Ring of Wizard.

竹林笹之助

第1話 Hungry

Ring of Wizard.




●第一章【Encounter】


■第一話『Hungry』




 昇り始めた陽が丘陵を照らし、空を白ませる。鳥がさえずり始め、動物たちが巣穴から這い出てくる。空気はまだ冷たく肌寒い。素肌を晒すと身震いがおきる。木々の間から光が差し込んで辺りに朝露の反射する光が見えた。

 ここはルージア帝国内、帝都サンティ・ペルスカよりはるか東。異文化との境でもあるこの国最大の港、ディ・エルモと、帝都をはじめとした町々をつなぐ大街道……の脇にある、広大な森の中をひたすら突き進む細い街道、ナーナス街道。帝都へ行こうと思ったなら間違いなくこの道が最短距離。距離にして50カマイン。しかし、今や忘れられ、すっかり寂れ、獣道のように成り果て、あまりにもひっそりとしているため、小慣れた商人でも知らない、知るものぞ知るそんな隠れた近道だ。

 そんな街道を小さな足音を立て、ケープの裾を揺らしながら小柄な人影が進む。その顔はフードを被っていてよく見えない。ただ、時折フードやケープの隙間から色白の細い腕や足がのぞいた。

一定のリズムで進んでいた人影が突然立ち止まる。小さく身を震わせ、大きく息を吸い込むと、

「くしゅんっ!」

 小さく控えめなくしゃみが森に響く。その拍子に背負っていた長い袋がずり落ちた。ガチャガチャと金属音が鳴る。人影はため息を一つ吐いて長い袋を背負いなおした。再びガチャガチャと金属音が鳴った。

 フードを脱ぎ、頭を振ってまとわりついた髪を振り払う。人影は、銀髪の少女だった。肩に届くか届かないかぐらいの長さの髪で、もみあげのあたりだけは胸にかかるぐらいの長さがあった。全体的に整った顔立ちをしており、中でも、二重で若干吊り上り気味の、少し赤みを帯びたバイオレットの瞳が目につく。街中で見かければ髪色とその瞳と相まって記憶に残りそうだ。

もう一度ため息をついて少女、ルーチェ・アマルは空を見上げる。その目と表情には憂鬱の感情が浮かんでいた。空のまぶしさに目を細め、三度ため息をついて呟くように言葉を絞り出す。

「お腹すいた……」

その言葉に追従するように、ルーチェのお腹がきゅうっとかわいらしい音を立てた。ルーチェは慌てて腹部を押さえ、素早く周囲を確認する。頬がほんのり赤く染まっていた。

「はぁー……野宿なんかしなければこんなことには……ルーチェ・アマル、一生の不覚だわ……」

 ルーチェは長い袋を地面に降ろすと、街道脇の木の根元に座りこむ。そして、麻布の肩かけ鞄を膝の上に載せた。鞄の底には何かにかじられたような穴が開いていた。ベルトをはずしてふたを開けてみるが、中身は鞄同様かじられて穴の開いた小袋が二、三入っているだけだった。

 ありえないとは思いつつも、ルーチェは何か残っていないかと袋を一つ一つ丁寧に確認していく。もちろん米粒一つ、パンくず一つ出てきはしない。

「お腹すいたよぅ……」

 ルーチェは半べそをかきながら呟いた。そんなことをしてもどうしようもないことは分かりきっていた。それでも口に出さずにはいられなかった。

 丸一日歩き通しなのと、野宿だったのと、空腹なのとがかなり絶妙なバランスでルーチェに耐え難い疲労感を与える。

 やがて空腹感すら忘れて睡魔がルーチェをとらえた。うつら、うつら、と意識が暗闇に落ちようとするのをこらえる。覚醒しかけてはまた眠りそうになる……。

 誰かが近くで立ち止まった気配がした。しかし、ルーチェは顔をあげるのも億劫で、下を向いたままじっとしていた。

「あ……だいじょ……」

 何事か言われたが、ルーチェの耳には微かにいくつかの言葉の断片だけが届くのみだった。

「お腹、すいた……」

 残った力を振り絞ってルーチェは呟いた。すぐ近くにいる誰かに聞こえても、聞こえなくてもいい。とにかく訴えたかった。何か返事を聞いた気もしたが、はっきりする前にルーチェは完全に眠りに落ちた。


 暖かく柔らかい感触に気がついてルーチェは目を覚ました。目に映ったのは、眠る前に見ていた森の景色ではなく、見慣れない天井だった。

 起き上がると微かな眩暈がした。と同時に空腹がよみがえってくる。くぅっとルーチェのお腹が鳴った。ルーチェはほんのり頬を染めてお腹を押さえた。

 周囲を確認するが人影は見当たらない。ルーチェはほっと一息つくと、部屋の中をまじまじと観察し始めた。

調度品はどれも質素で年季が入っているが、きれいに掃除されているようだ。部屋自体はこぢんまりとしている。以前泊まった、田舎の寂れた宿の部屋に似ている気がした。

 しかし、宿のような余所余所しさはなく、使いこまれた感じのする、生活においがするとでも言えばいいのだろうか、そんなような部屋だった。

 どこかの民家だろうか……。いつの間に……ルーチェは首を傾げた。自分で歩いた覚えはない。ならば、誰かに運ばれて? 一体誰が? 記憶を辿ってみるが、木の根元に座りこんでそこで気を失ったところまでしか覚えていなかった。

「ま、考えてもしかたないか……」

 ルーチェは記憶を辿るのをやめ、両手をあげてため息を吐いた。

「それより、気を失う前になんか恥ずかしいこと言ってたような……。うぅ……ルーチェ・アマル、一生の不覚だわ……」

 顔を両手で覆って、曖昧にしか覚えていない言動を恥じる。気を取り直して、首を振って羞恥の念を払う。

 ともかく、もう少し様子を見て部屋を出ようと考えた。幸い、物を盗られた様子はない。服はそのままだし、荷物も部屋の隅にまとめて置いてある。

(まあ、盗られて困るようなものはないけどね……)

ベッドから降りてドアへと向かう。ドアに耳を当てて外の様子を窺うが、微かに生活音(料理する音?)が聞こえてくるだけだった。

 ルーチェは注意深くゆっくりとドアを開けて隙間から辺りを見回した。ひとまず怪しいものはなさそうだ。人影もない。ドアをそっと閉め、部屋の隅にきれいに並べられた荷物を一つずつ取り上げていく。

