「ジョバンニ」

 女の子は暗闇の中で藻掻いていた。

 上も、下も、右も、左も、分からない。

 ごぽごぽと口から漏れた泡がどこかへ消えていった。

 それでも、まだ何枚かのルーズリーフと『銀河鉄道の夜』は確りと手に持っていた。

 次第に意識が遠のいてくる。

 その小さな口が不自然に歪む。

 どうやら笑おうとしているらしかった。

 でも、女の子は笑えなかった。

 女の子の胸の奥の方から声が聴こえる。

 ――いきたい――



 夜の浜辺に、一人の女の子が仰向けに倒れていた。

 身体中をびしょ濡れにして。

 げほげほと、咳き込みながら。

 ぜいぜいと、息をしながら。

 空を仰ぎ、大声で泣いていた。

 天の川を裂くような声で、泣いていた。

 やがて、その声がふっと止んだ。

 泣きつかれたのか、気を失ったのかは分からない。

 ただ、その胸は小さく上下していた。

 呼吸を、していた。

 もう、その手にはルーズリーフも、ペンも、『銀河鉄道の夜』も無かった。

 そして。

 僕の隣にも、もうアカリは居なかった。



 場内に灯りが戻る。

 隣の席は空だった。

 そこにはルーズリーフもペンも。

 アカリが居た形跡はもう何もなかった。

「……。」

 もう何も写っていないスクリーンをじっと睨んだ。でも、いくら我慢しても、その黄ばんだ古いスクリーンは滲み始めた。

 アカリは、生きていた。

 本当に、本当に、よかった。

 ぽたぽたとシャツが濡れている。

 本当に、幸せだ。


「カガミさん」


 ふいに声をかけられる。顔を上げるとそこにはカムパネルラが立っていた。

 手には、さっきアカリが受け取ったはずのブリキのロボットを持っていた。ただ、何時の間にかまるで時代が経ったように、表面の塗装が剥げて、その下の銀色の部分が多くなっていた。それはカムパネルラの髪の色に、とても良く似ていた。

 目を手のひらでごしごしと拭うと、なんとか笑顔を向けることが出来た。

「カムパネルラ。旅が終わったよ」

 銀色の髪の中、カムパネルラは優しく笑った。

「はい。やっと、終わりました……頑張りましたね」

「ありがとう。……それで、僕らはこれからどうなる?」

 少しだけ、カムパネルラが困ったような顔をした。

 ……まあ、そういうことだろう。

 もうこの場所も、僕も、存在している理由が無い。

 アカリが書き続けたルーズリーフも、もうアカリ自身も居ない。

 アカリはこれからも、レンズを通して、世界をフィルムに焼き付けながら生きていくだろう。

 でも、その世界に僕はもう居ない。

 ルーズリーフも、もう水の中だ。

 悲しくは、ない。

 役目は果たした。

 過去も物語も空想も、終われば後はただ消え行くのみだ。

「……カガミさん」

 もう一度、カムパネルラが僕の名前を呼んだ。両手でぎゅっとブリキのロボットを握りながら。

「……大丈夫。覚悟は出来てるよ」

 それでも、カムパネルラは何かを言い淀んで居るようだった。それから、大きく息を吸い覚悟を決めた顔で僕を見て、言った。

「もう一本、映画を見て行きませんか」

 そして、ブリキのロボットの背中の部分を開くと、今にも崩れ落ちてしまいそうな古い、本当に古い一枚のフィルムを取り出した。

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