The fragment of a film.
水上 遥
Act1
「The fragment of a film. It and a mirror.」
夜だった。
遠く向こうに街だろうか、それとも高速道路だろうか。なんにせよ、淡い光の集まりがある。それ以外には暗闇が広がっている。その光たちは余りに遠くにあるのか、全く動く素振りを見せなかった。
そこは、列車の中だった。夜だから、夜行列車になる。都会の喧騒の中を走る電車ではなく、列車と呼んだほうが、似合う雰囲気だった。いや、それよりも古めかしい。汽車なのかもしれない。車内の灯りも白く無機質なものではなく、淡い、まるでガス灯のようなオレンジ色の光だった。座席も木で出来ていて、控えめながら少しの装飾がしてあった。
僕は気づけば、その向かい合って座る小さな個室のような座席に座っていた。手には宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を持っている。それはちょうど、ジョバンニとカムパネルラが何とかという銀河の川原から風のように走って汽車に戻って来たところで読むのをやめている。どうにも古い言葉遣いが性に合わず、疲れてしまったのだ。
そう。僕は確か、この本を読んでいた。読んでいた場所も時間も、なぜか覚えていないけれど。こんな古めかしい汽車に乗った覚えはない。夢だろうか。それにしては、硬い座席の感触も、かたたん、かたたんと響く汽車の走る音も、そして目の前に座っている十代後半くらいの髪の長い女の子も、やけに鮮明だ。
「おはよう」
と、ふいに女の子が話しかけてきた。その右手にはルーズリーフのような紙を持っていて、左手にはペンを持ち、一心不乱に何かを書き続けている。僕には目も合わせず口だけを動かして、そう話しかけてきた。ただ、不思議なことに、それでも僕はこの子に『見られている』感じがした。
「おはよう……ございます。変なことをお聞きしますが、僕はいつからここに居たのでしょうか?」
女の子は書くのをやめると、ペンを持ったまま左手の白い指ですっと、僕の手の『銀河鉄道の夜』を指差す。ただ、相変わらず目線は右手の紙に落としたままだ。
「ジョバンニとカムパネルラがプリオシン海岸から風のように汽車に戻ってきたときから」
そうだった。そんな名前だった。しかし、僕が聞きたいのはそういうことではなかった。
「いや……。確かに僕はこれを読んでいたけれど、それじゃあ、これはやはり夢なんでしょうか」
夢だとしたら……眠る直前までこれを読んでいたせいだろうか。なんだか言葉が変に真面目になっている気がする。ただ、夢にしても、感覚にやけに現実味がある。それに、何故か『銀河鉄道の夜』を読んでいた、ということ以外、名前も歳も自分が普段何をしているのかさえも、何もかも思い出せなかった。
「夢かどうかは知らないけれど、確かに君はここに居るね。そして、多分君が観測している私も確かにここにいるよ」
「いや、そういう哲学的なものじゃなくて……ですね。具体的に、例えば、この汽車はどこに向かっているのか、とか。覚えていないけれど、僕が乗り込んできた駅とか……とにかくそういう具体的な」
「見ず知らずの人がどの駅で乗ってきてどの駅で降りるかなんて、君はいちいち観察しているの? 『趣味は人間観察です』とか言って『私ちょっと周りの人と物の見方が違うんですよぉ』とかいう人種なの?」
少し食い気味に捲くし立てられて押し黙ってしまう。雰囲気からして静かな子かと思っていたけど、違ったようだ。
「いや……覚えてない……ですけど、多分違います」
「そう。因みに、私はそういう人だわ」
「面倒くさいな!」
何かがパリーンと割れた気がした。
気づけば思わずツッコんでしまった。少なくとも、僕はそういう人間らしかった。何だかこの瞬間、大事な空気と言うか、緊張感というか、そういう物が壊れてしまった気がする。一言で言えば重い戦争映画の最中に歯磨き粉のCMが挟まれたような感じだ。台無し、だ。
すると、何が面白かったのか女の子がクスクスと笑う。
「冗談だよ。……変に他人行儀に話されるよりも、そっちのほうがこっちも話しやすいよ。どうやら、私は遊び心がある人間みたいだね」
「私は、と言うことは。ひょっとして君も?」
「そうだよ。私も気づいたら、君と同じくここに居た。この汽車に乗っていた。名前も、どこで何をしていたかも分からない。ただ一つ分かることは、ここに来る直前まで私は物語を書いていた、ということだけ」
「小説家なの?」
「だから、何をしていたのか、どういう人間だったのか、分からないんだって。小説家だったのかもしれないし、ひょっとしたら思春期の女の子がよく持っている秘密ノートに書き綴っていたBL小説かもしれない」
「いや、それは思春期、関係ないと思うけど……」
「ただもう一つだけ、確かなことがあるね」
そう言うと、女の子は紙とペンを横に置いて、窓の外を見る。
「少なくとも、君より先に私はここに居て、そして君がその席に座るまでは自分がどういう人間かすら分からなかった。ただひたすらに、何故かそこにあった紙とペンで物語を書き続けていた。それが長い時間だったのか、それともほんの数分の出来事だったのかは分からない。でも、君が来てくれて良かった。君と話して、やっと私は私を知れたのだから」
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