 麻布の肩かけ鞄、牛革の小型ウェストポーチ、牛革の小型リュック、そして麻布の長い袋。順繰りに身に着けていく。出発の準備は整った。

 善人であれ、悪人であれ、できれば住人に見つかる前に出て行った方が面倒事も起こらなくていい。そう考えてルーチェはドアを目指して一歩踏み出した。

 ……途端、くぅっとルーチェのお腹が思い出したかのように音を立てた。

「うっ……」

 お腹を押さえ、赤面するルーチェ。ため息をついてお腹をさすった。このまま空腹状態で出て行ったとしても、また倒れるのは明白だった。

(どうする……恥を忍んで食べ物を分けてもらう? ここまで運んで来てくれたんだから頼めばきっと……)

(でも、もし金品を要求されたら……それどころかいきなり襲われたり? いや、そうなったら返り討ちだけど。あー……でもそんなことしたら面倒なことに……)

「ああ! もう! どうしろってのよ!」

 ルーチェは銀髪をかきまわしながら知らないうちに大声をあげていた。睡眠はとれたが、それでも空腹のせいでルーチェは頭が回らないままだった。

「よかった、気が付いたんですね!」

 突然背後から声をかけられ、ルーチェは飛び上がりながら振り返りつつ後退した。

 部屋の入口に若草色のボディスとスカート、フリルのついた白いブラウスとエプロンを身につけ、栗色の髪を白地に花柄のカーチフで覆った少女が立っていた。垢抜けず、目立つほど美形ではないが、大きくきれいな琥珀色の瞳が目をひいた。

 ルーチェが拳を固めて身構えたことで、少女は大きく丸い琥珀色の目をさらに大きく見開いて驚いた。

「……あんた誰?」

 ルーチェの口からトンチンカンな質問が飛び出した。それを聞きたいのは少女の方だろう。発言した当の本人も若干違和感を感じていた。

「あ、えっと、私はアイラ。アイラ・フェニエです。住み込みで叔母さんのお店のお手伝いをしているものです」

「ああ、うん、そう……」

 少女、アイラはルーチェのトンチンカンな質問に律儀に付随情報付きで答えた。自分で質問しておきながら、ルーチェは気のない返事を返すだけだった。

 とにかく、気は抜けないが、ひとまずいきなり襲いかかられることはなさそうだ。ルーチェは警戒を緩めて腕を降ろした。

 ……途端、くぅっとルーチェのお腹が鳴いた。

「っ!?」

 ルーチェは慌ててお腹を押さえて赤面した。その様子をアイラはきょとんとした様子で見ていた。何度か目を瞬かせると、くすりと小さく笑った。

「お腹空いてるんですよね。助けたときも旅人さんそう言ってましたし……わっ、睨まないで下さいよぅ……」

「っ~~~~!」

 あまりの恥ずかしさに、ルーチェはアイラを睨みつけてから両手で顔を覆った。

「えっと、とにかく食事にしませんか?」

 アイラのおずおずとした提案にルーチェは高速で顔をあげた。ルーチェはすぐにはっとした表情になったが、期待に輝く瞳は隠しきれない。

 そんなルーチェの様子を見て、アイラはくすりと小さく笑う。ルーチェはきょとんと見ていたが、アイラが笑った意味を察してばつの悪そうな顔になった。

 アイラの案内に従ってルーチェはその後ろについて行く。部屋から出、階段を下り、飾り気のないドアを通り抜ける。

 すると、それなりに広い部屋に出る。落ち着いた色合いの木材の壁、同じような色の床。床は古いが、ワックスがけがしっかりとされており、とてもきれいな光沢具合だ。

 丸机が一定の間隔で並び、一机につき四から六脚のイスがセットされていた。潜り抜けてきたドアから向かって左手に出入り口と窓が規則正しく配置され、窓際にはボックス席があった。右手にカフェカウンターがあり、そのカウンターの中に、頭に若草色のバンダナを巻いた褐色肌の、がたいのいい女性が立っていた。

「ローザおばさん、旅人さんの目が覚めました!」

 アイラは軽く駆けてカウンターまで行くと、振り返ってルーチェを見やりながら、ローザと呼ばれた褐色肌の女性に嬉しそうに報告した。

 ローザは顔をあげると、朗らかな笑顔を浮かべ、少しハスキーな声でルーチェに声をかけてきた。

「あんた起きたんだね、よかったよ。気分はどうだい?」

「まあまあよ」

「そうかい。なんにせよ大事じゃなくてよかったよ。ほら、水でも飲みな」

 ローザはルーチェに水の入ったコップを差し出した。ルーチェは軽く頭を下げながらそれを受け取った。

「しかし、あんた何でまたあんなところで行き倒れてたんだい?」

「あぁ……それは……その……抜き差しならぬ事情というか、やむにやまれない事情があって……」

 ルーチェは言葉を濁して目を逸らした。ローザはそんなルーチェの様子を不思議そうに見ていた。

「おばさん、旅人さんに何か出してあげて下さい」

 ローザが口を開くより先に、アイラが食い気味に言って助け舟を出す。

「なんだ、腹でも減ってるのかい?」

 きょとんとした表情でローザがルーチェに問いかける。すると、ルーチェの目が明らかに輝きを増した、期待の眼差しに変わる。

「今ちょうど買い出し前でね。材料があまりないんだよ。簡単なものでもいいかい?」

 ルーチェは満面の笑みを浮かべると、目を輝かせながら激しく首を縦に振った。

「あっはっは! よっぽど腹減りなんだね。よし、座って待っといで! 今すぐ作るからさ!」

 ローザが準備に取りかかると、ルーチェは期待に満ちた顔でカウンター席に飛び込むような勢いで座った。

 ルーチェははやる気持ちを抑えてローザの手の動きを目で追う。待つ間に何気なく見ただけだったが、ルーチェはローザの手際に目をみはった。

「すごいですよね、伯母さんの料理してるところ」

「そうね……尋常じゃない速さだわ……」

 ルーチェはローザから目を逸らさずに頷いた。同じく隣で見ていたアイラがそわそわしだす。ルーチェがその様子に気が付き、アイラを見やると目が合った。すると、アイラは頬を少し赤くしてはにかんだ。

