第276話 血戦エピダウロス(Ⅳ)

 カトレウスの旌旗を目にした有斗はこう言ったと伝わっている。

「全ての因縁を断つのは今日、この時だ」


 王師の兵に歓喜をもたらしたその知らせは、同時にカヒの兵を絶望の底へと叩き落す知らせともなった。まったく備えの無い後方に五万もの新手の兵が現れたのである。前方にいる二万強の王師だけでも手を焼いている現状をかんがみるに、誰がどう考えても敗北は不可避であると思われた。

 解決策を見出せず、動揺し狼狽する将兵をカトレウスは一喝する。

「馬鹿者が! 貴様らそれでも誇り高きカヒの兵なのか!? 敵の旗を見ただけで、うろたえるとは・・・! 後方から敵軍が追撃をかけていることなど折込済みだ!」

「しかし・・・! このままでは備えの無い背後を突かれて、我々は挟撃されることとなります! 前面の敵でさえ未だにくことができないのに、この上さらに後方の敵に対処する余裕など我々にはありませぬ!」

「赤子のようにわめくでない! 敵影が見えただけだ! 今すぐ敵が襲い掛かってくると言うわけではない! とにかく敵を割って向こう側に出ることだ! 全軍を挙げて総攻撃に移る!!」

 カトレウスが騒ぎ立つ幕僚をどやしつける。その怒りと共に吐き出された命令に幕僚たちは、この降って涌いたような危機に御館様であっても正常な判断が出来ていないのではないかと不安を覚える。

 確かにカトレウスの命令は熟慮の結果もたらされた結論ではない、だから乱暴で粗雑でやけっぱちな作戦に思えるが、そうではない。

 いくらカトレウスが練りに練った策を用い死力を尽くそうとも、このままでは敗北という結果を覆すことはできないだろう。

 だけどそれは背後から敵に強襲されたら、という仮定のままで話した場合である。ようは前後から挟み撃ちされる前に事態を打開すればいいだけの話だ。

 幸い、現在戦闘に参加している兵の数ではカヒは未だもって王師より有利に立っている。

 王が率いる王師本隊が戦場に駆けつける前に前方の敵陣を突破して向こう側の味方と合流すれば、この危機を回避できる。

 その後はその時の状態によるが、余力があるようなら再度陣形を整えてから王師の援軍を迎え撃てば良いし、そうでなければそのまま撤退すれば良いだけの話だ。そして王師の堅陣を破ったその成果だけを大事に抱えて逃げて、勝利したと宣伝し、あとは再び持久戦術に切り替えて王師の退却を待てば良い。

 その為には今までのように被害を抑えることを考えた攻撃や、相手の陣形に隙を作るための牽制けんせいといった時間を浪費する小細工は一切やるべきではない。王率いる本隊が到着するまでの僅かな時間を一時なりとも無駄にするべきではないのだ。

 このまま数の優位があるうちにそれを生かして、相手の堅固な陣形の正面から犠牲や被害を考慮せずに、敵が対処できなくなるほどの攻撃を集中させ、支えきれなくなった場所から敵陣を崩壊させる。この飽和攻撃だけが現在の困難な状況を打開する唯一の方法とも言える。

 さすがはカトレウス、こんな混乱の極致ともいえる状況においても、物事の本質を一切見失わない的確な命令だった。


 カトレウスと違って事の是非は将軍たちにも兵士たちにも分からなかったが、だがこれは彼らの御館様が決めたことなのである。

 カトレウスについてはその非情さや狡知こうちをとやかく言う者も少なくはないが、戦国の世に現れた傑物であることは紛れも無い事実だ。

 カヒの民は一兵卒にいたるまで、カトレウスを七郷が生んだ偉人と誇りに思っていた。その判断力を信頼するだけでなく、大いに敬愛してもいたのだ。

 だからそのカトレウスの命令とあれば、例えこの先に地獄のような凄惨な戦場が待ち受けているとしても、彼らは喜んでその戦場に向かい、勇敢に戦い命を落とすであろう。

「行くぞ! 敵の陣形は壊れつつある! 青色備えの名に恥じぬ働きを見せよ! 突撃!!」

「ダウニオスにだけ手柄を立てさせてなるものか! 者ども続け、中央突破だ!!」

 ダウニオスとマイナロスは素早く兵をまとめ上げると、同僚に見本を見せるかのように王師の最弱点、エレクトライ隊と傭兵隊に目を吊り上げて襲い掛かった。攻撃は一切の犠牲を省みない、まさに言葉通りの我攻めで、エレクトライ隊は耐えられずにさらに三十間(五十四メートル)あまり後退し、危うくプロイティデス隊との間を突破されかけた。

