夢の海
おせんち
A
疲れた。暑い。死にそうだ。
僕はジャングルの草とか、枝とか、ツタとかをかき分けながら、ざくざくと歩いていた。
装備は、いわゆるサラリーマンのスーツ&革靴。どう曲解してもジャングルを探検にやってきた人間の格好ではない。片手に持ったアタッシュケースに入っているのは、基本的な筆記用具と今日の会議で使う予定だった資料だけ。クソの役にも立たない。
僕は通勤中だった。電車の中で居眠りをして、起きたらジャングルにいたのだ。「いたのだ」とか言われても困るだろうけど、事実だから仕方がない。
もう数時間は歩いている。
ジャングルというやつは静寂とは無縁で、常に落ち着きのない音にあふれていた。本能が「ここにから出なければ」と騒いでいるが、ちょっと歩くだけでガンガン体力が摩耗していくのが分かる。
……これは。
歩く。
……もしかして。
歩く。
……ああ。
足がもつれる。
……。
止まる。
アタッシュケースが手元から落ちた。僕は、ふらふらと適当な樹の幹に背をつけ、ずるりとへたり込んだ。もう、何をどうすれば良いのか分からない。湿気た土の水気でケツが冷たい。
これは死ぬな、僕。
人間というのは面白いもので「諦める」と決めたら、すぐに体に力が入らなくなるモノらしい。さっきまで足を動かしていたことが嘘のように、体がずしりと重みを増す。眠気で視界がぼやけてきた。
ダメだこれは、もう……。
――意識が飛ぶ直前、ぼやけた視界の先で何かが動いたのを感じた。その警戒が、途切れかけた意識をギリギリで保たせてくれたらしい。
がさ……がさ…。
いる。間違いなくいる。できれば熊やら大蛇やらに食われて死ぬのは御免被りたいところだが、今や逃げる体力は残っていない。体をこわばらせ、それが通り過ぎるのを待つ。
がさっ、がさがさ。
しかし無常にも、それは近寄ってくるらしい。これは、もしや。食われて死ぬやつじゃあないか?
熊やゴリラだったら、筋肉にまかせて殴り伏せられ、四肢を割かれて死ぬだろう。大蛇だったら丸呑みされるかもしれない。毒で先に死ねたら楽で良いかもなぁ。自らの悲惨な死に様を想像していたら。果たしてそれは、のそりと現れた。
それを見た瞬間、身体中の毛が逆立つ。
異形だった。
それは、クジラの首から上を切り取ったような頭部を持ち、クジラに合わせて首周りを無理やり拡張したトカゲの体に接続されていた。背を丸めたそれはじつに巨大で、僕の背丈と同等の高さがあった。
クジラ頭の異形は、草を頭と前足で払いながら近寄ってくる。
待て待て待て待て。こんな生き物が地上に存在するのか?
というか、この場合はどうやって殺されるんだろう。このデカさから見るに丸呑みか。丸呑みなのか。
クジラの頭部が僕の顔の目前に迫る。
なにやら品定めでもするかのような動きだ。
ああ、もう、だめだ。怖い。怖すぎる。きっと食われたら痛いに決まっている。これ以上、正気を保ち続ける自信がない。とりあえず死んだフリしておこう。クマに対しては無力と聞くが、クジラトカゲ(仮称)には有効かもしれない。
「おい」
どこかから、声が聞こえた気がする。幼さの残る女性の声だ。いよいよ恐怖で頭がダメになったらしい。調度良い。ダメなまま死にたい。
「おいってば。コトバ使えんでしょ?」
コトバ……言葉? 日本語なら使えるが。しかし、声質に合わない乱暴な言葉遣いだな。というかこれ、耳から入ってくる音じゃないぞ。幻聴ってこういう感じなのか。
「無視すんなコラ。起きてんのは知ってんだからさ」
べしっ
トカゲの前足が僕の顔を軽く叩いた。
「えっ」
「えじゃない」
声が出て、声が帰ってきた。
会話。これは会話だ。誰と? 脳内の素敵な友達と?
「私だよ」
私。ここに今、いるのは。僕と。
「私だよ」
クジラトカゲ。
「……なるほど」
「理解できた?」
謎のクジラトカゲと会話をしてしまった。もう、僕はだめだ。僕の意識は、現実から逃げ出すように消えていった。
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