「おばさん、私にもお願いします!」

「はいはい。ってあんた昼食べたばっかりだろう」

「な、何か軽いものでいいので」

「まったくしょうがないね。じゃあ、二人で話でもして待っといで」

「はい!」

 アイラがルーチェの方に向き直り、にこっと笑った。ルーチェはちらりとアイラを見て、コップに注がれた水に視線を落とした。

「あの、旅人さん」

「あのさ、さっきから、その旅人さんっての何?」

「え? あの、まだ名前教えてもらってないですし、大きな荷物たくさんお持ちだったので旅でもしてるのかなーって思いまして」

「あ、あぁ……そうね……悪かったわ」

「いえ、お気になさらないで下さい」

 二人の間に沈黙が降りる。ルーチェは人差し指でコップの側面を一定のリズムで軽く叩いた。

「ルーチェ」

「え?」

 先に沈黙を破ったのはルーチェだった。ばつの悪そうな顔をし、頬が少し赤かった。

「ルーチェ・アマル。私の名前よ」

「あ、はい! えっと、アマルさん!」

「ルーチェでいい。アマルさんなんて呼ばれると違和感すごいわ……」

「はい! じゃあ、ルーチェさん」

「さんはいらない」

「はい、ルーチェさん。あっ……」

「あー、もういいわよ、好きに呼んで」

 アイラの天然にルーチェは額に手をやった。

「えへへ、すみません。それで、さっきの質問なんですけど」

「私が旅してるかってやつ?」

「はい!」

「うーん……半分正解で半分ハズレってところかしらね」

「確かに旅自体はしてるけど、それはある人から頼まれた仕事というか、雑用を片づけるためだし。私としては自由旅ってより仕事って感じかな」

「つまり、おつかいの旅ってことですか?」

「なんか認め難いけど……そうよ」

「そうなんですか! それでもすごいです! あ、あの、よければ旅のお話とか聞かせてもらえないでしょうか?!」

 アイラは額を押し付けんばかりの勢いでルーチェに迫る。ルーチェは突然のことに顔をひきつらせながら出来る限り体を反らした。

「た、旅の話? 何で?」

「あ、ご、ごめんなさい……私、この村から出たことなくって……でも、世界には興味があって……」

 アイラは顔を赤くして視線をそらし、落ち着かない様子で指動かしていた。

「あっはっはっは! 悪いね、ルーチェ。その娘人一倍世界に興味があってさ」

 ローザが調理をしながらアイラをフォローした。

「まあ、これも何かの縁だ。ちょっとでもいいからあんたの見聞きしてきたものその子に教えてやってくれないかね?」

「はあ、まあ、そんなのでいいなら別にかまわないけど」

ルーチェがアイラに向き直ると、アイラは目を輝かせながらルーチェを見つめていた。

「うっ……そんなに期待されてもそこまで面白くないわよ」

「大丈夫です!」

(何が大丈夫なのよ……)

「そうね、何から話せばいいのかしら?」

 ルーチェは顎に手をやり、何から話すべきか思案を巡らせた。しかし、あれやこれや考えてもルーチェにとって、旅で見聞きしたものはどれも当たり前でありきたりすぎて、わざわざ話すようなことではないように感じられた。

「……ごめん、なに話していいかわからないわ」

「えと、じゃあ……そうだ、ここに来る前はどこに行ってたんですか?」

「ここに来る前? 東よ。ディ・エルモって聞いたことない? かなり大きい港町なんだけど」

「あります! 東にある国との貿易船が出てるんですよね?」

「よく知ってるわね。そのとおりよ。チィ・アン、ジャーヤス、フソウ、あとはチェーリャンっていう国と貿易してるみたいね。実際に行ったことがあるのはフソウだけだけど」

「行ったことあるんですか! す、すごいですよ、ルーチェさん!」

 またもアイラがルーチェに迫る。しかし今度はルーチェがアイラの額を押さえて接近を許さなかった。アイラは苦笑して行儀よく座りなおした。

「ディ・エルモの前はどうだったんですか?」

「そうね……レザンドで村人に泣きつかれて近くに巣食ってた魔物を退治したり」

「おお……」

「ゲェーシュリヒテじゃギャング同士の抗争の仲介役やったりしたし」

「ほうほう」

「テューミラス山で薬草取って来たり」

「うわぁ……」

「うーん……思い出してみると結構色々やってきたわね」

「すごいです……あ、あの、ルーチェさん!」

 アイラが両の手を握り、背筋を伸ばし、真剣な表情でルーチェを見つめる。

「なに?」

 それを見て、ルーチェも自然と背筋を伸ばしてアイラに向き直った。そして、アイラが意を決して口を開く。

「できれば……できればでいいんですけどね、私も――」

「話しの最中に悪い けど、ほら、できたよ」

 ローザの声にルーチェは首が折れんばかりの勢いで顔を振り向けた。アイラはきょとんとした表情を浮かべた後、がくっと肩を落として苦笑した。

「悪いね、残りもんしかなくてこんなまぜこぜのピラフしか……」

「いただきます!」

 ローザの言い訳など一切聞かず、ルーチェはスプーンを手に取ってピラフを食べ始めた。丸一日ぶりの食事に嬉しさのあまりついつい顔が綻んだ。なにより、ローザという女性の料理は今まで食べたどこの食事よりも美味だった。

「あっはっは! おあがり! たんとお食べ!」

「ほら、アイラ。あんたの分だよ」

「あ、ありがとうございます」

「ん? なんだい、アイラ、あんた何落ち込んでるんだい?」

「えっ、いや、そんな、落ち込んでなんてないですよぉ?」

「い、いただきます!」

 アイラは誤魔化すようにスプーンを取って黙々とピラフを口に運んだ。その様子を見て、ローザは首をひねった。

「うまっ……おかわり!」

 ルーチェが机に手をついて目を輝かせながら言った。ローザは笑いながら皿にピラフを盛り付けて差し出した。

「あっはっは! こんな残り物でも喜んでもらえて何よりだよ。夕飯にするつもりで多めに作ったから、いくらでもおかわりしとくれ!」

「ほう? ひゃあ、えんひょふぁく」

 ローザの言葉を聞いて、ルーチェはますますがつがつと食べ始めた。

「わー……すっごい食べっぷりですねぇ……」

 ローザはにこにこと笑いながら、アイラは呆気にとられた表情をしていた。

「おかわり!」

「はいよ!」

「おかわりぃ!」

「はいはい」

「もう一丁!」

「あ、あんたよく食うねぇ……」

「まだいけるわ!」

「……ほら」

「もう一皿いけるわ」

「………」

 ルーチェの前にどんどん空いた皿が積み重なっていく。最初は笑っていたローザだが、今はルーチェの底なしかと思える食欲の前に顔をひきつらせていた。

「はー、食べた食べた……ごちそうさま!」

 ルーチェがスプーンを置く頃には、山盛りにつくってあったピラフはすっからかんになっていた。軽く十人前は食べているだろう。

 ルーチェはお腹をさすり、満足げな表情で笑っていた。アイラはルーチェが食べた皿の枚数を数えながら驚愕していた。そして、ローザはルーチェの食べた皿の枚数を数えながら呆れた顔をしていた。