 その横で槍を並べていた傭兵たちもいくつかの部隊は攻撃に耐え切れずに敗退する。傭兵隊八千とおおまかに言うが、指揮権を統一し一つの大きな陣を敷いていたわけではなく、諸隊がおのおの複数の陣を敷いていたことがここでは吉と出た。一つ潰しても違う隊の陣が前方に現れ、カヒの足を止める。足が止まったところを側面から別の傭兵隊が襲い掛かってくるといった具合だ。

 傭兵隊の陣形も、期せずして王師の戦列を並べた縦深陣と同じような形になっていたのである。

 ここでもし彼らがどちらかを壊滅させ、突破に成功していたら、この戦はまだどうなるか分からなかった。低い可能性ではあるが、辛うじてカヒが勝つということもありえたのである。

 だが二度の突撃も決定的な打撃を敵に与えることはできなかった。だがここで諦めるわけにはいかない。彼らも命がかかっている。勝利か、しからずんば死か、だ。

 本来なら殿しんがりが引き際に使う先手と後手が絶えず入れ替わって戦う繰り引きという戦術を、逆に進軍に使う。他の翼と交代で先手を務めることで兵の疲労を抑え、攻め続けることを可能にする。陣形に粘りを持たせようとしたのだ。

 疲れた兵を叱咤し、三度目の突撃を敢行かんこうする。

 彼らはその時、プロイティデスと違い、河東諸侯の旗が既に動き出していたことに気がつかなかった。


 河東諸侯は既にカトレウスを見放していた。

 エピダウロスに東北から南西へと布陣した王師の陣の中で、河東諸侯は左翼を担当していた。自然、彼らは西に位置することになり、王率いる王師本隊を最初に目にしたのも彼らだった。

 様子見する諸侯の前についに王師の側に待ち望んでいた援軍がやってきた。しかもその数はカヒの全軍と同じ規模だ。

 この場の王師は全体の六割しか戦っていないのに、カヒは苦戦している。

 そこに新手の軍が加わるという。それも五万もの大兵で。しかも備えの無い後方を襲うような形でだ。

 どこをどう考えても王師が勝ち、カヒは負ける。

 であるなら彼らが取る行動は一つだ。勝ち馬に乗るべく行動を起こすしかない。

 諸侯らは相談したわけでもないのに同じ動きをとった。一斉に動き出すと、王師と激闘を続けているカヒを側面から襲い掛かった。

「こんな時に・・・! この風見鶏どもめが!」

 もはやカヒは前面をき向こう側に出ることなど思いもよらぬことだった。カヒの諸隊は今や二方向からの攻撃に崩れないようにすることだけで手一杯だった。

 このままでは後ろから近づきつつある王師本隊に後方を塞がれ、三方からの包囲網が完成してしまう。そうなったら確実に逆転のチャンスは無くなってしまう。

 カトレウスは本陣に残っているありったけの部隊をサビニアスに与えると、前面と側面からの攻撃に対処しきれず苦戦する部隊に救援として送った。

「サビニアス、俺に敵対したことがどれほど高くつくかをやつらに思い知らせてやれ」

「委細承知!」

 サビニアスは二千ほどの兵を率いてカヒに襲い掛かる諸侯から味方の兵を守ろうとする。

 サビニアスは獅子奮迅ししふんじんの働きを見せ、カヒは側面から連鎖して崩壊すると言う最悪の危機は脱した。


 と、そこで一筋の光明、偶然が生み出した好機がサビニアスの下を訪れた。

 もはやカヒの負けは見えた。諸侯にしてみればここからはいかに戦功を立て、論功行賞を優位に進める材料を獲得するにかかっている。

 諸侯は手柄を求めて前へ前へと出ようとする。だが諸侯のいた場所から近い場所はすぐに諸侯の兵で一杯になり、身動きが取れない。敵の姿を求めて、なによりもカトレウスの首に辿り着く最短距離を目指して左へと、すなわちカヒの横に、そしてなによりも後ろに回り込んで槍を突き入れようとする。

