれるはずである。討ち洩らした兵だけを片付ければいい。

 アストリア隊は大混乱に陥った。

 こうしてザラルセン、マシニッサ両将軍の目は再びオーギューガと王師とが激闘を繰り広げている九十九谷川沿いの一帯へと注がれることとなる。

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