「ちょいと、満足げなとこ悪いけど」

「んー? 何?」

 満足げに目を細めていたルーチェがローザの方を見やった。ローザは手を差し出した。ルーチェは意味が分からず首を傾げる。

「食事代、300ルドゴー」

 ローザは何のためらいもなくきっぱりと言い放つ。

「……は?」

 ルーチェが素っ頓狂な声をあげる。

「だから、300ルドゴー」

 ローザはもう一度言い放って再度手を差し出した。

「………」

「お金とるのね……」

「そりゃ、アタシだって飯ぐらいおごってやりたいさ。でもね……」

そこで言葉をきって、ルーチェの前にうず高く積み上がった皿の山を見やった。

「うっ……」

「ま、そういうことさ。うちも余裕があるわけじゃないしね」

ローザはため息をつきながら苦笑し、肩を落とした。

「とんだ出費だわ……」

「食っちまったもんはしかたないだろう? それとも吐いて元に戻せるのかい?」

「無理に決まってるでしょう……」

 ルーチェはため息を吐きながら財布を取り出した。

「ん?」

 その時点ですでにちょっとした違和感を感じた。軽い。軽すぎるのだ。

「え……? えっと……ん……? あ……!」

「どうしたんだい? あんた、まさか、金が……」

「ちょ、ちょっと待ちなさい! えっと……」

 ルーチェは財布を机に放ると、服のあらゆるポケットをまさぐった。もちろん、そんなことをしても1ルドゴー、1バルシーも出てくるはずがない。

(ぜんっぜん、足りない……! 食糧調達がこんなところで響くなんて……ルーチェ・アマル一生の不覚よ!)

「あ、あはは……ちょ、ちょーっとお金が足りないんだけど」

「はぁ……まったく、しょうがないねぇ……アイラに話を聞かせてくれた礼に、ちょっとぐらいまけてやるよ。いくら足りないんだい?」

「………」

 ルーチェは黙りこくって財布をひっくり返した。小銭が少々、虚しくちゃりんちゃりんと音を立てた。しめて、38Lルドゴー22Vバルシーなり。

「………」

「………」

「………」

 その場にいる全員が沈黙した。

「しかたないねぇ……」

「え?」

 ローザはため息をつきながら、額に手をやると、首を振ってやれやれと呟いた。

「な、何よ……どうしようってのよ?」

「金がないなら体で払ってもらうからね……」

「ひっ……!? か、体……!?」

 ルーチェが反射的に立ち上がる。そしてじりじりと後ろに下がっていく。

 しかし、ローザが食堂の主人とは思えない軽い身のこなしでカウンターを乗り越え、ルーチェの背後に回りこんだ。がっしりと肩をつかんで離さない。一瞬の出来事で呆気にとられていたルーチェはしっかりと捕まってしまい、振りほどけない。