 つまり諸侯の兵は好戦的なあまりに、傭兵隊と接する右翼の厚みが一番薄く、左に行くに従って兵が多くなると言ういびつな形となった。

 そこにサビニアスと傭兵隊と戦っていたマイナロスが手持ちの少ない戦力から出来る限りの兵を集めて叩き付けた。

 諸侯の兵は耐え切れずに後退する。諸侯と傭兵隊との間にカヒ側が開戦当初から求めて止まなかった背後へと通じる断点がついに現れた。

「今だ! あの穴を目指して突撃せよ! 我々が脱出すれば、味方も気付く。背後に回りこむ道が出来たことに。突破して回り込み、敵を背後から攻撃するのだ! 敵はあの断点近辺を支えきれず崩壊し、我らは味方と合流でき、一つの軍となれる!!」

 サビニアスの声に包囲され全滅するしかないと思い込んでいた兵たちは生き返った。

 喚声を上げて我先にと敵戦列の向こう側へと行こうとする。向こう側へと出た兵は味方の脱出を支えようと、断点付近の兵を背後から襲い、敵を倒して空間を広くしようとする。せっかく確保した敵陣の向こうに逃れる道だ、失いたくないと必死で戦う。

 だがそれに引き摺られるようにカヒの全軍はその場での正面突破は諦め、その脱出路目掛けて移動していく。

 今までは脱出路が無いため、しかたなく死力を尽くして前面の敵と戦っていたという面もあったのだ。だがもはや逃げ延びるための道は開かれた。

 そうとなれば一刻も早く、危険な包囲状態にある場所から逃げ出したいと考えてしまうのは当然だった。命は誰だって惜しいということであろう。

「今だ! 敵は浮き足立っている! ここで決定的な打撃を与え、再起する余力を残すなよ! カトレウスの首級をあげよ!」

 組織的に戦い、退いて行く兵もいないわけではないが、ほとんどは恐怖に耐えられず後ろを見せてでも退却する兵がほとんどだった。

 リュケネの命令に長い戦いに疲れていた兵だったが、再び気力を取り戻し、逃げる敵兵を追う。

 リュケネだけではない。プロイティデス隊も息を吹き返し追撃に移っていたし、そして崩壊寸前だったエレクトライ隊すらも前面の敵が消えたことで余力が生まれた。

 逃げる敵を追うようにして兵たちは先ほどまでの鬱憤うっぷんを晴らす。

 今までの苦戦がなんであったかわからないほど、おもしろいように敵兵は倒れていった。


 カトレウスは自身の赤備えと共にかなり早い段階で戦列の向こうに行くことができた。

 だがまだ逃げるわけにはいかなかった。カトレウスは王師に見せ付けるように陣を布陣し、味方の脱出を支えようとする。

 もしカトレウスが今すぐこの場を離れたら、兵たちは自分が助かることだけを考えて一斉に四方に散り、せっかく得た脱出路は再び塞がれる。

 今だ戦列の向こうにいる将兵たちは退路を断たれて全滅するしかない。

 カトレウスはそれが分かるだけに退却を口にするわけにはいかなかった。

 なるべくなら兵が全員脱出する目処めどがついてからだ。もちろんいつまでもと言うわけには行かない。もはやカヒの将兵の受けた傷は深く、このうえ敵の新手と戦うことなどできはしない。

 だが、まだ上州から来た王師本隊が戦場に辿り着くまでは少しだけ時がある。

 その距離がもう少し近づくまでは逃げることは出来ないな、とカトレウスは考えていた。


 有斗は馬車上で敵が包囲網の網の外に逃れ行く様を見て、自分が立てた策が不完全に終わったことに肩を落とす。

 だがまだ諦めるのは早い。まだできることはある。

 有斗はもはや戦場でことを決する段階は過ぎたと判断する。ここからは追撃戦となるだろう。

 この戦いでの王師の勝利は決定したのだ。だがここからどれくらい敵にダメージを与えることができたかで本当の意味での勝利を得れるかどうかが決定される。

 イスティエアと違って王師の、特に有斗が率いてきた王師本隊の気力は充分あった。ならば逃げる敵の後ろに喰らい付き、この流れのままで戦い、決定的な何かを得たい。

「全軍突撃! 敵は未だに組織だった抵抗を僅かに見せているが、それも時間の問題だ! 行って止めを刺してくるんだ! なんとしてもカトレウスだけは逃がすなよ」

 有斗のその声で全軍前進を告げる角笛と鼓がけたたましく鳴らされると、ザラルセン、ヒュベル、ベルビオといった有斗自慢の猛将たちが次々と得物をひっさげ敵兵目指してけ出していく。

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