滲む水彩<現代短編オムニバス>

乙島紅

第七回にごたん投稿作(お題:アシンメトリィ/涙の理由を/歩くような速さで)

アンダンテなんて知らない



 五線譜の上に所狭しと並ぶ音符たち。初めてこの教室に来た日に「おたまじゃくしみたいだね」って言ったら、彼女はとても綺麗な顔で笑った。「そんなこと言う人初めてよ」って。




「うーん、ちょっとテンポが速いかな。ここはアンダンテで弾いてみて」

「アンダンテ?」

「ああ、ごめんなさい。”歩くような速さで”って意味よ」


 そう言って、細い指でポロンポロンとお手本で弾いてみせてくれる。左右の手で非対称の動きをしているのに、美しく重なり合う和音。器用なものだ。僕は思わず自分が何を指摘されていたかも忘れて、その手にじっと見とれていた。


 彼女は近所でピアノ教室を営む花音かのんさん。僕は先月から急きょここに通うことになった。理由は、双子の弟がやるはずだった合唱コンのピアノの伴奏を代打でやることになってしまったから。弟は先月体育の授業で指を骨折して、全治一ヶ月。だけど市内の合唱コンにはもう弟の写真で伴奏者を登録してしまったから、見た目がそっくりな僕にお役が回ってきたというわけ。


 いくら一卵性双生児といえど、僕たちはお互いに得意分野がまるで違う。得意を伸ばすという教育方針だった親により、弟は幼い頃からピアノ教室にみっちり通っていて、僕はその間市内の野球クラブで活動していた。それから今までずっと、汗臭い部室に通う日々。だから、ピアノなんて弾けるはずがない。それは初めから分かっていた。でも断らなかった。これは僕にとっては大いなるチャンスだったからだ。ずっと憧れていた、この人に近づけるから。


「さ、もう一回弾いてみて」

「え、あ、あ、はい」


 「もー、ちゃんと聞いてたの?」と小突かれる。聞いていたさ、昔っから。帰宅途中、家の前を通るたびに聞こえてくる繊細なピアノの音。音楽の良し悪しなんて分からない僕だけど、その人がいつも一生懸命に弾いているということはなんとなく分かっていた。そして、それが誰のためだったかも知ってる。




 前に一度だけ、無理やり理由をつけて弟と一緒に花音さんの出ているコンクールを見に行った。みんなちゃんとした格好をして、おとなしく座って同じような演奏をただ聞いていて。正直眠かったな……花音さんの出番が来るまでは。彼女の演奏はとても素晴らしかったんだ。いつも練習している音を聞いていたから余計に、その演奏に力がこもっているのが分かったんだ。演奏が終わって、僕は思わず彼女に感想を伝えに行こうと思った。……だけど、出来なかった。僕たちの席はちょうど舞台に向かって右端の方だったから、舞台袖の様子がよく見えた。彼女は舞台袖に下がるや否や、タキシードを着た背の高い男に抱きついていたのだ。普段見たことのない、少女のように可愛らしい笑顔で。男ははにかむように笑いながら、彼女の頭を優しく撫でていた。僕より七つ年上の花音さんよりさらに年上に見えたその男は、花音さんの次に演奏した。鈍い僕でもわかった。その男がめちゃくちゃ上手いやつだって。




--そして、彼女の恋人だってことも。




「合唱コン、今週だっけ? なんとか間に合いそうだね」

「うん、一応形だけはそれっぽくなった気がする……」

「でも本当にびっくりだったなぁ。まさか初心者でここまで弾けるようになるなんて」

「花音さんの教え方が上手いからだよ」

「ふふ、ありがとう。私……この教室の最後の生徒がアヤトくんで良かった。教えがいがあったから」


 彼女はそう言いながら「ごめん」と小さく呟き、僕から目をそらして瞳の端を指で拭った。涙の理由は、聞かなくても分かる。だって時々大事そうに撫でていた銀の指輪が、今日は左の薬指からなくなっているから。


「ピアノの先生、やめるの?」

「うん。私立高校の音楽の先生として雇ってもらえそうなの。本当は専業ピアニストを目指していたんだけど、ほら、私ももう良い年だからそろそろ現実を見ないと。あの人みたいに……才能があるわけでもないし」


 自分でそう言っておきながら、花音さんは再び目に涙をためる。まるで隠すかのように慌てて涙を拭おうとする指を、僕は思わず掴んでしまった。




--だって、なんかもう、見ていられなくて。




「僕じゃ……ダメかな」

「え……」




 思わず口からこぼれ出たありきたりすぎるセリフに、頭のてっぺんから噴火しそうだ。まんまるの少し茶色がかった瞳が真っ直ぐに僕を見てくる。涙でキラキラとしていて、まるでビー玉のよう。……もう、抑えきれない。




「前からずっと好きだった、花音さんのこと」




 ようやく僕の意図を理解したのか、彼女の顔はぼっと赤く染まった。


「ちょ、ちょっと? アヤトくん、からかうのはやめて。私なんか君からしたらオバサンだし、私はこれから学校の先生になるのに、そんな、生徒となんて」

「無理なら無理って言って。そしたら諦めるから」

「そ、それは……そういうわけじゃないけれど……」

「じゃあ、どうして僕の前で泣くの」

「……」

「ずるい。花音さんはずるいよ」




 僕は彼女のワンレングスのさらさらとした前髪を横によけて、頬に触れる。柔らかい。少しだけ、涙に濡れて、温もりがあって。花音さんは恥ずかしそうに目を逸らした。




「待って、こういうのは、段取りとか、その、雰囲気とか」


 白昼の照明で、明るいピアノ教室。鍵盤が奏でる旋律に包まれるはずの空間。


--そこで、一瞬だけ音が消えた。





「……アンダンテなんて知らない。花音さんといたら、こんなにも鼓動が速くなってしまうから」




 顔が熱い。僕は花音さんの手をそっと自分の左胸にあてる。きっと、メトロノームの一番下でも追いつけないくらいに速くなっていたのだろう。花音さんは一瞬驚いたような顔をして、それからくすりと笑う。……あ、いつもの笑顔だ。




「これじゃあ、仕方ないね」




 そう言って、彼女はゆっくりと瞳を閉じた。






***end***

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