「ちょ、ちょっと! 放しなさい!」

「ほら、暴れないでこっちに来な!」

 ローザはルーチェを半ば引きずるようにして奥の部屋へと入って行った。

「ひっ!? な、何で服に手かけてんのよ!?」

「脱がないと着替えられないだろう!」

「き、着替え……? なんだってのよ!」

「ずべこべ言わずに着替えるんだよ! それとも何かい? 食い逃げってことで治安兵に突き出したっていいんだよ?」

「くっ……好きにしなさい」

「じゃあ、ほら、これ脱いで」

「ひゃわ!? ちょ、ちょっと、そこは……!」

「変な声出すんじゃないよ、まったく……うん? あんた随分大胆な格好してるんだねぇ……」

「い、いいでしょ! 動きやすいんだから!」

「……しっかし、このほそっこい体のどこにあんな量のが入るんだか……」

「ひゃっ、ちょっと! お腹撫でまわさないでよ!?」

「いいじゃないかい。減るもんじゃあるまいし」

「そういう、問題じゃ……あっはははは! わ、脇は、くすぐった……」

「ほら、これ着て……あー違う、そこじゃなくてこっちに腕通して」

「うわぁ……こ、こんな、こんな恥ずかしい格好……」

「何が恥ずかしいもんか。若いんだからこれぐらいどうってことはないだろう」

「年齢の問題じゃないでしょ! こんな、こんな……!」

 不満顔のルーチェと呆れ顔のローザが店内に戻ってくる。

「わー! 似合ってますよ、ルーチェさん!」

 アイラが手を叩きながら褒めた。その反応にルーチェは苦虫を噛み潰したような顔をした。ローザは改めてしげしげとルーチェの姿を頭の先から足元まで確認する。

「うん、結構いけるじゃないか」

 ローザはにっこりと笑ってルーチェを褒めた。

「はは……それはどうも……」

 ルーチェは肩を落としながらため息を吐いた。

 彼女が着せられたのは給仕服だった。それもただの給仕服ではなく、フリルが随所に施された、スカート丈のかなり短いものだった。どことなくメイド服のような意匠だ。

「……なんなの、この給仕服……ひらひらひらひら……しかもこのスカート丈……」

 ルーチェはスカートの端をつまんで持ち上げた。今にも下着が見えそうな丈だった。

「……それで、こんな服着せて何させようっての? 皿洗い? 床掃除? それとも、まさか……」

「何がまさかなのかは知らないが……ま、やってもらうのは雑用全般だね。アイラ、この新人にしっかり仕事教えてやりな」

「いいんですかね? ルーチェさん一応お客さんなんじゃ……」

「いいんだよ、飯食ったってのに金がないってんだから」

「うぐっ……」

「人様の店で食った分は払う! できなきゃ働く! 常識だろう?」

「そりゃそうだけど、そんな言葉聞いたことないわよ……」

「そりゃそうさ、アタシの言葉だからね」

「どうりで……」

「そんなことはいいから、ほら、アイラ。なんか仕事はないのかい?」

 ローザがアイラに向き直る。ルーチェの背中を押してアイラの前に立たせる。

「あはは……えーっと、じゃあ、ルーチェさん、床掃除お願いできますか? モップはさっきの更衣室の中にあるんで」

「………」

「こら、睨んでないで返事だろ」

 ローザがルーチェの頭を小突いた。

「いた……かしこまりました」

 不満そうにしながらもルーチェは黙ってモップを取りに行った。

「さ、アイラも仕事しとくれ。昼から店開けるよ」

「はい!」

 アイラが返事をし、ルーチェがモップを持って戻ってくる。皆がそれぞれ仕事に取りかかろうとした、と同時にローザが手を打った。

「おっと、忘れるところだったよ。二人とも、店の仕事はいいから先に買い出しに行ってきておくれ」

「はい!」

「わか……って、まさかこの服で……?」

 ルーチェはスカートの両端をつまみあげてローザに問う。

「そうだよ? なんか文句あるのかい?」

「だって、こんな罰ゲームみたいな……せめて自分の服で……!」

「な、ん、か、も、ん、く、あるのかい?」

 不満を言ったルーチェにローザが迫る。有無を言わせぬ気迫にルーチェは閉口した。

「……ありません」

「よろしい。アイラ、ほら、財布渡しとくよ。買うものはいつもと一緒だからね」

「はい!」

アイラがローザから財布を受け取る。ルーチェを振り返り、楽しそうに笑う。

「じゃあ、行きましょうルーチェさん」

 アイラは笑顔でルーチェに手を差し伸べる。

「……いいから、さっさと済ませましょ」

 ルーチェは腰に手を当ててそっぽを向くと、アイラを置いてさっさと出て行ってしまう。

「むー、待って下さいよ、ルーチェさん! ローザおばさん、行ってきます!」

 アイラが慌てて追いかけていく。

「あいよ! 気をつけて行くんだよ!」

 まったく……と呟いて、ローザは微笑した。

「あ、そこの小さい荷車引いて行かないと大変ですよ!」

「えぇっ? 荷車……? そんなに買うの……?」

「はい。これぐらい普通ですよ?」

「そ、そうなの……」

 楽しげな声が荷車の車輪が転がる音と共に遠のいていく。

 しんと静まり返った店内でローザは笑みをこぼした。

「あの子があんなに楽しそうにしてるのは久々だねぇ……」

 しみじみと呟いて、再び笑みをこぼす。目をつぶってアイラの楽しそうな表情を思い出す。

「さて、仕事しようかねぇ……」

 手を叩くと、ローザは床の掃除から始めるのだった。


 アンシェクは小さな村で、大半の者は農業に従事している。特産品と呼べるようなものはないし、何か観光の名所になるような場所もない、至って平凡な村だ。

 そんな小さな村の中でも一際活気づいているのが村の中心にある広場に設営された市場だ。商店や屋台が所狭しと軒を並べている。

 取扱い品は村の畑でとれた新鮮な野菜や牧畜家の出す干し肉・生肉、川魚、調味料から日用雑貨などなど。ここに来れば大抵の物はそろう、まさにアンシェクの台所だ。

 鼻歌を歌いながら荷車を引くアイラ、黙ってついてくるルーチェ。

「へぇ……意外と活気あるのね」

 ルーチェが感心したように呟いた。

「はい。たぶん、ここがこの村で一番賑わってる場所だと思います。ここに来れば、日用品の大抵の物はなんでも揃っちゃうんですよ」

 アイラが胸を張りながらそう言った。

「ふーん……」

 ルーチェは興味深そうにあちこちの屋台や商店に目をやる。時々ほーだとか、はーだとか感嘆の息を漏らしていた。

「あ、ルーチェさん、一軒目はここです。こんにちはー」

 店先には色とりどりな野菜や果物が並んでいた。どれも艶やかでみずみずしく、新鮮そのものだ。

 アイラが挨拶すると、店の奥から恰幅のいい中年女性が現れた。どうやら彼女が店主らしい。

「おや、アイラちゃん、今日も買い出しかい?」

「おばさん、こんにちは。はい! 買い出しです! いつものお願いしますね」

「よし、任しときな!」

 女店主が奥に引っ込んだかと思うと、両腕一杯に野菜を抱えて出てきた。女店主は慣れた手つきで野菜を荷台に積んでいく。

「お、おばさん、いつもより多いですよぉ……」

「いいんだよ、いつも贔屓ひいきにしてもらってるからね、おまけさ、おまけ!」

「ありがとうございます! ローザおばさんも喜びます!」」

 アイラと女店主が朗らかに笑いあう。

「あら、こっちの娘は見ない顔だけど、新人さん?」

「いえ、ちょっと訳あって、一時的にお手伝いして頂いてるルーチェさんです」

「……どうも」

 女店主はしげしげとルーチェを見て、にっこり笑った。

「まあそうなの。でも、かわいい子が増えて、ますます華やかになるじゃない!」

「大変だろうけど、ルーチェちゃん、頑張ってね!」

 女店主がルーチェの肩を遠慮なしにバシバシ叩いた。

 ルーチェは苦笑いでそれに答えた。

「ああ、それじゃあ、これ、二人で途中食べていきなさい。今朝とれたばかりの林檎! ここに入れとくね!」

「わー! ありがとうございます! いただきます」

「ごちそうさま」

「ローザによろしくねぇ!」

 女店主に見送られ、軽く手を振りながら店を後にするルーチェとアイラ。

 一軒目ですでに荷車の半分は埋まろうかという勢いだった。

「二軒目はここです」

 アイラが指さしたのは、きらきらと銀色に輝く川魚がならんだ店だった。

「おっ、アイラちゃんじゃないか! 買い出しかい? いつもの?」

「はい! お願いします」

「よーし、任せな」

 二軒目につくと、店先で呼び込みをしていた威勢のいい初老の男性とアイラが一軒目と似たようなやり取りをしていた。一軒目と同じように店主が奥に引っ込み、両手一杯に魚や缶詰を運んできた。

