紅旭の虹

宗篤

召喚の章

第1話 承前

 とは坂道や斜面のことである。


 南部南西部に連なる連山のひとつヴィオティア山脈には、山を穿うがつように一本の道が貫いている。

 両側を切り立った崖で挟まれ曲がりくねる、その山道は、天から堕ちてきた龍が大地に潜んだ痕だという神話を持ち、せんりゅうと呼ばれ、天下の険として知られていた。

「潜龍坡を越えても敵影なし」

 偵騎は予想に反して一人も欠けることなく帰還した。

 ならば敵との距離はおよそ三舎さんしゃ。僕はすばやく頭の中の地図で敵との距離を割り出す。

 舎とは建物を意味する。軍で使われるときは兵舎を指す。転じて兵舎を建てる距離、すなわち軍隊が一日に行程する距離をも指す。一舎は約15キロメートル、三舎は約45キロだ。

 昨日は敵との距離は四舎だった。我々が一日で一舎進んだ以上敵も進むと考えると、普通なら二舎に縮まるはずだ。とすれば敵は何故か潜龍坡を目前にして足踏みしたということになる。


 潜龍坡は幅が狭く、曲がりくねり、見晴らしが利かない。一度入り込めば今、自軍がどういう形でいるのか、把握するのすら難しいあい路だ。

 ・・・僕が敵の立場ならそこに兵を伏せ、軍が中ほどまで過ぎたところで痛烈に叩き、初手を取る。そうすれば戦の主導権はこちらのものだ、上手くすれば将の一人二人は討てる。両軍合わせて二十万を越えるであろう戦国始まって以来の大戦だ。その局地戦だけで決着は着くことはないだろうが、少なくとも緒戦に勝ったという自信を味方に与えられるというのは大きい。

 だがそのためには今日中には潜龍坡に軍を入れておく必要があるのだ。

 昼間は我々を油断させるためあえて休憩し、夜のうちに、または明日早朝に兵を動かし、潜龍坡に兵を潜ませるということも考えられるが・・・

 潜龍坡は険しい。暗闇の中、兵を進軍させるには危険を伴う。また短時間で気配を残さず兵を埋伏させるのは、どんな熟練した将士をもっても至難の業。兵を伏せたことに気付かれれば、伏せた兵は単なる高所に布陣した、連絡と補給に難をきたす孤軍でしかない。

 それならば、僕は戦うことなく包囲し糧道を断つだけで勝利を拾うことができる。


 だが、それはおそらくない。

 僕は無意識のうちに端正な顔立ちをしたあの男をイメージしていた。

 あの男がそんな馬鹿げた戦をする男だというならば、僕はもっと楽に天下を手に入れていただろう。

 ということは、それができない理由があるというのか?

 あるいは・・・我等を誘っているのか?

 あえて潜龍坡を空にし、その出口を塞ぐような形で布陣し、もし我々があい路を抜けてきたなら、陣形も組ませぬうちに先頭から順に叩いていく。

 我々は兵を送るのに潜龍坡を抜けねばならない以上、戦力を逐次投入する形になる。優位に戦闘を進めていくことができるだろう。

 それも定石じょうせきではある。

 だが、それであるにしても、少しもこちらに近づいていないのは納得できない。


 いや、あの男のことだ、潜龍坡だけではなく、戦場となるサマリア高原全体を見て、戦を組み立てようとしているのかもしれない。僕は頭の中で地図を広げ、しばし考える。

 だが諦めた。僕にはそんな芸当は逆立ちしても不可能だ。しょせんこの世界に来てから必要に迫られて、付け焼刃で兵法を覚えただけの僕には荷が重い。

 ふと僕を支えてくれた人々の顔が浮かぶ。彼等が今ここにいてくれたなら、僕に今この時に何をするべきだと言うのだろうか?

 もしできるというなら、救いを求めるように彼等に手を伸ばすだろう。

 だが伸ばしたとしても、その手はもう誰も取ってくれないのだ。すべては僕が決めなければならない。

 彼等はもう幽明界ゆうめいさかいことにしているのだから。


 僕は空を見上げた。蒼い空は沈み行く夕日で紅く染まりだしていた。

「戦いは明日ではなく明後日になりそう」

 僕の視界の端にその声の持ち主の、特徴的な色の髪が風になびいて横切る。

「おそらくは・・・ね。でもこれが最後の戦になるだろう。これで全て終る」

 僕は横に立つ彼女にそう告げた。

 そう、これで戦乱は終る。僕等が勝つにせよ、彼等が勝つにせよだ。

 約束した。

「戦国の世を終らせる」

 彼女と・・・そう約束したんだ。それが叶う日が遂に来る。だけど、その為に多くの犠牲を出し、多くの命を奪った。平和を得るために必要な犠牲だと言い訳して。


 だがもしここで僕が負けたほうがより良い世界になるのだとしたら、僕はどうしたらいいのだろうか?

 犠牲を強いたのが、本当に平和の為だと言うのならば、僕が死んで世界が平和になるというのならば、この世界の為に死ななければならないのは、彼らではなく、僕のほうではないのだろうか?


 焼けゆく空をいつまでも見ながら、僕はこの世界に来た日のことを、昨日のことのように思い出していた。

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