「ん? そういや、そっちの娘は見ない顔だね。新入りかい?」

 商品を荷車に載せながら店主が声をかけてきた。

「いえ、ちょっと訳あって、一時的にお手伝いしてもらってる、ルーチェさんです」

「……どうも」

「へぇ、もったいねぇなぁ。かわいい子だし、雇ったら華があるぜ」

「む、それじゃあまるで私とローザおばさんに華がないみたいじゃないですか」

「ありゃ、そんなつもりで言ったんじゃないんだが……」

「むー……」

 むくれたアイラは店主に非難めいた視線を送る。

「いやーまいった! おまけするから許してくれ、な、アイラちゃん、この通り!」

 店主は笑いながら許しを請うためにアイラを拝んでいた。

「しょうがないですねぇ」

 アイラもおどけた調子で応えた。

「アイラちゃん、またきてよっ! そっちの嬢ちゃんも!」

 店主に手を振りながら店を離れる。二軒目にして荷車はほぼ埋まっていた。

「ね、ねぇ……まだ買うの?」

 どんどん先に進んでいくアイラにルーチェは恐る恐る尋ねた。

「え? はい。あと三軒ほど」

「結構買うのね……」

「まあ、ああ見えても結構人気の食堂ですからね。これぐらい買って仕込んどかないと間に合わないんです」

 ルーチェは先ほど食べた残り物ピラフの味を思い出して納得した。……と同時に借金を思い出してげんなりした。

 アイラは行く店行く店、すれ違う人々に笑顔を向けられ、親しげに話しかけられる。アイラもにこやかに全員と会話していた。

 結局、アイラが声をかけられて店に入ってしまい、全部で七軒ほど店を回って帰路についた。荷車は山盛り一杯になっていた。

 ルーチェは終始見ているだけだった。そのことを少し悪いと思いつつも、まだ辺りをきょろきょろと見ていた。

「ルーチェさん!」

「うん? おっと」

 アイラが荷台から取り出した(ほぼ発掘したと言っていい)林檎りんごを放り投げてきた。ルーチェが受け取ると、ちょうど手のひらに収まるくらいの大きさだった。

(このサイズの林檎、前食べたときまずかったのよねぇ……)

 林檎を弄びながら隣を見ると、アイラが顔をほころばせておいしそうに林檎を頬張っていた。

 それを見て、ルーチェも一口齧る。すっきりとした甘味が口の中に広がり、続いて少し強めな酸味と林檎の香りが広がった。

「あ、おいしい……」

「ふふ、珍しいですよね、この大きさでおいしい林檎って。うちの村の自慢の一つなんですよ」

「へぇ……こんなにおいしいなら特産にでもして他の町とか他領に売ればいいのに」

「うーん……村のみんなも考えたみたいなんですけど……結局、自分たちが食べてくのに困らない程度収穫できればそれでいいって」

「なんかもったいないわね……」

「みんなこのままの村が好きなんですよ。のどかで、自然豊かで、こんな小さな林檎一つでもおいしく食べられる……そんな村が……」

 嬉しそうに語るアイラだったが、最後の言葉を口にする時には尻すぼみになり、表情もどこか浮かないものになっていた。

 その様子を見て、ルーチェは首を傾げた。

「そうだ、その荷車、私が引くわ。手伝いに来たのに買い物は全部あんたがやっちゃったし」

 ふとアイラの歩みが遅いのに気が付いて、荷車の引き手の交代を提案する。

「いえいえ、いいですよ。これ重いですから」

「重いなら尚更よ。私これでも足腰には自信あるんだから」

 少々強引に割り込んで来ようとするルーチェに、アイラはしぶしぶ場所を譲った。ルーチェは指を組んで伸ばし、気合を入れる。がっちりと引手をつかむと、踏ん張りをきかせて目一杯前進しようとする。

 しかし、荷車はびくともしない。相当な重さだった。

「あ、あれ……? 嘘、でしょ……!」

 唸りながら何度も引こうとするが、やはりびくともしない。力みすぎて顔が熱くなる。歯を食いしばって全体重を前傾するが、やはり動かない。

 ルーチェはついには手を放して肩で息をした。

「お、重い……」

「あはは……だから言ったじゃないですか。大丈夫ですか? 私が引きますから、帰りましょう」

 ルーチェを気づかいながらもアイラは引手を持っていとも簡単に荷車を引きはじめる。

(……なんて馬鹿力……)

 ルーチェは感心していいのか呆れていいのかわからなかった。

「よく引けるわね……あんた筋力どうなってるの……?」

「いやー筋力っていうか、コツがいるんですよね、これ」

「コツでどうにかなるものかしら……」

「まあまあ、いいじゃないですか、細かいことは」

 不服そうなルーチェとそれをなだめるアイラ。再び帰路の歩みを進める。ルーチェは意識してアイラの歩調に合わせた。

「そう言えば、あんた、随分人気者なのね」

 ルーチェの言葉にアイラはきょとんとした顔をすると、首を傾げた。

「そうですか? うーん……この村じゃみんなお互いにあんなものですよ? あー、じゃなければ、この村じゃ若い娘は珍しいですからね。だからじゃないですか?」

「珍しい? 結構若い夫婦もいるし、あんたと同い年ぐらいの子がいても……」

「………」

 ルーチェがアイラを見やると、アイラは微かに眉をひそめて真顔になっていた。

「何? 急に黙りこんでどうしたの? なんかおかしなこと言った?」

「いえ……その、ルーチェさんは旅の人だし、黙ってようかと思ったんですけど……実はこの村――」

「お願いします! どうか、どうかあと少しだけお待ち下さい!」

 アイラが何事か言い辛そうに切り出そうとした瞬間、どこかから懇願の声が聞こえてきた。

 ルーチェとアイラは同時に辺りを見回す。すると、商店街を抜けた先の民家の軒先に坊主頭の男と髭面の男、それとぼろけた服を着た夫婦が居た。男二人は仁王立ちで、どうやら夫婦を責め立てているようだった。そして、攻めたてられている夫婦は揃って土下座していた。

「必ず、お金は必ず用意しますから!」

「あーん? 二、三日前もそうやって言ってたよなぁ? いつくれんの? 税金」

「ですから本当にあと少しだけ……それに、税金って言ったって高額すぎて……」

「はぁ? お前ら、俺らが守ってやってるんだからこれぐらい当然だろうがよぉ? 俺らが居なきゃこんな村すぐに盗賊の餌食だぜ?」

 髭面男がしゃがみこんで夫の肩をぽんぽんと叩いた。

「……あんたらに居られるぐらいなら盗賊の餌食になった方がマシだ……!」

 それに対して、夫は歯を食いしばりながら悔しそうに呟いた。

「あ? 今なんつったコラ!」

 それを聞き逃さなかった髭面男が夫の胸倉をつかみ、自分が立つのに合わせて無理やり立たせる。

「っ!」

「何だよ、その目はよぉ?」

 髭面男が額を押し付けんばかりに顔を寄せて威圧しにかかる。それでも夫は反抗的な視線を髭面男に送り続けた。

「あーめんどくせぇなぁ……いいから払うもん払えやゴラァ!」

 その態度にうんざりしたのか、髭面男は一層声を荒げると、夫を突き飛ばした。

「うわぁっ!?」

「あんたぁ! 大丈夫かい、しっかり……」

 夫が突き飛ばされてすぐに妻がかけよる。

(あらら……平和そうな村だと思ったら、ああいうのもいるのね……ふーん)

 ああいう類は関わらないのが一番だとこれまでの経験でルーチェは知っている。見て見ぬふりは少しばかり心苦しいが、早々に立ち去るのが一番。そう思い、ルーチェは声をかけるべくアイラを見やる。

 アイラは悔しそうな、それでいて明確な怒気を隠すことなく表情かおに出していた。

(……この子、こういうの黙って見過ごせないタイプなのね……ま、でも関わらない方が身のためだし)

 ルーチェは溜息をついて肩をすくめた。

 もう一度騒ぎを一瞥すると、夫が髭面の男に再び胸倉をつかまれているところだった。

「アイラ、あんた心底ムカついたって顔してるけど、間違っても間になんか入って行くんじゃ……」

 そう言いながらルーチェが横にいるアイラを見やる。

「うわっ、いないし!」

 が、しかし、すでにアイラの姿はなく、足早に騒ぎの渦中へと進み出ている真っ最中だった。

 アイラの接近に気が付き、男たちが振り返った。

「やめて下さい!」

(あちゃー……やっちゃった……)

「あ?」

「なになに? お嬢ちゃん、なんか文句あるわけ?」

「その人たちは何も悪いことしてないじゃないですか! なのに一方的に」

「おいおい、こいつらが何もしてないだって? いやいやいや、こいつら先月から税金滞納してるんだよ」

「税金ならきちんと村長さんが全員分集めて領主様に収めているはずです! 滞納なんてありえません!」

「あれぇ? お嬢ちゃん、俺たちのこと知らないの? 俺たちね、この村の守備隊。で、領主様に収めるのとは別に俺たちに収める税金も必要なわけよ、この村は」

「そんなの、あなた方が勝手に主張してやってることじゃないですか!」

「ところがどっこい領主の了解は得てるんだよなぁ?」

「どうせ、どうせ脅して無理やり了解を取ってるだけでしょう!?」

「ちっ、ああ言えばこう言う……うるせーガキだなぁ」

 髭面男がアイラの腕を捻りあげる。身長差もあり、アイラは爪先がぎりぎり地面についているような状態になった。アイラの顔が苦痛に歪む。しかし、その瞳にはなおも強い意志が宿っていた。

「っ……もう、やめて……! 村から出て行って……!」

(助けないとまずいわね……)

 ルーチェは素早く周囲を見回す。治安兵は見当たらない。否、さっきの会話を聞く限り、治安兵はこの村にはいない。

 髭面男がルーチェに背を向けるような形で坊主男の方にアイラを差し出す。

「なんだ、よく見りゃかわいい娘じゃねーか」

 男二人が顔を見合わせる。男たちは嫌らしい笑みを浮かべると頷き合った。

「本当はそこのおばはんに体で支払ってもらおうかと思ったんだけどよぉ?」

「へへ、お嬢ちゃん、こいつらの代わりに体で払ってくれるぅ?」

 ゲラゲラと下品な笑い声をあげるチンピラ二人組。夫婦はいつの間にか逃げ出したのか、その場にいなかった。

「放してッ!」

 アイラは腕を振りほどこうと体ごと激しく振るが、あまりに非力で髭面の男はびくともしない。

(はぁ……できれば関わりたくない人種だったんだけど……拾ってもらった恩と飯の恩と借金あるしね……)

「まーしょうがないか……ほっとくわけにもいかないし」

 吐き捨てるように呟くと、ルーチェは爪先でとんとん、と軽く地面を叩いて姿勢を低くした。そして、足に力をこめて、地面を力いっぱい蹴とばし、一気に加速していく。

 正面から突っ込まず、あえて左手側から大きく回り込んでいく。視界に入らないようにできるだけ大回りすることを意識した。幸い、チンピラ二人組は一度もこちらを見ていない。

 狙うは髭面男のこめかみ。

 ルーチェはあっという間に髭面男の二、三メートル手前まで走っていた。アイラに夢中な男たちはルーチェの接近に気が付いていない。その隙を逃さない。

 左、右、左……タイミングを計るために心の中で呟く。

(……右、左、右、今!)

 ルーチェは左足に力をこめ、走ってきた勢いを殺さずにそのまま跳躍する。

「よっと……!」

 両腕で体のバランスを整えながら、右膝を前に突き出す。その姿勢のまま、ルーチェはきれいに滑空する。

「なっ!?」

 坊主男がルーチェに気付き、驚き、唖然とした表情になる。その時すでに、ルーチェの膝先は髭面男のこめかみを捉えていた。


「ごふッ!?」


「きゃっ!?」

 髭面男が派手に倒れ込む。アイラは髭面男が吹っ飛んだ影響で地面に少しばかり投げ出されていた。幸いさほど勢いはなかったようだ。そして、ルーチェは着地し、土煙を立たせながら勢いで少しばかり地面を滑っていた。

 ぽかんとしていた坊主男とルーチェの目が合う。

「な、何しやがる!?」

「何って……膝蹴りよ。見て分かんない? うわ……汚れた……これやっぱマズイ?」

 坊主男の怒声にルーチェは膝の埃をはたき落しながらあっけらかんと答えた。

「そう言う事じゃねぇ! こいつ……!」

 ルーチェを捉えようと坊主男が腕を伸ばしてくる。

「おっと……やめなさいよ、こちとら非力な女の子なのよ」

 ルーチェは体を捻って避ける。つかみ損ねた坊主男は勢い余って前傾してよろけていた。ルーチェは軽く足を差し出す。バランスをとりきれず、たたらを踏んでいた坊主男は差し出された足に吸い込まれるように躓いた。

「ぐあっ!?」

「あちゃー痛そう……」

 坊主男は顔から地面に転んでいた。ルーチェはその様子を見て、片手で顔を覆った。

「んのヤロォッ!」

 地面にしこたま顔を打ち付けた坊主男が鼻血を流しながら逆上して殴りかかってくる。

「顔打ったのは自分のせいで、しょっ!」

 ルーチェは体を引きながら坊主男の腕に自分の腕を横から当てていなす。そのまま懐に入りこみ、後ろから前へ体重移動しながら掌底を突き出す。狙うは鳩尾。振りは軽く余計な力をこめずに、相手に掌底が当たる瞬間にのみ力をこめる。

「う゛っ!?」

 何の防御姿勢も取れず、坊主男はもろに鳩尾に掌底を喰らう。坊主男の顔が苦痛に歪み、額に脂汗が噴き出た。鳩尾を押さえながら、二、三歩と後ろによろめくと、その場に両膝をついた。そして、幾度かえずくと、ついに堪えきれずに胃の中身を地面にぶちまけた。

 坊主男が荒い息を吐きながら真っ赤になった顔をあげ、ルーチェを血走った目で睨みつける。

「もうやめといた方がいいわよ。相方連れてさっさと帰りなさい」

 ルーチェは腰に手を当てて真顔で忠告した。坊主男は何か言いたげに何度か唇を戦慄かせたが、結局何も言わず、ふらふらと立ち上がって伸びている髭面男を介抱した。

 髭面男が唸り声をあげながら意識を取り戻すと、何事か小声でやり取りしながらお互いに助け合って立ち上がった。

「覚えてやがれ……!」

 坊主男が捨て台詞を吐きながらルーチェを睨みつけた。髭面男の方はまだ覚束ないようだった。ふらふらと危なげな歩調で二人の男は去って行った。

「分かりやすい捨て台詞ね……」

 ルーチェは溜息をついて肩をすくめた。

「おっと……アイラ、あんた平気? ほら、立ちなさい」

 ルーチェは呆然としていたアイラに歩み寄り、手を差し伸べた。

「ああ……ありがとうござい、ます……」

「ほら、呆けてないでしゃきっとしなさい。まだ買い出しの途中でしょう。さっさと帰らないと」

 ルーチェに助け起こされたものの、アイラはまだ呆けていた。ルーチェは腰に手を当ててため息を吐いた。騒ぎは収めた、さっさとこの場を去りたい、ルーチェはそう思っていた。

「あの人たちです……!」

 呆けたアイラをどうするものか思案していると、市場の方から複数の足音と先ほどまでチンピラに責められていた夫の声がした。

「はぁ……面倒くさそうな連中が……」

 振り返ると、老人と三人の若者、そして先ほど責め立てられていた夫婦がこちらに向かってきているところだった。

(そう言えばあの夫婦、いつの間にかいなくなってたわね……)

 老人たちがルーチェとアイラの前に立つ。

「村長……?」

 アイラが老人を見て小声で言った。老人はアイラを一瞥した後、ルーチェに視線を移した。皺は多いが、端正な顔立ちだ。額に刻まれた皺と一文字に閉じられている口から、どことなく頑固そうな印象を受けた。皺のある額にさらに皺がよっている。表情から見て、あまりいい話ではなさそうだ。

「はぁ……何か用? 私たち買い出しの途中なんだけど」

 ルーチェは嫌だということを隠そうともせず、不遜な態度で聞いた。

「私はこのアンシェク村の村長、エイブラム・ジェンバーと申します」

 ルーチェの態度を意に介さず、エイブラムは名乗り、丁寧にお辞儀をした。

 ルーチェは投げやりにどうも、とだけ返した。

「あなたは先ほど、ボダー、オルの二人組……いや、坊主頭と髭面の男の方が分かりやすいですかな? とにかくその男たちからこの二人、カスケット夫婦を助け出してくれたそうですね」

 エイブラムはカスケット夫婦を見やる。ルーチェが一瞥すると、夫婦はそろって頭を下げた。

「……その二人って言うか、この子を助けるためだけどね……まあ、結果的にはその二人も助けることになったけど」

「そうですか。いずれにせよ、まずはそのことにお礼を申し上げます」

 エイブラムは深々とお辞儀した。カスケット夫婦も、取り巻きの若者も頭を下げた。

「まさか、お礼を言いに来たわけじゃないでしょ? 本題は何? 私なんか余計なことしたかしら?」

「貴様、さっきから……!」

 ルーチェの態度に取り巻きの若者の内の短髪の青年が声を荒げる。一歩前に出て、今にもルーチェにつかみかかりそうだ。ルーチェも右足を引いて姿勢を若干下げる。

「やめんか、ジャン。この方は村人を助けてくれたのだぞ。貴女も、どうか構えをお解きになって」

 すぐさまエイブラムがジャンを手で制した。ジャンが制されたことでルーチェもひとまず構えを解いた。

「ですが村長! こいつがボダーとオルに手を出したせいで、もしかしたらガエルが出てくるかもしれないんですよ!」

「分かっておる。だが少し落ち着け、今ここでこの方と争ってなんになる」

「……話が全然見えてこないんだけど?」

 ルーチェが腰に手を当てて首を傾げる。

「そうですな……色々ありますから……どうです、お時間いただけますかな?」

 聞き方は質問の体だが、選択肢がないのは明白だった。

「どうせ拒否権なんてないんでしょ? いいわよ。聞くわ。しかたなかったとはいえ、どうやら騒ぎの中心になってるみたいだし」

「そうですか……では場所は……」

「あ、あの、店うちでよければ! どっちみちルーチェさんは店うちでお世話させてもらってますし!」

 今まで黙っていたアイラが手を挙げて提案した。どうやらやっと我に返ったらしい。

「ローザの店か……いいだろう」

 エイブラムが了承した。エイブラムが夫婦と若者たちを見やる。特に反対意見はないようだ。

「さっそくですが、行きましょうか、ローザの店に」

 エイブラムが店に向かって歩き出す。夫婦と若者たちが後について行く。

「あの、ルーチェさん……」

「そんな顔しなくていいわよ。私が勝手にやったことだもの。ほら、行くわよ」

「はい……」

 申し訳なさそうにするアイラを促してルーチェも店に向かうのだった。

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